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〜4



〜楓ちゃん、素直になる







「何度も言わせんな。なんもいらね」
 会うのは正月以来だから二カ月ぶりだ。日増しに声の質が変わり、その分、硬質な輪郭が増しだした少年は興味なさそうに淡々と言い放った。
 付き合いも相当長くなってきた。まぁそう返されるだろうと諦観はしていた。それでも、小学校卒業という大切な節目だ。気持の問題だし、形で 残したい。押しつけがましいかどうかは受け取り方次第じゃないかと、やさぐれながらも、流川お気に入りのメーカーのナイロンバッグを、お祝いとして 提げた春の日のことだ。
 肩をすくめた仙道は流川家の上がり框に腰かけた。廊下から続くリビングに目をやれば、スーツ姿の流川母が「ごめんなさいね」と両手を 合わせている。
「このバカっ。真っ先に言うことがあるでしょっ。幼稚園児じゃあるまいしっ」
「いらねっつってんのに」
「あんたいい加減にそういうとこ直さないと、中学に行ったらボコボコにされちゃうわよっ」
 鬼の形相で小言を繰っていた流川母は一気に反転して、さ、上がって上がって。いまコーヒー煎れるからと、手招きをしていた。流川からは時間の無駄 オーラがビシビシ飛んでいる。ここは意をくんで丁重にお断りする仙道だ。霧散した殺気にホッとして、バッグからそれを取りだし掲げた。
「練習着にと思ってさ。お揃いなんだぜ」
 サイズの違うプラクティスシャツ。ほらほら、と小さい方の両肩を持ってご陽気に振れば、きょう卒業式を迎えたばかりの流川は、「気持わりー」と容赦がない。 すかさず流川母の投げたクッションが彼の頭にヒットした。
「あんたって子は!」
 クッションの存在と衝撃には目もくれないで、流川はネクタイを外すのに手間取っている。
 ボールを繰る以外は少し不器用な指先。イライラが如実に現れた尖る唇。ノーブルな容貌は年々磨きがかかり、それだけに件の子どもっぽさとが 同居していまの流川を象どっている。きょうのような格好なら、さぞかし異彩を放っていたんだろうなと、仙道は目を細めた。
 いや、オレもその晴れの場に居たかったよ、と。
 Tシャツとハーフパンツ。持ち物はスポーツドリンクとタオル。そして体育館か公園。そんな限られた狭い範囲での繋がりだから余計に新鮮で、けれど 見慣れない以上に、大人びて見える流川がそこにいた。口さえ開かなければ育ちの良さが全面に出る。由緒ただしきパブリックスクール最下級生のような 静謐さは流川母の好みだろう。けれど哀しいかな、この日のために選ばれたそれらが、今後陽の目を見ることはなさそうだ。 ぞんざいに外され放り出されたネクタイが、Vネックのクリケットベストに当たって、ソファからズリ落ちたところだった。
 きょうは一日オフだからと言うのに流川は12時に来いと指定してきた。晴れの式典のあとには写真を撮ったり名残を惜しんだりといろいろあるだろう と思う。自分の時代を思い出しても、バスケ部のメンバーで集まっていつまでも帰らなかった。聞けば、クラス全員で一枚は撮ったと。それに全員同じ 中学だし、という身も蓋もない答えが返ってきた。そんな少年の願いどおり、定刻にお邪魔する自分も同罪だ。
「きょうは時間も早いし体育館が使えないから、公園だな」
 生着替えを凝視するのも気が引けるので、玄関扉に向かって呟いた仙道の背後から影が差した。流川母がコーヒーでも持ってきてくれたのかと半身を 返せば、そこに突っ立っているのはハサミを下げた少年。下はウインドブレーカー完備。バッグは足元に。なのに上半身だけ裸だ。何事と目を瞬けば、 ヌっと右手が突き出された。
「――えっと」
「それ」
「流川?」
「いま、着るから」
「ああ、はい」
