one


〜楓ちゃん、 無理をする





 気づけば――もう一週間経っちゃったんだねぇ、な金曜日の体育館。
 教育実習生仙道彰にとっての毎日は、朝練、授業、指導、レポートの連続で目まぐるしくて、あっという間に折り 返し地点に辿り着いたという感じだ。
 彼自身教育学部に籍を置き、教員養成課程に進んだのは、将来自分が現役を引退したあとの布石になればいいくらいの考え だった。現にJBLスーパーリーグ一部の企業に内定済みだし、来春からはオールジャパンAチームのエースとして社会人 として、二足の草鞋を履いて走れるところまで突っ走る。
 子どもにバスケを教えたいという夢はウソじゃないけど、学校教育に関われるとしてもずっと先の話で、機会がなければ この実習は、単位取得と卒論のテーマと、話のネタ程度だけの二週間になる可能性もあった。
 だから別になにかを得ようとかの強い意識があったわけじゃない。ミニバスのチームがあると聞いて朝練にまで顔を出した のは、やはりボールに触れていたかったからで、モチロン近藤教諭に子どもたちの指導を強く進められた理由もある。 けれど、二週間ぽっちでどうなるものでもないのが現状だろう。
 昨今のスレた――いや、大人びた小学生に対して、それほど劇的な変化をもたらす魔法を持っていないと思っている。
 謙遜でも卑下でもなく。
 仙道だって長くバスケに関わってきたのだから、シュートフォームの癖や腕や肘の角度を指摘するのは簡単だ。脇を 締めろだの膝を落とせだのも同様で、だがそれを治してゆくのは本人の徹底的な意識づけでしかない。
 時間をかけて積み上げるものだから。
 どんな的確なアドバイスでも質の高い指導者でも、通り過ぎてしまったあとに、受け手になにを残せるのだろうか。 バスケは楽しいよ。もっと好きになろうよ。そうすればどんな単純な反復練習にだって耐えられる。宥めてすかして、 叱って褒めて、精一杯魔法の言葉を捜して接しなければならない子どもたちがいる中。
 そんなものはすっ飛ばして。
 魔法なんか必要がない少年がいた。
 ひとりで練習を始めている流川の定めた仮想の敵がだれなのか、かなりの確率で分かるだけに、「はよ」と、ひと言短い 挨拶を送ると仙道は、傲然と流川の前に立ち塞がった。まだ挨拶らしい挨拶は返らないけど、弾んでいたボールを腕に収めて少年は 顎を上げる。そして、さも当然とばかりに、彼は仙道の背後のゴールを目指してシュートを放った。
 昨日よりも少し下がった位置からだ。
「ナイシュー」
 振り返らなくても軌道で分かる。いい感じにど真ん中だ。ボールがリングをくぐる物音はその直後におこった。 二投目はもう半歩下がり、枠に弾いてナイスイン。続く三投目は距離は同じでも角度を思い切り下げるものだから、 仙道は思わず苦笑してしまった。
「せっかちだな。この段階はクリアでいいわけ?」
「だめだったらモドす」
「ちゃんと躰に覚え込ませたほうがいいんだけどな。きのう、そう言ったろ」
「やれる。カクドはもんだいじゃねー」
「おー、強気発言」
 長さだ、キョリだ、と流川は自分の両手を思い切り広げ、手の中のボールを睨みつけた。
 腕力のなさが歯がゆいのだろうが、こればかりはどうしてやることもできない。だが言うだけのことはあって、限りなく エンドラインに近い距離感の掴みにくい角度からでも、流川のシュートはキレイな軌道を描いていた。悔しさと達成感と、 上手く折り合いをつけているようだけど、どちらにしても目標をコレと定めたら、地固めなんかそっちのけで突っ走る タイプみたいだ。
 気持は分からないでもない。
「ま、いっか。流川のいいようにしな」
「たりめーだ」
 オレの練習なんだからと吐き捨てられて仙道は盛大に噴出した。
「あんだよっ」
「いや、なんでも。確かに自主練だしね。近藤先生ならいざ知らず、オレの言ったとおりにする必要はねーわな」
「ねー」
「せっかくアドバイスしてやったのに、そーゆーこと言うんだ?」
「たのんでねーもん」
「言ってくれるじゃん」
 クソ生意気な部分はだれもかれも大差はない。大人を大人と思わない言動も。それでもきのうの言葉を丸呑みして、 細かい部分は自分で修正して、立ち向かって来るのだから、可愛いものだ。
 そう思えてしまうのは、違いを感じてしまうのは、やはり、行動力を伴ったこの強い瞳だろう。
 こんな会話をもっと続けたいなと思えるくらいに楽しかったから。
「んなナマ言うんだったら、左右に動いちゃおうかな」
 と、仙道は流川を見下ろした。なのに――
「やれよ。動けよ。ただの壁じゃ意味がねー」
 なんて、30センチも下から睨み上げるものだから、仙道も笑みを消した。畏れを知らない子どもの頭をちょっと叩い ておいてやろうかな、が半分。もう半分は少なくとも真剣に対処しなければ、流川に対して申し訳が立たない思いから。 流川にも理由は分からないなりに、意気込みだけは伝わったようだ。
 仙道はディフェンスの構えを取る。流川は少し離れてドリブルの間隔を速める。大きくは動かないけれど、両手を広げて 腰を落とされるだけでも脅威だった。
「来いよ、流川」
 そう凄むと流川の目つきが変わる。触れて沸き立つものは歓喜だ。こんな子どもが、大人を相手に、ただの練習で真剣 を感じとって牙を剥く。
 始めたばかりのいまの時期だからなのか、それともこの子だからなのか。いや、自分の同時期を振り返っても、こんなに 痛々しいほどまでにのめり込んでいなかった。適当に真摯で適当にさぼって、楽しいミニバス時代だったと思う。
 融通やほどほどや相応なんて言葉を粉砕して突き進むこの性質じゃ、これから先の摩擦と衝突が想像できてしまうのだ けれど、どうかこのまま愛し続けて欲しいと願う。



