かすみ色の花ふぶき









〜八




 ヒタリと。
 流川が払った抜き身の白刃が鈍い光を弾き男の眼前に据えられていた。
 おもむろに鞘が畳の上に放り投げられ、 その物音で正気に返った紀伊家の隋人が慌てふためいて腰を上げるが、喉の奥に詰め物をされたように押しつぶされた 声がひとつ、ふたつ。あまりの無体に尾張の藩士たちも鯉口に手を当てることすらできずに様子を伺っていた。
 その中で一直線に切っ先を突きつけられた仙道だけが、さざ波ひとつ立てない湖面を思わせる居ずまいを見せる。 畏れも疚しさも恥じる気色も気負いもない。流川が知る、竹刀を合わせたときの仙道そのものだ。
――ほんとうに。
 仙道が紀伊家に連なるもので、ほんとうに彼の父があのような卑劣で惨たらしい真似をし、なに食わぬ顔で尾張の 門をくぐったのか。仙道は知っていたのか。いや、仙道は加担していたのか。
 出あったのは偶然。確かなものはなにもない。竹刀を交えたのも、お礼参りで絡まれて助けられたのも、クスクス笑い ながら一緒に逃げだしたのも、夜見世で買い食いしたのも。それらにまつわる痛みも感触もざわめきも。
 藩邸の海鼠壁に押し付けられた背のざらつきも。そのあとのことも。
 そのあとのことも。
 なにもかも分かった上でなぶったのか。
「仙道、てめーは知ってたのか」
 低い唸りに仙道が身じろぐ。呪縛から解かれたように紀伊家の隋人が色めきたった。
「流川――」
「尾張どの!」
「ご乱心召されたか! 無礼にもほどがありますぞ!」
「てめーらが兄上と五郎太をあんな目に合わせたのか!」
「流川、それは――」
「答えろ、仙道!」
 重ね問われ、疚しさが象となった。無関係だと即答しない仙道に流川の猜疑は募る。いざよう間もなく流川は剣先を 返していた。
「楓さま!」
 木暮が叫ぶ。三井は鯉口を切ったまま片膝をついて隋人を牽制する。振りかぶった流川の前に巨体を呈して力ずく で止めに入ったのは赤木だった。
「刀をお納めください!」
「どけ、赤木!」
「どきませぬ。いかなる理由があろうとこのような振る舞いが許されるものではござらん! どうしてもと仰るので あれば、この赤木を斬り捨ててから進まれるがよい!」
「見極めろっつった! 紀伊がどんな顔してるか。心の底からかどうか、見りゃ分かるっつったのてめーらだろうが!」
 否定しなかった。苦渋に満ちた顔をしただけで、先ほど仙道はひと言の弁解もしなかった。言い掛かりなら、身に覚え がないなら跳ね除けろ。そんな叫びも飲み込んだままだ。
 これ以上の証拠がどこにある。
 一歩、大きく踏み出して血の気走った剣先を、その身で受け止める覚悟で赤木も大手を広げて前へ出る。赤木の肩先と 掲げた腕がぶつかり、切っ先が頬を掠めんばかりの距離だった。その上流川の身をグイと押し返す。八双に引き上げた 剣先がカタカタと震えた。
「若がそうお感じになられたのであればこそ、筋をとおすが武士というもの。いまここで激情に駆られて紀伊家のご使者 を斬り捨ててしまえば、若が詰られた紀伊家と同じ凶行を犯すことになりますぞ!」
「なんという物言い!」
「よせ!」
 紀伊家隋人が一斉に刀を抜き払った。それより先に仙道が立ち上がり、動きを制するが怒りは抑えられるものでは ない。
「尾張はいかような証拠があって当家が手を下したと判ぜられる! 言い掛かりも大概にして頂こう!」
「左様! ご家中に下手人が含まれる可能性を一番に疑われよ!」
「一番と言えば疑わしきは、次期当主さまが筆頭ではござらんか!」
「主が主なら家老どのも家老どのだ! 尾張は揃いも揃って気狂いがそろうてか!」
「弟君の奇行は江戸はおろか近隣にも聞き及んでおりますぞ! 武士にあるまじき振る舞いの数々。孝廉の儀を 失せられても可笑しくない!」
「てめーんちが、そうやって当主の座についたからって、ひとまで一緒くたにすんな!」
「物言いがぞんざいなら思慮は童のそれではないか!」
 床の間を背に流川。その後ろから木暮が羽交い絞めにし、赤木は対峙して体を張って抑えている。その前に使者と 正対する格好で片膝をついていた三井が抜き身を下げて立ち尽くす。仙道は三井に背を向ける格好で隋人たちを制していた。
 その仙道だ。侮辱を受けて赤木が大喝する前にその男が大声で吐き捨てた。
「喧しい!」