 一応プレゼントなので卒業おめでとうの言葉を添えて差し出せば、口ごもりながらも「あ、した」とお礼が返る。バカの一つ覚えみたいに、練習に 付き合っても、車で送り迎えしても、なにかをプレゼントしても、体育会系の挨拶をひとつ。それでも自発的に口に出来るようになったのだから、 大した成長だ。身長は160センチに届きそうだという。まだまだでかくなる。節の高い指を見ればわかる。それでも変わったのは外見だけじゃなかった。
「オレの努力の賜物だよなぁ」
 しみじみ呟けば、仙道の傍らにドスンと胡坐をかき、受け取ったシャツのタグをハサミで切り取っている流川の訝しげな視線。肩先が振れるほどの位置に 座しているくせに、言葉が理解できない異星人を見る目はなんとかならないものか。だからわざと肩を抱きさらに顔を近づけ、
「イライザを育てたヒギンズ教授の気分ってこと」
 満面の笑み付きで耳元でささやけば、
「ムツカシイこと言って、ごまかすのは頭の悪い証拠だって、近藤先生が言ってた」
 両手で顔を押し返された。追加。口の悪さも身長に比例して三割増しだった。



 新しい練習着の上にウインドブレーカーをはおり、意気揚々と出かけたいつもの公園は平日の昼間ということもあり、小さいお客さんたちでいっぱい だった。どうやら近くの幼稚園児たちが大挙して外遊びのために占拠という日らしく、ゴール下なんかお弁当を広げて寛ぐスペースにされている。さすがの練習の 鬼もこれでは対処できない。追い払うわけにもいかないしと、絶句した流川に変わって仙道が引率の教諭の元へ駆けて行った。
 それを目で追って流川はベンチに腰を下した。仙道の長身は彼らの中に混ざると圧倒的で、腰を折って小柄な彼女たちに接するだけで園児たちが ワラワラと寄ってきている。距離があっても声をかけられたポニテの教諭が顔を赤らめているのが分かった。会話にしてもほんの二言、三言。 その間だけでも仙道の腕と太ももに園児が纏わりついていた。
「あと一時間くらいで引き上げるらしいけど……」
 仙道がのんびりと歩いて帰ってくるころには流川はそっぽを向いていた。
 見れば両手に女児たちを引き連れている。離してもらえなくてと眉毛を下げたさまに苛立った。新しいお兄ちゃんと流川の手を取ろうとした 女児の行動を冷ややかな目で制した。すごすごと仙道の手を握りに戻り、その背に隠れて流川の様子を観察する目が煩わしい。
「あと一時間、あんた、子守でもするのか?」
「きょうは時間があるけど、一時間はきついな。どうせならアップを兼ねてふたりで童心に戻るってのはどうだ?」
「却下」
 即断すると、近くにリングのある公園あったっけ、と女児の指を離してみんなの元へ帰るように促している。そこでグズるのが園児の園児たる所以で、「やだ。 ブランコしてっ」と当然の所有権を主張する厚かましさに耐えきれなくて、流川は腰を上げた。一日お兄ちゃん先生でもやってろと。彼らと戯れる仙道を 見て時間を潰すくらいなら、走りこみでもしてきた方がましだ。
「近く、走ってくる」
 そう言って歩き出した流川の後ろ手を仙道が掴んだ。
「車のナビでゴールのありそうな公園、探してみる?」
 ごめんねと女児たちに手をふり、流川の肩をポンと叩いて仙道がさっさと追い越してゆく。後ろで女児たちがなにか叫んでいた。博愛主義者、フェミニスト、 天性のひとタラしと称された仙道にしては随分な対応だと思う。
「車まで戻って、公園、探してる間に一時間なんかあっという間だろ」
 背中越しに声をかけて肩を並べたら、
「オレだけに押しつけんなよ。あの子らの相手は疲れるじゃん。精も根も絞り取られるよ。そうなると困るのはおまえだろ。それに久しぶりに会えた んだから、雑音多いのも厭だしさ」
 と、簡単に目じりを下げてほほ笑むさまに、流川はちょっと固まってしまった。やっぱりこいつ気持ち悪い。けれどいつも一番欲しい答えを与えてくれる。 厭だけど仕方ないことがふつうに多くて、仙道と一緒にいるとそんな場面によく遭遇した。厭だけど仕方ないと諦める。それでもそのあと仙道は、必ずと言って いいほど流川を優先させてくれるのだ。
