〜after





 バーンと。
 もの凄い勢いで開かれた扉の音で少しだけ意識が戻った。「桜木! 流川!」と怒鳴った声はダレだろう考えた。 本日二度目、ぐにゃりと力をなくした身体が襟首を基点に持ち上げられ、のそりと瞼を持ち上げると、そこには鬼の 形相の元主将。ここまで怒らせるようなことをしたっけ、とは爆睡前の事象を綺麗さっぱり忘れ去ることが出来る 流川のなせる業だ。
「貴様等というヤツは! きょうという日まで殴り合わんと気が済まんのか!」
 口角から泡を飛ばされて流川楓、やっと目が覚めた。
「いや、ゴリ。これは、これには深いわけが!」
「いい訳なんぞ、聞かん!」
 ガゴンと久し振りに拳骨をお見舞いされた。桜木も流川も両手で頭を抱えてうずくまり、その上に赤木の後から部室に入って 来た先輩たちの声が落ちてくる。
「派手にやらかしたそうだな。あ〜、また安西先生が他のセンコーから嫌味喰らっちまうじゃねーか。ちったぁ、自重しろ」
「旦那。頼みますよ。部のことほんとに考えてくれるんなら、卒業取り消しでもしてもらわねーと。オレひとりで どーやってコイツらを抑えろって? 旦那の怒鳴り声を録音したテープでもエンドレスで流してやりてーよ」
「お、そりゃ、いい考えだな。ついでにコイツの等身大人形でも立たせておくか?」
「つくってくれんすか、三井サン」
「でも部室は前よりも綺麗になったな。頑張って掃除したんだ」
「掃除したんだじゃなくって、させられたんです、木暮先輩。ちなみに喧嘩する度に綺麗になったとしても本末転倒 ですよ。お掃除係りじゃないんだから。ったく、三日間の部活禁止処分だって、桜木花道?」
「そーなんすよ、アヤコさん! 卑怯なヤツらだ! 天才桜木花道! 今年のインハイでもっとも活躍を期待される男!  こんくらいの妬みに屈することはない!」
「だれが貴様なんかを妬むか! 当然の処置だ!」
 ブンと風を切って振り回された平手をふたり同時に上手く避けた。逃げた襟足を桜木に掴まれ両肩を固定され、流川は まるで弾除けの扱いで赤木の前に差し出される。ニュっと伸ばされた赤木の太い腕をかがんでかわすと、それは真後ろに いた桜木に首に回された。がっしりと取り押さえられ桜木の視線が揺れる。
「ゴ――」
 クシャリと桜木の強面が歪んで、それはまるで暴風に晒された巨大な松の木がたわんだように、流川には見て取れた。 赤木は視線を上げたまま続ける。
「少しは自覚しろ。これからは宮城を盛り立てて湘北を率いていかなければならん立場だ。時間が惜しかった。 おまえに足りないものを総て伝えたとも言えん。いままでのように、対戦相手だってだれもおまえを初心者だとは扱わん だろう。それだけシビアな実力が必要になってくる。フリーは決めて当たり前。外せば味方の落胆度も変わってくる。 決めて当然と受け止められるようになるんだ。それはおまえが思っている以上にプレッシャーを与える」
「当然だ! ゴリ! 周囲の期待に応えてこそ天才! 一本なりとも外すわけがねー!」
「聞け! バカもの! 考えろ。おまえはどんなセンターになりたいんだ。考えて、オレを魚住を花形を河田を 思い出せ。そして可能な限り全日本クラスの試合を見ろ。そこからおまえのプレイスタイルの幅を広げてゆくんだ。 これからの湘北はおまえにかかっている。認めたくはないが事実だ」
「甘いぞ、ゴリ! もうオレさまの力は高校レベルを遥かに超えてる! 全日本もメじゃねー! アメリカのなんとか つうとこの、一等うめーヤツはもう目の前だ!」
 おい、ルカワ! なんとかつうとこのビデオ貸しやがれ、と後ろを振り返った桜木の頭頂部にガゴンと鉄拳が 炸裂した。見る見るうちに盛り上がったタンコブ。相当痛そうだ。
「聞けつってんだろうが! いいか。本当にデキる者はな、デキもしない目標を、自分の課題をすっ飛ばして挑んだりは しないものだ! 地に足をつけろ。つまらんインテンショナルファウルや、ヴァイオレーションは慎め。いまさら口に するのも恥かしいがルールを覚えろ。セットオフェンスもゾーンの動きも理解しろ。いま以上に熱くなれ。そして冷静 になれ。おまえにはうなされることの方が多かったが、夢も見させてもらった。それもひとつの事実だ」
「ゴリ……」
 不遇だった二年間。下積みともいえる時代ですら腐ることなくバスケを愛し続けた男は、恐らくメンバーのだれよりも早く 桜木を認めだれよりも強く希求した。穴と見られた桜木の予想を裏切る成長と常軌を逸した運動能力とが、 他のメンバーと対戦相手をも混乱に落としいれ、うまくかみ合ったとはお世辞にも言えない一戦一戦だった。傑出した リバウンド力で密かに一部関係者からの評価の高かった赤木とはいえ、それはチームの勝利よりも勝るものではない。
 負け犬根性が染み付いて、「頑張ったよな」で片付けて、「楽しければいい」で諦めて、部活内での衝突すら避けた ひとのいいチームメイトたちは、赤木と木暮を置き去りにしていった。
 居心地のよい場所を求めて。
 それが、どうしても破れなかった多くの壁が、こんな、冗談でもウマが合うとはいえない連中が、実生活に 置いても箸にも棒にもかからない男たちが、下手をすると足の引っ張り合いすらしかねない問題児たちが、 なぜこんな結果をもたらせてくれた。
 悔しくて何度も泣いた試合中。あんな涙もあるのだと初めて知った山王戦。
 チームメイトの手から跳ね上がったボールの軌道すら、その宙をかく聞こえないはずの物音すら、再現 できるほどに網膜に染み付いたあの瞬間のあのシーン。
 立ち止まった瞬間に総毛立ち血流を感じ取れるほどに汗が噴出した。気づけばだれかに跳びかかっていた。
 赤木の憤りや苛立ちを受け止めながらも自分を貫いた同級生に。痛みに負けその事実に苛まれ、それでも 捨て切れなかった同級生に。けして素行が褒められた方でもないのに、意外と面倒見のいい二年生に。 鳴り物入りで入部し周りとの距離を測りかねながらも、受けた痛手はきっちり熨斗を付けて返した一年生に。
 そして。
 体育会系のなんたるかを、チーム競技のなんたるかを、バスケのなんたるかを延々と聡し、逆に勝つことの意味を、 それを成し遂げる決意を、ラインを割るまでボールは生きているのだということを、教えられた一年生に。



