one


〜楓ちゃん、 わが道をゆく





 自分にはなんの落ち度もないのに、気まずくなった雰囲気を必死になって和らげようと苦心する大学生と、そんなものには 目もくれずにシュート練習に励む小学生という少し情けない図式を救ってくれたのは、ほどなく姿を見せたバスケ部顧問の 近藤教諭の存在だった。
 体育館の扉が開くなり、巨漢と呼んで差し支えない教諭の大音声が響き渡る。
「おはよう。きょうも一番乗りだな、楓っ」
「っす」
「近藤先生っ」
 顎を引いただけの落ち着き払った小さな挨拶を返したのは当然流川で、泣きが入った悲鳴に近い声は仙道のもの。 精悍なつくりの顔を歪め、少しタレ気味な眉をさらに下げて彼は、体育館入り口に立つ教諭の元へ駆け寄ってきた。 ガタイの大きな犬が尻尾を振っているように見えないでもないが、場の雰囲気を読み、コイツでもこの子相手では対処に 困るのか、と教諭は気の毒に思った。
 朝一番、職員室で短い挨拶を交わしただけの認識だったが、仙道というこの青年はいい教師になるだろうなと感じるものが あった。ひとを惹きつける懐っこさとそれを上回る確固たる自信。いまどきの子どもが、所謂「お兄さん」タイプの 教師を欲していたとしても、一本とおった筋と培われた自信と責任感がなければ、ほんとうにただの「近所のお兄さん」になって しまう。
 近藤教諭が思う教師の資質をこの青年はさらりと備えているように思えたのだが、最初に出逢った相手が手ごわかった。 三年一組、流川楓。問題行動を起こす子でもない。ご両親も子どもの教育に熱心な方だ。
 ただ、学期ごとに出される成績表備考欄には、「もっとお友達 と仲良くしましょう」だの、「協調性を身につけましょう」だのと評されているのは間違いない生徒。どのクラスにもひとりや ふたりはいるタイプだが、生活全般において消極的なのではなく、興味ある対象とそうでないものとの線引きがはっきり し過ぎている。
 頭で考えての結果ではなく、躰が自動的にスイッチの切り替えを行っているのか。
 バスケは完全にオン。長年自校のミニバスチームを指導してきたが、恐らくいままで出会った子どもたちの中で群を抜いた センスの持ち主で、それに加え、こちらが怯むほどの練習熱心さで成長している。今年は無理でも来年の構想では、 レギュラーに組み込むつもりだ。
 しかし、顧問の自分をして、きちんと目を見て挨拶するようになるのに一学期中を使い切ったほどに愛想がない。はしゃぐ 姿なんかお目にかかったことがない。ギャングエイジと呼ばれる小学校低学年の男子児童がだ。 それでも流川の担任に言わせれば、挨拶を返されるだけ破格の扱いらしいから、初対面の彼の魔力が及ばないのは仕方がない。
 おまえだけじゃない。気にするなとは無責任な慰めにしか過ぎず、なにか言いたげな仙道が言葉を発するよりも早く、 他の子どもたちが体育館に集まりだした。
「おはようございまっす」
「わ、だれ、だれ? 新しい先生?」
「バスケのコーチ? 教えてくれんの?」
「でっけぇっ。プロみてー」
「ば〜か。日本人でプロなんかいるかよ」
「オレね。六年のコータ。先生は?」
「仙道だ。よろしくな。えっと、君がコータで――」
「オレ、ヨシキ。こいつマコト。で、ユウキにこの子が三年のタっちゃん――」
 ワラワラと子どもたちに取り囲まれ、自己紹介と質問攻めの円陣が出来上がっている。いっぱいの好奇心と相応な無邪気 さが、このクラブの子どもたちの持ち味だ。たぶんこれが当たり前の風景で、でっけぇ、でっけぇ、と躰をバンバン叩かれ、 よじ登られ、仙道はもみくちゃの手荒い歓迎だ。こりゃ、きょうは練習にならないな、 と溜息をついた近藤教諭に目の端に、淡々とひとりでシュート練習を積み重ねる流川の姿が映った。



「へえ、練習試合ですか?」
「ああ。今度の土曜日に、ウチの体育館でな。時間があるならおまえもコーチ席に座るか?」
「それは楽しみですね」
 そんな話が上がったのは翌日の朝練のときだった。聞けば隣の校区の小学校と定期的に練習試合を組んでいるという。 かなり強いんだよな、あの学校と、説明しながらも近藤教諭が顔をしかめたのには訳がある。六年生四人、五年生三人、 四年、三年生が共に四人というチーム構成。昨日もそうだったが、五、四年の部員がひとりも朝練に姿を見せていない のだ。