 マッチアップしたいと言えば都合をつけてくれる。迎えに来いと言えば来てくれるかも知れない。躰がふたつあればが口癖で、流川が発する我儘 なんて可愛いもんだと頭を撫でる大きな手。その手にいつまでも触れていて欲しくて、いつも流川は動けない。
 我儘を――
 そう思ってふと立ち止まった。
 本当に望んでいること。



 ついていない日というのはほんとにあるものだ。この日、思いつく限りの公園を当たって車を走らせてみても、なぜか使用禁止だったり工事中だったり。 結局近くの公園に戻るのが一番だと気付いたときには一時間ほどたっていた。市中をぐるぐるとドライブしただけで、それでも軽快な仙道の会話には 退屈しなかったし、時間はたっぷりあるから、ファミレスで遅いお昼にしようという提案にも黙って従った。
「たまにはこんな日もいいな、デートみたいで」
 お腹もくちくなって、ちょうど車の揺れも気持よくて眠いだけで黙っていたら、「あとでちゃんとマッチアップするから、怒るなよ」と付け加える ことも忘れない。
「なんかきょうで藤沢の公園事情が総て把握出来たって感じだな。後々の教訓として覚えておこう」
「最後に寄った公園てさ、あの感じだったら工事中が取れたら使えるな、きっと」
「ほんとに時間があったら、うちのチームの体育館、使うのも手だな。ま、遠いから遠足見たいなノリになるけど」
「どこ?」
 その一言に反応して流川の意識は戻った。
「えっ? 起きてたのか」
「体育館て?」
「ああ。F市。うちの会社が所有してるスポーツセンターな」
「いまから行こう」
「いまからって二時間くらいかかるぞ」
「見てー。仙道の練習してるとこ」
「いま二時だろ。行って帰ってくるだけで夜になるって」
「それでもいー」
「分かったからきょうはちょっと待て。今度ちゃんと招待してやる。日帰りがキツかったらうちに泊まればいいし――」
「あしたっから春休み。中学に入るまでだれとも練習できねーし」
「春休みか……」
「見るだけでもいい」
「見るだけって」
 言われて流川は少し身を引いた。
「なんかあったのか? おまえが練習よりそんなことを優先させるなんて」



 言った方も言われた方も一瞬にして固まった。



 仙道はハザードをたいて車を路肩に寄せ流川に向き合った。その沈黙と視線が煩わしい。問い詰められても答えられないからだ。流川はそっぽを向くしかなく、 そんな宙ぶらりんの状態を仙道は許さなかった。こんなときはいつも、巧みな誘導尋問で重い口を開けさせられる。
「ミニバス引退したのいつだっけ」
「……二月の終わり」
「そっか、半月も経ったんだな。ずっと公園で自主練?」
 流川が進学する中学は公立だから、入学前の生徒を体育会系クラブで囲い込むシステムはない。体育館、恋しいよなと問われ、そうかもと 流川は肩の力を抜いた。確かに変だった。目の前に仙道がいて、練習時間を削ってでも欲するものがほかにあるのか。体育館練習は確かに恋しい。 けど、ただ見たかっただけなんて自分でも信じられない答えだ。
 仙道の左手がすっと伸びて流川の頬に触れた。熱でもあるのかと気にしている。熱なんかない。けれど何かに酔ってグラグラと中心が覚束ない感覚は なんだろう。頬に添えられた手に誘われるように躰が仙道の方へ少し傾いだ。続いて出た言葉は、頭で考えたものでも、心で感じたものでもなかった。
「いー。また、いつか……」
 弾かれたように仙道は、両手を流川の頬に当てて顔を上げさせた。間近にある仙道の強い視線。流川の中のなにかを攫おうとする。この男は 時々こういう顔をする。以前はいつだったか。怪我しかけたときか――と思考が行き来する流川を置いて、仙道は正面に向き直った。
「行ってみようか。うちの体育館。入れてくれるかどうか分かんないけど」
「仙道?」
「夕飯までには帰るってお母さんに連絡入れな。バッシュ、持ってるな」
「いつも入ってる」
「事務所にだれかいるかな。いなくても、電気系統全部落ちてなければ、うん、なんとか潜り込めるはず」