 どうかずっと。



 たったひとつの。



 まだ高さが一定しない直線的なドリブル。まだボールとゴールしか目に入らなくて。ジャンプはしないがブロックに 入っただけで簡単に上体が崩れてしまう。それでもこのボールだけは絶対に放すもんかとピボットで逃げて攻めて、流川 はシュートコースを探す。だが崩れたフォームではシュートモーションに入ることすら難しく、悔しそうに顔を歪める流川 の顔が間近にあった。
 当然だ。この子はまだ三年生なんだ。だが、なにもかも適わない中、方法を方向を隙を全力で模索しようとする 三年生でもあった。
 オレを見ろ。手の動きを視線の先を。探せ。探して目指せ。そして捻じ込んでいけ。その都度オレはおまえを 止めに入る。弾き飛ばされても何度も挑め。決めたい、勝ちたいという思いに子どもも大人もないはずだ。いまの技術で いまの力で、あらん限りを尽して全力でぶつかってこい。
 右奥に動いた流川を追って仙道は手を伸ばした。半歩動くだけで流川に残されているシュートコースの幅はごく僅かに なる。右に傾いた躰を精一杯立て直し、一度軸足に重心を戻してから流川は跳んだ。
「――」
 いま、無意識のうちに取った行動が左右のフェイクだとは本人も思っていないだろう。次、同じことをやれと言われても スムーズに成功しないかもしれない。それでもこのやり取りの中で、ひとつ種を蒔き、いつかそれは開花する。確実にいまじゃない。 それほど甘くない。だが、いまじゃなくても、間違いなく流川のものになる。
 跳んだ流川の両手からシュートが放たれる高さに合わせて仙道は左手を伸ばした。頑張ったお祝いに、だからこそ、簡単 に決めさせてやるわけにはいかない。立ち塞がり続ける。仙道はそんな存在でありたいと思った。
 この場でこうしていられるのもあと僅かだ。なにをムキに なっているんだと思わないでもない。たった二週間ぽっちでと、うそぶいていたのは自分に他ならない。違う。そうじゃない。 自分の指導がだれかを変えるだとか、なにを残せるだとか、その成果を期待するから二週間がもどかしく感じるだけで、 自分は自分のスタンスを貫けばいいんじゃないかと仙道は思った。
 いまならば、そう。
 流川にとっての、壁であり障害として存在する。
 そんな存在意義があってもいい。
 シュートモーションに入った流川の目の前に仙道の左手があった。両手で頭上に掲げたボール。おおい被さるように 仙道の手が伸びる。このまま着地するわけにはいかない。トラベリングだ。けれどいま打てば間違いなくブロックされる。
――だから。
 ブロックのために伸ばした仙道の手にわざとボールをぶつけ、ラインアウトを狙おうと流川が思ったかどうか分からない。 ジャンプした瞬間に、八方塞がりだから、ただヤケクソだった方があり得る。でもそれは無闇なシュートというよりも、 確実に仙道の手に押しつけ――
「――?」
 ディフェンダーの左手にボールを引っ掛け捻りを加えたそれを、ライン外まで持っていけるほどの力が流川にある はずがない。しかも両手持ちだったボールを右手一本に変えているから余計だ。 けれど手首が返りそうになるくらいの妙な圧力はなんだ。これじゃぁ、受けた仙道よりも押しつけた流川の衝撃の方が 大きいはず。そう思い至るよりも先に、顔をしかめた流川の顔が目の前にあった。
「いっ――」
「大丈夫か?」
