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「わけ、分かんねーうちに清水まで連れていかれてさ、気がついたら背中にパラシュート背負わされてて、そこから 突き落とされたって感じ?」
 年度が変わって学年がひとつ上がった春の日に、仙道は腕組みをしながらそう呟いた。
「別にオレはそこまで望んでなかったんだけどなー。バスケだっていつまで続けるか、分かんな かったし。そんな先まで見てなかったんだよ。とりあえずは大学へは行くだろ。行って楽しければ続けて、ユニバなんかに 出たりして、そんでつつがなくJBLスーパーリーグかbjリーグ? サラって言っちゃったけど、これだって華々しくも 結構な人生設計だろーが」
 ひとりでなにに納得してなにを悦に入っているのか、また仙道の長口上が始まったと流川はその言葉を斜めに 聞いていた。
「三年になって初っ端の進路指導でさ、『バスケ特待は潰しが利かないぞ。みすみす自分の人生の選択の幅を狭めて いるようなものだ』って、ひとがサボってるみてーな言い方しやがってさ。 『センター試験、平均75は軽いだろう。もったいない』とか、『特待推薦でさっさと大学決めて、 あとは有意義な高校生活を送るのか?』とか、なんかすげぇ、嫌味。それに反発するのもシャクな話なんだけど」
 だからってわけでもねーんだけど、と頭をかく仙道に、流川はひたりと視線を合わせた。
 はっきり言って全然、意味不明。
「だから、なに?」
「ウチは私立だから交換留学制度も充実してるし、そのまま向こうの大学にスライドさせてくれる」
「仙道?」
「先に行っててやるよ」
「――」
「先に行っててやる。夏が終わったら。おまえ、オレを追いかけてこい」
 春の陽も秋に負けずつるべ落としだ。流川がいま手にしているボールと同じような色に染まりつつある夕暮れどき。 ふたり、お気にいりの陵南エリアのストバスコートで、ベンチに深く腰掛けた状態の仙道は、言い切って安心したみたいに ふっくらと笑った。
 つかみ所のないコイツも倣岸なコイツも居丈高なコイツも執拗なコイツも流川は知っている。だから、その笑みは ほんとうになにも包み隠さず、リラックスしたときだけなんだと、流川は知っていた。だから、肌がさんざめくような 驚きを覚えたのだ。
 他人さまの動向や思惑など、はっきり明確に示されたとしても、その半分だって 届いちゃいないと称される流川に向けて、目的語を取っ払ったもの言い。けれど流川は「どこへ」とは聞かない。 それだけで分かってしまう、ふたりの間に横たわった未来だった。
「清水の舞台から先に飛び降りてやるんだ。覚悟しとけ」
 そう言って仙道は大きく伸びをした。
 以前に一度だけ、将来についての去就を尋ねたことがある。年明け早々、仙道のマンションの玄関先のことだった。
――あんたは行かねーのか?
――オレは行かない。バスケをするためにアメリカの大学を受験したりしない。
――……
――けど、アメリカの大学でバスケすることは出来るかもしれない。
 それがそのときの答えだと少し間をおいて流川は気づいた。
「夏が終わったら?」
「ああ」
「親、説得したのか……」
「うん、こないだの休み。実家へ帰ったんだ。親父にもちゃんといてもらって、その前で正座だ。ま、ふつうに反対 されたさ。留学しなくても済むだろうとか、コッチにもいい大学や学部はたくさんあるだろうとか、行ってなにしたいんだ とか、ちゃんと将来を見据えてるのかとか、散々ごねられた。奨学金が出るって言っても、 やっぱ、スゴイ負担を強いるわけだから、キチンと説得した。おまえも見習えよ。ちゃんと頭下げんだぞ。って流川ん とこは、甘そうだもんな。ふだん無愛想なのに、急に頭なんか下げたら、卒倒されちまうか」
「バスケするって言ってねーのか?」
「バスケだけとは言ってない。続けるって言った。資格を取るんだ。MBAのな」
「NBAの資格?」
