秋の日はつるべ落とし。小学校の二学期もつるべ落としだ。立ち止まって考えるゆとりも与えてもらえず、瞬く間に 過ぎてゆく。教育実習生仙道にとっても、この実習が終わり大学に戻れば卒論に匹敵するほどのレポートを提出しなければ ならない。いまから準備に取りかかって、ちょうどいい頃合になる。 担当教授は期限にも厳しいひとだった。 それでも気になるのは毎日関わってきたミニバスチームのこと。子ども相手のことだから、最初は毎日顔を出して 基礎のひとつでも教えられればいいと考えていた。そして次に頭をかすめたのは、二週間ぽっちでなにが残せるのかと いう思い。それも吹っ切れた。あと一週間。いまは、ひとつひとつの練習をきっちり見守ってゆきたい。 ほんとうに。 あのFクラブとの練習試合後の最後に放った近藤教諭の一喝は、さぼり組の意識をそうそう改善されるまでには至らなかった。 それでも子どもたちなりに努力の跡は見せているのだろう。欠席者四人が三人に減り、連日欠席が減り、ほんの少し上向き だなと感じる。 そんな中でもなんら変わらないモチベーションを維持しているのはやはり流川だったが、キチンと練習に出てくる 部員がふえたことで、彼と接する機会がかなり減ってしまった。 モチロン喜ばしい限りだ。近藤教諭の満面の笑みに、どうかこの調子が続きますようにと心底願っている。指導者にとって、 手応えが返らない毎日の連続は本当に堪えるだろうから。それでも、仙道にとって目に映る子どもたちの姿が増え、 ひとのいいお兄さん先生扱いから本気で指導を請う相手へと格上げされても、真っ先に探す姿はひとつだ。 そしていつだって目の端に映っている。 「先生、先生。オレのフォーム可笑しくない?」 「シュート、決まるよーにするにはどーすりゃいいの?」 「ずーっと同じ高さでドリブルなんて無理だよ」 その日の練習後も子供たちは、先を争うように仙道の周りに集まってきた。強面の教諭は主にレギュラー相手のフォーメーション を確認している。仙道の担当は下級生たちの基礎といつの間にか線引きができていた。 なによりもやる気になってくれたのは嬉しいから、丁寧に指導していると時間が過ぎるのはあっという間だ。 その間に流川にかけた言葉ときたらほんとうに数えるほどで、相手も聞いているのかどうなのか分からない 素っ気なさだから、あのゲームの後で突きつけた言葉に反発されちゃったかなと思わないでもない。負けたのは流川ひとり の責任だと言い切ったもの言いだったから。 「流川、肘」 シュート練習に励んでいる背中にそう声をかけても目も合わせてくれない。すねてんだか、怒ってんだが、興味がないん だか。だから背後に回りこんで、嫌がらせみたいに 抱き込む格好でボールを持つ肘の角度を押し上げてやった。すかさず、なんだ――とばかりにキっと眦を上げて 睨みつけてくる。仙道にすれば、ようやくコッチを見てくれたか、てなもんである。 「疲れてくるとどうしても肘が下がってしまう。だれもがそうだけど、後半は特に意識するようにしろよ」 「ちっ」 「ち、じゃない。分かりました、だろ?」 そう言ってから髪の毛をかき混ぜて、反撃が来る前にスタコラさっさと退散した。背中に感じる射るような視線の なんて心地いいこと。そのまま他の部員の自主練に付き合い、合間に姿を探すと一瞬だけ目が合った。なにが言いたい のか、なにを欲しているのか躰全体で表現しているように思える。雄弁な瞳が語っている。けれど、自分から教えを 請うような素直さはない。他の子たちとまではいかないから、もう少し歩み寄ってくれてもいいだろうに。 遠目から様子を伺っていると、流川の唇がへの字に歪み剣呑にも尖る。つられて仙道の笑みが深くなった。まったく、 イケナイ大人だな。これは独占欲なんだろうか。そう解釈して、煽るのは本意じゃないけど、こんな態度に出てしまう 理由はなんに所以するものなのか。さらに気づかないフリをしていたら、直球ボールが飛んできた。 早く来い、とお呼びのようである。 素直じゃないねとニコニコ笑いながら、ひとつのゴールを争ってワイワイやっている部員たちから離れた位置にいる 流川に、仙道は歩み寄った。 「なに?」 「左」 「左が、どうした?」 