one


〜楓ちゃん、 初試合を経験する





 流川が走る。矢を放ったあとの弓のように躰をしならせ、風を巻いて呼び込んで流川が跳ぶ。相手チーム自チームの ガタイのいい上級生たちに混じり、脇をすり抜け先頭を切って。それはいままで鬱積されたものを解き放つような 走りっぷりだった。
 膿んだ展開を打破するために投入された三年生は、公式戦はもとより練習試合だって初めてだ。そんな状況で周りが 見えているのかが、ちらりと頭を過ぎった心配の種だったけれど、浮き足立つような可愛げが皆無なお子さまなんだと 気づいて仙道は頭をかいた。
 四年生ながらもスピードがあり上背もあるリョウが二番、流川は三番に入った。いきなり相手のパスミスで三線速攻の 形になった。ボールが味方一番の手に入ったのを確認して真っ先に飛び出したのは流川。六年生の一番から左を走る流川に パスがとおる。ボールを受けた際、痛めた指をかばう仕草はない。そんな素振りも見せない。「いけそうだな」と呟いた のは近藤教諭。仙道も頷き、そして彼らの目の前で、背後から追いついてきたディフェンダーを引きつけて、流川は 逆サイドのリョウにロングパスを放った。
「ナイスパスだっ」
 リョウはフリー。スリーは無理でもその位置からならシュートは決まる。チャンスだ。なのに、迷ったわけでもない はずのリョウの足が束の間、止まった。そんな些細なためらいを見逃すFクラブではない。戻りも速い。攻撃的な ディフェンスがリョウに襲い掛かった。あっという間にボールを奪われ、そのまま逆をつかれてのカウンター速攻だ。
「戻れっ!」
 ここでも流川の切り替えしは速かった。確実に二点。そう思ったあとのブレイクは頭に血が昇りやすいものだが、ただ、 スピードと勢いに任せて突っ走っているだけじゃなかった。もしかするとゴールとボールしか視野に入っていない可能性も あったけれど、それでも跳んでくるボールの軌道を読んだ流川は、二番から三番へ渡るはずのロングパスをスティール した。
「よっしゃぁっ」
 その爆発的な瞬発力には敵も面食らったようだが、しかし、奪ったそれを両手で掴むとすでにふたり、ぴったりと ディフェンスにつかれていた。流川を取り囲んだFクラブの一番はもちろん、二番も恐らく六年生。160を越す彼らと流川と ではミスマッチもいいところだ。上から抜くのは無理だろう。だれもがそう思い、流川も低く腰を落として沈んだ。 相手も当然それに対応する。逃げ場がない、早く回せと思う間もなく、流川は逆をついて彼らの頭上高くボールを放り投げた。
「おっ」
 そしてディフェンダーを置き去りにして脇をすり抜けようとする。しかし流川の足元に落ちるはずだったボールは、手許に 戻ることなく消えていた。上か横か、両方に対処できるように構えていた――やばいくらいにすげぇ――Fクラブの一番 にカットされてしまったのだ。
「ちっ」
「なにやってんだっ。楓っ」
「戻れっ」
 出会い頭にガツンとかます。メンバーチェンジのあとのカウンター戦法にしてはいい判断だと仙道も思った。いかに すげぇと誉めそやされた、かのPGだって小学生。まさか、このわずかな時間で流川の身体能力の高さを見抜いた訳でもないだろう。 ただ、流川の身長よりも学年よりも、チームの代表としてコートに立った選手が相手ならば、だれであろうと侮ったり なんかしない。喩えそれが練習試合であっても。そう教育された彼らの方が一枚も二枚も上だったのだ。
 勝てるチームとそうでないチーム。そこにあるのはほんのちょっとの意識の差だったりする。
「んなに簡単に抜かせてくれねーか」
「仙道。最初っからそれじゃ、最後までもたないぞ」
「あ、」
 近藤教諭に諭されて、気づけば仙道の腰はいつの間にかパイプ椅子から浮いていた。なんのことはない。一番力が入っていた のは自分だったのだ。自覚する間もなく緊張していたということで、こんなこと、バスケを始めた最初の試合だってなか ったと思う。
 はるか昔の話だけど。
 肩をすくめて仙道は腰を落ち着けた。
