流川の家から車で五分ほど走った場所にある市立の体育館は、主に平日の夜間、全フロアを各種球技の個人練習用に開放している。 曜日と時間帯によって球技の種類は別けられているが、市の教育委員会スポーツ振興課や、体育連盟、各競技連盟からボランティアの指導者も参加し、 かなりの活気をみせていた。 きょうは週一度のバスケの日。ウォーミングアップの域を脱しないものから、本格的な試合形式のものまで、三面のコートはフル稼働だ。 なんの縛りもなくそれぞれが自分のレベルに似合ったコートで練習すればいい。以前から実家に帰ってきたときの調整に利用していた仙道からすれば、 数百円の入場料で気軽にコートを使える貴重な場所だ。昔とった杵柄の主婦や運動不足気味の社会人、そして同じような現役ケイジャーまで、 レベルや顔ぶれはバラバラでも、バスケ好きならだれとでもチームが組める場所だった。 ただやはり、平日とはいえクリスマス。いつもは大抵満車の表示を示す地下駐車場もきょうは余裕があるようで、体育館へ向う人影も疎らだった。 満員盛況なときだって、バスケ界のスター選手が地元の体育館にひょっこり姿を現しても、練習するために足を運んでいる彼らは冷静でいてくれる。 ただ遠巻きに眺めるだけだったり、逆に積極的にパス出しを手伝ってくれたりする体育会系気質が有難い場所なのだが、流川が一緒となると人が 少ないに越したことはないだろう。流川は絶対によそ見なんか許してくれないからだ。 あちこちに挨拶したり愛想を振りまくだけで、たちまち機嫌が急転直下なんて場面、ここじゃなくても何度もお目にかかっている。 無愛想で可愛げがなくて乱暴で、おまけにせっかちで、しかも強欲ときている。 ただし大変だなと思う前にもう、その性質を丸ごと抱え込む気でいるから、一番厄介なのは自分の方だろう。 シートベルトで固定している車の中ででも落ち着かない短気者は、体育館の正面玄関に到着するなり飛び出した。仙道の腕を振り切りダッシュをかまし、 流川の母に言うお礼も慌てなきゃならない始末だ。流川の母は慣れたもので、息子の背中を見送ったあと小さなため息をつき、車を降りようとする 仙道を止めた。 「仙道くん」 ごめんね、と告げられ振り返った先にある彼女の表情は固かった。 「親でさえも手を焼くあんな加減ってものを知らない子の相手してくれて、ほんとに感謝してます。ありがとう」 「そんなに畏まらないでください。オレだって楽しんでやってることですから。それに流川はちゃんと我慢強いですよ。じっと待っててくれてます」 「それは相手が仙道くんだからよね」 と、色々と手を尽くし言葉を尽くして愛息を宥めてきた母の声は小さかった。 「こんなこと頼めた義理じゃないし当たり前なんだけど、仙道くんの都合を最優先させて、ダメなときはダメって、はっきりと言ってやってね。 ウチでもくどいくらいに言い聞かせてるんだけど、あまり効果がなくて。子ども相手に残酷なお願いなんだけど」 「まあ、どうしたって流川の願いを丸ごと叶えてやれそうにないですからね。オレの都合どうのよりも流川の、必要以上の背伸びの方が怖いんですよ」 「そうなのよ。熱心なのは前々からだったけど、近頃は更にヒートアップしちゃって。練習、とっくに終わってる時間なのに、帰って来る時間の 遅いこと遅いこと」 「でしょうね。オレとしましても、いまの年齢でこれ以上無理させたくないんですけど」 「ほんと、ジェットエンジンとターボ、積んでるみたいなものだから」 彼女の嘆息は母として当然のものだった。 「自宅用のボール、取り上げちゃおうかとも思うわよ。ウチ、小学生のクラブチームとしては練習量の多い方だし。それなのに終わってからまだ練習とか、 ちょっとね。背伸びばかり一人前で、終いには怪我するよって脅しても、ふーんだし」 流川母の物言いに苦笑しながらも、この流れから言えば謝らなければならないのはオレの方ですと、仙道は頭を下げた。 「どうして?」 「オレが焚きつけたみたいなものですから。元々熱心だった子をさらに」 「そうじゃないでしょ。目標ができたのよ。小3が、恐れ多いことだけど」 「そう。流川はオレに憧れてるわけじゃないですからね。本気で挑んでくる。だから、暴走しそうになったら、オレが流川の楔になります」 「仙道くん……」 もう、そう決めましたから、とニッコリ笑んで仙道は車外に出た。 