実際問題、元日に少しの時間が取れるからといって、小学生を連れ出しどこかでバスケをしようなんて計画は無謀でしかなかった。冬休みに入った ばかりの流川はあしたから年明け八日までいつでも大丈夫だと仙道の目をまっすぐ見て言う。けれど、それを正面から受け止めても仙道は頭をかくしか手はなく。 「えっと。たぶん、オフは元日だけかも。代表合宿は四日からなんだけど、二日はあちこちに挨拶回りとかあって、三日は自主練て名目の強制練習で……」 「じゃ、がんじつ、ぜんぶ」 「楓っ」 無理に決まってるでしょ、と、すかさず母の叱責が入る。 クリスマスの日、市立体育館での練習が終わったあと、約束どおり流川の母は車で迎えに来てくれた。どうせだからと、寮に帰る仙道を最寄駅まで 送ってくれるという。申し訳なくもありがたく受け取ったその車中でのことだ。 「なんで?」 もちろん流川は簡単には引き下がらない。 「毎年、元日は流川のおじいちゃん家。二日は横浜のおじいちゃん家。ふだんの土日も練習があるからって言って、全然寄りつかないじゃない。 みんな楽しみに待ってるのよ」 「べつに楽しみにしてない」 「あのね。流川のおじいちゃんちなんか去年のお正月行ったきりでしょ。そんなこと言ってたらお年玉もらえないから」 「お年玉、いらね」 「……あんたって子は」 前方の信号機が黄から赤へと変わり、ほんの少しのタイミングで踏み遅れたブレーキが軋み躰が少し前のめりになった。後部座席の仙道は片手で隣りの 流川の躰を支える。無愛想で乱暴者のくせに、ちゃんとお利口な流川は、座席に座るなりきちんとシートベルトを装着済みだから大事はない。 大事はないが、ベルトの位置が辛うじて首筋ギリギリ下で止まっている感じ。たぶん、適応年齢と身長的には座高が足りなくて、ジュニアシート必須なんだろうけど、 ま、イヤがって早々に取っ払ったと容易に想像できた。 「あっぶねぇな」 「あっ、ごめん。頭、打たなかった?」 「はい。大丈夫です」 「けっこーらんぼうもん。前もガードレールにこすってたし」 「えっ?」 驚いたのは疲れているはずの流川が珍しく饒舌だったからだ。しかも聞いたことのない軽口だし。だが内部告発された方としては、天下の乱暴者にだけは 言われたくないだろう。 「人聞き悪いわね。ガードレールじゃないの。路肩」 それにほんのちょっとだし、保険使ってない程度だし、と呟いたあと、しゃんと背筋を伸ばす流川母の後姿がなんだか微笑ましかった。 「とにかく、だめよ。そんな勝手、通用しない。ちゃんと顔を見せるのが孫の務めです」 「……じゃ、なんじに家、出る?」 「あんたいま、元日の早朝から仙道くんを呼びつけようとしたでしょ」 「仙道はだいじょうぶ」 「楓が決めることじゃないの!」 運転席の背中からは”はっきり言ってやって”オーラがビシビシと感じられる。それとは逆に隣りに座った流川が躰すら向け顔を紅潮させ、 仙道を覗き込んでくる。双方を天秤にかけるまでもなく、もろ手を挙げて降参しそうになった。確かに仙道も元日は実家に顔を出すつもりだし、その前にちょっと寄って 近くの公園で、希望どおり新年早々バスケというのもらしくていい。ほんの一、二時間くらいなら。間近でこんな表情で見つめられると陥落一歩 手前だ。どこまで流川に甘いんだ。いや、甘いというより――と、かぶりを振って流川母の願いをぶった切り、オレなら大丈夫ですと、言いかけたとき、 異変に気づいた。 流川を取り巻く温度が高い。仙道を見据える漆黒の瞳は潤んでさえいる。慌てて手を取った。流川は引っ込めようとする。でもすぐに分かった。 熱がある。運転席に向け、ここで降ろしてくださいと言おうとする仙道の手を今度は流川が強く握った。そしてもの言わぬ瞳はまっすぐに拒絶を示す。 いま、仙道がいるいま母に知れたら、また小言が始まる。元日の練習が実現しなくなる。