かすみ色の花ふぶき









〜九




 糾弾の目を一身に受けて、和歌山藩を疎んじていた、畏れていたはずの長子に譲る。
 それが父の真意だと祖母は言う。
 喧騒すら耳に入らない状態だった仙道に、庭木の葉ずれと風の流れが聞こえてきた。
 世間から隔絶された離れに住まう祖母は、ひと伝えで集められた情報を独自の解釈を加えて仙道の前に指し示して くれた。
 不思議と落ち着きが戻ってくる。
 視線を上げる。
 きょう始めて祖母と向き合ったような感じだ。



 ここに毎年冬を越せるかと周囲が気に病む幼子がいる。
 幸いなことに融通が利かないくらい謹厳実直で鳴らした 能吏が佞臣の台頭をなんとか抑えている幕政である。それもいつまで持つか分からない。現に生母を中心とした大奥の 発言権が日増しに増大してきている。その幼子を補佐する役目を担うもうひとりは、凡そこの現状を憂いているようには 見えない安穏とした人柄。おまけに父の仇の血筋でもある。和歌山藩は地盤固めに尽力したおかげで揺るぎない。 十七になろうとする長子が代わりを果たしてくれるだろう。
 幕政が傾かぬうちに。屋台骨が腐らぬうちに。
 取って代わらねば日の本が揺らぐ。
 冷静に見渡せる目を持っているなら、なぜそんな政策が取れるのか、なぜそんな世迷言に耳を傾けるのか、なぜそんな 道理も分からぬ幼子が頂点に君臨していられるのかとほぞを噛むことも確かにある。
 愚痴でウサを晴らすしかない身分ならいざ知らず、苦言を呈することの出来る立場に己はいる。苦言だけではなく その地位を手にする権利もあった。そしてそれを成す力も。
 徹底した能力主義者。ある意味、狂信的に血統を重んじる幕臣たちと大した差はないのではないかと思う。 血に固執するか才覚だけを拠りどころとするか。斬り捨てられる身からすれば多少の理由に違いがあるだけだ。
 身に巣食うあがないきれない野望。
 身を将軍家へと移行する。
 最大の障壁は取り除いた。誓ってもいいが仇討ちでもなんでもない。一直線に伸びた権勢への道程に横たわった大木 を排除しただけだ。二の丸の住人となるまでに遮るものはなにもない。
 父の思い描いた図面の輪郭が、おぼろながらに見えてきた。
 恐らくそういうことなのだろう。
 けれど、そのまつりごと中心の思惟の中に、駒のひとつに宛がわれた息子の嘆きや、兄を奪われた弟の怒りは含まれ るものではない。
 流川は納得しないし紀伊を許しはしない。
 ただ、負の感情なんか寄せ付けない対等の立場で関わり合いたかったのだ。
 仙道は弛緩したように膝を崩した。
 それを咎める祖母ではない。
「とてつもなく腹立たしいのは、駒として処されたわけでも掌を返したような扱いを受けたからではありません。その手段。 その方法。その到達した理論。あんたひとりが生きて幕政に関わってるわけじゃないだろうと思うからです」
 そうよの、と浄円院は茶をすすった。
「わり合わぬと思うのであれば、そなたが止めればよいのではないか?」
「止める? このオレが?」
「そなたなりの理論で抗えばよい。従順な彰どのが叛旗を翻すとも思うておらぬだろうし、吉宗どのも万能ではなか ろう。聡すぎて見えるものまで見えぬこともある。しかしそれは彰どのにも言えること。刃向かってもただのさざ波 程度かもしれぬ。なにも変わらぬかもしれぬ。だが、結果は見えていてもそれに 至る経過に齟齬を来たすこともひとつの手だと思わんか?」
「おばばさま」
 浄円院は茶たくに茶碗を戻すと、嫣然とした笑みを浮かべた。ある年齢に達したものだけが浮かべられる艶のような ものだ。それだけで背を押された気になるから不思議だった。
「彰どの、市井では仙道と名乗っておったらしいの」
「よくご存知ですね」
「そう。仙道とはまた、味な名をつけたものと感心しておった。その名に恥じぬ、凡人とは異なった――仙風な道を進ま れるが宜しかろう」