「左からんとき、とくに、決まんねー」 「思ってるよりも、ボールが左にそれる感じ?」 「うん」 「たぶん、躰がさ、右ほどきちんとリングに正対してないんだと思う。開いてしまってるのかな。今度、意識して左肩を 入れてみな」 「それだけ?」 「そう。これも感覚をつかむまでの反復練習だからね。意識して練習。意識して練習。意識しなくてもできるまで延々と シュートを打つ。いつも流川が頑張ってるのと同じ手順だ。オレが言えるのはそれだけだよ」 けど、と仙道は真摯に見上げてくる瞳に見入った。 「オレが見てる限りじゃ、特に左の確率が落ちてるってほどじゃないけどな」 「どこ見てんだっ。すげー悪りぃじゃねーか」 「そっかな。向上心があるのはいいけど――」 と言いかけて仙道は言葉に詰まった。あまり自分を追い詰めないほうがいい、と言えた口ではない。そう煽ったのは 他でもない。仙道自身なんだから。 「ま、アレだよ。オレくらい流川のプレイをよく見てるヤツはいないから、信じなさい。それよりも、指の調子はどうだ?」 「へーき」 「痛いのに無理するのは我慢強いって言わないんだよ。ただの愚か者って呼ぶ。おまえ、もうちょっとその辺を 理解しとけよな」 そうからかって、手の甲で流川の頬をポンと叩いて躰を返そうとすると、もの言わぬ漆黒の瞳に縫いとめられた。睨み つける中に戸惑うような色がそこに混じり、仙道は足を止めてしまうほどにうろたえた。 「どした? 流川がオレを呼び止めるなんて珍しいじゃん」 「べつに、呼び止めてない」 「なんか言いたげなんだけどな」 「聞きたかったことはそれだけ、だ」 「きっぱり言い切るのが怪しい。まだ気になること、あるんだろ?」 「ねーっつってる」 「ツレないな。せっかく流川とお話、出来たのに」 「フン。アイツら、よんでるんじゃねーの。さっさとあっちへ行けば」 そう言って華奢な顎で指し示した先には、大声で手招きをしている他の部員たちの姿があった。了解、と手を上げて、 両者の間に漂うような己を見つける。 なんて中途半端なスタンス。 そして、その突端に存在する流川。 惹きつけて引き寄せて、間を持たせるだけ持たせて突き放す。無自覚な、なんの作為もなく、手練手管と呼ぶには真摯 で稚くて。だからかえって、吸い寄せられる。その意味を手繰り探ろうとする。手を伸ばしたくなる。怯えが走る。 なにに怯える? けれど間違いじゃない。だから、「流川」と気弱にささやいた。「ヤキモチ妬いた?」と、さらに 重ね、「だったら嬉しいな」と笑ったのに、踵を返した小さな背はなにも答えてくれなかった。 そして最後の日。 「おーい、みんなに話がある。集合しろ」 金曜日の夕練終了後、近藤教諭の大声は体育館中に響き渡った。いつもどおりのなんら変わりない日常。ただの終わりの 挨拶だと思っている子どもたちは後片付けを終えて集まって半円を描いた。彼らに向かい合うように教諭。仙道はその真横に 並んで、かけがえのないひと時を過ごした体育館を目で追った。そしてそれを与えてくれた子どもたちひとりひとりに 視線を移していった。 「みんなも知ってのとおり、きょうで仙道先生の実習は終わりだ。二週間、ほんとにお世話になりましたって、ちゃんと 挨拶するように」 え、そうだったの、と、主に下級生からどよめきが起こった。実習生の意味をキチンと理解していたのは六年生と教科 を受け持った五年だけだったようだ。彼らに、知らなかったのかよ、と問われた下級生から「そんなん聞いて ねー」、と咎められ、「おまえが休んでたからだろ」と返してくれたのは六年生だ。 「ほんとに来週から来ないの?」 そう言って淋しそうに顔を歪めてくれたのは三年生。流川よりもさらに小さくて、走りっ子についてゆくのがやっとの子。 けれど仙道がいる間、一度も休まなかった子だ。か細い、そんな声に誘われるように他のメンバーも静かになった。 「最初っから二週間の予定だったからね」 休めの姿勢から背筋を伸ばした仙道に習って、子どもたちの背にも同じように緊張が走った。その端からひとりづつ、 顔を向けてゆく。教諭に一番近い位置にいる少年がこのチームの主将。物静かだけど真面目な子だ。ひとり置いて160を 越す正センター。ムードメーカー的な役割を果たしてくれていた。