 罵声が飛び交う合間を縫って放たれた仙道の一声は、色めきたった広間に鋭利な亀裂を生んだ。冷静なままで、そして もう止めてくれといった懇願の含まれたそれに、一同息を飲む。
「刀を納めよ。紀伊の使者は、ご当主を失われたばかりで動揺されている尾張さまの哀しみを、逆なでするような無慈悲を 犯すのか」
「しかし! 先にあちらが!」
「それでも、だ!」
 仙道はおき火に砂をかけるように、一転してゆったりと背中越しに語りかけた。
「尾張さまも落ち着かれよ。ご家老が御身の立場を守ろうと身を呈されているのが分からぬでもないでしょう。私どもは 亡きご当主さまのご冥福をお祈りするために、尾張さまのご心痛を少しでも和らげることが出来たらの一念で、まかり 越しました。他意はございません。なにとぞ、お心違いを解かれますようお願いいたします」
「心、違いだと――」
「悪戯にお心を思い煩わせるために参ったのではございません」
「違うのか!」
 仙道、こっちを見ろ、と流川は詰りたくなった。聞きたい言葉はそんなバカ丁寧な社交辞令に包まれたものではない。 兄を弑したのは紀伊なのか、違うのか。それを仙道は知っていたのか。知っていてそんな顔が出来るのか。それに尽きる。 その核心から逃げているではないか。なにも返していないじゃないか。
 上手く紡げないもどかしさに、それでも半分は届いたのか、仙道は身を翻すとそのまま平伏する。やはり見えない。 心根も心情もなにも見えなかった。
「家人のゆき過ぎた失言をお詫びいたします。両家の間に過去どのような確執があったか、当方も事情のよく分からぬ 若輩者。心得違いがございましたら、お許しください。しかし、その諍いを掘り下げて反芻して角をつき合わせていても、 なにも光は見えてこないと存じます。もし仮に紀伊家家中で尾張さまを軽んじる気風がありましたら、父共々、即刻 処断いたすつもりでおりますので、ご容赦いただくようお願いいたします」
 父共々の部分を殊更強調して深く平伏する。流川には仙道の言わんとするところが見えてこなかった。
 色々あったが水に流せと言っている。色々とはなんだ。お互いさまというふうにも取れる。どういう意味だと 赤木に視線を移せば、その隙をついた木暮に刀を取り上げられた。それを確認して赤木は流川の側から 脇に避け、紀伊さま、と深く平伏したまま低い唸るような声を絞り出した。
「思慮深きお心遣いとまれにみるご英断、ただひたすら感じ入るばかりでございます。しかし、此度の惨劇、 無礼は承知なれど、尾張にとっては痛恨の極みである。お心にとどめておかれるが宜しかろう!」
 畳に向って吐き捨てるような言葉だった。仙道はスっと面を上げ、隋人に視線を送る。それを受けて総員がひれ伏す中、
「肝に銘じておきます」
 と、再度頭を垂れた。流川はその背を呆然と見つめたまま木暮に促されて広間から退出させられた。理解できない 想いが残像のように尾を引く少年の姿を、仙道は拳を握り締めたまま、その場で見送った。
 そして吉通の亡骸は江戸での葬儀のあと、その後国許へ運ばれ、尾張徳川家の菩提寺、徳興山建中寺に埋葬される こととなる。



