かすみ色の花ふぶき









〜七




 一方、血相を変えて小走りに行き交う藩士たちで尾張藩邸は一日中狂騒と化していた。
 さすがの木暮も流川ひとりにべったりと引っ付いているわけにもいかず、目を開けているだけ、呼吸をしているだけ の主を気にかけながらも葬儀に向けての諸事に忙殺せざるを得ない。取り合えず回らない頭のままの背を押して食事だけ は取らせようとした。
 しかし、いつも呆れるくらいに――それでも徳川の名を冠する武家の子かというくらに食い意地の汚かった少年が、 いつまでたっても膳に手をつけようとしない。
 無理もない。兄がもがき苦しんでいる姿を目の辺りにしているのだ。毒見されていると言っても説得力がないだろう。 仕方なく木暮は膝を進め、「お食事から総て、お口に入るものは信頼のおける藩士が立会いの下でつくらせております から」と、主の膳の前に座した。無礼を詫びて伸ばした皿に流川の手がかかった。
「食うな!」
 好物中の好物、エビの素揚げが畳の上にポトリと落ちた。
 木暮は目を瞬く。
 腰を落ち着けて食べろとか、ゆっくり味わえとかの小言はあっても、食べ物を粗末にしてはいけないなど、 赤木がお側係りを務めていたころより一度も口にしたことのない少年である。その彼が木暮の手を阻むというより、 膳から木暮を守るように両手を広げていた。
「だれかが、あんなふうになるの、見るんは厭だ」
「楓さま……」
「だから、木暮は食うな」
「いえ、私がお毒見をさせていただきます。あのような過ちは二度と繰り返させません。楓さまに安心して召し上がって 頂くように――」
「いー。他の藩士たちもそんな面倒させなくていー」
「えっ?」
「一番安心してられる藩邸でさえもあんなことが起こる。だからって細けーことにピリピリしてちゃ、水も 呑めないし息だってできねー。他にお役目をいっぱい抱えてる藩士たちに、これ以上用事増やしたら、藩が立ち行かなく なる」
「か、楓さま?」
 こんなに長い科白を聞いたのも初めてなら、藩のためを思った理屈のある説明も終ぞ耳にしたことがない。腰が抜けん ばかりに驚いている木暮を置き去りにして、流川はさらに正論を口にした。
「それに、だれか知んねーけど、あんな手を使ったヤツらは、こっちが絶対警戒してると思ってる。いまは食いもんが 一番安全なんじゃねー?」
 突然その考えに至ったのか、彼は畳の上に放り出されたそれをもろともせずにパクついた。



 その話は飛ぶように藩邸を駆け抜けた木暮によって、赤木、三井へと伝えられた。
「若がそのようなことを――」
「我がままで依怙地なくせにぐうたらで、バカな子ほど可愛いって心境だったけど、ちゃんと誠心誠意お仕えしてよか ったな、赤木」
 そのひと言で感涙にむせぶ赤木の涙は一気に引っ込み、
「ま、確かにハラ減ってた方がまともに思考回路が回ることもあるわな。一時的な錯乱状態だったりして」
「ん。オレとしても過度な期待は寄せないつもりだけど、もともと頭の回転は速い方なんだ。剣筋に現われてるだろ」
「あんなもん、条件反射と運動神経だけだろーが」
「三井も一度竹刀を合わせてみればいい。安西先生直伝の剣さばきはそりゃ、目を見張るんだから。なにがスゴイって 相手の攻撃に対する読みだな。読み。うーん――でも……」
「頭使ってんのか?」
「読みもスゴイけど、負けん気が一番かな、やっぱ」
「ほれ見ろ。本能じゃねーか」
 主を肴に不謹慎過ぎるぞ、と赤木が拳骨をお見舞いしているころ、 目まぐるしくひとが入れ替わり、今後の取り決めを次々と報告を受けていた流川は、動かないようにと釘をさされた部屋 の居心地の悪さから当然のように逃げ出していた。
 惨劇のあった奥書院はすっかりと清められ兄の遺体は自室に移されたという。あてどなく藩邸をウロついて、流川は 一命を取り留めた甥を見舞った。