その次はいつになるか分からない。流川の中でそう認識されて いるに違いなかった。 熱があるのに仙道とのバスケのため、母親と掛け合いをする子ども。 楔になると約束した。けれどそれはまったく無理をさせない意味じゃないと折り合いをつけた。これだけ向上心がある子どもの頭をだれも押さえつけられない。 だから自分の目の届く範囲だけでならという言い訳がそこにあった。それがこの結果だ。 「すみません、お母さん」 言うと流川の爪が仙道の掌に食い込み、 「自宅へ引き返して頂けますか? 無理させたみたいで、流川、熱あるんです」 瞬間、すごい目で睨まれた。 「そうなの? 気持ち悪くない? 車、止めようか?」 「……へいき」 「いや、平気って感じじゃないんですけど」 「子どもの熱ってあっという間に沸点見るからね。それにここまで来たら引き返すより、駅に回る方が早いから気にしないで」 「すみません」 おそるおそる、横になりな、と言うと、溜まった怒気が行方を失っている。それでも気が抜けたのか諦めたのか、流川の頭がコトンと仙道の太ももに落ちた。 その躰にベンチウォーマーを掛けると、余計に熱が伝わってきた。 改めて額に手を置く。発熱した額って、常温の自分の手とこれほどまでに温度差があるのかと驚いた。手首をかすめる吐息が熱い。無理をさせたり怪我させたり 熱を出させたり。いまこの年齢の流川に対し、自分の存在が反作用しているとしか思えない。一度ボールを掴むと小学三年生だという事実を忘れそうになる。 流川もそれを望む。 だから。 「お正月はゆっくりしよう、流川。休むことも大事だよ」 自分だけでも掛け値なしの子どもなんだと強く強く感じ入らなければならない。 「……どあほう」 硬い沈黙のあと、流川は口先を尖らせ目を閉じた。 どあほうか。 幾つもの意味を含んだ諦め。これから先、何度そう言われるか知れない。受け止めなければならないと分かっていても、呆れたように呟かれた言葉が胸に突き刺さって痛む仙道だった。 翌日、元気になったかの確認メールを打っても、返信はなかった。毎日じゃ疎まれると思い、一日空けての同じメールの返信は「へいき」の三文字。 ほっとして日常に戻り気づけば除夜の鐘が鳴っていた。もう寝てしまっているだろうけど、年が明けたのを確認して「おめでとう」メールを打つ。 「今年も頑張ろうな」の後は言い訳にしかならないから続かなかった。その返信はお昼前、実家へ向かう電車の中。「うん」とだけの流川らしいもの。 クリスマスの練習から一週間。車窓から流れる景色を目で追いながら、藤沢の実家へ帰るのに、どうして「ちょっとだけでもバスケしよう」と言って やらなかったのかと、やっぱり後悔した。 思い知る。決心する。引きずられる。そして後悔してからのためらい。流川の成長を見守りながら、自分はずっとループし続けるんだろうなと仙道は思う。 そして会えないまま、A代表の親善試合も終わった春先のこと。仙道のオフがちょうど流川の試合と重なる日があった。三日後の日曜日、大きな顔をして 会えると言える。それまでのメールでのやり取りのように邪険にされることもないだろうと、久しぶりに携帯に電話してみれば、公式戦らしい。 見に行くよと言うと、練習出来ないんじゃ意味ないとばかりに流川は渋った。 「大丈夫だよ。一日完全オフだから。試合終わんのって2時とか3時だろ。終わったら、その後練習見てやるよ」 あれ、と思った。即答が返らない。嬉しくない筈がないよなと背筋を伸ばす。仙道にすればあっという間の三か月でも、もしかして、子どもにとっては 興味を失っても可笑しくない空白期間だったか。瞬時に脳裏を駆けまわった悲観一色な想い。おいおい、と打ち消した。物言わぬ沈黙に振り回されるにもほどが あるだろう。 『ほんとだな』 少しの間をおいて聞けた声は随分と落ち着いていた。 「ああ。試合、出んだろ?」 