バスケコートが三面張れる第一競技場は、駐車場の状況よりも思った以上の人数で賑わっていた。ぐるりと見回すと常連の姿もあり、 よく見かける協会の役員さんにちょっと頭を下げた仙道は、出入り口から一番奥のコートのボードの真下につっ立って、フープの高さを 見上げている流川を見つけた。 二面は完全に七号球仕様の練習コート。残るひとつは女性や中学生向けにと住み分けてある。流川が立っていたのはそちらのコートだったが、 それでもフープまでの高さはミニバスにはない一般規格、3m5cm。流川の知るそれよりも45センチも上にある。 またこの子は、と仙道は苦笑した。 高校生らしき女の子たちがレイアップの練習をしているスペースを大きく避けて仙道が移動している間に、流川は一歩二歩と後ろに下がって、 シュートの角度を確認している。首が痛いほどに見上げなければならなかったものが、上目遣い程度までに下がって、そのあまりの遠さからか、 心なしか落ちる小さな肩。いま、この高さを視野に入れる必要なんかないのに、目の前にある壁を素通り出来ない。どうにかして突き崩さずには いられないんだろう。 真横に並び、流川の視線の先を追った。 「高いだろ」 「公園のより、ちょっと高いだけだ」 「ま、公園のは正規の3on3用のコートでもない限り、結構いい加減な高さ設定してるけどね」 現実を受け止めて、うなずくでもない流川は見上げたままで言う。 「仙道はあれにもダンクするんだな」 チラリとも横を伺わない言葉は硬い。 「そだね」 「わかった」 なにが分かったなのか、簡単に理解出来るからここは絶対に神妙にしておく。たぶん、流川はいま考えられる唯一の方法で身長を伸ばしにかかるだろう。 無難に乳製品に行くか、逆に渋く小魚か。牛乳をチビチビと飲むシーンよりは、泣く泣くカタクチイワシを食む流川の方が見た目には可愛いかも しれない。いつまでも口の中が魚臭くって、きっと驚くんだ。もしかしたら両目が漫画みたいにバッテンになって、くえって鳥みたいに唇が尖がってとか。 そう、そう。結局何が欲しいか言わなかったクリスマスプレゼント。ウヤムヤになったけどおさかなソーセージはどうだろう。カルシウム強化の―― とニヤケそうになった仙道は慌てて表情を引きしめた。本人を目の前に、気取られたら、脛を蹴りあげられるような妄想だ。 「おや、仙道くん」 慌てて背筋を伸ばした仙道に穏やかな声がかかった。ゆったりとした歩調で近づいてくるのは、たしか県スポーツ振興審議会のお偉いさんだ。競技 バスケの担当の方だから、仙道も何度もお世話になっている。神奈川全域の統括責任者が、地区大会でしか使用されない地域の体育館に視察もないだろう と思っていたら、 「バスケ界のスーパースターがたまに顔を出すって噂はほんとうだったんだな。きょうは藤沢に用事があったから寄ってみたんだが」 と、ふくよかな顔をさらに崩し、ほんとに会えるとは思わなかったよと笑った。 「調子はどうかな。年明け早々にはT自動車の合宿に参加するのだろう。それが終わると同時にAチームの招集だ。君も忙しくなるね」 「あ、はい」 「剥離させたとか聞いたが。利き足だったか?」 「いえ、はい。大事ないです」 「そうか。君は極端に怪我の少ない選手だから驚いていたんだよ」 はい、ども、気をつけます、と頭をかこうと上げかけた手に重みを感じた。この役員さんが近づいてくると、そっぽを向いて離れていた流川が仙道の ジャージの袖をぎゅっと掴んでいるのだ。目線を落とすといつものへの字が一層厳しく引き結ばれていた。珍しくも年相応の稚い仕草。一瞬固まって こういう眺めもいいなと思う。つい、その小さな握りこぶしに手を添え掛けて慌てて引っ込めた。 調子に乗ったらえらい目に合う。仙道はコホンと声音を整えた。 「大丈夫だよ。ちょっと疲労が溜まってただけだから」 「だれもきいてねー」 「そお?」 たちまちプイと顔を逸らせたけれど、いまのは完全に心配してくれたのだろう。咄嗟に袖に縋りつくほどに。そしてその手をまだ離せないくらいに。 閉塞的だった流川の意識は全方向から仙道に向けられていて、恐ろしい勢いで開かれているのではないだろうか。