 嫡子五郎太付きの奥女中が目を真っ赤に腫らしたまま出迎えてくれる。広い自室の真ん中に、ちょこんと敷かれた小さく 見える布団の中の甥はもっと小さい。枕元で居住まいを正し、五郎太の寝顔にヒソとだけ眉をしかめた無口な義弟に ――いまはもう前藩主の正室と称されるようになった輔姫は、ポツリと口を開いた。
「最前よりは呼吸も落ち着いてきました。熱も下がったようです。しかし侍医が申すには、一生枕の上がらない体に なるのではないかと」
「……」
「対処が早くてよかった。あまり菓子を好まぬ子でしたから」
 俯いた視線の先で流川がギュっと手を握りこんだのが分かった。それでも彼から言葉は返らない。あまりの出来事に、 怒りすら上手く表現できない義弟と、だれかに語りかけでもしていないと、なにを口にするか分からない寡婦と。 表の喧騒から置き去りにされたような中屋敷の奥深く、慰めは返って不必要だった。
「あり難いことに将軍家から御典医を遣わされました。上さまは年の近い五郎太をそれは目にかけてくださって」
 言って彼女は我が子の額に掌を当てた。
「五郎太は楓さまに憧れておりましたから、目覚めればきっと大喜びすると思います」
 オレ、と焦点の合わなかった流川が初めて輔姫を見た。無愛想で無口で無表情。そんなとき、生まれつき与えられた 無駄な美貌は凄みにしかならない。思えば五才の幼子に優しい声をかけたことも、遊んでやった覚えもなかった。 顔を合わせることすら年に数度という疎遠さだ。
 憧れてと言われても思い当たるフシがないのだ。
「お庭で素振りをしていたら、楓さまが型を治してくださったとか。それはもう大喜びで報告に参りましたから」
 そう言えばいつだったか、庭で体につり合わない竹刀を振り回していた五郎太に、位置がおかしいと竹刀の先を 指し示したことがあった。だからと言って丁寧に手取足取り教授するほど親切には出来ていない。ほんとうに声をかけた だけなのだ。あからさまな困惑が無表情の上にも乗ったのだろう。彼女は小さく淋しそうに笑った。
「楓さまのような剣士になるのが五郎太の夢なのです」
 幼子のかそけき命のように揺れる灯火。瀬戸際でつなぎとめるものは、もう祈りでしかない。目が醒めたら、笑えるように なったら、床上げが出来たら、竹刀が持てるようになったら、もう一度庭に出よう。
 約束するから早く起きろ。
 ちょうど母を亡くしたばかりの頃兄がしてくれたように。
――案じてらっしゃるよ。君があまりに頑是ないと仏様の元へゆけないじゃないか。
 そう。
 かけがえのないひとを亡くしたのは自分だけじゃない。
 そんな願いを込めて瞑目した。
 そのとき、赤木さまがお探しです、と奥女中が次の間で指をついた。促されて立ち上がり、追う寡婦の視線を 受け止めて彼はひと言、
「また、来ます」
 と、約束して甥の私室を後にした。



 廊下に出るとその場で平伏していた赤木と木暮が立ち上がる。流川の後に続いたまま、お召し代えをと諭したあと、 将軍家や他藩からの使者がそれこそ列をなして待っていると告げた。
 赤木は身構える。きっと厭だとかめんどくせーだとか、駄々をこねると思っていたのだ。木暮から聞いた話を差し引いて も、手を焼いた月日と数々の行状はそうそう拭えるものではない。
 それはそれで厄介なのだが、掌を返したような下にも置かない扱いと、身に慣れない処務の多さにいつ大爆発を起こして もおかしくない。そんな状態でも山積している諸事はひとつひとつ片付けてゆくしかなかった。
 上屋敷に移り、将軍家からの使者に始終無言で平伏し、特に吉通を可愛がってくれた水戸の当主からに言付けにも、 視線を伏せたまま。ただ置物のように座していた流川を慮って木暮は声をかけた。
「少し休まれた方がいいのでは?」