ほっとしたら肩から力が抜けた。 『たぶん。ぜんぶじゃねーけど』 「それはすごい。三年でスーパーサブ扱いなら上等じゃん」 『もう四年』 「四月からな。けど早ぇーな。三か月ぶりか。背ぇ、伸びた?」 『じぶんでたしかめろ』 「はっは。了解。流川の試合見んの、あの練習試合以来か。近藤先生やチームのみんなにも久しぶりに会えるな」 ちょっと調子づいていい感じだったのに、そう付け加えた途端、携帯はブチっと音を立てて切られた。あちゃー、と頭をかく。地雷原はたぶん近藤先生 とチームのみんなの件だと思う。大局を見据えているふりをして流川しか目に入っていないくせに、いまさらなんの矜持だ。かみ合わないというか、 つくづく流川の神経を逆なでしているというか。 けれどそれくらいの枷を背負ってる方が丁度いいのかも知れない。 そして前日は実家にお泊りして家族への点数を稼いでおいた。味噌汁の匂いで目覚めるなんて何年ぶりだろう。日曜だったから父も在宅で、 現在の調子や未来への展望から子どものころの試合まで、話は時間軸を飛び越えて父母の間で行ったり来たりした。そんな郷愁も母たちの歓待も 振り切って、ミニバス少年の試合を見に行く社会人になろうとする男。 いや、分かってはいるが、字面だけ見るとかなり変態チックで哀しい。 長年慣れ親しんだ感で、試合スケジュールから開始時間を計算して会場である県立の体育館へと足を運んだ。 観客席への扉を開けるなり、身に馴染んだ熱気と歓声に包まれる。小学生の部活動は学生とは違い地域密着保護者一体型のため、ギャラリーの色も違う。子どもだけ に目を向ける保護者たちの熱心さ故に全日本クラスの仙道が姿を見せても認識されない安心感があった。ちょうど時間もよく試合間の公式練習中だ。アリーナはコートが 三面。電光掲示板を確認しながら流川のチームを探す。見覚えのあるユニフォームが目に止まった。観客席前方でしきりに子どもたちに手を振る保護者の 一群から距離を置いて、後方のシートに腰かけた。 練習風景からスタメンは全員が六年で試合に臨むのだろうと推測できた。たぶん時期的に六年生にとって最後の試合。半年前のほんの 二週間、関わったとも言えない間柄だったが、なんだか全員逞しくなっている。そんな中、視線はやはり流川を追い求める。すぐに見つかった。 レギュラー陣のシュート練習に、ウォームアップを着たままでフォローに回っていた。 みんなが逞しく感じられる分、あの線の細さは幾分頼りない。だがそれはボール拾いの動きひとつ見るだけで完全に払拭された。レギュラー陣 のシュート練習で乱れ飛んでいるボールの下に誰よりも早く入る。態勢を崩して手にしたそれもドリブルに持っていく下半身の強さがある。そして、 クイックモーションを入れ、ボールゲージ近くのチームメイトの胸元へと送る一連の動き。試合前の練習ひとつ、無作為にボールに触るものかという気概があった。 その熱量の迸りが、日々の流川を想像させた。 親はなくとも三カ月。ちゃんと育つんだと的外れなことを思う。大きくなった。きっと少し身長も伸びたんだろう。あとで確認しなくちゃなと ニヤケていると、いつの間にかセンターサークルでボールが舞っていた。 試合終了のホイッスルが鳴り響いた。 これは相当ストレスを溜めただろうなと、近藤教諭のガッツポーズを横目に仙道は頭をかいた。前方を陣取る保護者たちは抱き合って喜んでいる。 一進一退の攻防を見せ、最大5点差のビハインドをひっくり返した好ゲームだった。やはり、引退試合としては、どちらもスタメンは六年生。 交代のメンバーも控えの五、六年生が中心のシフト。ベンチエリアの端でアップ充分のアピールをし続けていた流川に、最後まで声はかからなかった。 ゲーム内容が良ければ良いほど、その場に身を置きたいと願うのはだれも同じだ。当然の配慮とはいえ、前のめりにコートを見つめ続けた横顔に 痛ましさを感じずにはいられない。 