 Fクラブ一番に奪われたボールはバスケ教本どおりに二番にとおり、これまたキレイにレイアップを決められて、点数差は さらに開く一方だった。流川たちの投入で微妙に噛みあわない呼吸がさらに彼らの動きを堅くする。
「落ち着けっ。一本集中しろっ」
 近藤教諭が両手でメガホンをつくる。チームの全員が肩で大きく息を吐いた。押されている展開での次の攻撃は大事に したい。得点できるかどうかで流れを呼び寄せられる。ミスれば立て直しが難しくなる。まったく、見ているだけで胃が 痛くなるとはこういうことだ。
「ベンチって意外と辛いもんすね」
 素直にそう口にすると、真横の教諭はコートから目を離さないで返してきた。
「だろ。おまえもあまりベンチ経験はなさそうだからな。確かに試合に出てるほうが、ずっと気がラクだ」
「ベンチとコートじゃ視線が全然違うからなぁ」
「もどかしいか? オレならこう動くって?」
「そういうんじゃなくって、ベンチじゃ確かに冷静に見てられるし視野も広いけど、コートに立たないと分からない隙とか、 立って始めて気づく流れとかあるでしょ。それに――」
 ほら、仙道は指差した。
「あんなこと、出来ちゃったりする」
「おっ」
 彼が示す先、教えたこともないような複雑なステップを踏んで相手を振り切り攻める流川の姿があった。気負いが感じ られないのは、ただ、恐れをしらない子どもだからか。いや、それよりも戦局の突端は、仮にもスモールフォワードを 張っている己が切り開くと心しているからか。
 それだけではなかった。この位置が境界線だと教えたとおりの――流川が確実にシュートを決められる距離でその小さな背は きれいにしなったのだ。
「――」
 ボールがゆるやかな弧を描きネットをかする必要最小限の小さな音。仙道の位置からでは、大きく息を吐いた流川の 背中の緊張が少し緩んだのが見えただけで、その瞬間どんな表情をしていたのかさえも分からなかった。
 隣に座る教諭が大きく息を吐く。遅れて仙道もそれに習う。コート上では、大喜びの他の メンバーたちがハイタッチで迎える中、生意気で無愛想で素っ気なくてすげない手負いの山猫は、生まれて初めて出場した 試合での初得点だっていうのに、ベンチを振り返りもしない。
 けれど、仙道が口にした言葉は、彼の躰の中でちゃんと芽生えていたのだ。
「やりやがったぜ、あのヤロウっ」
「もうちょっと嬉しそうな顔しろっての」
「楓だからなぁ」
「そうですけど」
「あの子がはしゃぎまくってピースサインなんか出した日にゃ、それこそ赤飯もんだぜ」
「う〜ん、一回でいいから、それ、見てみたいな。赤飯食いたい。オレのいてる間に。それはそうと、流れ、変わります かね」
「このディフェンスを抑えればな。あるいは」
 なぁ、仙道、と教諭は彼の方へ視線を移した。
「楓によ。あんなステップ、教えたの、おまえだよな」
「いや、オレじゃないです。そこまで手が回りませんでした」
「なるほどな。試合に出しゃ、万倍も成長するタイプか。末恐ろしい」
「あまりにも幼いころから突出しちゃうと周りが見えなくなる、を地でいってますけどね」
「そう。アレをあんまり持ち上げすぎると他から浮いてしまう」
「本人は浮こうが弾かれようが知ったこっちゃないんだから、頭が痛い」
「なんだ、仙道。しみじみした顔して」
 なにに思いを馳せていったいどんな顔をしていたのか。横目で仙道を伺っていた教諭はそんな聞き方をしてきた。
「ええ。なんか、オレ、ほんとにバスケが好きだなって思ったりして」
「いまさらなに言ってんだ?」
「いまさら、ですね」
 けれどもそう再認識してしまうほどに、バスケが好きで好きで他になにも見えないくらいに好きな少年が、足掻いてなにかに 向って必死に手を伸ばしている姿に未来を重ねてしまう。いつか必ずと願う自分があった。
 いつか、必ず。いったいなにが必ずなのだろう。このままひとつのボールを追いかけ走れるところまで突っ走る自分の 人生の中で、関わってきた先輩たちやライバルたち。そしてその背を目標としてくれている後輩たち。後ろを振り返れば そこに必ず流川の姿がある、と確信できる。