「いー」
 厄介ごとはさっさと済ませろとばかりの投げやりなのか、居並ぶ使者たちをジャガイモが転がっているくらいにしか 判別していないのか。恐らく後者だろうと身じろいだ赤木の背後に、老いた藩士が転がるように駆けて来て平伏した。
「騒がしい。尾張の武士たる者がなにを慌てふためいておる!」
「申し訳ございません、ご家老。ご使者が。新たなご使者が到着されて――それが、その、血気逸る者たちと随行の方々 との間でひと悶着があったようで……」
「弔問に訪れてくださったお客人になんたる振る舞いだ! 見苦しい。尾張は礼も知らんのかと陰口を叩かれるぞ!」
「しかし、赤木さま! 和歌山藩の、紀伊家からの使いとあっては!」
 それを聞いた三井が拳を畳みに二度、三度と叩きつけた。ぼんやりと視線を上げた流川の前で三井の拳は皮膚が裂け て血が滲んでいる。木暮は思わず駆け寄って懐紙でそれを包み込んだ。
「くそぉ、紀伊のヤロウ! よくもヌケヌケと顔を出しやがったな!」
「三井、無茶なことをするな」
「若の御前だ。それに言葉を慎め」
「どう慎んだって、尾張のものはだれだって知ってる事実だろうが!」
 赤木と木暮と三井の三人は藩校での同期。年も同年。机を並べて「論語」に格闘していた経歴から互いが気安い。 しかし、かみ合わない緊張感を抱え込んだ三人の様子に、さしもの流川も意識を引き戻された。
「事実ってなんだ?」
「若!」
 低い、とてつもなく融点の低い怒りに触れて三井は瞳を瞬く。どこか浮世ばなれした少年がこんな顔をするとは思わな かったのだ。
 いつ会っても寝ぼけ眼の呆けツラか、道場でひたむきに剣を振るう姿しか知らない彼にとってこの弟君とは、恐らく 一生交差することのない存在だった。剣の腕は幼少の頃より抜きん出ていたらしい。実兄の吉通など初めて一本取られた のは弟が八つのときだったと、目尻を下げて語り草していたくらいだ。
 だが、いくらひとつに傑出しているからといって、ああも見事に他の総てを取りこぼす必要もないだろうとふつうに思う。 箸にも棒にもかからないとはまさにこのこと。海のものとも山のものとも、たぶんどちらも関わりを拒否するような 無精者の無駄飯喰らいだ。
 彼ほど御三家の威光をまったく別の意味で謳歌しているものもいるまい。宮仕えなど、どう贔屓目に見えても 勤まるはずもなく、恐らくどこかの支藩に養子にだされ、しっかり者の能吏に脇を固められ、藩主として一生を まっとうする。結構な身分とはこのことだ。
 けれど、確かに、十も年が離れた腹違いとは思えないくらいに兄弟仲のよいふたりだった。そして、藩主が薨じ られたいま、世継ぎである五郎太があの状態であるいま、尾張の次期藩主はこの少年でしかあり得ない。そしてなぜか、 なぜか――三井にとってこの一点が信じられないのだが――赤木と木暮が手塩にかけて慈しんで育ててきた少年でも ある。
 ならば知る権利がある。
 三井は背筋を伸ばした。
「尾張と紀伊は昔っから仲が悪かったですからね。それに弟君はご存知じゃないでしょうけど、事実上、将軍後嗣 をウチの殿とあちらで争ってる。おまけに御年五才のご大樹は蒲柳の質。不謹慎ながら毎年冬を越せるのかとささやかれて るくらいだ。だから、殿になにかあったとき、一番徳をするのは紀伊の吉宗なんですよ!」
「止めろよ、三井」
「知らずにいる方がよっぽど不幸だろうが!」
「それ、ホントか?」
「若。お座り下さい」
「ソイツが兄上を殺して五郎太をあんな目に合わせたのか!」
「紀伊家の跡目を継がれるときも、実の父親から兄まで亡き者にしてその地位を掴んだってウワサの御仁だからな」
「なんの根拠もございません!」
「答えろ、赤木!」
「会って確かめりゃいい。紀伊がどんな顔して弔問に訪れたか、見極めればいい。弔辞ひとつ、立居振る舞いひとつ、 心ん中で舌出して笑ってりゃ、だれだって気づくだろう!」