しかも。 「仙道先生が応援に駆けつけてくれたぞ!」 コートに一度も立てないなんて、不完全燃焼感も相当だろう。きょうはトコトンしごいてやるか、と流川を慰めるために向かったアリーナ横の通路で、 歓喜に沸くメンバーにもみくちゃにされ、さらにさらに、 「久しく会わないうちに立派になって。ご活躍の噂はかねがねだな、仙道。来てくれてありがとうな。それに応えるだけのいい試合だったろ」 「ええ。見応えありましたよ。テクニックもだけど精神的に強くなった感じ」 「だろ、だろ。子どもたちも段々と貪欲になってさ。祝勝会だな。こりゃ、呑みに行くしかない。子どもらを学校まで送り届けたら、空くから、おまえ、 付き合えっ」 と、教諭からの強引なお誘いを頂戴した。 「え〜、オレ、きょうはちょっと……」 瞬時に手を振って否定したけれど、先生たちだけズルイぞ。オレらも連れてけ――の大合唱にかき消されてしまった。さっさと帰る用意をしろ、との 一喝で仙道の周りに集まっていた子どもたちはブツブツと文句を口にしながらも手早く着替えをすませる。整然とし出してようやく流川の姿を捕える ことが出来た。 視線が合う。 三か月ぶりの流川は痩せたように見えた。いや、少し背が伸びた気がするからそのせいか。違う。それだけじゃない。ふっくらとしていた頬が 削がれている。無理が過ぎるだろう。成長期の三か月で痩せるってどういうことだ。ちゃんと食ってんのか。 時間にすれば瞬く間。マジマジと見つめるのもいかにも怪しく、苦笑を張り付けるしか手がなかった。キツい睨みが返ると思いきや、醒めた 表情ですっと視線を逸らされ冷や汗が出る。虫の居所が悪かったか。いや、そんなんじゃない。これはマズいぞと、取り繕う言葉を探しているうちに、 身支度も整った教諭の追及の手は緩まなかった。 「なんだ。せっかく藤沢に帰ってきてるのにこれから練習か?」 「いや、きょうはこのあと別件で……」 「彼女か? デートだな。んなもんまた今度にしてもらえ。おまえとは何カ月ぶりだと思ってんだ」 「えっと……」 「こういう日は酒を浴びながらバスケ談義に限る。バスケ界の末端を支え続けてる指導者の真の声と苦労を聞くのも、お前たち現役ケイジャーの務めだっ」 「……もうすでに酔ってるじゃないですか」 当たり前だ。清々しい酒が呑めそうだと教諭は仙道の背中を叩き、集合した子どもたちの先頭に立って歩き出した。低学年は教諭のすぐ後ろ。最後を六年生が固めて 二列で進む。流川は振り返ることすらせず、その背はあっという間に他の子に紛れてしまった。 怒りを超えた哀しみ。流川の中に諦めが存在し出した。これも仙道が教えた感情だ。 そりゃ、オレだって断りたかったさ。 常識や配慮や体裁や外聞が、いや――己の優柔不断さがずっしりと横たわる。流川はただ練習したいだけなのに、待たせるだけ待たせてそれすら 叶えてやれない。 こめかみが疼いて仕方なかった。 「おまえ、楓になんか練習つけただろ?」 藤沢新町駅前、五時の開店少し前から乗り込んだ教諭行きつけの居酒屋に客の姿はまだなく、厨房では仕込み作業の物音が聞こえている。駆けつけに続く二杯目で真っ赤になって すでに呂律が怪しい近藤教諭は、とろんとした目を向けてきた。しこたま呑むぞと言った割には経済的な体質なようだ。 「変わりましたか、あいつ?」 「ま、色々とな。きょうは試合に出してないから分からんだろうけど。クイックなんかチームで一番キレがある」 「へぇ、それはすごい。けど実質、三度ほどですよ。見たの」 「そりゃそうだろう。A代表クラスが小学生相手に三度でも練習つける時間を割いたってだけで周囲は驚く」 ちらりと含まれた咎めの色に気づかない仙道でもない。 「PTAから苦情でも出ましたか?」 「いや、そんなこと誰も気づかんさ。あいつが人一倍練習熱心なのは周知だしな。