 さて、息遣いが聞こえるほど間近に感じるようになるのは、いったいいつのことだろう。
 早く来い。
 そう遠くない未来に思いを馳せ、仙道はゆったりとパイプ椅子に背を預けた。確かにいままで、客観的にゲームを見る 機会なんかなかったからいい経験だ。けれど、これって客観的と言えるのかな。とても全体を俯瞰しているとは思えない 視線の先には、たったひとりがいる。
 たったひとりしかいない。
 ゲームは、その後一進一退の攻防をみせた。流川やリョウはその後も続けて試合に 出場しチームとしてはまとまりを取り戻し、よく食らいついていったと思う。それでも、強豪Fクラブを招いての定期戦は、 完敗に終わった。



「負けたけどいい試合だったと言っちまうのは簡単だ」
 練習試合終了後の総括は、近藤教諭のそんな言葉から始まった。よくやったと、お褒めの言葉があると思っていたのか、 言われた子どもたちはキョトンとしている。おそらく対Fクラブの 戦歴の中では一番手応えがあったのだろう。教諭の言葉は冷や水をかけるに等しいものだけど、確かにこれで満足して もらっては困る。
「つまらんミス。ちょっとした手抜き。たぶんみんな山ほどあったと思う。それを次の試合じゃひとりひとつづつ、 減らしていったら相手の得点が十点減る。こっちの得点が十点増える。二十点加算だ。欲ばったことは言わないから、 いっこでいい。ミスを減らせ。死ぬ気でボールを追いかけろ。ひとりひとりが自覚しろ。きょうので分かったろ。 そうしたら、おまえら、Fクラブに勝てるんだぞ」
 そう言って教諭は十六点差がついたスコアボードを指差した。
「先生。次の試合もリョウと楓を出すのかよ」
 分かったかの一喝のあと、そう言って口を尖らせたのは五年の、あの、ユウイチだ。リョウに変えられてしまったチームの 正二番。やっぱ来たかと仙道は思った。第一クオーターの最後からずっとベンチを温め続けでは、それは不満も残るだ ろう。
 彼自身、怠惰なプレイを取っていたわけじゃない。練習に来なくてもそれなりに動いていた。仙道もそれは認める。 けれど、あの諦めムードの展開を一掃するためには、彼じゃダメだったんだ。
「朝練に来ないヤツは使わないって何度も言ったな」
 教諭はユウイチと向き合った。
「なんのために練習するんだ? 勝つためだろ。簡単に負けを 認めないためだろうが。練習を重ねて得るもんは技術だけじゃない。強い意思と自信だ。コートに立ったときに感じる 不安をいったいなにが支えてくれる? 培ったもんの積み重ねと、同じように苦労して力をつけたチームメイトたちだけ なんだぞ。仲間は寄りかかるもんじゃない。支えあえるのは、ミスを補えるのは、お互いさまと言えるそれぞれの力が あってこそだ。おまえたちはこれから何年もバスケに関わっていくんだろ。そうあって欲しいと思う。だからこそ、そんな気概で 関わっていて欲しいと思うんだ」
 練習に来いと口を酸っぱくして言うのはそういう意味だ、と教諭が見回すと、理解しているのかいないのか、曖昧な うなずきが返る。熱血体育会系思考の持ち主には、なんとも手応えのない反応だ。しかし、どこも似たりよったりの 同じような悩みを抱えていると思う。このチームだけが特別なんじゃない。たいした努力もしないから得る喜び も知らない。だからなおのこと、楽しい方へ楽な方へと流れてしまう。
 その意識を子どもたちの根底から失くすのは、並大抵のことではないと仙道は思った。
「ま、いい。片付け終わったらきょうは解散だ。あしたはゆっくり休んで、月曜からまたがんばろう」
 近藤教諭がそう締めて全員で体育館のモップかけをした。ここでは掃除も道具の手入れも、下級生の仕事だという 認識はない。後始末を終えて部員たちがひとりふたりと帰ってゆく中、仙道は体育館の床にぺたりとしゃがみ込んで、 ついでに両足を投げ出した緩慢な動作で帰り支度をしている流川の真横に腰を降ろした。
「疲れたか?」
「べつに」
「初めての試合、どうだった?」
「どってことねー」
「どってことない、ね。相変わらずの大物発言だ」
「なにが言いてーんだよ」