「三井!」
「会う」
「楓さま!」
「ソイツに会う!」
 なかばすがりつこうとする赤木と木暮を振り切って流川は使者の待つ部屋に飛び込んだ。
 先触れの知らせから総員平伏したままのシンと静まり返った広間で、叩きつけるような物音を立てて入室した 尾張家当主代理は、面を上げたひとりの男と対峙してその場に凍りついた。
「紀伊家当主の名代として参りました。吉宗が一子徳川吉彰と申します。以後お見知りおきを。尾張さまには突然のご不幸、 心よりご冥福をお祈りいたします。父もあまりにも早すぎた尾張さまのご薨去を、御三家の損失であると 申しておりました」
 と言って思惟の読み取れない表情を浮かべた男は、流川が会いたいと願っていたそのひとだった。



 初め。
 あの日会って決着をつけなければならない相手だったから、痺れを切らせてやって来てくれたんだと、ただそう 思った。
――仙道。
 あんな惨劇を目の辺りにして、突然に血を分けた最愛の兄を奪われ、環境が激変して、藩士が向ける目までも変わって、 それでも果たせなかった仙道との約束を忘れてはいなかったから。いつになったら屋敷を抜け出せるだろうと、 兄の葬儀が済んだら少しは解放されるだろうかと、ぼんやりとそう思っていた。
――仙道。
 だからこの場でその姿を目にして、この二日稽古も出来なくてウズウズしていたから、仙道と打ち合ってウサを晴らせる と、流川はあるかなしかの笑みを浮かべて一歩踏み出したのだ。
 躰が前のめりになってその場に踏みとどまる。あの日の別れ際のさんざめいた感覚が蘇りそうになり、流川は 切れ長の瞳を何度も瞬くことでやり過ごした。
 目線を合わせて語りかけられ、流川の放つ倣岸で辛らつな言葉ひとつひとつになぜか目を細めて笑った男。 藩邸にいれば当然のこと。兄以外にそんな接し方をするものはなく、江戸の町に飛び出しても、男女を問わずあからさまな 秋波を浴びせられたり喧嘩を吹っかけられたり。そんな土産話を持ち帰っても、兄は喜ばないどころか過剰反応すると 分かっていたから、その後なぜか思いついたのが道場破りだった。
 だが、幾つかの道場を破ったからと言って、最初に考えていたほど楽しくもなく得意に思うこともなく、もっと強い ヤツを出せと詰りたい気分で、次々に手当たり次第門をくぐったのだ。
 そして、あの道場で、この男と出会った。
 竹刀の先が触れて血が滾り、視線が絡んで目の前が沸騰した。
 単純に出来ているのか、剣術に置いてのみ敬意と執着が生まれるのか、流川の意識はまっすぐこの男に向い。
 意識を奪われた先、腕を取られ髪をすかれ、その指先から伝いくる熱が、自分ひとりが抱えている片側通行の思いで ないとなぜか信じられた男。
――仙道。
 あんな行為はそれこそ初めてで、流川の中に止めどもないざわめきだけを残した仙道の行動の理由がどこにあったか など、知るほど聡くもなかった。自分自身の情緒の中で著しく欠けているものが、この男の全方向に抑えつけられた 真っ平らな直情を刺激したなども。
 ただ膝が抜けそうになるほどに対処しきれなかった奔流。 象も知らない快楽までの秒読み。覚えたての身の疼き。剣を交えて会いたいと願い。剣を離れても触れたいと思った。
 知らず、手の甲で唇を拭った流川を見て、仙道の瞳が苦痛に揺れる。その表情はあの日の最後に見た情景と直結した。
――きょうと同じような流川と、同じようなオレが出会えるようにさ。
「せん……」
 あれはこのことを差していたと知覚した途端、現実に引き戻される。
――殿になにかあったとき、一番得をするのは紀伊の吉宗なんだ!
 なんでと思い至るより先に、高く結われた切り髪が揺れ、流川は剣を抜き放っていた。




continue