続いてその彼 よりも少し小柄な副主将。チームいちの俊足を誇るガードだ。短い間だったけど、どの子たちにもそれぞれ交わした言葉 と思い出がある。 「二週間ほんとうにありがとうな。あっという間だったよ。けど授業とは関係なかった子たちとは、練習でしか会えなくて ちょっと物足りなかったな。もっとみんなと関わっていたかったよ。質の意味でも量の意味でも」 視線を移す。ガードの子の隣にいるのは流川だった。だが、俯いたまま顔を上げようとはしない。他の子たちがみな 仙道を見ているというのに。ぐるりと半円を移動して最後の子どもと目を合わせたあと、もう一度流川の位置に視線を 戻した。 相変わらず顔を合わせようとしない。なのにその小さな肩がなにかを含むように一度大きく上下して、仙道は瞬時に 理解した。やはり、期限があることを知らなかったんだ、流川も。教生の役目も意味も、出逢ったときの あんな説明じゃ理解できなかったのも無理はない。彼の学年の授業を受け持っているわけじゃなかったから、なおさらだった ろう。 そしてなにより、その事実に怒ってくれている。そう確信できる。キチンと説明しなかったことへの。そして純粋に 会えなくなることへの怒りは、俯いて前髪に隠された鼻梁から下、見る見るうちに尖る唇の動きで分かった。 ――ちくしょう。 二週間一緒に過ごした子どもたちとの、しんみりとしたお別れの場面 だというのに、それを知って笑み崩れそうになる表情を引き締めなくてはならないなんて、到底、指導者向きとは言えない。 子どもの数だけ個性があって、それぞれに見合った付き合い方でそれぞれの個性を伸ばすなんて、はっきり言って自分には 無理だろう。これだけ好みが顕著に現われちゃ、教職免許を取る資格があるのか、と問いただしたくなる。 ――オレって意外と視野が狭かったんだな。 こんなところで思い知るなんて。 気を取り直して仙道は続けた。 「こんなとき、大人が君たちくらいの子どもに言う科白って決まってると思う。またか、てなもんだろうけど、 あえて同じことを言わせてもらうよ。いっぱい練習しよう。その練習が苦にならないくらいにバスケを好きになって 欲しい。だれにも負けたくないって思えるほど好きになれたら、もっと楽しくなるんだ。一番の楽しみってなんだ? 試合に出ることだろ。全力を尽してそして勝つ。そういう意味で言えば、おまえらはまだバスケの楽しさを十分に味わって いない」 もう一度、ひとりひとりの子どもたちを目で追って、仙道は大きく息を吐いた。 「楽しんで楽しんで、そして出来ることなら中学へ行っても高校へ行ってもバスケを続けて欲しい。ここにいるみんなが なにかの形でバスケで繋がっていたらと思う。別れても卒業しても、どこかでまたみんなが出会うんだ。ひとつのことを 続けるってそういう意味だし、それがバスケだったら嬉しい。短い間だったけど、ほんとにありがとう」 「礼っ」と近藤教諭の一喝のあと、深く腰を折り曲げた子どもたちは先を争うように仙道に飛びついてきた。 「先生、また来てくれよな」 「オレ、めちゃくちゃ、ディフェンス頑張るっ」 「今度会うときは、先生に教えてもらったシュート、決めるからな」 「先生、最後にかっこいいシュート、見せてくれよ」 「ダンクっ。ダンクがみてーっ」 と、申し訳ないほどの惜しみようを見せてくれた。 「嬉しいけどさ、ほら、早く片付けしちゃわないと」 子どもたちに詰め寄られて降参のポーズのまま、教諭に助けを求めるが、肝心の彼はボールをバウンドさせながら、 ひとさし指をクイクイ曲げて仙道を誘う。一発カッコいいのを見せてやれ、というご命令だ。最後に見せ場をつくってくれ てありがとう。仙道は小さく笑うと教諭にボールをくれるように合図を送った。 胸元へきたチェストパスを手に馴染ませるように何度かバウンドさせ、最小限のモーションで教諭に返して仙道は ゴールへ向って走り出した。そのスピードに子どもたちは息を呑む。受け取った教諭は両手でそれを丁寧に、 リングから少しそれた左側バックボードへとわざと当たるようにコントロールさせた。 ボールがリングを掠めていい感じに 跳ね上がる。戻る位置を見極める。