ただ、誰かを気遣ったり 心配したりする機会がなかったものだから、言い当てられたとしてもその後のフォローにまでは及ばない。 「おや、弟さんかい?」 「そんなもんです」 流川に気づいた役員さんは、優しいお兄さんがいていいね、と躰を折り曲げた。驚くことに仙道の袖の皺がいっそう深くなる。人見知りとか緊張とかキャラが違う だろうと思っていたら、やっぱり。先ほどよりも半歩前に出て、キリっと顎を上げている流川のなんて勇ましいこと。いい加減話を切り上げろという 意思表示にも取れたけれど、流川の嫌う、まだ見ない大人の世界に引きづり込まれる仙道を奪い返そうとしているような。その方が近い気がした。 「君もバスケをしているのか?」 「してる」 「何年生?」 「三年」 「ちょうどミニバスの募集がそのころか。将来は仙道くんみたいな選手になるのが夢かな」 「チガウ」 「え、そうか。他に目標の選手がいるんだね」 「ぶっつぶすあいてだ」 「始めたばかりなのに威勢がいいね」 役員さんは弾かれたようにカラカラと笑い流川の頭をなでようとした。ヤバイ、流川の地雷原だ。慌てて暴挙阻止に動いたが、意外にも 役員さんのその手を素早くすり抜けた流川は、仙道の背中に回り込んだ。最悪の事態を想定して、羽交い絞めにしようとした宙ぶらりんの仙道の手は 必要なかったようだ。 「えっと。夜は小学生があまり来ないからね。ゴールポストをミニバス用に設定してないだ。なんならこっちの分だけでも高さを下げるように 頼んでみようか?」 間がもたなくてちょっと困って、同じように浮いた手を持て余した役員さんが申し出てくれた。お礼を言う間もなく、仙道の躰の影に隠れた流川の 即答。 「いらね」 反対側を向いていたこともあり、その小さな三音節は役員さんには聞き取れなかったようで、仙道はちょっと大げさな身振りでお願いをした。 「いえ、ありがたいです。下げてもらえると助かります」 「いらねぇから、早くしろっ」 仙道の気遣いも空しく、きっちり振り返った流川は傲然と言い切る。 「あのな、こんな高さで練習したって意味ないだろうが」 「時間」 「聞けよ、流川。いま出来ることをきっちりこなしていくだけで十分なんだよ」 「仙道……」 「何度だって連れてきてやるから。雨だって寒いのだって、平気だし。公園よりも快適だろ」 言葉を選んだつもりなのに流川の顔が曇り伏せられた。尖る口先は、はっきりと”どあほう”を形どっている。納得できなくても言い聞かせなければ ならないこの判断は誤りじゃない。けれど、このとき改めて痛感した。流川の気持ちをとことん読み間違えているのだと。いまも、その後も、いつも。 いつも。 「時間、ねーのにっ」 そう言って時計を指差した流川の小さな声は悲鳴のようだった。あ、そっちかと気づく間もなくみぞおちにめり込む小さなのストレート。 フルスイング出来なかったから大した威力はないけれど、不意打ちだったから、ほんとうに痛い。一発殴って流川はさっと背を向ける。練習用ボールを ゲージから取り出して、そのままドリブルで目指すゴールポストへ。その怒りマークもあらわな背中を大人ふたりは茫然と見送った。 「いや、なんて言うか」 役員さんは目を白黒させている。 「なかなか、激しい弟さんだね」 「す、すみません。乱暴もので」 オレが悪いんですけどね、と頭を下げ腹を両手で押さえた情けない格好で、仙道は少年の後を追った。 ごめんと安易に謝らないことにした。その代わりジャンプシュートの練習をする流川にボール出しをしながら、ひとつひとつのフォームに細かい チェックを入れた。膝や肘の角度。仮想敵を想定したターン。ボールのスピードに躰が流れないように、流れを断ち切らないように。そのひととき、 仙道は珍しくも寡黙なコーチになった。せめてものお詫びの印だ。 「いまの届きそうにないボール。一度引きよせてすぐに立て直す」 「わかった」 「その一歩が遅い。いまのをもう少し早く出せれば、パスミスに見えたボールでもシュートに行けるんだ」 「……」 「そう。いまの感じでもう一度」 何度も何度も反復練習を重ねた。 次第に呼吸があがり、頷くしか出来ない流川も素直な生徒だった。 いままでみたいに、しょっちゅう、会えなくなると思うんだ――とクリスマス前のあの日仙道が放った言葉が流川を支配している。