 ホイッスルが鳴るまで、審判の腕が下ろされるまでゲームは生きていた。



「ま、尤もおまえの場合頭で理解したのではなくただ身体が反応しただけだろうがな。それでもおまえが疾走する 後姿を頼もしいと思ったものだ」
「ゴリ――オレよぉ……」
「そして流川――」
 と、視線を向けられ気づいたときには、もう片方の赤木の腕が流川の首に回されていた。部内で確固たる存在感を 保持し続けた元主将は、クソ生意気な一年ふたりを両方の腕で引き寄せたことになる。
 小刻みに震える桜木の肩が目の横にある。それが伝播して、同じように流され、物事に動じることなどなかった 自分の中で何かが芽生えて一気に喉の奥が熱くなった。
「我侭だろうが利己的だろうが、膿んだ試合展開を何度も打破してきたおまえだ。勝利への執念。飽くなき闘争心。 爆発的な得点力と稀有なテクニック。おまえが味方でよかったと何度思ったか知れん。いままでも十分マークはきつ かった。その中であれだけ得点を積み重ねられたんだ。停滞などあり得ないおまえのこと、もっと執拗なマークも振 り切ってくれるだろう」
 赤木はしかし、と言葉を切った。
「もう少し部内に目を向けてやれ。おまえのアドバイスが部員の気を引き締める。おまえがいままで自分に課してきた 努力の積み重ねをひとつでも伝えれば、ひと皮もふた皮も剥けるヤツばかりだ。それはおまえの手を止めることになる かもしれん。しかし、けして後退を意味するものではないと思う」
「先輩……オレは――」
 分かっていると赤木の声はくぐもった。面映さから視線を逃がすと、そこには三井や宮城のあからさまにニヤけた 顔がある。どこを向いても居心地が悪くて流川は天井を見上げた。
「赤木感涙の演説だけどよ、さてさていまの殊勝な態度がいつまで続くんだかな。コイツらに任せなきゃならねーん だから湘北の未来も綱渡りつうか風前の灯火つうか」
「自分のことしか見てないフォワードと、自分のことも見えないセンター候補と、すぐに周りが見えなくなる主将兼 ガードが主力ですもんね。これは頭が痛いわ」
「アヤちゃん、オレまで一緒くたかよぉ。それはあんまりなんだけど……」
「大丈夫だよ、宮城。たとえ桜木や流川が試合中に暴走したって、だれも主将の管理能力が劣ってるなんて思わないから。 現に赤木がいてもそうだったんだし」
「木暮!」
「木暮サン! あんたが一番キツイ!」
「でも、流川くんも桜木くんも、もう喧嘩しないよね。きょうだけだよね。お兄ちゃんたちの卒業式だから、ちょっと ナーバスになってただけだよね」
「晴子さん!」
「ナーバスなんて相手見て使わなきゃ。ふつうの神経してたらね、こんな日は大人しくするもんなの。結局甘えてるだけ なのよ、ふたりとも」
「そうだな。約束しよう。喧嘩はいいけど、殴り合いは止めよう。新年度になったらすぐにインハイの予選が 始まるんだ。お互い怪我したらつまんないし、そんなことでプレイに響いたら総ての努力が水の泡だからね。 ふたりとも三井の話は覚えてるだろ」
「木暮! てめー、つまんねー喩えしてんじゃねー!」
「きょうは妙に突っかかりますね、木暮さん」
 てめーはだれに喧嘩売ってんだと、三井は口を尖らせている。
「木暮よ、手の早いコイツらが口喧嘩だけで済むはずがないし、逆に手を出さないで顔だけつき合わせて言い合ってる くらい気味悪いものはないんだが」
「けど絶対喧嘩をするななんて約束、押し付けたところで守れないだろう、コイツら」
「メ、メガネくん?」
「わぁ、ニコヤカな留めだぁ!」
「理解してんだか諦めてんだか。せっかく赤木がいい感じでシメたのによ」
「怒ってる! 木暮先輩、卒業式にまで喧嘩されて絶対怒ってる! 笑いながら怒ってるよ!」
「酷いなぁ、宮城は。だってTPOを弁えて喧嘩できるようなら桜木と流川じゃないよ」
 周囲がドッと沸いてようやく赤木の拘束から解放された。