 すぐにUターンさせて幹線道路へと向かう車の速度は徐々に上がっていった。その仙道の様子が穏やかな口調に反していて、流川はなにも言えなかった。
 お喋り仙道が鳴りをひそめ、CDのボリュームが落とされた。寝てていいよの合図に、仙道の手が流川の頭を自分の方へ傾ける。触れているのは 腕だけなのに、総てを委ねている安心感と、軽い振動に誘発されてすぐに落ちた。爆睡していた流川は、着いたと言われてもここがどこか判別つかなかった。薄暗い大きな施設の地下駐車場だ。 固まった筋肉を解すために車外に出ると、仙道はここで少し待つように言った。事務所のひとに聞いてくると。そこでやっとこの現状が理解できた。
 手持無沙汰から仙道が消えたエレベーターホールへと流川は進んだ。フロア案内図を見て一階への昇降ボタンを押そうとすると、ちょうど 下ってきたエレベーターの扉が開いた。二メートル級の黒人と浅黒い日本人の二人連れ。目があった。流川も知っている仙道のチームの選手たちだ。 その見上げるばかりの重圧感に少しズレたタイミングで進路を譲った流川に、通り過ぎた日本人の方が振り返った。
 箱の中で振り返った流川ともう一度目が合う。ども、とばかりに顎を引けば、その男はにっこり笑って片手をあげて去って行った。なんだったんだ、と 思う間もなく一階に着いた。非常灯の灯りのみでなにも稼働していない薄暗い中をまっすぐ歩き、重厚な扉を開けるとひんやりとした空気が逃げ出した。 そこは練習用としてはコートが二面取れる広さと、二階に観客席を持つつくりになっていた。チームのマスコットキャラクターがプリントされた派手なスリーポイント エリアは公共施設にはない華やかさだった。
 バッシュに履き替えて一礼する。一歩踏み出しリリースの感触を確かめていると、「こらっ」と背後から声がかかった。
「勝手に歩き回らない。探すじゃないか」
 鍵の束を手に仙道は流川を手招きした。倉庫の解錠を教えられボールゲージを出している間に前半分だけ照明が灯された。
「省エネってことで。全灯させる必要もないしね」
 チーム職員には随分と呆れられたそうだが、快く鍵一式を貸してくれたという。それでも床掃除と撤収も含めて一時間な、と仙道は笑った。 一気に湧きあがった興味でここまで来たが、思っていたよりも規模の小さいアリーナだった。流川が経験したミニバス関東大会のメインスタジアムの方がよほど 圧巻だった。ここで試合が出来るのかと、浮足立ったチームメイトから少し離れ、あのとき流川は天井からの照明の照度とバックボード裏の 奥行きを見ていた。古い小学校の体育館で使われている照明は天井が低くて意外と目に刺さるが、真新しいここもあのスタジアム同様に目に優しい。
 ゲージから掴んだボールは一般規格の7号球。中学用に新しく買ったものよりも一回り大きい。両手でつかんで総ての指を立て、感触とハンドリングを 確かめたあと、流川はゆっくりと左右のV字ドリブルに入っていった。スピードが増しても上体はちゃんとキープ出来ている。大したものだと仙道は感心した。
 ほんの三年ほど前まではシュートシュートと躍起になっていた。練習量の多さを諌めたことはあっても、その方向性への口出しは出来るだけ避けて きた。それが学年を重ねるにつれ、なにも言わなくても基礎に立ち返り、ドライブのキレが格段に上がっていった。反復に次ぐ反復。ドリブル練習の賜物だ。 小学生であれほど手首を柔らかく使える選手もいないだろう。どの競技でも言えることだが、美しいフォームには強さがついてくる。
 深く物事を考え込むタイプではない流川だが、いまなにを修正すべきか鍛えるべきか、ほんの少しのアドバイスで理解していく。変な癖がつかないとは 相当な努力を要することなのだ。
 仙道が目を見張っている間に流川のウォームアップは鋭さとスピードを増していた。力みのないレイアップをひとつ決めてちらりと振り返る。 入口近くで動かない仙道を挑発するかのように、弾んだボールを掴むと今度は直線的なドリブルで逆エリアまで戻ってきた。勢いのままジャンプ ショットでも決めるかと思えば、左右にボールを揺らしたあと仙道にパスが送られた。