柔らかなステップでコートを蹴った仙道の躰は空中で一度止まり、その長い手が ボールをわし掴むとさらに上へと跳躍を見せた。 ――歩いた。 宙を駆けるという言葉の認識が流川にあったわけじゃない。文字にすれば、それはまさに遊歩。すげぇと結んだ唇が そのまま呼気を呑んで、彼の目の前、跳んだ仙道の躰が、大きな仙道の躰がさらに遠く感じた。 ガゴンと手首が返る。ボールがリングをくぐる物音はその後に続き、背に羽根を持つ者でしか成し得ない滞空時間を 見せた男の躰はふんわりと地上へ降り立った。束の間シンと静まりかえり、体育館がドッと沸いたのは少し間を置いて からだ。 「すっげぇぇっ」 「あんなん初めて見たっ」 「NBAみてー」 「ダンクっ? アレがダンクっ」 「あんなに跳べるもんなの?」 「カッコいいっ」 「も一回見せてよっ」 「オレ、鳥肌、立ったっ」 「オレも、オレもっ」 近藤教諭も思わず拍手をしている。子どもたちの瞳はそれこそヒーローを見るそれだ。これならばこの子たちとの 出会い頭に、こんなのをガツンとかましてやればその後の指導もし易かったろうに、と思うけれど、仙道はあまりそういう手段が好き ではない。子どもたちが目を見張るほどのプレイを見せる者だけが彼らを指導するわけではないからだ。理に叶ってさえ いれば現役時代の成績は関係ない。 「ねぇ、いっぱい練習したら、いまみたいなダンク、決められる?」 「出来るよ」 「いつ? 高校生くらい?」 「そだな。それまでに思いっきり牛乳飲まなきゃな」 「げ〜。牛乳かよ」 聞いてきた生徒が心底ゲンナリした声を出し、周囲はドッとわいた。「ほら、下校時間が遅くなるぞ。さっさと 片付ける」と教諭が幕を引き、子どもたちは散らばってゆく。そんな中、いつだって目の端に映っていた少年の姿。 こちらを睨みつけ突っ立ったままの流川と。 きょう、初めて目があった。 夕闇が斜めから寝食し出した体育館。ひとり減りふたり減り、子どもたちが全員帰るまで仙道は見送った。気恥ずかしく なるほど惜しまれて、再会を約束して、けれど来週からはまたふつうの日常に戻って彼らは進んでゆく。小学生のころに 一度出逢ったバスケの上手な教生、と記憶に残れば御の字。それもバスケを続けてくれた場合のみだ。 あの子たちのいったいだれが、ずっとバスケを愛していってくれるのだろう。ひとりでも多くと願うけれど、仙道の 思いなんか遥かに越えた位置で子どもたちの夢は多様化しているし、現実的にはそれを叶えるための苦労にこらえ性がない。 それを維持し続ける力は並大抵のものではない。 気遣いのひと、近藤教諭は戸締りは任せたとばかりにさっさと職員室へと引き上げて行った。体育館には他にだれも いない。みんなからはぐれて、なにかを内包したまま壁際でぽつねんと佇む流川以外は。 こんなに広いのに、余りにも静か過ぎて鼓動すら重なりそうに思えてしまう。 「流川」 戸締りを終えて少年の前に立った。さっき、あれほど激しく仙道を睨んでいた流川の視線はまた隠された。への字に 結ばれた唇だけがその取っ掛かり。だから何度でも呼んでやる。この少年と真正面から向き合うためには。 「言いたいことがあるなら言えよ。このままサヨナラなんて厭だろう。だから残ってくれたんだろ?」 ささやく声が体育館中に反響し、自分の放った言葉に包まれているように思えた。同じように流川をも包んでしまいたい。 だがまた沈黙が落ち、帰ろうともしない、語ろうともしない流川を仙道は辛抱強く待った。 そして。 「かえってくんのか」 ようやく返った言葉に、途切れがちな声に、仙道は安堵の息を吐いた。いつの間に、こんなに息を詰めていたのか。 躰の中から強張りが抜けてゆく。そんな仙道に流川は重ねた。こちらは、一度発した激情を押し殺せないようだ。 「あんた、帰ってくんのかよっ」 「う〜ん。それはムツカシイかな」 「言えっつっといて。どっちみち、このままサヨナラだろ」 「サヨナラじゃないよ。学校の先生になれるかどうか分からないけど」 「やっぱウソつきだ。あんたっ、ユメとかって言ってたくせにっ」 確かにそう言った。流川に初めて会ったときに。だが、教職の免許を取得しようと思ったのは、現役を引退したあとの 布石くらいの気持で、ずっと先の将来、 躰が動かなくなったら、採用試験を受けて、なんて第二の人生を考えていたのだ。