「朝はこんなもんすか?」
「ま、な。寝坊しましたっつうのが大半の理由。夕練はそこそこ集まるんだ。それでも塾だの他の習い事だのと、 昨今の小学生は忙しい。バスケと剣道。野球と少林寺、って具合に、運動部系で掛け持ちしてる子も珍しくない。いろいろ 体験させてやりたいって親の気持は分からんでもないが、ひとつでいいだろ、ひとつで、ってオレは思うんだ。確かに 疲れてる子が多い。それでも、朝、来れないなんてのは、本人のやる気の問題だがな」
「大変なんすね。そんなスケジュールで、いつ友だちと遊ぶんですか。でも、試合となると違うんでしょ。ちゃんと出て くるんですよね?」
「そう。保護者も気合入れて叩き起こすからな。だったら毎日、そうしてくれと言いたいよ。朝練に来ないヤツは 試合では使わないって言い切ってるんだぜ、これでも」
 いまじゃすっかり右から左へのお題目だ、と教諭は頭をかいた。
「六年が四人じゃ、使わなきゃ仕方ないすね」
「そういうこった」
 さすがに六年生ともなると、勝ちたい欲や喜びも、そして最高学年という責任感も出てくるという。だが四、五年生には そこまで望めない。いままで培ったものが飛躍的に伸びる年齢だというのに、勿体ないと教諭は頭をかいた。
 「ま、アレが特別なんだよな」と、顎をしゃくられたアレとは、六年生に混じってのスクエアパスで引けを取っていない 三年生の流川だ。あの身長であの体格で、レギュラー陣のスピードにちゃんとついていっている。確かに、要はやる気だな と仙道も納得した。
 基礎練もラストにさしかかり、パス回しが変化し出した。三方向のどちらから来るか分からない。そのイレギュラーさ にも流川はちゃんとついて行っている。ついつい目がそちらに奪われてしまい、なんだろう、 タイミングと目筋のよさがひとを惹きつけるんだろうなと仙道は思った。ゲーム中ならボールは自分の走る方向へ飛んで くるとは限らない。そんな予期しない動きに対してなかなか対応できなかったりするのに、次のモーション――パスを 出し易い位置で受け取っている。瞬時に選んでいる。
「大したもんだ」
 仙道は素直に認めた。
 ただ、ゲーム練習に移るとそんなキレイな流れだけで進んでいかない。ディフェンスが入る。進路をふさがれる。それだけでは なく、やはり当たり負けしてしまうのだ。ディフェンスの手の届かない遠い位置からでは、今度はそこまでの腕力 が足りずゴールネットに届かない。
 圧倒的に足りないのはシュート力なんだ。
「なるほどね」
 つい、そんな言葉が出た。初日に会ったとき、シュート、シュートと躍起になっていた理由が少しは理解できた。
 いまの状況を正確に理解して、なんとか打破しようとあぐねいている子どもに、基礎一辺倒な押しつけは 確かに受け入れてもらえないだろう。流川が欲しているのは、そんなものじゃないんだ。



 教育実習生仙道が受け持つように言い渡された授業は、五年生の国語と算数だった。ふたつあるクラスのどちらとも。担任の 教師が一番後ろに陣取り、たまに教頭先生の厳しい顔というオマケつきで授業は進められる。やりにくいやら緊張するやら の初日だったが、三日目ともなると他の教諭の存在が教室の一部に溶け込んで見えてくるのだから、仙道も相当な心臓をしている。
 昨日までは気づかなかったが、ちょっと余裕が出て来て周囲が見渡せるようになり、いま受け持っている五年二組には バスケ部の生徒が三人ともいることが判明した。
 ふたつあるクラスのそれも全般的に言えることだが、授業の態度に落ち着きがない。すぐに脱線したがる。いまが静かに 話しを聞かなければならない場という認識が薄い。そしてすぐに手を抜く。どうやらこの学年にはサボリ癖が蔓延している ようだ。
「月曜から練習、見てっけど、おまえら、全然朝練来ないじゃん」
 二十分休憩に校庭へ駆け出そうとした部員のひとりについついそんな声をかけたのは、やはり練習試合という言葉が念頭にあった からだ。秋の公式戦も控えている。寝坊が理由で連日はマズイだろうとは、朝の集合にマジメとは言いがたい仙道 が口にしていいかどうかはこの際、別として。