三年生なのにってやっかみがあったとしても、その練習量を知れば 沈黙させるもんを既に持ってる」 ただ、と教諭は中ジョッキを傾けた。なんとなく想像のつく展開だ。 「先生らしくないな。ストレートにお願いしますよ」 その先を促すと教諭は少し躊躇った。 「ん。なんて言うか。チーム競技、チーム競技って声だかに叫んでも、バスケは個人プレイの結集色が強いから、いいと思うんだよ。今から丸く縮こまらなくても。誰にも パスしないでひとりでゴールに突っ込んでくってなら論外だが」 ではなんの問題が――という仙道の沈黙に、教諭はジョッキの中身を確かめると顔をしかめてそれをテーブルに置いた。お代りを諦めようかと 悩みながら言葉を選んでいる。 「上級生――いや自分より強い相手の中に混じると、すごい動きをする。食らいついていくって表現がぴったりだな。だが同学年だと――」 オレの知る流川はどんな相手にだって手を抜いたりしないと、確信を持って黙っていると、教諭は小さく「苛立つ?」と自分に疑問符を投げかけている。 「違うな。逆に、そんな感情に揺り動かされることはないという気もする」 仙道の背に嫌な汗が流れた。小学三年生のバスケに諦めと懸命さの両極端しか存在しないと教諭は言っている。 「子どもであるからこそ、あいつの中の熱情は大人たちの認識を遥かに超えている。常に上のフィールドを用意しないと満足しないなんて、ふつうは物理的に 叶えてやれないわな」 「学年が上がれば上がるほど、興味を失ってゆくかもしれない」 「いまから先の心配をしても始まらんが」 教諭はジョッキからチラリと仙道に視線を合わせた。 「周囲から浮くほど突出した能力を持つ子に、特に小学校低学年の児童に、チームの底上げを担うけん引役を与えるか、一段上の環境 を用意してやるかは判断に困るところなんだ。放置しておけば現状に満足して天狗になってその後伸びなくなる。環境を変えれば変えたで、それまでの 自分では通用しない現実と直面する」 気がつけば店内は何組ものグループで一杯になっていた。刺身が旨いんだというお墨付きなので味には定評があるのだろう。 「実は楓にな、海南大附属からの編入の話がきた」 「えっ、早すぎるでしょ」 寝耳に水もいいところだった。言わずと知れた全国区の強豪校には、指導者にも施設にもライバルにも不自由はしない。早すぎると言ったものの流川に とっては願ってもない話だ。だが、当人の口から海南の「か」の字も出たことはない。つい最近の話なんだろうけど、先日の電話で話してくれても よかったのに、とイジケそうになった仙道に、カラカラと笑ったあと教諭は追い打ちをかけるように付け加えた。 「さらに驚けよ。編入って言っただろ。中等部じゃないぞ。初等部にだ」 「ええっ――」 「公式戦なんか、地域の小さい試合で控えでチョコっと出ただけだ。噂先行だったらしい。それで目に留まるんだからすごい話だし、楓にとってもいい話だしで、喜んで 伝えたら――ひとこと、なんて言ったと思う?」 予想で全身の毛が総毛立った。 「興味ない、だと」 出会ってからこの方、流川からは色んな精神波と衝撃波を喰らってきた仙道だが、他人の口から伝えられたそれは、思わず両腕を抱えるほどの破壊力を 持っていた。 確かに聞こえたのだ。流川の声が。 仙道いがい、きょうみねー。 「興味がないはずがない。けれど、なにを考えたかは分かる。たかが小学生の子に、いまから杞憂もいいところだが、お袋さんの心配はまさにそれだな。 おまえに対する申し訳なさが一番。楓の執着の激しさに戸惑っている」 なるほどと仙道は思った。そういう相談を流川の母から受けていたのか。 「仙道は酔狂な男だから本気で楽しんで指導してるだろうとは言っておいたが――」 そう言ったあと、どうまとめようか教諭は考えあぐねいているようだった。だから先に告げた。 