〜before





 淋しいだけじゃ泣けなかったりする。



 苦手なもの。
 試験前の部活停止期間。
 個人練習に切り替えようと思っても、低空飛行の成績を親に咎められ、大会への参加を許可しないと先生に脅され、 先輩からは授業終了後教室に拘束されて、おちおち公園にもいけやしない。
 苦痛なもの。
 試合直前だとか終了後だとか、オーバーワークの烙印を押されて、身体を休めろとのきついお達し。それは必ず 頭の上がらない先輩マネージャーや、意外と押しの強い監督から言い渡されるから無下にも出来ない。
 煩わしいもの。
 体育祭や文化祭や林間学校や社会見学などの学校行事。上から下まで浮き足立って、部活どころじゃなくなる。 きょうはゆっくり休むように――なんて疲れてるのは先生だけだろといつも思う。
 詰りたくなるもの。
 管理責任者の不在。安西先生が来られないときこそ必要になる名ばかりの顧問の教職員が、研修や出張で不在だ とどうして部活に影響する。なにか問題が起こったときの責任を、だれも学校におい被せたりしないだろう。 自慢じゃないが部内においても殴り合い、どつき合いは恒例行事。責任問題となったら毎日が反省文と始末書だ。 けれど、公立高校の哀しい性。文部省指導要項。こればっかりはどうしようもないらしい。
 そしてもっとも唾棄すべきもの。
 入学式や卒業式。当日だけでなくなぜ前日から準備が必要なのか。なぜテニス部や柔道部みたいに専用の練習場が バスケ部にもないのか。だれの許可を得て、こうもしょっちゅう、体育館にシートを引いてパイプ椅子を並べて いるんだと、流川は部室に貼られた、体育館不使用日の日程表を睨みつけていた。



 弥生三月。吉日。晴れ。
 妙に温かかったりイキナリ寒波が来たり、体調には十分気をつけなさいと、だれもが口にする木の芽どき。 街路の木々はまだ青く、よく見ればポツリと小さく色を綻ばせていてもだれも気づかない。
 きのうの温かさから一転して肌を刺す風の冷たさが身に染みるころ、いつもより一時間遅く、湘北高校の通学路は 生徒たちの疎らな列が出来ていた。
 流川の荷物もナイキのスポーツバッグひとつだけ。眠いだけの式典を我慢すれば昼過ぎから四時間練習の出来る日。 そこから居残りをして、きのう休んだ分まで取り返す。
 式典が終われば。
 そう、式典が終われば赤木たち三年生が湘北高生ではなくなってしまう日だ。
 いつもなら半分寝こけてとおる校門も、きょうはだれにも被害を与えずに通過できた。毛筆書きされた「○年度県立湘北 高校卒業証書授与式」という仰々しい立て看板。どこかぎくしゃくした校内。卒業生なのか在校生なのか一目で分かる緊張感の 違い。それらをぼんやりとやり過ごし、流川は邪魔な自分のバッグを先に放り込んでおこうと部室に向った。
 鍵は開いている。同じように式の前に荷物を置きにきた部員がいるんだなと扉を開けると、そこには並んだロッカーの前に 立ち尽くしている桜木がいた。天敵流川の入室にも緩慢な動作で視線を寄こしただけ。寄ると触ると意味不明な 言いがかりをつけてくる男らしくないばかりか、「朝っぱらからおめーの顔なんざ見たくねー」と歯をむき出す男が、 流川の存在を許容したかのようだ。
 部員数の少ないバスケ部のこと。空きのロッカーがやたらと目立つが、それは夏に赤木と木暮が。そして冬に三井が 引退した後も、たまに顔を出す先輩たちが使用していたものだ。ネームプレートも残されたまま。それはきょうを 最後に外されることになる。
 桜木が立っていたのはまさにそこだった。
 流川が一歩踏み出すと、珍しくもか細い声がかかる。
「なぁ。んとに、ゴリたちいなくなんだな」
 つい、と桜木は腕を上げ躊躇った指先はどこにも到達せずに宙に浮いたままだった。
「先輩たちが引退したのは半年も前。三井先輩でも三カ月もたってる。いまさらなに言ってんだ」
「んなこと言われなくても分かってる。消えてなくなんだ、きょうでよ。学校のどこ探してもいねーんだ。 ゴリもめがねくんもミッチーも」
「てめー、一回でも探したことなんかあったのか」
「けっ! 比喩だ、比喩! 情緒の分かんねーヤローだぜ、まったく」
 だったら最初っから話かけなければいいと、流川は自分のロッカーに荷物を放り込んだ。校舎から離れた部室棟 の二階はイヤになるくらいひっそりとした静寂が落ちている。在校生も一旦教室に集合してから体育館で卒業生を迎え なければならない。遅刻すると担任がまた煩いぞ、とガチャと締めたロッカーの金属音は辺りに響き渡った。
「一番最初はゴリと対決したんだ、体育館で。喧嘩の延長だった」
「知ってる」
「お、そうなんか?」
「どーせ部室へ入部届け持ってく途中だったから」
 いい訳がましい言葉になったのは、確かにあのとき「バスケ部の部長と対決している『桜木花道』」に反応した からだ。喧嘩相手の名前なんかいちいち覚えていられない。数えたことはないけれど、結構数をこなしてきた 流川だ。けれど教室で届け出表に書き込んでいるとき、聞こえてきたその名はなぜか耳覚えがあった。
「それがよ、ちょっとかじったくれーでひとの三年分を一気に駆け上っちまうんだから、おめーら凡人はお見それしろ ってなもんだ」
「テクニカルファウルの数なら五年分くらい積んでる」
「るせー! リバウンドなら十年分は取ったぞ!」
「バイオレーションは十一年分か?」
「ばい、お、ってなんだ?」
 「ふー、やれやれ」も出てこなかった。一年経ってもこの無知は治らない。というか治そうとしない。用語など知ら なくてもゲームに支障がないというのが桜木の持論であり暴論だったのだ。
「ほらアレだ。相思相愛ってヤツ。バスケの神さんから祝福まで受けちまってるから、カタカナは必要ねーんだ」
「てめーの半径一メートル以内にしかいねー神さんだな」
「妬くな、妬くな。正直、ダムダムばっかさせられたときは休みが待ち遠しくってよ、みっちり予定組んで 洋平たちと遊んでた。けどインハイのあとのリハビリ期間中は――死ぬほどバスケがしてーって思った。あんとき ほどマジになにかに取り組んだことなんかなかった」
 ダムダムでもいーからボールに触りたいと。
 失うわけにはいかないから。