 その後まとまらない頭と覚束ない足取りのまま自室にたどり着いた。きちんと祖母に挨拶をしたかどうかも定かでない。 結局、祖母の酒宴の相手も果たせぬまま離れを辞し、 翌日徳川吉彰として流川の前に平伏した。だが、急速に理解してしまった意識の下で、流川のきつい詰問とすがるような視線を 受けつつも、その場限りの言い逃れはやはり出来なかったのだ。
 彼が兄を亡くしたのは間違いなく、流川の弁を借りれば心の底からの哄笑を湛えて、仙道を使いに出した父がいたのだ から。その躊躇いが流川に疑惑を与え、その弁明すら叶わなかった。だからと言ってあの場であの状態の彼に、 父は先代の敵を打ったのだと言えるはずもなく、両家の間にわだかまる溝はさらに深みを増すばかりだ。
 流川に会いたい。けれど会ってなんとしよう。自分が姿を見せただけで、漆石が光を弾く色に似たあの瞳が、哀しみが 勝つ怒気に彩られるだけだ。
 なんて言おう。説明なんてまどろっこしい真似を厭ってイキナリ斬りつけられるかもしれない。それもいいかなとも 思うけれど、出来れば真剣じゃなくて竹刀がいい。こんな状況にあってもまだそう思う。
 試合たい。
 あのときのように、なんのしがらみもなく打ち合い、滾る熱を奪い、身を斬る以上の切迫感を分け合う。その相手はなぜか 流川しか思い至らなかった。
 仙道がいままで出会ってきた武芸者たちは、その卓越した剣筋に見合うだけの人品骨柄を備えていたといっていい。牧 しかり、魚住しかり、他の門弟しかり。みな自分が培ってきた総てのものを持ってその一撃を相手に叩き込む。さまざま なしがらみや、思惑なんか打ち払って、その瞬間だけは剣のみに生きるものの目をしていた。
 流川は、そう、たぶん流川はその瞬間だけでなく、だれもが背負わされた枷を丸投げにした幸運の中で生きてきたのだ。 それが叶えられた環境。でも、だからといってだれにも到達できるものでもない。家格が高ければ高いほど、あからさま な嫉みやあらがい切れないしきたりに縛されてしまうものなのだ。それは自らを振り返ってそう感じる。
 流川が拾って流川が捨て去ったものとは、武士として最低限身にまとっていればいいものかもしれない。そう思うと、 霞がかったその先にある、強固な意志を含んだ瞳が瞼に浮かび、ついと、手が伸びそうになった。あまりの安定感の悪さと 潔さに気が引かれ、惹かれたと認識するより前に囚われていたなにか。
 憤りが象になって口付けたのは偶然ではない。
 あのときただそう動いたのだ。
 考えるよりも先に覚えた体が、体を引き寄せた。遮るものがなにもなかったあの瞬間に、思いも寄らなかった奔流が 抑えられなかった。腕の中に、閉じ込めておきたいとさえ思ったのだ。
 仙道は自室の襖を総て開け放ち、だれに見咎められても構わないと畳の上に長い体を横たえた。
 間もなく卯の花月になろうとする風は火照った心を冷やすように流れてゆく。縁側から覗く庭木に目をやると、 ゴヨウマツの枝に新しい雄花が形になろうとしているのが見て取れた。変えられないものもあれば、古い枝のように落ちて 新しいものに取って変わられるものもある。
 どう変えよう。どうあがなおう。視線を庭から寝転んだ天井に戻し、仙道はぽつりと呟いた。
「会いてぇ」
 祖母の弁を受けて思い至った父に対する嫌がらせにしかならない筋書きのうち、流川に会って確かめなくてはならない ことがある。
 いや、それよりも。
 ただ流川に会いたかった。