「あ、そっちのNBAじゃねーぞ。経営学修士。英語能力と最新ビジネススキル。んでアッチでの企業社会構造の リテラシー向上とかなんとか。専門用語連発して煙に巻いてやった。この予定で二束の草鞋をキチンと履けば、オレって 企業家になれるかもよ」
「バスケは?」
「だから先に行ってるって言ったじゃねーか。経営学科で待ってるって意味じゃねー。東海岸にいい大学があるんだ。 経営学部のMBAカリキュラムが有名でさ。 おまけに、聞いて喜べ。カレッジスポーツの名門。二年連続ビックイーストのチャンピオンだっつうんだから、目の 色、変わるだろ?」
 目の色を変えるよりも、ただ流川は瞳を何度も瞬いた。いつ調べたんだろう。いつから動き出したんだろう。決めた のはたぶん、あのときなのに。
「驚いた?」
「あんまし、実感ねー」
「ち、世にも珍しい、流川楓、大喜びの図が見れると思ったのによ。張り合いのないヤツ。そーいやー、沢北はどこの 大学に進むっつってた?」
「しんねー。忘れた」
「そっか。けど、内緒にしとけ。ってよりも、おまえちゃんと予備校に通え。いいな。根性据えてTOEFLのスコア を上げるんだ」
 なにが心配って、おまえの場合、スコア取れませんでしたって、平気で言いそうだから、と、大げさに嘆く。
 さっきよりも少し夕闇の増した公園で。
 それはただの口約束だったけど。
 あののらりひょんが、こうもはっきりと明言したのだから。
 夏が終わったら。
 決まったのだと。仙道は決めたのだと。



 その言葉は、とてつもなく流川を満たしてくれた。



 そして流川楓、高校二年の夏。高校総体神奈川県予選。全国屈指の激戦区で、ウインターカップの雪辱を晴らし、強豪海南大附属 を破った湘北と陵南は、共に全国大会へ駒を進めた。両校は別ブロックで決勝戦でないと対戦することはない。その 組み合わせ抽選の情報を知らせる携帯が鳴ったとき、流川は仙道のベットの中にいた。
 神奈川県予選が終わるまではほとんど会えなかった。終われば終わったで、両校ともインハイへ向けて徹底的に 体力を絞り取る過酷な練習に入る。
 部活時間の延長は認められ、休日は返上。酷いときは午前と午後のダブルヘッダーで練習が組まれてるのだから、 底のない体力を誇る仙道ですら、毎日毎日、授業中の睡魔と戦わなければならないほどだ。
 湘北もほとんど大差ないと聞いているから、寝腐れキツネの流川の内申はドンドン下がる一方だったろう。けれど、 ソレはそれ。コレはこれ。肉体的にも精神的にも疲労が蓄積されたって、互いを欲する飢えは否応なく襲ってくる。
『あした、止まりに来い』
 仙道からの携帯が鳴ったのはそんな時期だった。あしたの日曜。湘北は午後練。陵南は休みか、と聞けば終日らしい。 なに、余裕ぶっこいてんだと口にしかけて、それでもどこか切羽詰った仙道の声音にザマーミロとほくそ笑む流川がいた。
「邪魔くせー」
『んなツレないこと言うな』
「ねみぃ」
 一刀の元に斬り捨てる。
 誓って言うがこれは思わせぶりでも駆け引きでもない。そんなものが小器用に使えれば、流川楓の人生はもう少し変わった ものになっていただろう。百戦錬磨の仙道彰をして翻弄され、むせび泣いていたかもしれない。
 だから仙道との付き合いの中で、「ちくしょう」と毒づく回数を減らしたければ、ほんの少し頭を使えばよかったのだ けど、生憎、人間関係における流川の左脳の働きはほとんど開店休業状態だ。この辺りでも、天はちょっと仙道の味方 をしていたと言える。
 とにかく、このとき、回転数の落ちた頭の中でサっと走った計算は睡眠時間の量。当然、槍が降ろうがどんな苛烈な夜を 過ごそうが、休むとか遅刻とかの選択肢は彼の中には存在しない。午後からの練習だとしても、仙道の家から出るには 十一時には起床。自宅にいれば十一時半。その三十分を計りにかけて、流川は当然、より多い睡眠を取った。
 邪魔くさいから会わないという考えが浮かばなかったことに、流川は気づかない。
「あんたが泊まりにくれば?」
『流川んちでデきるわけねーだろうが』