 それでも、手の中から零れ落ちテンテンと転がるボールを、取りに行こうとする流川の腕を仙道は押し留めた。引き寄せ た右手首を目の高さまで掲げる。当人はほんの少し顔を歪めて、けれど、仙道の目の前で親指付け根がみるみる色を変え 腫れ上がっていった。
「このバカが――」
 仙道はそのまま体育館の端まで流川を引っ張って行って座らせた。救急箱に常備されているコールドスプレーを手首 から付け根にかけてシツコイくらいに噴射する。冷たい。冷たすぎて痛いと訴えるからタオルで保護してその上から またかけた。
 きちんと手当てしておかないと、いつまでもシツコク長引くのが反り指だ。特に親指の付け根は性質が悪い。保護しながら 練習するものだから、半年治らなかった経験が仙道にもある。
「おまえ、さっき、なにしようとした?」
「さっき?」
 右手を大きく開いておけ、と言ってから仙道は太めのテーピングで患部を固定し始めた。朝練はこれからだし、さらに利き手 だ。だがガチガチに固めてしまっては、今度は授業で鉛筆が持てなくなる。練習が終わったら外すしかない。しばらく すると痛みもひくだろう。
「こうなる前。なんで親指だけで捻ろうとした?」
 仙道は流川の手を押さえたままで、そう問うた。
「?」
「ボールを片手に持ち替えてオレの手に押し付けようとしたろ? 所謂ブロックアウトってヤツだ」
「なにそれ?」
「覚えてないの?」
「うん」
「そっか」
 無意識か、と仙道は呟いた。無意識のうちにあのとき、マイボールになる方法を選び取ったんだ、この子は。
「やるな、おまえ」
 そう褒めてやったのに、流川は不本意とばかりに唇を尖らせた。
「チガウ。あんま、ムカつくからぶつけてやれって思っただけだ。きっと」
「またムカつくとか言う。この乱暴もんが。んで、自分が怪我してりゃ、世話ねーじゃん」
「どーやっても勝てねーし」
「どーやったら勝てるかって考えただけでも褒めてやろう。手段は別として」
「んで、自分でケガして、ダセー」
「そうだ。次からはもっとマシな手を考えるんだな」
「かお、ブツけてもいいってことだな」
「顔は止めてくれぇ。命なんだから」
 カラカラ笑うと流川は仙道に取られたままの手を引こうとする。それを押さえて、はて、と思う。流川の行動で当然 なのだけれど、なぜか返したくなかった。
 ――流川の小さな手。
 なにか大きなものを掴むかも知れない小さな手を。
「おまえ、指が長いから、きっと背が高くなるぞ」
「……」
 なんの気なしに放った言葉に、訝しげな漆黒の瞳が向けられた。いい加減なこと言うなと顔に大書してある。そう。 流川のもっとも触れて欲しくない部分だった。素直にそう感じて口にして、からかうつもりは毛頭なかったけれど、 怒りを買ってしまったのは間違いなくて、仙道に包まれていた手はものスゴイ勢いで引き戻された。
「ムカツクっ」
「ほんとだって。ほらっ。仔犬もさ、手が大きいとでかくなるっていうじゃん」
「犬とおんなじかよ」
「えっと、そうじゃなくって……オレの手もデカかったんだ。子どもんころから」
「そんなん、知るか」
「足は? お、結構デカそうじゃん。こりゃ、間違いないよ。大きくなるっ。保障してあげよう」
 ほんとだってばぁ。ただし牛乳も飲むんだよ。毎日1リットル。給食、残してねぇ? 鼻つまんで飲んでるんじゃねーぞ、 と取り繕っても、その後の流川はウンともスンとも言ってくれなかった。



