街中のどこを歩いても「ジングルベル」と「ラストクリスマス」と「クリスマスイブ」が延々とリプレイされている日の 夕刻。藤沢市某公立小学校三年流川楓――ミニバス所属――は、自宅のリビングのソファの上にデンとエラソウに 胡坐をかいた状態で、壁に備え付けてあるインターフォンを睨みつけていた。 身じろぎひとつせず、それこそ息も詰め眉間にシワを寄せ、まるで結跏趺坐した不動明王のごとく様相で口から火でも 噴きそうだが、達観していないのはアリアリで、への字に結ばれた唇からは、内心でトグロを巻いた忸怩たるものがいま にも零れ出そうだ。 曰く、おせぇ、と。 約束の五時まであと五分。きょうのアイツは、いったい何分遅刻してくるんだろう。 腕の中には愛用の五号球。小学校のミニバスクラブに入部すると決めたときに、クリスマスプレゼント前倒しで欲しがった宝物だ。 カード収集にも携帯型ゲームにも興味を示さなかったひとり息子が唯一見せた執着。後にも。おそらく先にも。 こんなのでいいのかしら、と不安になれば、あら、流川さん。なにかにつけてゲームゲームって新しいのを欲しがるより、 ずっといいじゃないですか。休みの日のウチの子なんか一日中ピコピコやってるんですよ、と 同級生のお母さんに羨ましがられたりした。ましてや、公園でつるんで遊んでおいて、滑り台の下を陣取り、互いが黙ってゲーム 機に向かう姿なんか、ちょっと違う。それでもアレも立派なコミュニケーションツールのひとつだ。なにもないでは、 昨今の小学生はやっていられない。 その唯一の宝物。握力を鍛えるためか、ただの癖か。小さな手の指を 思い切り広げて、それを潰す勢いで押さえ込んでいる。かなり偏屈で扱いづらい持ち主のイライラを受け止めるものは、 悲しいことに、いまはこのボールだけだった。 流川家リビングのカラクリ時計の長針がまたひとつ進んだとき、洗濯物をたたみ終えた母が入ってきた。 「あんたね。遠いところをせっかく来てくれるんだから、会っていきなりそんな仏頂面見せるんじゃないわよ」 乾いたタオルでプチ不動明王の頭を叩いても、無我の境地入りしている息子はピクリとも反応しない。 「仙道くんには頭が下がるわ」 クリスマスよ、クリスマス。あんた、ほんとに感謝してんの、と小言を言っても右から左。意識の中にあるのは、あの インターフォンのみ。 耳に入らないどころか、家電が立てるノイズくらいにしか認識していないだろう息子の頭を人差し指で小突いても、起き上がり こぼしみたいな妙な反応が返るだけだった。ムゥっと口を尖らせた母の渋面も、乾いたタオルを一枚、息子のスポーツバッグ にしまい込もうとして、つい笑み崩れた。 入学して三年。何度言っても忘れ物は一向に減らないし、第一それを調べるお便りや連絡帳すら学校に置き忘れる モノグサものが、シューズとクオーターパンツとTシャツと水筒だけは自分で用意できている。 晴れて幼稚園児となり、早起きが必要になったころから、早く起きなさい、早く食べなさい、早く着替えなさい、忘れ物はない、 の連呼で、通学前の流川家のリビングは毎日が修羅場だった。小学校も低学年のうちはそんなものだろうと諦め、三年生に なって朝練のあるバスケ部に入部したいと聞いたときは、正直眩暈がしたものだ。 「分かって言ってるの、楓。いまよりも一時間は早く起きなきゃなんないのよ」 「おきる」 「あんた起こすために、いま以上の時間がかかるのは、お母さん、イヤだからねっ」 「ひとりで、学校へ行ける」 「ウソばっかり。毎日毎日おんなじこと言わせてるひとが、イキナリちゃんと早起きできるわけがないじゃない」 「ウソなんか言わねー」 ガンとテコでも動きそうになかった。いったいだれに似たのか、この頑固さ。眉間を押さえて母は続ける。 「バスケ部、厳しいらしいよ」 「しってる」 「ふうん」 そう。知ってるんだ。だったら、朝練サボってばかりだと辞めさせられるし、なによりもヤルとなったら多少のこと じゃ練習は休ませない。三年生だからってだれが甘やかすもんですか。ベッドから転がり落としてでも起こすからねっ、 と啖呵を切った流川母。ひとり息子は十分母似だと父あたりが思っているとは露知らず。 まぁ、当初はやれるもんならやってみろ、と、ばかりの開き直りだった。 