 こちらはアップもなにもなく、それでも流川のスタイルに慣れているから、受けて瞬時にギアがかかった。目の前に迫った流川を右に入れた フェイントからクロスオーバーで抜いた。まだある30センチのミスマッチ。それでも床スレスレのボールチェンジの 位置では腰を最大限に落としても引っ掛けることすら叶わない。ちっと舌うちしてターンする流川を仙道は待っていた。
「きょうは徹底的にディフェンス重視の練習をしよう」
 ニヤリと笑って人差し指を立てれば、流川の顔がブスっとむくれた。
「シュート練習ははほっといてもするからな、おまえ」
「あんたみたいなテク持ってるヤツなんかいねーよ」
 仙道は止められなくても同年代なら防げると言いたいのだろうが、こと、ディフェンスに関しては熱意の比率が違いすぎる。
「だからって無駄にはなんないよ。それに絶対ひとりじゃできないし」
 特に仙道とのマッチアップでディフェンスに回った流川は、その先にある動きのバリエーションばかり見る傾向にある。重心のかけ方を、指先の力の 入れ方を、目線の方向を、そして呼吸の継ぎ方すら。触れる位置で体感して総てを吸収しようとする。阻む気迫のない別の熱量で仙道と対峙する。 簡単に抜かれても流川は別のことを考えている。しかしそれを諌めようとは思わなかった。
 いまに分かる。
 いま圧倒的な強さで見せ付ける仙道のプレイのひとつひとつを、壁にぶち当たったときに思い出せばいい。それだけのものを与えてきた。これからも 与え続ける。それをどう噛み砕いて咀嚼して血流に乗せて全身に運ぶかは流川次第だ。
「――」
 懇切丁寧に言葉にしなくても伝わるものがある。このタイミングで、このステップで、このタッチでディフェンダーを振り切ればいいんだよ、と。 圧倒的なテクニックの違いを見せつける。何度も出遅れて、何度も抜かれて、翻弄されて、悔しさだけを映していた瞳の色が変わりだした。仙道の 唇に笑みが走る。さすがオレの流川。その声未満の音を流川は拾ったようだ。「仙道」と、音になって返ってきた。何度も名を呼ばれ、その返答は 流川を包み込む奔流のような技巧の波だった。
 バックロールで流川のディフェンスを振り切り、ジャンプショットを決めたところでタイムアップだった。
 振り返ると、放心したような流川がいた。さー片すぞ、と、その肩をたたき 仙道はボールゲージを転がし倉庫のモップを取りに走った。渋々といった体は物足りないからだろうけど、下半身にきていてふらふらだ。自覚はある のだろう。黙々とモップ掛けをしている。コートをきれいにし総ての施錠を終え、挨拶を済ませて駐車場に戻った時には五時を過ぎていた。


 愛車のエンジンをかけてもヒーターが回るまでには少し時間がかかる。顔だけ洗って簡単に着替えを済ませただけだから、ブルっと身震いした 流川に仙道は自分のダウンをかけてやった。寒いわけじゃない。汗が冷えただけと言っても聞かず、さっき買ったホットココアを両手で持たせた。 自分は微糖のプルトップを引く。
「あまい」
「文句言うな。失ったエネルギー補給だ」
「で、あんたは微糖かよ」
「当たり前だろうが。オレが全力を出したとでも?」
 からかうと、大き目のダウンに包まれた雪だるまみたいな格好で睨みつけるものだから、眉毛も目じりも下がって仕方ない。
「なにニヤケてんだ」
「いや、結構楽しかったなー」
「あんたの余裕、いつんなったら奪えるんだよ」
「そう焦るなって」
「中学卒業したら実業団、行けんだろ」
「無茶苦茶言うな」
「オレもここで、やる」
 チビチビ飲んでいたココアが口の端を汚し、それをペロっと舐める舌先に、仙道の中で急ブレーキがかかった。そうだな、と至って長閑に、
「ちゃんと高校行って大学行って、それからもっと上を目指せ」
 告げると、