「別に、シなきゃいいじゃん」
『よく言うぜ。会ってなんもナシで済むのかよ。それに、いったん引っ付き出したら、おめーの方がしつけーじゃん、 このごろ』
 ムっと唇を突き出して絶句すれば携帯の向こうでその張本人がクスクスと笑う。仙道言うところの「シツコイ」真似 なんかした覚えがないから余計だ。だがここで「いつ、オレが」なんて返した日にゃ、公共の電波に乗っけて、ソノときの 状況をこと細かに説明し出すに決まっているから、黙っていることにした。
 仙道彰に対する傾向と対策其のいちだ。流川の中では要注意項目だった。
「……」
『来なきゃ、湘北の練習が終わるころを見計らって迎えに行くぞ。その場で押し倒すぞ。宮城たちに知られんぞ。 おまえのキャリアに傷がつくぞ。それでもいいのか』
 まさか本気でそんな心配をしたわけではないし、一風変わった脅迫だったが、この段階においても、流川は自分の飢え に気づかなかった。そんな空洞に捻りこんでくるのは、いつだって直接下半身に囁かれるような仙道の声だ。
『来るって言え、このバカ』
「……」
『早く会いてー』
 言葉にされて改めて知る。
 そう、「会いたてーんだ」と。



 バスケモード全開の流川に余裕があったのは、着替えを済ませ校門近くの自転車置き場につく間だけだった。
 まだ居残りをしている生徒が他にいたのか、ひとつふたつ残る自転車の中に自分のママチャリを発見して、流川は舌打 した。
――コレか。
 朝、出掛けるときにいつものように寝ぼけた頭で、なにも考えずにコレで学校へ来てしまったらしい。大して スピードが出ないからこその通学用だ。けれど居眠ったまま平気で自転車を走らせるから、そんなもの凶器でしかないから、 毎日歩きで学校へ行けとハハオヤはお冠で指を突きつけた。そこを少し、互いに譲歩してのこのママチャリだ。
 流川は思わず腕組みをする。
 直接仙道のウチまで行くのに、歩き+電車と、ママチャリ一本とではどちらが早いだろう。なぜいまここで、そんな微々たる 差の計算をしているんだろう。とにかく、教科書は完全におきべんだから、ドラムバックの中はウエアと空の弁当箱と ペットボトルだけで軽い。
 軽いけれど走りにくい。
 流川は前駕籠にバックを放り込むと、ママチャリのタイヤを軋ませて夜の街をひた走った。
 歩道を避けて車道を抜い、信号待ちで止まるたびに昨夜の仙道の声が蘇ってきた。空腹過ぎて胃がキリキリ と痛む。サプリのペットボトルはあいにく空っぽで、チャリを止めて自販機で購入する考えも浮かばなかった。
 それよりもなによりも、耳朶のあたりに吹き込まれる風にさえも煽られて、流川は唾液を飲み込んだ。
 うち払えない衝動がもどかしく、習い覚えた道程が、きょうはやけに遠く感じる。切羽詰まっている のはいったいどっちだ。そんな自嘲は気にもならない。仙道の声だけでいっぱいいっぱいで、マンションに着いて 階段をすっ飛ばし、シツコク鳴らしたチャイムの向こう、玄関の扉が開いたと思ったら、長い腕が巻きついて抱きしめ られていた。
「せん――」
「えらく早いな。まだメシの支度、できてねーよ」
「……」
「チャリで来たんだろ? なに、心臓、ドクドクさせてんの? 思い切り飛ばしてきた? そんなに会いたかった?」
 言葉には出来なかったけれど、隠しようもない昂ぶりと脈打つ鼓動だけが流川の答えだった。
 背後でカチリと施錠する音。扉いち枚隔てた廊下で、床を弾くハイヒールの音が段々と遠ざかってゆく。消えるそれと 裏腹に、重なる鼓動は速さを増し、ふたり絡むようにバスルームへともつれ込んだ。
 着ていたもの総て脱衣所に投げ飛ばし、高い位置から降り注ぐシャワーの水温が温かくなる前から互いの躰を弾く。 歯がかちあうように口づけて、浴室が湯気で真っ白になって、頭の中もぼやけてきて、この世の中にソレしかないような 執拗な口づけだ。
 溢れる唾液は飛沫が洗い流してくれる。火照りきってカラカラに乾く躰に温い湯では潤いにもならなくて、また乾いて。 ただただ、互いの舌の動きだけを追いかけた。