「オレは流川にとってもろ刃の剣なんですね」 「そうは言ってない。ただ、同年代のライバルが現れたとしても見えないだろう。心、ここにあらず。なんて言うか、アレはいつもお前とバスケして るんだろうなって思うんだよ」 ――いつもお前と。 そのあと、足元の少し覚束ない教諭を改札前で見送り、戻る形で商店街に出て仙道は空を見上げた。少し酔った肌に花見月の風は心地いい。 サヤサヤと流れる風の音だけが仙道の耳に残り、商店街独特の喧騒がかき消えていた。 この年代の流川と出会ってしまった弊害があるとしても考えないと決めた。思うこと自体が時間のロスであり、 流川への裏切り行為に値する。だから自分はその位置にあり続ける。迷いながらも導き出した答えだった。 そうであっても、躊躇いというおもりで振り子は揺れる。 重い吐息を吐きだすと喧騒が戻った。先のことはなにも分からない。ただ、いまはたったひとつの約束を守っていこう。そして何よりも、試合に出て いない流川のプレイを、三か月たった流川を自分だって見たいんじゃなかったのか。 ちゃんと会いたい。 とっぷりと暮れなずんでいても七時前。まだ間に合う、と仙道は携帯を片手に駆けだした。息せき切って駆け付けた流川家の門前には、ちょっと 困惑気味の母とその横にちょこんと佇む少年の姿があった。時間も時間だしちゃんとお母さんに説明しな、と告げておいた結果だった。 ふたりを前にまず仙道が頭を下げた。 「すみません。こんな時間に。三十分だけ楓くんとの約束を果たさせてください」 なにか言いかけた母を制し流川が一歩前に出る。両腕で抱えていたボールを突き出し仙道に預けると、大人ふたりを置き去りにして歩き出した。 「ちょっと、楓っ」 もの言わぬ背中の行く先はおそらく近くの公園。リングはお粗末でも街灯が固い地面を照らしてくれている。確かに、それ以上の言い訳も過度の謝罪も 必要ないと言わんばかりに小走りになる後ろ姿を、ぼんやりと眺めている時間すらもったいなかった。本当にごめんなさいと、いろんな思いを内包した 呟きをこぼした流川母に一礼すると仙道も駈け出した。 一つ目の角を曲がるころにはふたり並び、先を競い合って公園へ駆け込んだ。街灯を目指してさらに進み、手にしていたボールを弾ませると、すでに流川 は臨戦態勢。五感総てで仙道の動きをとらえていた。剥き出しの闘志を呼吸で整え、足りない両手を精一杯広げる。ドリブルのペースを上げて、右に大きく 一歩踏み出すフェイクには表情ひとつ変えなかった。あからさまなのには、もう引っかかってくれない。流川の身長を考慮すると、いつも以上に腰を 落とさなくてはならない。だから敢えて左右から抜きにかかる。届きもしない頭上を狙うなんてだれもためにもならないからだ。 左右と縦で揺さぶりをかければ流川が飛ぶ。ああ、やっぱり背が伸びた、と感じた。腕も長くなった。目線の位置が違う。ジャンプ力も会えなかった三か月を物語っている。 助走をつけ手を伸ばせば仙道の身長分の高さくらいなら届く。ただ、触れられるだけではディフェンスとしての意味をなさず、勢いを殺さず飛び込めば この身長差でもチャージングだ。ボールを胸元に引き戻し、手の動きを予想してピボットで逃げた。だが、着地の動作から間髪をおかずに食らいついてきた。 「上手くなったなぁ」 呼吸も乱さずに高見からの言葉だけれど本音だ。それを揄われたと思ったか、街灯の光の陰影のおかげか、流川の瞳の強さに凄みが増した。そこには幼さの 欠片もなかった。 だからキレのいいバックロールで目の前の流川を抜き、一度も触れさせずキープしたボールをフープへと吸い込ませた。流川の成長に合わせるつもりは ない。それを望まれての自身だ。振り向いた流川はその軌道を目で追う。ちっと、小さな舌打ちの後、近藤教諭お墨付きのキレのある攻撃が始まった。 目に見えて精度の上がったドリブル。