 あの日、尾張家で起こった顛末を聞かされて、流川に会わなければと駆け出した仙道の腕を押し留めた牧は、紀伊家 江戸家老がおまえの行方を捜していると付け加えた。機制が削がれ逡巡したのち、それでももっと詳しい事情が知りたく もあった仙道が、ねぐらの和歌山藩邸に帰りつくと、国許からの父の使者と家老が平伏して待ちうけていたのだ。
「此度、殿におかれましては、吉彰さまを世嗣としてお定めになられました」
「な、に?」
 長く捨て置かれ、居候のような立場が一転して世継ぎの君。言葉も出ない仙道に家老は寿ぎを告げたあと初仕事を申し 伝えた。すなわち、紀伊家当主の代理として尾張藩邸に弔問に伺うようにと。
 その言葉を聞き終わらないうちに仙道は立ち上がり無言で自室を飛び出した。たぶん今度この屋敷に戻るときは、もっと 瀟洒で広い部屋が用意されているだろう。その地位に相応しいような。そんなことはどうでもいいが、どうしてもいま、 確かめなければならないことがある。あのひとならなにか知っているに違いない。あのひとしかいないと、仙道は幼い頃 に面倒を見てくれた父の生母――浄円院が住まう離れに訪いを入れた。
「おばばさま。おばばさまはおられますか!」
 五十にはまだ手が届かない、実際息子の若気の至りで三十を前にして「ばば」と呼ばれる身となった浄円院は、脇息 にもたれ掛かったまま手にしていた文から視線を上げ睨めつけた。
「騒々しい。そのような大声で呼ばわらずとも、耳はまだもうろくしておらん」
「先触れなく失礼いたします」
「おや。どちらかと思えば彰どのではございませぬか。お足が遠のき幾年。もはやこのような枯れ果てたばばのことなど 忘れてしまわれたのかと捻くれておりました」
「申し訳ない。おばばさまの嫌味にはあとから幾らでもお付合いします。胸襟を開いてお聞きしたいことがございます」
 祖母がチリンと鈴を鳴らすとすかさず女中が空茶を手にシズシズと進み出た。何年も会っていないのに嗜好を 知り尽くした無駄のなさ。そしてそのあとに続くであろうお誘いもきっちり理解して、仙道は茶碗を手にした。
「辛党の彰どのに茶菓子は不要であろう。おささを頂戴するにも支度がかかる」
「大層な肴は必要ないですよ、おばばさま。謹んでお相手仕ります」
 浄円院は文を文箱に戻すと姿勢を正して愛孫と対した。
「して世間から隔たれて久しい私がなにを知っていると?」
「父上のことです」
「吉宗どのの一体なにを?」
「清渓院(吉宗の父)さまやおふたりの伯父上さま方を、父上はほんとうに弑されたのでしょうか?」
 浄円院はホの形のまま固まった口元を、その後盛大に歪めてコロコロと笑った。
「胸襟とはそういうことか。珍しくも切羽詰まったご様子。何事かと思いました」
「すみません。傷口をほじくり返すような真似は避けるべきだとは重々承知していたのですが――」
「そうよの。いままでだれも遠慮して聞いてこなんだものを、なにか抜き差しならぬ事情がおありか?」
「ご存知でしょうか、尾張のご当主さまがなにものかによって毒を盛られ薨去なされました。ご当主さまは父上と 将軍後継を争っていた仲。よもや父上が手を下されたかという懸念は、お三方を手にかけられたかも知れぬという 疑惑に端を発しております。そのような方であれば、親戚筋の尾張さまも、そして畏れ多くもご大樹までも、己の 大義のためなら止むを得ぬと断じられるのではないかと」
 浄円院は、尾張さまがのう、と一息ついて茶をすすったあと、さも当然のように言い放った。
「では、吉宗どのはとうとう仇を討たれたのでしょうな」
 と。