 翌日の土曜日。隣の校区のミニバスチームFクラブを招いての練習試合。レギュラーメンバーを揃えて 万全の態勢で臨んだのだが、ヤバイくらいにすげーPGがいるとだれか が言ったとおり、小学生とは思えないくらいの動きを見せるFクラブの司令塔がゲームを支配していた。
 頭上を抜かれ脇を抜かれ、キレイな速攻を決められ、確かに敵PGのパス回しは目を惹くものがある。けれどなによりもこのチームは、 何度も対戦してその実力を見せ付けられた相手に対して、勝とうという気力を失っている。
「なにやってるんだ、おまえらっ」
 序盤で十点の差がついて、堪らずタイムアウトを取った近藤教諭が嘆くのも尤もだ。動きが堅い。ぎこちない、なんて レベルじゃなかった。
「んなこと言ったって、先生っ」
「そうだよっ。アイツのパス回し、めちゃくちゃ、速ぇーじゃん」
「無理だよ。おいつけねー」
「先生知ってる? アイツ、海南大附属中の特待に決まってるってっ」
「えっ。そうなの? すっげぇ」
「だったら、なんだってんだ。おまえらの足は飾りもんか? その速さを上回る速さでカットしようって気はないのかっ。 速いのは分かってんだ。ムツカシイことはなにも言ってねーだろ。キチンとディフェンスにつけ。取ったら走れ。自分の仕事を いい加減にしてっから、んな得点差がついちまうんだよっ。やらなきゃなぁ、おまえら、アイツらに一生負け続けるぞっ」
 当然のようにハッパをかけられ、言葉にこそしないが彼らの口は――けど――を形どっている。諦めの蔓延。結末の 見えた勝負。いい加減にしろと言いたい。どんなにすごいプレーヤーだろうと、たかだか小学生のレベルで、なに言って やがる、だ。
「リョウ、楓。おまえら、アップしとけ」
 膿んだ空気を見かねて、教諭はベンチに座るふたりの控えの名を呼んだ。リョウは四年生だが足が速い。流川はそれ以上だが、 フォーメーション練習が圧倒的に足りないから攻撃の形にならないかも知れない。ディフェンスの崩れはもっと深刻だ。 だがそれよりも、速さに速さをぶつけて、相手のペースを乱す作戦に出た。
 レギュラーとは技術的に劣るふたりでは、もちろん長くは続かない。カンフル剤の投与だ。
「流川、こっち来い」
 パイプ椅子から立ち上がった流川に仙道は、手の中のテーピングを指差した。朝、集合したときに巻いてやったもの だが、試合に出るならもう少し補強しておいたほうがいい。
「いらねーのに」
「反り指はな、親指の付け根の靭帯が伸びてるから相当痛いだろ」
「きのうじゃん。もう、へーき。」
「きのうでもさ。治んねーんだ、簡単には。親指に引っ掛けただけでも激痛が走るぞ。いいか。受け取るとき、大げさな くらいに両手を胸元まで引きつけろ。で、ボールの勢いを殺すんだ。この指は浮かせたままなくらいの気持で。でないと 続行不可能だぞ」
「分かった」
「ほんとなら、試合に出させるべきじゃないんだけど――」
「突き指なんか、日常ナントカ。だろ?」
 ふたりのやり取りを聞いていた教諭が、仙道に目で合図を送った。大丈夫かと。流川の怪我については報告してあったが、 それには頷くしかない。教諭が立ち上がり交替を告げる。
「よし。いけっ、流川」
「うす」
 背中をパンと叩くと――手負いの山猫は弾丸のように飛び出して行った。






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写真素材  夏色観覧車さま