 声をかけた少年は五年生唯一のレギュラー。ユウイチだったか。シュウイチだったか。夕練で一度会ったきりだ。なのに 彼は心底、不思議そうな顔をした。
「人数足りないからさ、練習が進まないんだ。あしたから来いよな」
「えー、なに? 先生、朝練、出てんの?」
「そう。毎日。スゴイだろ」
「先生、暇人?」
「あのなぁ」
 近頃の小学生はすぐ、そういうことを言う。熱心なのは暇だからじゃない。楽しいからだ。必要だからだ。だから ない時間を割いて体育館へ出向く。とおりすがりに近い存在がお節介かもしれないが、バスケの好きなひとりの大人 として言わなければならないと思った。
「無理、無理。起きらんない」
「前の晩、早く寝るんだな」
「なんだよ。近藤先生が言えっつったのか? 先生の回しもん?」
「そういうんじゃなくてさ。公式戦、近いんだろ。それに土曜は練習試合があるし」
「またぁ。Fクラブだろ。あそこ、強いんだよなぁ。ヤバイくらいにすげーPGがいてさ。勝てっこねーって。なのにさ、 近藤先生、すぐに練習試合したがるんだ。ヘコむって」
「勝てっこない相手なんかいるもんか。だったら朝練来いよ。勝てるまで練習しろよ」
「なんでオレばっかに言うんだよ」
「おまえだけじゃないよ。他のみんなにもちゃんと同じことを伝えるさ。だからまず、おまえから、朝練に顔出して みようよ」
「ウぜぇんだよ。センセ、キョウセイだろ。関係ねーじゃん」
「……」
「行くときゃ行く。指図すんなよなっ」
 そう吐き捨て、背中を向けられたからという訳ではない。全部が全部そんな子どもたちじゃないし、五年生のあの子に しても、仙道の言葉の使い方が多少マズかった理由もあるだろう。こちらが熱を帯びすぎると子どもは反発する。 これは単なる校内学習の一環で、強制できるものではないのだ。それでも翌朝、練習開始よりも二十分も前に、ゴールに正対 して既に息を上げている流川の姿を発見し、なにか感じ入るものがあるのは――当然の成り行きだった。
 届かない腕を精一杯に伸ばして。
 小さな躰を懸命にたゆませて。



「よう」
 翌朝の体育館の中は思った以上に冷え込んでいた。返事なんか期待せず声をかけて一歩踏み出すと、手を止めた流川が振り返った。 弾んだ息のその周囲だけがバスケに犯された熱に包まれている。高みを目指そうとする強い意思が、余人を容易に踏み 込ませなフィールドをつくり上げているのか。
 それは部外者である仙道に対しても同様なのだけれど、どうしてもくちばしを突っ込んでツツキたい衝動があった。
 少し前をゆくものとして。
 いや、ただその熱に触れてみたい、か。
 仙道の姿を認めて、くい、と小さく顎を引いた流川が目に眩しくて、我ながら大人げないな感情だなと仙道は哂った。 願って、願って、願って。ただ、ひたすら練習して。そしてやっとひとつ手に出来るものなんだ。チーム競技とはいえ個人 技の終結だ。ひとりの怠惰は全体に影響を及ぼす。できっこない。勝てっこないなんて、うそぶいているヤツら総てを 置き去りにしてやれ。
 仙道はあえてゴールと流川の間に割って入った。
 なんの説明もない唐突な行動に、流川の目が剣呑に引き絞られた。その状態で仙道が両手を上げると、 流川の身長ではゴールネットは見えない。邪魔すんなとばかりに踵を返しかけた流川の背に、仙道はゆったりと語りかけた。
「流川は、どの位置からだったらジャンプショットは決まる? いや、どこから打つのが一番確率が高いか、だな」
 問われた意味が分からないのだろうが、流川は問い返しもしないで漆黒の瞳を見上げてくるだけだ。仙道にしても 考えなしで躰が先に動いた結果で、明確な意図があった訳ではない。どういう練習方法が効果的なのか、どういう意識づけ が必要なのか、どう言葉を尽くせばいいのか、ほとんど手探りだった。
 きょとんと目を瞬きながらも、バスケに関することだから、素直に流川は次の言葉を待っている。ハンズアップの手を 一度下ろして、仙道は腕組みをした。