 淋しいだけじゃ泣けなかったりする。
 嬉しくても辛くてもそうなんだからなおさらだ。
 別れはいくつも経験したし、自分だってこれからだれかを置き去りにするのだ。
 だれも流川の足を止める権利はない。一度署名した入部届けに義理立てて、三年間在席しなければならないわけでも ない。自分が抜けたあとの湘北がどうなるか。得点力が極端に落ちると案ずるのはたぶん最初の間だけで、立ち去ろう とする者が気に病むほどの戦力ダウンにはならなかったりする。
 自分の代わりはだれにも勤まらないだろう。けれど、その穴をだれもが少しずつ埋めてゆくのも現実なのだ。
 いつまでもその思いを胸に秘めているなんてらしくない。その言葉を今度口にすれば、あのとき引き止めた安西も たぶん今度は首を縦に振る。それほど夢に貪欲で、一度吹っ切ったあとの願いなら安西も納得せざるを得ないだろう。
 けれど。
 赤木がなにを言いたかったのか。
 それが少し分かるようになった自分は強くなったのか弱くなったのか。
 ぽっかりと胸に巣食う空虚感は去年のインハイ終了後にも一度経験したのに、あまりにも開けっぴろげに桜木がその でかい身体を振るわせたものだから、いっそうキリキリと痛むものがあった。
 やたらと。
 あちこちが。



 そのあと簡単なミーティングがあり、三年生が参加できる最後の練習に未練タラタラな桜木は、「絶対センコーたちは 見回りになんかこねー!」と言い切って着替えようとしたところを部員たちの集中砲火を浴びた。
「てめーの禁止処分だけじゃなくって、部自体が停止処分を喰らったらどーするんだ!」
 と宮城。他のメンバーからは、
「みんなに迷惑をかけちゃダメだよ」
「たった三日だから我慢しろ」
「だからって盛り場とかうろちょろするな」
「パチンコなんか見つかったら禁止期間が延びるだけだからね」
「水戸くんたちに監視を頼もうか?」
「ん〜、微妙」
「他にすることって春休みは宿題もないからな」
「だったら流川を誘ってふたりでランニングでもすれば?」
「うわ〜、それちょっと、さむい」
「っていうか校外でも一緒にしたらマズいよ」
「あ、そこで喧嘩なんか始めたら即警察か〜」
 バン――!
「やかましい!」
 桜木花道、とうとうキレた。両手で机を叩きつける格好で立ち上がっている。もともと導火線はげっ歯類の尻尾ほど の長さしかない男だ。ここでピーチクパーチクと煩いチームメイトたちに挑みかからないだけでも成長の証だが、 三日の謹慎がこれ以上伸びたら敵わないと思考がそこに到達するほどすっかりケイジャーなのだ。
「行こうぜ、ルカワ。ここにいたってイライラが増すだけだ。ホレ。なんつったっけ? ボールに一日触らないと遅れ を取り戻すのに三日かかるとか。んな、軟弱なルカワがほざきそうないい訳、オレさまには当てはまんねーけどよ!」
「んじゃ、三日たったらおめーはもとの初心者ってことじゃねーか」
 桜木の口は<あんだと!>と象どっているが懸命にもそれが発せられることはなかった。へぇ、と流川は少し感心 した。桜木に自制心なんて言葉が存在するとは思わなかったからだ。
 この男のバスケに対する情熱はバスケバカな自分とはまったく違う方向を向いている。このメンバーで戦った意義と 結果を知っているから。新しくその上に積み重ねていかなければならないことも知っているから。だからなおのこと、 人一倍離れ難い。
「リョーちん。アウトで使えそうなボール一個貸してくんねーかな。どうせここじゃ練習できねーんだ。ちょっと、 公園で腕が鈍んねーよーに練習してくるわ」
 見せられるとは思わなかった熱情に。
「ルカワ、おめーも来い」
「なんで、オレが……」
 この情の強さに。
「ひとりで練習しててもつまんねーだろーが! おめーもよ。それともなにか? 三日間ずっと走りこみでもするのか?  スタミナのねーてめーには丁度いいかもな」
 自分のテクニックを棚に上げてすぐに大言を吐く目立ちたがり屋に。
「てめーの相手するほど暇じゃねー」
「勘違いするな、ルカワ。オレさまがおめーの相手をしてやるんだ。さっさとついて来い」
「調子こくな」
 懐いていた先輩が卒業するからといって、天敵の存在すら許容している寂しがり屋に。
「安心しろ、ゴリ。ボールはちゃんと返す。公園のリングも壊さねー。暗くなる前には止める。もしかしたらその前に ルカワはぶっ壊れるかもしんねーけどな」
「仕方ないか。別のところでストレスを発散されるよりマシだろう」
「おーさすがゴリは話せるぜ」
 遅れてきたバスケバカに。
 部室を出たとろこで首に腕を回され。
「ルカワ、てめーに言っとく」
 それは脅迫でしかなかったけれど。
「いいか。卒業するまでぜってー日本にいろよ」