 ふと、廊下のどこかがカツンと鳴った。校舎側の扉が開いた音だ。こんなところで桜木の世にも珍しいノスタルジーに 付き合ってやる義理もないけれど、慌てて教室にかけつける律儀さもなかったりする。このままここで寝転がって いようかと思ったとき、なにを感じ入っているのか桜木は言葉を重ねてきた。
「はえーよな。信じられねーくらいにあっという間だった。次はリョーちんやヤスやカクやシオだ。それもきっとあっと いう間なんだ」
「年寄りくせー」
 他に類を見ないほどの成長を見せ既に素人の名を返上している男が、ひとつひとつの課題をもの凄いスピードで 攻略していった男が後ろを振り返って、そしてまだ見ぬ未来を恐れて背を丸めている。その光景は蹴りを入れてやりたく なるくらいに滑稽で、無視して目を背けたいほど真摯だった。
「おめーはバカだからな。オレが言わなきゃゴリたちが卒業したことも気づかないんじゃねー? もしかしたら、学校 から校舎がなくなっても分かんねーかもな。取りあえず体育館だけは、なくなったらアレって思うわけだ。 ボール一個でも気づきそうだな。バスケオタクでバスケバカ」
 粘着質な物言いの割には嫌味に聞こえないのがやたらと可笑しい。
「てめーもバカだから教えといてやる。四月になったら新入生が入部してくんだ。先輩たちとオレたちとで新しい メンバー組んで、それで全国を狙う。なにしみったれたこと言ってやがる」
 桜木は信じられないといったふうに流川を見た。
「おめー、相当ニブちんだな」
「あんだと!」
「夏からこっち、ゴリやめがねくんがいなくなって、見て分かるくれーにしょんぼりしてたのはおめーの方じゃねーか」
「しょんぼりなんかしてねー!」
「しょんぼりじゃなかったら、気落ちだ、気落ち。気合の入らねーおめーのプレイをオレさまが厳しく注意してやって もよ、前なら絶対殴り返してきただろ。手の早えーおめーが、喧嘩する元気もねーくらいに腑抜けてたじゃねーか」
 部活の最中だろうが居残り練習中だろうが難癖をつけて突っかかり、ひとの邪魔ばかりしてきた男の言いがかりが 届かないほど集中していたことはあった。まともに相手をするのもバカらしい。言い返すほど暇じゃない。そう思って 向けた背を桜木は気落ちだと言う。
 どこに目ぇーつけてんだと詰る視線を送ると、当の男はまだロッカーを見つめたままだ。
「てめー自身のことが分かんねーんだから、相当神経ブチ切れてるぜ」
「相手するのがバカらしくなっただけだ。撤回しやがれ!」
「気色悪ぃくれーに大人しくなりやがって」
「てめー、オレに構って欲しかったんか?」
 ダンと一歩踏み込まれて気づいたときには襟首を捻り上げられていた。茶金に近い色合いを見せる桜木の瞳が 間近で鈍く光り、野生動物が凄むとこんな目をするのかと流川はぼんやり思う。けれど改めてこの位置で見ると、 その色はまるでバスケットボールのそれに似ている。
 襟首を捻り上げられながらも、そんな焦点が合っているのかいないのかの流川の反応に、桜木はさらに腕の力を込めた。
「つまんねー返しすんなよ! きょうばっかはおめーとだって喧嘩したくねー気分だったんだ!」
「そー思うんなら手ぇ離せ!」
 「離せ」の部分を最後まで言わせず、自分から引き寄せておきながら、桜木はめ一杯の力で突き放した。 ガクンと頭が振られてほとんど脳震盪を起こしそうだ。
「フン。喧嘩したくねーとかお優しいこと言ってんじゃねー! 吹っかけてきてんのはどっちだ!」
「訳分かんねーおめーのせいだろうが!」
「お得意だな。なんでもかんでもひとのせいかよ!」
「んなスカしたツラ見てっとな、ジュンスイに別れ惜しんでるオレさまが虚しくなんだ!」
「てめーの都合、押し付けんな!」
「淋しいなら淋しいなりのツラしてみやがれってんだ!」
「だれも、んなこと言ってねー!}
「無神経キツネ!」
「過敏症サル!」
「あんだとぉ!」