あの小さな手に吸いつかせコントロール出来るまでにどれほどの練習を課してきたか知れない。なにもかも 捨て去ったという意識すらないだろう。呼吸をするほどに、ただ当然に、流川は向かってくる。あの低さでは仙道の手は届かない。 だから前方を塞ぐ。どれほどの切り込みをかけようが抜かせるつもりはなかった。肩を入れ、左右に持ち替え、ペースを変えて、いま持てる総てで 仙道を抜きにかかろうとする少年。それを確固たる残酷さを持って阻止する。 のぞむ形は独占欲という名前をしていた。 「あっ!」 左に少し動いた仙道の、空いた右わきに気を取られ、重心の残った右足を避けきれなかったのだろう。先に手から離れたボールが仙道の後方に放り出された。 つんのめった躰が後から続き、地面への衝撃を和らげるために肩を入れての受け身を取っている。長袖のウェアだから擦り傷も知れてるだろう。 それでも痛いには違いないと、スローモーションのように見えた身構える流川の躰の前に先に腕が伸びた。 ドサっという落下音に続いて、「いってーっ」と、口から出た大人とは思えない弱音。気付けば地面と流川の躰との間にちゃんと腕がある。背中から落ちながら 一応の受け身は取れていたんだと知った。 のそりと流川が顔を上げる。肩か背中の痛みから取りつくろうことも出来ない。その痛みをやり過ごしていると、目の前で不安げな瞳が揺れていた。 逆に大丈夫かの形でどうにか笑むと、流川の額から頬にかけて汗が伝った。みるみるうちに汗が噴き出している。流川を腕に抱いたまま仙道は跳ね起きた。 「どこが痛いっ」 「せん……」 「ごめんっ。不用意に、足、残しすぎた。ちくしょっ。バカか、オレは」 「だいじょうぶ」 急に止まったから、あせ、出ただけと言われて躰中の力が抜けた。それよりもおまえのほうが、とツンツン頭から垂れ下がったひと房に伸ばす小さな手ごと 仙道はかき抱いた。 「仙道――」 「ほんとに?」 うん、と、くぐもった声を胸板で押しつぶして躰の奥で聞く。聞こえてないだろうと頷く頭を何度も何度も撫でた。聞こえている。ただ撫でていたいだけで。 仙道が安堵の嘆息を吐きだすと、流川はおさまっていた腕を外し抱き返えしてきた。相変わらず丸抱えは嫌がる。 「次はいつ練習できる?」 「そうだな。約束は必ず守る。だから叶えられることしか約束しないようにする」 「うん」 忙しいのは勿論だ。けれどいつも根底には無意識のうちで線引きをしていた。常に流川から一歩離れなければならない。冷静でなければならない。先をゆくものとして、 大人として、そして流川の総てを大切に思っているひとりの男として。けれど一度絡みあった指はそうそう解けない。抱いた腕を離せないのは仙道も 同じだ。距離を――見極めを――といつまでも一か所に留まってもいられない。 「おまえ、海南大附属からの話――いや、いい。いいよ。おまえはずっとオレを追い掛けてればいい」 やばい。酔いが回ってきたかもしんない、と頭をかく男に流川は睨みを入れた。 「ずっとなんかねーよ」 「だな。すぐに追い越すんだもんな」 クスリと笑い、戒めのような腕を解いて流川を先に立たせた。こんなことがお遊びで許されるもの児童と括られるいまだけだろう。 必ずこの感情に押しつぶされる日が来る。色を変える日が必ず来る。ただ自分はなんの覚悟もないままそばに居続けるんだろう。立ち上がり、 汗の引いた身体を風から守るために楯になった。流川はその右手を奪いぎゅっと握ってくる。小学三年生の指では仙道の小指と薬指だけの方が 安定するらしい。 早く、と前を見たままで流川は呟く。 「……りてー」 早く大人になりたいと言ったのか、強くなりたいと言ったのか。握る強さはそのままで流川は仙道を見上げた。 continue
写真素材
夏色観覧車さま
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