当たり前だけど生まれてからのお付き合いだ。 生後一カ月未満の昼夜逆転のそれこそ一晩中泣き続けられた苦労や、好き嫌いの激しかった離乳食期や、 極度の人見知りで片時も離れられなかった気鬱や、トイレトレーニングでの手に汗握る死闘と攻防や、楓ちゃん、 少しもお遊戯してくれないんですと、泣きそうだった幼稚園のハナコ先生の顔とかが一気に蘇り、あんたのこと はなんでもお見通しなんだから、と仁王立ちしたい気分。 けれどけれど、子どもというもの、親の知らない間にいつの間に成長するものなのか、翌朝のリビングで、トースターに 食パンを入れている息子を発見して、流川母は腰を抜かしそうになった。 目覚まし、使えたのか、である。 「かえで……起きたんだ」 「たりめーだ」 声が裏返っちゃうのも無理からぬこと。ちゃんと飲むヨーグルトもコップに入れて、戦うアスリートとしては出陣の 用意万端だ。リビングのソファを見れば、チョコンとサブのバッグが置いてあった。これは昨晩、部活用にシューズとTシャツを 入れなさいと出しておいたものだ。 耳に念仏かと思ってたけど、ちゃんと聞いてたのね。 だが、しかし。ホロっとしたのはほんの束の間。哀しいかな、子ども部屋から降ろした荷物は、たったそれだけだった のだ。 このヤロウっ。 「あんた、ランドセルは?」 「あ」 「あ、じゃないっ。なにしに学校へ行くのっ!!」 叫び声を聞く前に脱兎の如く駆け出した我が子の背を見つめ、ひとつ成長して叱る種類が変わり、また成長して。 そうやって親も子も変わってゆくのだと母は微笑んだ。 それからというもの、この気ままなひとり息子は、いったいどこにこんな集中力が潜んでいたのかと、突っ走りすぎて 大丈夫かと心配するほど、バスケにのめり込んでいる。朝練も、遠足のある日に仕方なく休んだだけで皆勤に近い。 夕方も、学校から帰ってくると、おやつもそこそこに、ボールを背負って速攻で近所の公園へすっ飛んで行く。 その甲斐があってか、努力は均等に報われるというべきか、一度見に行った土曜日の練習では、ちゃんとバスケに なっていた。小さい躰を精一杯たゆませて、ちゃんとシュートの形になっていた。掴みきれない大きなボールに遊ばれて いるんじゃないかという杞憂は、大きなお世話だったようだ。 顧問の先生も大らかな人柄のようだし、よく目が行き届いているように見える。なによりも、あのモノグサ息子に 対して、マジメで熱心な子だと認識してくれるのは、この環境だけだったろう。 ほんの少し、違和感を覚えなくもないけれど。 学校の成績はお粗末でも、「もう少し協調性があったらねぇ」と、担任の先生から毎学期ごとに顔を しかめられるのもお愛嬌というものだ。どこで育て方を間違ったんでしょう、と思い返したり、反省したり。 けれど、顧問の先生にちょっと誉められたりでもしたら、もしかしてウチの子、天才っ。なんて考えが頭を かすめ、違和感なんかどこかへ飛んでいってしまう。 だからと言って、これでメシを食っていけると妄想するほど、流川の母も浮世ばなれしていなかった。 ただ、遠足の前夜でさえ嬉しそうな顔をしない息子が、ほんとうに分かりにくいのだが、朝練夕練にはりきって 出かけてゆくのだ。 モチロン、学校の勉強だって友だち付き合いだって、大事なのは分かっているが、それを上手に均等よくなんて 小起用な真似、どうもこうも望めそうにないのだから、ここは少し譲歩してみた。その辺りの物分りのよさが、ひとり 息子をあそこまでワガママにした所以なのだと、これも認識している。 もう少しペース配分を教えなきゃならないです、と言ったのはバスケ部顧問の近藤教諭だ。幼少期に筋肉を酷使し過ぎる と、疲労度合いに成長が追いつかなくなり、将来、怪我に泣く結果になるらしい。納得はしたが、あまり無理をさせないようになんて、 かなりムツカシイ注文だった。 なにせ、親の意見など右から左への、筋金入りのワガママ息子に育ってしまったから。 親が諭す以前から、休息や停滞なんて忌避してしまっている。部活のない雨の日、公園での練習を諦めさせるだけで、 こんなに苦労するとは思いもよらなかった。いっそ槍でも降ってくれないかと願ったものだ。なにはともあれ、悲喜こもごも、 夕方の公園練習も、相手がいようがいまいが、生活の一部に組み込まれている。 