 もうどちらから先に手を出したとか気づく前に拳と足蹴りが同時に炸裂した。タッパもウエイトもまだまだ成長過程 な桜木のストレートを喰らっても、立って仕返しできるのは流川くらいなものだと評したのは水戸。その親友からみても 容赦のない攻撃が流川に襲い掛かる。
 拳の重さで勝てないならそれを上回るスピードで反撃するしかない。桜木の大振りなアッパーをかわして、ガラ空きに なったボディに打ち付ける。グッと耐え、お留守になった左手がきれいに流川の顔面を捉えた。後ろに吹っ飛んで ロッカーが派手な音を立てて揺れる。一歩近づいた桜木に今度は流川の蹴りが決まった。
 並べられていたパイプ椅子が倒れテーブルが傾く。振動から天井の塗料と埃がパラパラ舞い立ち、どちらもの身体を 何度も受け止めたロッカーは、たわんで扉を開閉させていた。
 校舎から離れているとは言っても部室棟も無人ではない。泣く子も黙る体育教官室からガタイの立派な教師がすっ飛ん で来た。「なにをやっとるか!」と大喝され、体育教師四人がかりでバスケ部問題児軍団の双璧を取り押さえても、 足蹴りは収まらず、全員大汗をかいて疲れきった頃に部室は、えも言われない惨憺たるありさまだった。
 当然のように卒業式には出席させないと断罪され、部室を綺麗にするまでは禁固され、シャレにならない量の反省文の 提出を強制され、本日から三日、部活禁止処分まで喰らったふたりだった。
 祭りが過ぎたあとの静寂が虚しいように、喧嘩の後片付けは当事者ふたりしかいない分もっと白々しい。タオルを 濡らして黙々と怪我の応急処置をした後、倒された椅子を起こし、ロッカーの歪みを気合一発で元通りにし、飛び出して いた私物を各自のそこに戻した。ついでに窓を開け放って掃き掃除まで済ませた頃、突然、湘北高校の校歌が聞こえて きた。
 箒を動かしていた手を止め、桜木はピクリとも動かなくなった。
「卒業式、出れねーじゃねーか」
「んなに出たかったのか」
「たりめーだ。オレはおめーと違って情け深いからな」
 と、言いつつ桜木はドカっと座り込むと音程を無視して追い被せるように歌詞を語り出した。
 校歌、覚えているのかコイツは?
 それに歌えと強制されたわけでもないのに、自発的に口ずさむヤツなんか初めて見た。大体校歌なんてものは、三年間 在席して卒業式間近にイヤというほど歌わされる頃に、ようやく脳裏に染み付くものだろう。中学のときを省みれば確実に そうだった。
 まったく、ヤンキーの深情けは侮れない。
 一本調子の変な歌はお経にしか聞こえない。子守唄にしてはやけに刹那げだが、出来るだけ桜木から離れて座り込み、 身体を横たえると猛烈な眠気が襲ってきた。こんなところにも体力の差を感じずにはいられないが、ここに閉じ込められて もすることがない。きょうから三日。どうやってバスケの飢えを凌ごうと微睡みかけたとき、律儀にも二番まで歌い終えた 桜木がぽつねんと尋ねてきた。
「ルカワ。おめーいつアメリカへ行くんだ?」
 あ、と意識が引き戻される。「んなこと」と漏れた呟きに「インハイのとき、丸坊主に向って言ってたじゃねーか」と 明確な答えが返った。
「ま、イチオウおめーなんかでも、この天才の次だけどよ、ウチの主力だ。突然はナシだぜ。ほら、バイトでも 辞めるときゃ、一ケ月前に告知するんがマナーってなもんだし。けど寝腐れキツネにマナーのなんたるかを語っても どうしようもねーか。人外生物だしな」
「るせー」
 ここ暫くの間に何度も耳にしたそれ関係の問いかけ。正直それが桜木の口から出るとは思わなかった。
 「取りあえず」と夏のあの日安西は言った。「早く」と冬のあの日沢北はせっついた。そしてこの絵に描いたような 情の濃い男は、チームメイトたちに去られることを理解しながら納得できない男は「いつ」と聞く。
 三年生が学籍を抜かれるその日に聞く。
 流されやがってと、くぐもった言葉は意識の闇に紛れてその男に届いたかどうか分からなかった。






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