「国許へ帰る?」
 弔問の使者の口上をひととおり聞き終え、堅っ苦しい肩衣を木暮に引き抜いてもらいながら、流川は目の前で居ずまい を正している赤木からの申し出に目を瞬いた。藩主代行といういつ果てぬとも知れぬ苦行も、ただ兄と床に伏した甥のため。 だから大人しく人形になっていたのにまだ終わらないと江戸家老は言う。いい気になってんじゃねーと、短い導火線は いまにも火を吹きそうだ。
「左様。前藩主吉通さまのご葬儀は名古屋城で執り行います。その際の喪主は若に勤めて頂かなくてはなりませぬ。そして その足でご上洛。天子さまに拝謁。従三位、権中納言の位を賜ります。ご面倒でもその旨をご大樹にご報告のために いま一度江戸へ。そして藩政と人心を安んじるために若には国許に戻っていただきます」
 それが兄の葬儀以降の公務だという。ブチ切れた流川は、ガンと足癖も悪く使ったこともない書見台を蹴り飛ばして いた。
「だれが兄上の後を継ぐっつーた」
 いままでナリを潜めていたものがここでそう来たかと思わないでもない。この弟君にとっては最愛の兄の葬儀までが 自分の成さねばならないことだったのだ。だから飾りものでもいいからそこに座していた。ただ兄のために。
 それ以降の継承問題は――まったくもって――埒外なのだ。だからと言ってご尤もですと頷ける話ではない。
「若が次の藩主であらせられる。厭だのと駄々を捏ねられる問題ではございませぬ」
「い、や、だ」
 わざと音節を区切って顎を上げる。小憎たらしいをとおり越して憎悪さえ覚えた。この状況を分からぬわけでは あるまい。主君筋でなかったら殴ってしまいたい場面である。震える拳を抑え込んで、赤木は声を低めた。
「そのような仰りよう、亡き吉通公がお聞きになれば、お嘆き遊ばされましょうぞ。兄想いの若ならお分かりいただける 話しかと存じますが?」
「兄上は、オレにはそんなお役目、無理だっていつも言ってた」
「では尾張がどうなってもよいと言われるのか!」
「五郎太。本復するまで赤木が補佐」
 決定、とばかりに背中を見せた主に赤木の怒りが頂点に達したとき、冷や水を指すように言い放ったのは三井だった。
「だぁれが、こんな道理のつうじない相手に、いままで若、若と傅いてたと思うんです」
「別に頼んじゃいねー」
「弟君の理論から言えば、そりゃ、そうだ。けど、尾張の恩恵と庇護のもとでぬくぬくと生活してたんだから、それなり の責務をまっとうしてもらわなければ困る。それは弟君に嫁せられた義務です。権力の座につくなんざ、重い責務 を背負わされるだけだ。ラクなことなんかひとつもないでしょ。尾張藩士以下民草の生活を支えていかなきゃならないん だから。けど、いま、そこから逃げられた日にゃ、赤木や木暮が苦労してお仕えした日々はどうなるんです? オレなら 返せって怒鳴りつけてる場面だ」
 後ろを向けた背がほんの少し開かれる。次期藩主を藩主とも思わない三井のぞんざいな物言いに、怒るほどもない顕わな 嫌悪。彼は別の観点から忌避しているのだ。
「名古屋には帰る。喪主も勤める。建中寺に納骨して、けど、そのあとのことは知ったこっちゃねー」
「まだそのようなことを仰るのか!」
「だれを次期にって問題よりも、言わなきゃなんねーことがあるんじゃないのか」
 ひたりと視線を合わせられて、その場にいた赤木たちは顔を見合わせた。なにに憤りを感じてここまで頑ななのか 分からなかったからだ。
「仙、いや、紀伊の使者が言ったことはどういう意味だ」
「なんですと?」
「イサカイってなんだ。掘り下げてってなにを指してるんだ。何回も繰り返してるって感じた。尾張と紀伊は仲が 悪いって、人死にが出たのはこれが初めてじゃねーのか?」
 流川の前に持している三人三様、表情に違いはあってもみなその場に凍り付いて呼吸すら詰めている。赤木に目を 移すと厳しさがさらに増して眉根を寄せていた。木暮は俯き、三井は肩を竦めて諦観しているかのようだ。
「そうなのか?」
「若、それは――」
「兄上が紀伊のだれかを手にかけたのか?」
「吉通さまではございません!」
「木暮!」
「じゃあだれだ。親父か? 爺ぃか? 紀伊のだれをウチのだれが始末したんだ? 御三家だとか、血筋だとか。エラ そうにほざきながら殺し合いっこしてるっつーのか!」
「若!」
「そんな尾張、オレはいらねー」
 近習の三人をその場に置き去りに、流川は畳を叩きつけるような足音を立てて出て行った。
 だれが始めたのか忌まわしき因習。自分の与り知らないところで始められたものごと引き継ぐ謂れも義務もない。 こんな状態だからこそ、直系をなによりも重んじるなら己を矢面に立たせる必要はないだろう。五郎太はきっとよくなる。 それまで江戸家老に、もしくは在国家老が補佐すれば言いと思ったのは偽らざる本心だった。
 仙道は知っていた。きっと自分よりほんの少し早くこの事実に気づいたのだろう。だからあんな、魂が引き千切られた みたいな顔をして、自分が斬られたみたいな顔をして流川に触れて、流川の前に平伏した。
 あんな顔をしたあの男に会いたかったわけではない。あんな再会を望んでいたわけでもない。あんな杓子定規な 物言いも、身分という枠に括られた立ち居振る舞いも、なにひとつ欲しくない。
 もっと。もっと。
 広大な庭に面した廊下に出ると中天に差し掛かった真白い月に、重い雲が圧し掛かり辺りの景色を闇に塗りこめて いった。思い至るより先に、敷石の上に揃えられた草履に足を突っ込み、そのまま一直線に塀へと向う。庭木に手をかけ 感触を確かめてよじ登り、太い枝の袂で一度体勢を整えてから築地の瓦に飛び移った。
 一度屋敷を振り返ると、気後れして跡を追えなかった赤木たちの狂騒が目に浮かんだ。逃げてばっかでなんの解決にも ならないことは重々承知。この体を流れる血筋になんの執着も覚えないのは、ただ己がその血を宿している当事者だからだ。 主家に仕える藩主たちの唯一といっていい拠りどころを、斬り捨ててしまう権利はだれにもないのだけれど。
 いままで盲目的に尽してくれた温情を屋敷に残し、それでも、
 それでも。
 ただ仙道に会いたかった。