教職免許はあったに越したことはない、と。 けれどそれもどうなるか分からない。まず、流川が在籍中に彼が教師になることはないだろう。仮になったとしても、 この小学校へ赴任される可能性は限りなくゼロに近い。 そんないい訳、彼には通用しないだろうけれど。 「ごめんな」 そう言って流川の頭に手を置いた。ポンポンと拍子をつけ、その一点で繋がり、彼の怒りが伝播する、心地よいほどの 一体感だ。 だから本心を告げた。心からの言葉だ。正確に伝えなきゃ。 「けど、きっとまた会えるよ。サヨナラなんかじゃない」 「口だけヤロー」 「違う。オレはもっともっとスゴイ選手になる。流川がおんなじくらいにスゴイ選手になれたら、会えるじゃ ないか」 これもウソ。いや希望だ。可能性はほとんどゼロ。いまの年齢差で、同じフィールドに立てるはずがない。流川が頭角を 現すとしたら、それは仙道が引退したあとになるだろう。 それでもあのときの、あの言葉の責任の取り方を、自分はもう知っているのだと思った。 「会えるよ。いつだって会える」 呪文は言魂となってふたりを縛りつけ、その言葉に引き寄せられて流川は視線を上げた。子どものむき出しの敵意が 仙道を笑ませ、煽られた流川はさらに牙を剥く。そんな関わり方を、そんなふうに織り成してゆきたいのだと、仙道は 悟った。 「オレはおまえの前を走り続けるから」 この身長差で見下ろして、告げて、そして流川の瞳が返る。 ――オレ、と小さな唇が引き絞られた。 「オレ、早く、おっきくなる。んで、あんなダンク、てめーよりも決めてやる。てめーはオレがぜってぇ、ぶっつぶすっ」 これは真正面からの告白だ。互いが互いをどれだけ欲しているかの。 「そうか」 「ヨユウ、ぶっこいてられんのも、いまのうちだっ」 「いいな。それ」 仙道は受け取った。 「待っていてあげよう」 そして、 両腕の中に閉じ込めるように流川の背に手を回した。 「オレがずっとそばにいる」 あれから何度、楓の色づく季節を見送ったろう。誤魔化すつもりなんか毛頭なくても、自分の年が定かじゃなくなるから、 頼みの綱は流川の成長だけだ。節目を現す記号は、お正月でも誕生日でもクリスマスでもなく、流川が小学生時代に 経験した小さな大会から、日本人としての 最高峰に出場を果たした仙道の大きなもので刻み、カタチを変え風景を変えゆったりと流れていった。 「いい加減なことばっか」と尖る唇と、「口だけニヤケ やろう」と詰る瞳を見下ろす角度が確実に変化し出したのはいつのころからか。あれほど稚かった少年の学ラン姿が 板についてきた時分かもしれない。 仙道にしても学生時代はまだ時間の余裕があった。だが、年が明けると就職のために都内へと引越しを余儀なくされ、 スーパーリーグをこなしながらオールジャパンのユニフォームにも 袖をとおすという多忙ぶりで、いちケイジャーとしてはこれ以上ないというくらいの毎日だった。当然、そばにいるとの 約束はふた月に一度三月に一度がいい方で、突然暇を見つけて会いに行っては睨まれた。 「次は来月って言ったじゃねーか」「ほんと、ウソばっか」「なにがそばにいる、だ」から、先月会ったときには、とうとう、 「あんた、だれ?」と返されたっけ。苦笑しながらご機嫌をとって、いつもの公園で競り合ってを繰り返して七年。 ふっくらしていたあどけない頬が急速に削がれ、本格的に声の質が変わり、一見連れ歩きたいくらいに可愛かった子どもは、 やがて連れ歩くのを憚られるくらいの存在感のある美貌を備えるようになった。 無愛想なのは相変わらず。指定した公園で、仙道が来るのを首を長くして待っていてくれる――はずの少年からは、 一度だって嬉しそうな顔は拝めなかったけれど。 そんな小さくて細い糸でも互いが手放さないで持ち続けている。 ずっとの約束は生きていた。 「仙道さん。知ってますか」 都内某所にあるスポーツセンター。仙道が所属する企業が所有している施設だ。土曜の練習を終えた午後五時。体育館 からロッカールームに戻って、着替えを済ませた仙道の背に、後輩のひとりが声をかけてきた。 「なにを?」 「今度のオールジャパン。