 仙道がいま立っているのはペイント内、ゴールネットから二歩ほどの位置。流川はそのすぐ目の前。角度的には右四十五 度といったところ。ここまで切れ込んで正面にディフェンスにつかれてしまうとレイアップは不可能だ。味方に回すか、 ディフェンスの手をかいくぐってのジャンプショットしか方法はない。
 そう。
 方法と方向性を考えてみようと仙道は口にした。
「つまりさ、流川が確実にシュートを決められる位置と角度を覚えておくんだよ。ゴール下のこの位置からだと、速攻でも ない限りディフェンスは当然ジャンプしてその軌道を塞ごうとするだろ。ボールは真上に上げるくらいの気持じゃないと 入らないのは分かるよな」
「うん」
「オッケ。じゃあ、こんなデッカイ小学生なんかいないだろうけど――」
 そう言って仙道は両手を上げた。敵がジャンプしてると思ってシュートしてみろと言われ、流川は素直に一歩後退った。 下がっても目の前は仙道という大きな壁だ。けれどこれ以上下がってしまうと、リングにすらかすらなくなる。両腕を額の 位置まで引き上げ手首を返し、精一杯軌道を上げた。なのに、ただ手を上げただけの仙道の右手に阻まれてしまった。
 仙道は塑像のように動かない。弾むボールをひったくると、流川はもう一度全身を使ってシュートを試みる。 だがそれでも思ったような高さは得られなかった。流川が放ったボールはリング手前に弾かれて、サイドラインを割って しまった。
 テンテンと転がるそれを睨みつけている流川を目の端で捉えて仙道は、長い躰を折り曲げてボールをわし掴むと彼の 足元を指差した。
「たぶん、ここが入るか入らないかの境界線だ。これ以上下がると、いまのおまえの力ではシュートは難しくなる。これは 現実問題、そのいち」
「毎日、うでたててしてるのにっ。ゆびたててだってっ」
 毛並みを逆立て、噛みつきそうな勢いで流川は食ってかかる。えらいなおまえ、と仙道はその小さな躰を抱きしめたく なった。尤も、そんな真似をしようもんなら、ぶん殴られるか蹴り上げられるのがオチだけど、初日みたいにシレっと対応 されるよりも数段いい。
 けど。
 うん。いつか試してみようかな、なんて不埒な思いをそのままに、仙道は続けた。
「筋力アップなんか、そうそう望めない。残念ながらね。やり過ぎは筋を痛めたりするから無理しちゃだめだよ。けど ゆっくり毎日続けるんだ。確実に力はつくから。それよりも――」
 この位置、と仙道は流川の足元からゴールを結んだ半円を手で描いた。
「ここからのシュートが必ず決まるんなら、試合のときに流川はここまで切り込まなきゃならない。無理なら戻す。 ディフェンスを振り切ってもう一度中まで入る。それでも無理ならまた戻す。この確実な位置に入るまでは打たない。 シュートは闇雲に打ってどーなるもんでもないんだ」
 そして――
「ここがクリアできたら、もう半歩下がる。下がってシュートの確率を上げる。上げて上げて、満足いくレベルまで 達したら、次の試合はその位置から打てる」
 ごくりと流川の喉が上下した。嬉しいことに、この子の躰に自分の言葉が咀嚼され嚥下されたのだと仙道は思った。
「ひとつひとつ、シュートレンジを広げてゆこう。半歩下がるのに一カ月かかるかもしれない。同じ半歩に倍以上の時間 を食うときだってあるだろう。けど、技術の上達なんて早道ないし、ほんとにイヤんなるくらいの地道な反復練習の積み 重ねだから。そんなふうに意識を持っていられたら、いつかきっとスリーを打てるようになるし、おまえ、ものすごい スコアラーになるよ」
「うん」
 目線を上げて、黒髪を揺らして、こくりとひとつ、流川は頷いた。
 流川が仙道を見る。
 この無愛想もんが。
 それは最大限のお礼の言葉で。
 かなりの確率で分かるだけに、ただそれだけの仕草がこれ以上ないというくらいに仙道を満たしていった。
 この子なら、道程の遠大さも地道さにも、不平もなければ膿むことも諦めることもないだろう。シュートを決めた 瞬間のあの高揚感に囚われてしまった少年には、なにほどのことでもない。
 これは確信だ。
 次の日――金曜日の朝練。
 仙道の予想どおり、仮想敵を定めてシュート練習をする流川の姿があった。






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写真素材  夏色観覧車さま