けれどいつ頃からだったろう。学校から帰ってからの公園での練習に、聞いたことのなかった名前が混じり出したのは。 「きょうはだれと練習したの?」 夕食前のそんな問いかけに、たいがいひとりとか、たまにタっちゃんとか、コータとかの返事が返ってきていた。三年生の 達也くんがちゃん付けで六年の宏太くんが呼び捨ては可笑しいのだけれど、みんながそう呼んでるらしいからスルーして いる。 リビングでやっつけの算数の宿題に取り組んでいた息子は、ほんの少しためらったあと、その名を口にしたのだ。 「仙道」 「仙道くんってどこの子? そんな名前の子、いたっけ?」 「キョウセイ」 「キョウセイ?」 夕食づくりの最中だったから、あとで問いただしてもそれ以上の説明はなく、話が全然見えてこなかった。 辛うじてキョウセイが教育実習生だと理解できただけで、その彼が子どもたちにバスケを教えてくれた学生だったらしい。 知ったいまとなっても、彼らの実習期間なんかとうの昔に終わっていた時期で、それもシツコク聞きだして導きだした結果だった。 大学生に個人指導。そりゃ、バスケオタクな息子は飛びつくだろう。けれど、忙しいはずの大学生が、そして、よくよく 注意してみればその仙道くん。大学選手権はもとより、国際大会などを知らせるスポーツニュースにも登場するような スター選手だったんだから、二度ビックリ。なんで小学生相手に、ウチの子にと、親としては、ただただ恐縮する限りだ。 「相手の都合なんかお構いなしに無理言ったんじゃないの?」 だからついそんな言葉になってしまったけれど、正直この子が駄々をこねて、強請っている姿なんか想像つかない。 もっともっと幼いころより、アレ買ってコレ買って攻撃に悩まされなかった母親は、日本中探せど、自分だけだろうと 思うくらい、おねだり下手なひとり息子だからだ。 「ムリなんか言わね」 そうね、とすぐに撤回。 「じゃアレだ。楓お得意の、無言の圧力ってヤツね」 言ってウンウンと頷く。こっちの方が真相に近いような気がした。 欲しい欲しいと声高に訴えなくても、黙ってじっとお気に入りのシューズなんかを見つめる楓の背中を見ていていたら、 喩えそれが子どもにとって不相応な高価なものだって、買ってあげたくなっちゃうのよね、と。 バスケを始めると聞いて、上から下までナ○キのフルセットを買い与えた――こんな物にまでこんなマークが、な 関連商品がズラリ。しかも消耗品だからと、スペア付きである――孫可愛さで目が曇ったお祖母ちゃんの弁だ。 さすが一人っ子は抜け目がないというか、周囲が先回りしすぎるというか。けだし明言。まさに正鵠を射ているのでは ないだろうか。 「んなん、オレのせいじゃねー」 それはそれで、ご尤もだ。 「アイツがヤクソクしたんだ」 息子は当然とばかりに胸を張った。 「簡単に約束って言うけどね。仙道くんはもの凄く忙しいひとなの。そりゃバスケに関わることだから、律儀に守ろうとして くれるんだろうけど。それにしたってきょうみたいな日に、拘束するなんて非常識よ。ちょっと遠慮ってもんを知りなさい」 「なんで? オレのクリスマスプレゼントなんだから、なんでエンリョがいるんだよ」 「プレゼントって、仙道くんがそう言ったの?」 ちょっと驚いて零れた言葉に、露骨にしまったという顔が返った。不意に心の内を覗かれたような、気まずそうな 世にも珍しい表情。それは、彼の訪れを心待ちにしている事実を知られたからなのか、クリスマスプレゼントと特別視した稚さを なのか。 実際、箸にも棒にもかからない完全無欠な小学生の、可愛げが零れたからといって、なにを狼狽える。だいたい、 三十分も前からインターフォンを睨みつけているものの気の逸りが、隠されていたとでも思ってるのだとしたら、可愛い ものだ。 でも。 「仙道くん。ほんとに楓のこと、よく分かってるんだね」 そう言うと、ものすごい勢いでそっぽを向かれた。舌打の音までした。なにをここまで過剰反応する必要があるの だろうか。 「ぜんぜん、なんも分かってねー」 「なんで。楓にとっては、一番のプレゼントじゃない」 「ふつーのことじゃないから」 「普通?」 呟かれた意味を取り損ねて、重ねて問おうとしたそのとき、待ち人の到着を告げる軽快な音が鳴った。 