次の約束はたぶん A代表の親善試合が終わったあとくらい。三か月は先の話だ。その事実はまだ告げていない。恐ろしくて言えない。正月三が日、一、二時間くらい なら都合がつく可能性にかけている。 お気楽であるはずの大学時代も相当忙しかった。社会人になる来年はその比ではない。だからと言って、出来きもしない約束をするなとは 思わない。ひたむきなあの視線は、仙道とのバスケだけを捕えているからだ。 無理をさせてはいけない。けれど会える時間は大切にしなければいけない。一分たりとも無駄にしない。もうしない。いったいどちらを優先させるの かと問われると、それはもう、流川の母に手を合わせるしかない仙道だ。さっき、あんなにはっきりと約束したのに、舌の根も乾かぬうちとはこのこと だろう。 体育館の解放は九時まで。だが流川の就寝時間とあしたを考えて刻限は七時半としてあった。その時間を待つまでもなく流川の足が止まり出した。 当然だろう。五時過ぎからほとんど二時間。水分補給だけで大した休憩も取らずに、ぶっ続けでシュート練習をしたのだから。 「――あっ」 とうとう間に合わなかった。仙道から出されたボールが指先を弾いてテンテンと転がる。それを追いかける気力も残っていない。両膝に置いた 手がどうにか躰を支えている状態だ。この場でいますぐ抱きかかえてやりたい衝動はけっこう激しかった。本人が聞かないからと言って、流されすぎもいいところだろう。 なにが楔だ。なにが教育学部だ。しかし、仙道が底なしの罪悪感に苛まれているのに、至って本人はご満足らしく、「もうあがろう」と声をかけると、 素直な頷きが返った。 コートに一礼しロッカールームで手早く着替えをした。流川は座り込んで母親に迎えに来てくれるように電話している。屈みこんだ仙道は、 走り書きしたメモを渡した。漢字が難しくて流川には読めない。ふたつの施設とその電話番号の控えだ。 「おまえの家に近い整骨院」 「せいこついん?」 「そう、リハビリとかの病院。肘とか膝とかに違和感感じたら、お母さんに言って連れて行ってもらうんだ。どちらもスポーツトレーナーの資格も 持ってる先生だから、よく見てもらえると思う」 「そんなん、行ってるヤツだれもいないけど」 「近い将来絶対必要になる。あした痛むかもしれない。疲労の蓄積を舐めたらだめだ。いいか、ケアは絶対に怠るなよ。怪我に泣きたくなかったら、 心しとけ」 「わかった」 いま、アタフタと車を出す準備をしている流川の母に、気持はあります。十分に。でもオレの楔はこんなナマクラ仕様です、ごめんなさいと心の中で 謝った。外は寒いから総ガラス張りのエントランスとその先の道路も見えるベンチに、ふたり並んで腰掛けた。たぶん十分待たずに迎えは来るだろう。 「疲れただろう」 「うん」 めったに聞けない泣き事が揺れる。ついでに上体も揺れる。とうとう睡魔が襲ってきたか。寝てていいよと言うと、流川の頭が肘にあたった。そして 消え入りそうな小さな呟きが仙道を包む。 「仙道」 「ん?」 「すげー、たのしかった」 「そっか。よかったよ」 「こんなに、れんしゅう出来たの、はじめてだ」 「ちょっとやりすぎだけどね」 やっぱ、オレ、と言ったあと頭が落ちた。プレゼントと聞きとれた言葉を必死で拾う仙道だ。 「プレゼント。なに?」 「おまえ」 「え?」 このときどれほど鼓動が跳ねあがったか流川は知らない。ひっそりとしたエントランスは最低限の照明しかなく薄暗く、「おまえ」と言い放った 言葉だけが強く辺りに反響した。手に入らない玩具をただ欲しいと、ダダを捏ねているのであれば、まだ救われるものを。 けれど流川は重ねる。 「仙道がほしい。ほかはいらね」 「もうおまえのもんだけどね」 「ぜんぶ。あいてる時間、ぜんぶだ」 眠気が勝る子どもは正直なのか素直なのか。どちらにしても流川の気持ちはいつも仙道の遥か先をゆく。肯定の印として仙道は流川の指に自分のそれを 絡めた。小さな手はしっかりと握り返してくる。 「たぶんあれかな」 体育館前の道路が明るくなった。流川家の車のヘッドライトが近づいてくるのをふたりして眺めていた。 continue
写真素材
夏色観覧車さま
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