 ガツンと後頭部を殴られたような気がした。



 いざマンツー勝負となると、どれだけ桜木が大言を吐いても流川に敵うはずもなく、それでも喰らいついて くる執念と人並み外れた体力に手を焼かされたことは確かだった。
 桜木との一対一の勝負なんか夏以来。大怪我がもとでの リハビリ期間を終えてからこっち、部内での練習でもいままでなら考えられない頭脳プレイを見せ、目を奪われる ことは何度かあった。だからと言って実績の積み重ねが一朝一夕で埋まるはずもなく、ただその差を開かせなかった桜木 の底力を見せ付けられた結果だ。
 双方膝に両手をつき、垂れ下がるような雲が辺りを寝食し出した公園の薄暗さと寒さに気づき、桜木は盛大にハラの ムシを鳴らした。
「くあー。やっぱ1ON1だけ勝負っつうのはきつい」
「ふん。てめーの体力も大したことねーな」
「悪りぃけどよ、オレはおめーの倍は動いてたぜ」
「簡単なフェイクに引っかかるよーな無駄な動きが多いからだ」
 倍は大げさでも実際フェイクで外した後の戻りの早さに舌を巻いたのは事実だ。これじゃなんのために振り切った のか分からない。なんのためのテクニックだ。なにをいままで磨いてきた。桜木と対峙するといつもそう思わされる。
「それじゃよ。おめーのその小手先チョロチョロに騙されないよーになったら、オレさまが勝てるっつうことだな」
 そう断言されて顎を上げた。そこにはもう呼吸も整え背筋を伸ばした桜木の姿がある。
 そんな簡単に捕まるほど、培ってきたものはおやすくない。けれど喰ってかかる体力は、もう何処にも残っていなかった。
 苦手なもの。
 理屈もなにもない体力バカの相手。
 苦痛なもの。
 そのバカにひとつでも劣っている自分。
 煩わしいもの。
「あしたもやろーぜ」
「ヤだ。きょう相手してやっただけでもありがたいと思え」
 仲間意識の強すぎるチームメイト。
 詰りたくなるもの。
「けっ、せっかく好意で声をかけてやったのによ。ま、いいか。あしたはゴリも身体が空いてるだろ。ダメなら ミッチーかメガネくんに頼まぁ。ミッチーなんかぜってー暇してっぞ」
 先輩を先輩とも思わない身の程知らず。
 そしてもっとも唾棄すべきもの。
「オレは言いたいことは言った。あとはおめーがどうするかだ。けど、義理を欠くよーなことすんな! いいな!」
 好きにしろと言いながら、浪花節を振りかざしてがんじがらめにするヤツ。
 春。
 卒業式の夕方。
 少し強めの風に煽られた桜の蕾が揺れる公園で、オレの意思はほんとうに強いのかと、思う流川がいた。



end




流川って仙道が相手だと我侭ぶりが強調されて、花ちゃんだと凶暴さが増すん だなと改めて実感。花&流は殴りあってなんぼってほんとですね。
ラブいのは恥かしいくせに、こういうのは 臆面もなく出せるとはどういう精神構造? 
卒業を迎えられた方。おめでとうございますv