「じゃここでやってからNBAに行く」「あんたぶっ潰してから行く」と畳みかける流川はココア缶をドリンクホルダーに退避させ、ふわり とダウンを脱ぎ棄てて仙道に抱きついてきた。薄いTシャツ越しに互いの心音が重なり合う。何度もあることでない。練習後の冷めやらぬ熱の処理に 困り、自ら煽った高いテンションのたどり着く先は仙道だけだと流川の躰は言っている。
「早くそんな日が来るといいな」
 心底思う。だから、ふんわりと流川を抱きしめた。
 いつもならそれで満足するものが、流川は抱え込まれた腕を外し伸びあがり、総ての体重をかけて仙道の首筋に縋りついてきた。狭い車内でシートが 背後で後ろはない。流川の背中を抱いていた腕は、反動で宙を流離い行き場を失った。それに気付いて流川はさらに腕の力を強めてきた。
「オレ、仙道のこと――」
 あまりにも脈絡のない、けれど総てに直結するその言葉の続きが恐ろしくなって、仙道は流川の後頭部を押さえて己の胸に顔を埋めさせた。なのに 構わず胸板の上で吐き出されたそれは、早まる鼓動となって答えを返す。言葉に窮したままなにも言えなかった。けれども、 バクバクと脈打つ心音はその合間を埋めるに十分過ぎたはずだ。
 ひとつ大きく息を吐いて仙道は答える。なんの感情を込めればいいのか分からないまま、そう告げるしかなかった。
「オレも流川が好きだよ」
 なにか紗幕の張ったそんな言葉でも仙道の口から引き出せて満足したのか、流川は仙道の胸を押して顔を上げた。いままで戦い続けてきたで あろう強い視線に、いままで培ってきたものが崩れる音を聞いた。
「オレの好きは、あんたのと違う」
「好きに違いなんかあるもんか。同じだよ。オレがおまえが大事だし、おまえのために強くありたいと思うし、ずっと前を走り 続けようと思ってる」
 流川は両手で仙道の頬を挟んだ。大きくなったなと、まだ思う。強い男になるんだろうなと。もう少しすれば、バスケ界の至宝とか十年にひとりの 逸材とか、将来を嘱望する扱いを受ける。出会った頃から顕著だった。仙道の存在が流川の成長を少し早めたかもしれない。狭窄ぎみの目に映る ものが仙道だけだとしてもいずれ視野が広がる。それまで大事に育てようと慈しんできた腕を、流川は抱きにきた。 嘘や言い繕いや言い訳やお為ごかしなど、通用する状況じゃないのは承知している。
「おまえだけだよ。こんなこと言うの」
「情なんか、いらね」
 途切れがちな声に泣きそうになった。
「ムツカシイこと、言うんだな」
「あんた、オレだけのもんじゃないから」
「おまえだけを見てるじゃないか」
「一度だってオレだけのもんだったことなんかねーよ」
「おまえ強欲すぎるよ。どういう状態だとおまえだけのもんだって言えるわけ?」
「全部だ」
「あのな」
「てめーの全部」
 なぜいまなんだろうと仙道は思った。いままで封じてた想いが堰を切ったように流川自身も飲み込んでいる。言葉に酔って身動きが取れなくて、 こんな駄々は初めてだった。仙道が練習している場所を見たいと言った。いままでのエリアを飛び出して、片道二時間近くかけて時間を浪費して。 その非日常が流川の背中を押したのだろうか。
「どんなにつながりが深くったってオレはオレだし、おまえはおまえだ。常識的に考えてみろ。オレの全部欲しがってどうするんだよ」
「オレは知ってるから」
「なにを」
 ヤバいと思った。引くに引けなくなる。にっこり笑って言葉を探せば、無理を承知でねじ込む真摯な瞳が間近にあった。流川は可能か 不可能かの話をしているんじゃない。普段はひとの気持ちなんか読み取る器用さなんか欠片もないくせに、ことこの件に関しては執拗だ。
 そして確信していた。
「あんたがためらうのは、オレが男だからか?」
 だから直情的にそんな言い方ができる。精神衛生的にもこれ以上続けていられない会話だった。
「……」
「だったらやめる。もうあんたにンなことしない。その代わり、あんたもオレに気安く触んな」