現役の高校生が入るらしいですよ」 「へぇ」 と、何気ない返事を送ったのは、そんな可能性があるかも知れないと、関係者から仄めかされていたからだ。 初秋に行われる世界大会予選のために、来週にはオールジャパンAチームが編成される。大学二年のころから一度も その座を明け渡したことのない仙道は、一昨年から四番も拝命していた。だからというわけでもないが、長年の付き合い になるAチームの広報担当者から、「今回はテコ入れ、行きますよ」と耳打ちされたのが先日のこと。 「テコ入れ? 若手の登用?」 と、聞き返すとその彼はにんまりと笑った。大学生くらいじゃこれほどもったいぶらないだろう。高校生、もしくは 中学生辺りまでと範囲を広げて仙道も笑った。そうなると候補者は限られてくるからだ。 「現役高校生ね」 「バレーなんかじゃ中学生の全日本も珍しくないからな? けど使いもんになるのか? それともアレか? オレたち 老兵へのカンフル剤?」 「違いない」 そう言って笑ったのは仙道が所属するT自動車の主将。現役最高齢のSGだ。そのままAチームの最年長ケイジャー になる。その彼はいま三十六歳。仙道は二十九。まだ七年ある、の指針のようなひとだった。 「どこの高校生だ? 今年のインハイは京都代表だったよな」 「それがね、準優勝チームのエースなんですよ。湘北の流川って知ってますよね」 その問いは会話に入っていなかった仙道に返された。 「ああ。知ってる」 とてもよく。 あの日からずっと見守り続けてきたから。 「オレも知ってるぞ。あの派手なヤツだな」 「インハイの後に、特集されてましたよね。スポーツ番組で」 「その戦略はミエミエだな。あの見てくれと派手なプレイだ。女子どもの動員数を増やそうって計画だな。オレたちだって 興行で成り立ってるからよ」 「高一だろ。躰が出来上がってるわけでもないだろうに。バスケで使えるか使えないかは、そのひと言に尽きるぞ」 「それは別に構わないんじゃないですか? そこそこ出来るでしょ。確かにメディアが飛びつきそうな逸材だし、 それで観客動員数がふえれば言うことない」 そんなチームメイトたちの論評を背中で聞いて、仙道は片手を上げて体育館をあとにした。 あしたは久し振りの休日。このまま藤沢に向ってきょうは実家へお泊りだ。同じ首都圏で近いとはいえ、この年齢の男 にしては親孝行レベルを越すほど頻繁に里帰りしている。このルックスでこの身長でこの実力で。実際、モテて仕方ない はずの仙道がこの年までひとり身なのは、極度のマザコンだからだそうだ。 ウワサを流した張本人から聞いて爆笑した。 ウソはついていない。藤沢に帰るのは本当だから。そこから実家へ寄っているかまで気にするものがいないのがふつうで。 通いなれた道程。土産もなにも必要なくて、懸命に近況を語る必要もなくて、ただこの躰ひとつ、 その場に運ぶのを待ってくれている。 また背が伸びたんだろうなとか、前回これ見よがしにひけらかした技を、きっと躍起になって練習しているんだろうな、 とか、そんなふうに想像しながらだから、長い道のりも惜しくなかった。 それにしたって、きょうは藤沢泊まりだと言っているのに、練習が終わってから駆けつけるこんな時間まで、いつもの公園 指定で待ち合わせはないだろう。そうぼやいたのに、「ナイター設備がある」のひと言だけを押し付けたわがままもの。 もっと小さいころから甘やかせていた自覚はあったから、これも自業自得というヤツ。ただ苦じゃない自分が可笑しい だけで。 きょう聞いた吉報。クラブチームの一員の耳に届いたくらいだから、流川サイドにはもう伝わっているだろう。 一番じゃなくて残念だけど、このわずかな時間で駆け上がってきたゴールデンルーキーのご満悦な顔でも拝んで帰ろう。 藤沢に着いたころには日もとっぷりと暮れなずんでいて、帰宅を急ぐサラリーマンの群れをかいくぐるように仙道は 公園へと向った。きょうもきっと約束の時間よりも、アイツは早く着いている。ほら。この角を曲がって街頭の灯りを 手がかりにストバスコートへ急げば、もうすっかり耳に馴染んだドリブルの音が聞こえてきた。 「お待たせ」 と声をかけると、漆黒の闇にぼんやりと浮かんだ照明の中で流川が振り返った。 end
写真素材
夏色観覧車さま
![]() |