 以前仙道が、『風呂場でのエッチは後始末がラクでいいな』、なんてほざいたものだから、ここで絡み合うのは、はっきり 言って好きじゃない。どこにもすがるものがなく、背中や関節が痛いとかよりも、ただ接合点だけの快楽を思い知らされ るからでもある。
 それでも、互いの肌膚を辿る指は性急さをまし、粘着質な物音はシャワーの水流ががかき消してくれた。口づけだけで 存分にのぼせ上がって、気がつけば躰を返され壁に押しつけられていた。逃げ場なんかどこにもなく、後ろから羽交い 絞めにされているようなものなのに、仙道の指は流川は肌膚を這い回っている。
 暑くて、暑くて。
 呼吸の合間に喘ぎをかみ殺し、シツコイ愛撫を繰り返すだけで、解き放とうとしない男への罵倒すら失われた。
「お風呂場エッチの最大の醍醐味は、流川のイイ声がちょっと大きく聞けるとこだな」
 いっつも唇、食いしばってんだから、と男は背筋に沿って舌を這わせた。
 苦し紛れの吐息が歯の隙間から零れる。その音を拾って仙道はイイと言う。堪えるさまが腰にクルと臆面もなく 言い放つもんだから、意地でもそのときの声は聞かせてやらない。噛みつくキスで挑んでも、自分から腰を擦り付けても、 どんなに飢えても、自分だけが先に昂ぶって失墜するさまを、まざまざと見せつけるようなものだから。
 自分の喉の奥に仕舞い込むしかない。
 浴室の壁に流川を押し付け、背後から覆いかぶさっていた男の舌は、背筋から腰骨まで執拗に辿り、耳朶に舞い戻り 中を犯してくる。片手はまだ流川の熱を弄るためだけにうごめき、ちょうど腰の辺りでうごめく仙道の昂ぶりは、その 奥域を求めて脈打っているのに、腰を摺り寄せるだけの動きに苛立ちが募った。
「てめー、いい加減にしろっ」
「しっ。声がでかいよ、流川」
「せっ、ん、――」
「次、いつ会えるか分からないだろ。だから、おまえの全部、オレん中に刻み込んでおく。全部使って、全部納めて、 おまえでいっぱいにする。簡単にイかせてやんねーし、オレも同じだ。おまえがオレを放り出してた時間が、どれほどの もんか思い知れ」
 そんなもん、お互いさまだろうと言いたい。他が入り込む余地がないほどにバスケ漬けの毎日だった。流川にとっては なによりの至上で、サボリ魔仙道にしても高校生活最後のインハイだ。シャープな顎の線がさらに精悍さを増し、どれほど この男が灼熱の体育館でボールに喰らいついていたか分かる。
 だからこれは恨み言というよりも、いま、仙道の中で巣食う獰猛さをさらに加速させるためのもので、流川が詰られる 謂われはない。
 躰を返して反論しかけると、突然圧力が強まってタイルに押さえ込まれ、焼けつくような衝撃が襲ってきた。両手で 突っぱねて額を強打するのだけは避けたが、その押し返しがさらに密着の度合いを深めて腰が砕けそうになる。 ずり上がる躰。暴虐的なほどの突き上げ。丸まった舌先は耳朶をねぶり、我がもの顔でうごめく指先は、縦横に動いて流川 の中心と胸の飾りを同時に弄った。
 全部に。
「ぁ、――」
 仙道が溢れて立っていられなくなった。
 躰を支えていた両手は壁をずり下がり、片手を離して仙道はその腰を支える。膝をついても九の字に折れ曲がっても 仙道の打ちつけは容赦ない。獣みたいな格好で、けれどそこを基点にした凄まじい快楽の波は間断なく流川に襲い掛かる。
 うち腿が激しく痙攣し、喉を晒して呼気を貪った。その顎を押さえてなおも内耳に注がれる仙道の熱い吐息。
「流川」
 この男のこの囁きが、一番流川を酩酊させる。
 あとは勢いよく降り注ぐシャワーの音に紛れて、悲鳴に近い嬌声を喉の奥にしまい込んだ。弛緩する肩に腰骨に 仙道の指が圧迫の跡をつける。どんなにがっついても セーフティーセックスを身上にしている男の、猛々しい飛沫を際奥で感じて、流川の意識はそのまま失墜した。






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