 オールオアナッシングのこの論理展開は相変わらずだ。いつになく饒舌な自分に多少は驚いているのだろう。こんなふうにすがりつかれて次は脅迫 されて、流川の成長速度を読み違えていた自分の愚かさに全身の力が抜けた。何年も何年も温め続けた想いは、流川の知らないところで熟れ きっていた。一気に噴き出し仙道の躊躇いを飲み込んで、必ず流川の手の中に落ちる。
 そう確信した。
 それともこれは己が無意識に望んで導いた結果なのだろか。
「触っちゃだめか。そりゃそうだな。けど、つい、触っちまうんだよ。おまえ、可愛いから」
 返る愛情を期待して慈しんできたわけじゃない。だが、触れるその手に帯びる熱に満悦だったのも事実だ。
「可愛いか、オレ?」
「ああ」
「オレが可愛いから触んのか?」
 いまの流川は間違いなく仙道が育てた。
「好きだから触れたいんだよ」
「じゃそれ以上触んないのは、オレがガキだからか?」
 仙道は曖昧さではぐらかさなかった。そしてどちらもそうだとは断言していない。
「そう、だな」
「じゃ、いつまで待てばいい?」
 トコトコとリンクする命の音。溢れそうになる想いは背中だけを抱く腕が、もの足りなくなってしまっている。出逢ってもう四年。ずっと仙道だけを 見つめてきた想いが、どこか間違っているなんて考えはない。バスケを好きになったときと同じだ。ほかで代役なんか務まらない。
 ほんとうに望んでいること。
 仙道が小さく息を吐いた。
「ひとは変わるんだよ、流川。変わってふつうなんだ。おまえはオレ以外のケイジャーを見ようとしないから、そんな憧れが恋愛感情と ごっちゃになってるだけなんだよ」
「言うことはそれだけか」
「あと二年もすれば、自然とオレから離れてくだろうしなぁ」
「二年だな」
「そういう意味じゃ……」
「二年間、ずっとオレがおまえのこと好きだったら、オレのもんだな」
 どんな情熱的な女の子にだって、これほど熱っぽくコクられたことはない。そしてこの揺るぎない自信もだ。何処から沸いてきたものでもない。 仙道自身が流川に与えてきたものだ。
 あんな小さかった手が同じように節の高い男のものとなり、声の質が変わり、プレイに幅と重みが増し、なのに一向に変わらない強い瞳。いつも 全身で想いを伝えていた。そこに己だけが映るように仕向けてきたのは他ならない自分だ。自制は利く。大切な ものだから腕の中に閉じ込めておきたい。だれにもやれない。言いきれる。
 今度は仙道が流川の頬に両手を添えた。
「いいだろう。二年。待っててやるよ。こっちが驚くくらいにでかくなれ。タイトルのひとつやふたつ、ブン取ってこい」
「待っててやるのはコッチの科白だ。あんたこそ、せいぜい、ふんじばっていまのポジション、キープしとくんだな」
「くそ生意気な」
 これは契約だと、仙道は流川の頬に唇を寄せた。あえて唇を外したのはなけなしの理性保持のためだ。口づけてしまっては、 己の理性がどうぶっ飛ぶか想像できない。そのあと、すぐに躰を外したのも。だから敢えて目を見て告げた。
 そう思ってロックをかけたのに、聞きわけのない子どもは離れた距離をすぐにつめて、目をつぶれと脅してくる。やばいと思う間もなく両手が仙道の 肩に投げかけられる。言われたとおりに目を閉じなかったのは、流川を諌めるためだ。なのにそれすら簡単に乗り越えてくる。後ずさる暇はなかった。 仙道の気持がどうであれ、流川はそう動くのだと思い知らされた。
 少年っぽさがまだ強く残る硬質な表情のまま流川は口づけてくる。ふわりと合わさりすぐに離れ、二度目は少し角度を変えてきた。押し当てるだけの、 なんの情感も呼び起こさない拙さに全身が痺れた。これ以上深く触れると離せなくなる。軽く音を立てて唇を離しても流川は追いかけてきた。 これじゃ持たないと仙道は思う。会うたびにこれじゃ先が思いやられる。
「おまえが好きだ」
「ちゃんと知ってた」
 そう笑った流川のファーストキスはたぶん、ココアとコーヒーの混じった味だった。






continue




写真素材  夏色観覧車さま