 春霞に揺れる深更。文様を織り出した羽二重だけでは足元から遅い来る冷気から身を守ることも出来ず、流川は ひとつ身震いをする。怒りと勢いで藩邸を抜け出したものの、突き動かされた衝動の出所は確かなものの、さすがに 和歌山藩江戸藩邸に訪いを入れる無謀さはないし、果たしたとしても押し込みでしかない時間帯だ。
 灯影も見えない暗い町家を過ぎ、それでもあの男の奇跡をなぞるように自然と足が神田の陵南道場に向いた。当然のように そこはぴっしりと門扉を閉ざし、道場破りなんかの狼藉を見せた流川でなくても侵入を拒んでいる。仕方なく方向を変え、 あの日夜見世が開かれていた心法寺あたりまで歩いたのは、ほとんど無意識の内だった。
 名刹へと続く参拝道には、人っ子ひとり猫の仔一匹いやしない。己がたてる砂利を踏みしめる音だけが静寂を裂いて いた。
 唐突に野犬の咆哮。気を張り詰め歩みを止め視線だけを動かせて辺りを伺うと、星の光だけが頼りな夜の闇に、 まるで行く末を指し示すように束の間、垂れ込めていた重い雲が晴れた。だれもいないはずの境内に、同じような出で立ち の男の背中を見つける。
 流川の切れ長の瞳が驚きで見開かれた。
 きょう、散々に睨みを入れた男の背中だ。一本取られたまま、その後の再戦を果たせぬままに、流川の目の前から 存在を切り取られようとした男が、なぜこんな真夜中に、ここで所在ない姿を晒しているのか。藩邸に居場所がないと 同じように感じたのか、同じように出会った軌跡をなぞったのか。
 そう思えたのは理屈じゃない。
 振り向けと念じるよりも先に、殺気を漲らせて刀を抜き払った方が早い。鞘に手をかけただけで、その男は振り返った。
 声が届くか届かないかの距離で見詰め合った刹那。
 晴れた月明かりだけが互いの思いを照らし出していた。
「る、かわ――」
 かけるべき言葉はそれ以上思いつかない。ふたりの間に横たわる巨大で強固なものだけに行く末を決められたくもない。 流川は鞘を払って抜き身を下げた。
「勝負しろい」




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