いや、ほんとうにびっくりした。玄関先に現れたニコヤカな青年は、TVや雑誌なんかで見るよりも数倍はかっこ よかった。彼にしてみれば、玄関ポストに備え付けてあるインターフォンのボタンを離すやいなや飛び出してきた子どもと、 その後ろに連なる保護者の勢いにスで驚いた顔を見せたものの、やはりスターと称される選手が放つオーラは非日常的だ。 ごくありふれたコン○ースのウォームアップジャージと同じブランドのベンチウォーマー。だから、けして目を惹く 格好でもないのに、あら、と言ったっきり、挨拶も忘れて見とれること 数秒。その仙道くん。母親の出現に、「初めまして」の「は」の字を口にして、さらにニッコリ微笑もうとした暇も 与えられず、痺れを切らしきっていたひとり息子に肘を引っ張られ、つんのめりそうなのだ。 コンニチハも、待ったも、ありがとうも、なんもナシ。イキナリのこの暴挙で、育てた親の顔が見てみたい、である。 「ちょ、ちょっと楓っ」 「あ、いえ、初めまして、お母さん。W大バスケ部の仙道です。こんな夕方からになっちゃいましたけど、帰りはちゃんと 送りますんで、心配しないでください」 慌てたのは仙道もだ。肘を死守しながら振り返る。 「ほんとにごめんなさいね。言い出したら聞かない子で。こちらこそ、お世話になっております、楓の母です。きょうは、 もう、ずっとこんな調子だったのよ。早く仙道くんに会いたくって仕方なかったみたいで」 「るせー」 「楓っ」 逸る気持は分かるけれど、なんという口の利き方だ。しかも、挨拶くらい、ちゃんとさせて欲しいものである。 「あ、いえいえ。オレもそんなに心待ちにしてもらえて光栄ですよ。ごめんな、流川。遅くなって」 あらま、とこちらが照れるくらいの笑みが息子の頭の上に落とされた。前しか見ずに、なおも仙道の腕を引く 彼には届かないものだ。こんなやわらかい視線に気づかないなんて、バチが当たるわよと言ってやりたい。 「仙道、早くっ」 「待ちなさい、楓。あのね、仙道くん。きょうみたいな日に、こんなこと聞くのはどうかと思うんだけど、もし予定が なければ、帰りにもう一度寄ってくださらない? 晩ご飯、一緒にどうかしら。ほんと、お礼ってほどのことはなにも 出来ないんだけど」 聞いて少し言いよどむ仙道よりも先に、息子の声が上がった。 「ヤだ」 「なによヤだって」 「んな時間、もったいねー」 「あんたねっ」 仙道が使える時間をめ一杯練習に費やしたいのだ。総てがこの調子なんだから、満足に休憩すら取らないのではないかと 心配になる。 「いや、お母さん。せっかくなんですけど、実家に帰らなきゃならないんですよ。あっちでも用意してるだろうし」 「あ、そうよね。親御さんも心待ちにしてらっしゃるわよね」 「母さん、もういいだろっ」 愛息は、そんな恐縮している時間すら許してくれなかった。 「はいはい。分かりました。寒いから気をつけてね。いくら照明がついてるからって、限度があるから。一時間 で帰ってきなさい」 えーっという不服そうな息子の声と、あのぉという仙道の申し訳なさそうな声とが同時に上がった。 「きょうは市立体育館の開放を使おうと思って。もうちょっと遅くなるかも知れないです。無理ですか?」 「いつもの公園じゃないの?」 「はい。ちょうどバスケの日なんですよ。メンツは色々ですけどね。現役から社会人まで。小学生は、いないかも」 「そっか。じゃ、車出すわ。歩いてくと十五分くらいはかかるわよ。帰りも迎えに行ってあげる」 「ほんと?」 この子、こんな表情も出来るんだと思えるくらい、子どもらしい煌びやかな目をした息子がいた。サンタさんの プレゼントとしてナ○キのベンチウォーマーを見つけたときとは比べ物にならない。 「早く練習したいんでしょ?」 うん、と頷き、今度は母親の腕を掴む息子。唐突だったから、肘から先が抜けるんじゃないかと思うくらい 痛かった。 「痛いってばっ」 「母さん、早くっ」 「あんた、ほんと勝手な子ねっ」 なにしてんだよっ。鍵がないと動かせないでしょ。早く取ってきて。と、そんな親子の攻防に、クスクス笑う仙道が続いた。 continue
写真素材
夏色観覧車さま
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