「なんですって!」



「なにやら連綿と続く悪習らしいの。真偽のほどは定かではないが、清渓院さまは尾張家の手によって、その前の 尾張の世嗣は紀伊によってというふうに、血なまぐさい歴史を刻んでおる。何故そこまでいがみ合わねばならぬのか、 殿御というものはどれほどまでに浅ましい生き物であろう」
「嘘だ!」
「嘘だと一笑するは容易い。しかしそう判じられるわけは、彰どのの胸中に澱むものがあるせいではなかろうか。 吉宗どののふたりの兄上さまに関しては私には判じられぬ。しかし清渓院さまの死に関して、亡骸を前にしたあの 慟哭と、私が父上の敵を討ち果たしますと叫んだ言葉は偽りではないと、いまでも思うておる」
 思わず浮かせた腰を戻し、焦点の定まらない視線を祖母に返す。二代藩主の側室となってからこの方、三十年以上 紀伊家を見つめてきた聡明な祖母の瞳は、数多の感情を削ぎ落としたかのように澄んでいた。
「まこと、なのでしょうか」
「直接手にかけて斬り捨てる場面を目で見ぬ限り、だれかに命じて手を下したのであれば、確かめる術はない。その 結果だれが一番利を得たかなどあとから取り付けた事由であろう。彰どのの理論から言えば、此度の尾張さまのご薨去。 吉宗どのではなく尾張家中ということになる。それとも吉宗どのに出来て、尾張どのには出来ぬと言い切れる 確信がおありか? 清渓院さまがお亡くなりになったとき、かの方は二十歳を少し過ぎたころ。そのころの吉宗どの を彰どのはご存知か?」
「……」
「四男坊には四男坊の旨味があろう。いまの吉宗どのを、それこそ権力欲の権化のように思っているかも知れぬが、大した使命 もない代わりに負わねばならぬ義務もない。そこそこの勤めをこなしていれば、日がな鷹狩に興じていても だれの文句も出ぬ立場であった。彰どの。その身に流れている放蕩癖が、突然降って沸いたとでも思っておられるのか?」
 享楽主義者はその血によるものだと哂われて、その血が凍る思いだった。同じような立場のころ、同じように その場限りの遊興にふけっていたと。
――そして。
「そして、仇を討った……」
「だからと言ってそれが許されるものでもない。そして今度は尾張からの仕返しを待つ身となる」
 仙道の背に冷たい汗がしたたる。その言葉に含む怖気を感じ取って彼は喉を鳴らした。
「だからなのか、だからオレなのか――!」
 いまさらながらに世嗣として処遇されるわけ。父は他の弟たちではなく仙道を槍玉に掲げた。無論己の身と新たな世嗣と。
「オレならいいってか……」
「なにやら彰どのが次代の紀伊家の家督を継がれると聞き及んだ。まずはお祝い申し上げる」
 落飾した身とはいえ、やけに世情につうじている浄円院は彼の絶望を感じ取って、それでも事実を突きつけてくる。これ 以上なにを言われても驚きはしないと、仙道は胡乱な目を上げた。
「めでたい、ですか?」
「陽の目が当たったということに関してはの」
「捨て駒じゃないですかっ」
「そうであろうか」
 ギリと仙道の端正な顔が自嘲から歪んだ。
「確かにおばばさまが仰られたように、二十歳のころの父上を知りません。けど、いまオレの目の前にいるあのひとは、 生まれてこの方見向きもしなかった長子を、尾張からの弾除けに利用するようなひとなんだ。母の身分が低いのは オレだけではない。浄円院さま。なぜそこまで父に疎まれなければならないのか、いまでも理解できません」
「彰どの。そなたは吉宗どのが十四のときの子。言い換えればそれほどしか年が離れておらぬ。分からぬか。疎ましいの ではなく、畏れておるのだ。わが子とはいえ、幼きころよろ聡明であったそなたを、吉宗どのは政敵と捉えておる。 少なくとも私にはそう見えておったが」
「いまさらのわけはそういうことか。あのひとらしい、や」
 なぜこの時期なのか。一切が腑に落ちた。いつか来るこの日のために年の近い長子を、放逐当然の扱いで宙に浮かせて いたのだとしたら、父子として過ごした歳月が虚しすぎる。あまりにもあざと過ぎる。呆然自失としかけた孫を横目に 浄円院は、深く脇息に深くもたれかかり、ポツリと呟いた。
「いまさらの理由はもうひとつあるのではないだろうか」
「もうひとつ?」
「そなたは先ほど弾除けと申したが、私は違うと思う。いまの彰どのの立場はなんじゃ。次期和歌山藩主。それを譲られる 身。吉宗どのが藩政に尽力し、能力の総てを注ぎ込んだ和歌山藩じゃ。わが子を称して手前味噌かも知れぬが、清渓院 さまがおわしたころよりも国力は安定しておる。その和歌山をそなたが継ぐという。そこには彰どのが感じておられる 以上の親心が存在しておろう。そしてご自分は――」
「そしてご自分は――」
「さよう。道が開けてきたのではないか。いや、道を開いたと申したほうがよいか」
――身を将軍家へ移行する。そのための道。
「悲観することはなにもない。糾弾の視線は一気に吉宗どのに向う。尾張さまが薨ぜられてすぐに二の丸を伺おうかと いう気質の方じゃ。尾張の私怨の目にはそなたは映らぬであろう。そう思われぬか、彰どの?」




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