「初試合だよ。その試合で初得点だ。それを仙道先生に捧げてくれちゃっても、罰は当たんないと思うけど?」
「なんで、オレが」
「一緒に大喜びしてあげるのにさ」
「いらねー」
「流川のケチ」
「うっとうしいヤツ」
「なんてひどい子っ」
「バーカ」
 シューズやサポーターを仕舞い終えた流川は、壁に体重を預けた格好で仙道の方を見ようとはしなかった。それでも 他のメンバーたちと一緒に帰る気になれないなにかが少年の中にある。分かる気がする。
 同じようにしゃがみ込んで壁にもたれかかり、流川と同じ視線でコートを眺めながら仙道は、まず、彼の目の前に 左手をつき出した。
 分かっていたかのように流川はその中に自分の右手をぽとんと落とす。テーピングを外した親指の付け根は、うっ血の 跡も生々しく熱を持っていた。
「また、腫れちまったな。痛かったろ」
「しあいのときは、ぜんぜん」
「必死だもんな。痛いのなんか気づかないくらいに。で、いまは疼く?」
「ちょっと。でも、ほんとに、いたくなかった」
 痛くなかったのに、抜けなかった、と囁かれた声は、灯りが落ちシンと静まり返った体育館に響き渡るようだった。 校庭からは少年野球の子どもたちの歓声が聞こえる。ボールを弾く金属音と指示の声と土を蹴るスパイクの音と、 そして声を殺した流川の絶叫とに包まれた仙道に、してやれることとはいったいなんだろう。
 いまこうして、流川の小さな手を優しくマッサージする役目ではないと思う。
「後ろからも取られた」
「横からもな」
「パス。何本もカットされた」
「だったな」
「シュートも、五本打って、三本しか決まらなかった」
 この子は、と、改めて仙道は目を閉じた。三本のシュートを決めたことはすっかり忘れている。ロングパスをスティールしたこと も、そしてやられたら同じようにやり返してパスカットしたことも。残るのは悔しい思いだけ。次に負けないために。
 やはりそれではあまりにも痛々しい。バスケをする喜びがこの子の中で存在しているのかと危ぶんでしまうほどだ。
 それでも仙道は告げなければならなかった。
「そうだ。おまえは決められなかった。この一本って場面でも、抜かれちゃならない場面でも、なんども負けた。 いい試合だったと思うけど、スコア的に見ても、おまえの中でも完敗だろ」
 流川の唇がキュっと引き絞られる。この子の将来を決定づけるような残酷な断罪になる。始めたばかりの子どもにそれは ないだろう。それでなくとも、危なっかしいほどの集中力を見せる流川のことだ。自分を追い詰めて、また無茶をして 怪我のひとつやふたつ、簡単に背負い込んでしまう。
 このひと言の責任をどう取るつもりだ、仙道彰。
 放った言葉は確実に仙道をも穿つ。
「言うまでもない。スモールフォワードは得点してなんぼだ。相手ディフェンダーを抜いて、その隙をつくって、 味方のパスを読んで決めてこそのポジションだ。相手のSFは六年だった。おまえは三年だった。そんなもの関係ない。 前も言った。シュート、シュートと拘るなら、どんな相手からだって奪い取れ。そのために考えろ。それが出来なかった から、きょうは負けたんだ」
「っち……くっしょっ」
「そうだよ、流川。おまえの人生の中で、これから何千回こなすか分からない試合の中で、これ以上ないってくらいの 負け試合だ。記念になるってもんだろ」
 忘れようにも忘れられないだろう、この日のことを。
 流川も。
 そして仙道も。
 にっこり笑って流川を見ると、パシンと音がするほど急に手を引かれた。その勢いで立ち上がり、ひと睨み入れたあと スタスタと体育館を去ってゆく背中が怒り一色で、仙道は深く溜息をつく。
 こういうのをなんて言ったんだろ。そう、サイは投げちゃったってことわざか。自分で投げてその目が決まっている んだからどうしようもない。ほんとは苦笑する場面なんだけど、楽しみな思いが勝つんだから、我ながら食えない性格 しているな、と仙道もその後を追った。






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写真素材  夏色観覧車さま