〜六 ――では気をつけて行ってきなさい。 そう受けて礼を取り、総員平伏し、当主の退席を待つ場がシンと静まり返った。異様とも取れる間。肌が痛むような 沈黙のあと、家名を染め上げた天目茶碗が流川の眼前に転がってきた。 兄、愛用の逸品。うっかり手が滑って零してしまったんだな、としか思いつかなかった。 それを取り上げるために目線を上げると、その先で上座の兄の躰がグラっと大きく傾いだ。 名君と奇人との両極端な評価を受ける兄だが、温和な中にも姿勢や己の立居振る舞いには厳しいひとだったのだ。 腐っても尾張柳生九世の名を受けたもの。新陰流最大の庇護者でもある。 そんな兄にあるまじき行動。具合でも悪いのかと上体を戻すと、ゴボっと耳に残るような厭な物音がした。 「殿!!!!」 「だれか! だれか! 侍医を呼べ!」 息を呑んだ悲鳴。襖を開け放つ音。藩士たちが畳を叩きつけるような音を立て駆け寄り駆け去る。ゴボゴボと兄の声 は音にならない。口から泡が零れ顔色が土気に変容している。その躰が縮こまって仰け反った。一度大きく跳ね喉を かきむしり、躰はあり得ない方向に折れ曲がっている。もう片方の手は宙を掴んでいた。 なに。なんだ。なにが起こったんだ、と膝を進めると急な圧力。だれかが流川の躰を後ろから羽交い絞めにしていた。 「あに、うえ?――」 「近寄ってはなりません!」 赤木だ。赤木がなぜ自分の行く手を阻んでいる。なぜ兄に駆け寄ってはいけない。なぜ? なぜ? あんなに苦しんで いるのに。なぜ。なぜ、あんなに苦しそうなんだ――。 「殿! 殿! しっかりなさってください!」 「畏れながらも食されたものを吐き出させるのだ! 早く!」 駆け寄る三井。その手を尋常ならない力で振り払ってもがく兄。鼻をつく異臭。震えが、震えが止まらなかった。 「侍医はまだなのか!」 「楓さまをお連れしろ!」 「木暮! 早く若をお連れするんだ!」 「ご報告申し上げます! 御膳所のお毒見係りの女中が自刃して果てております!」 「あの焼き菓子か!」 さらなる悲鳴と歯軋りが充満し、その中に転がるように飛び込んできた別の藩士はほとんど泣き声を上げていた。 「ご家老! 五郎太さまが! 五郎太さまも同じように菓子を召し上がって!」 「なんだと!」 「どういうことだ!」 「藩邸を封鎖せよ! だれひとり外に出してはならん!」 「殿!」 「殿!」 絵巻で見たことのある地獄絵図とはこういうことだ。手を伸ばし、その先にある兄の躰が大きく痙攣する。見開かれた 瞳は一度激しく怒りを含んで光彩を失った。抱きかかえられ、闇雲に暴れた。赤木の体格からは分かろうものだが、 総ての抵抗虚しく抑え込まれて、木暮とふたりがかりで部屋から連れ去られる。 声にならない。言葉にもならない。赤子のように、あにうえ、あにうえ、あにうえと。 引き連り出された廊下を曲がる際、見えた兄の手は力を失くして出口を求め、伸ばされたままだった。 奥書院は修羅場と化した。 生ぬるい風が吹いていた。 重く圧し掛かるような雲が垂れ込め、陽が落ちる前の明るみは遥か遠くに覗いている白い雲の隙間から差して いるに過ぎなかった。やけに禍々しい。どんよりとしたそのさまは気鬱ささえ増長させる。 折り重なるように激しく動く雲の流れ。このままではほどなく雨になるかもしれない。 仙道は陵南道場の式台に腰掛けて開け放たれた門の向こうをぼんやりと眺めていた。 昨日の牧の話を受け、朝一番で国許の父に文を送った。離れて暮らすようになって一度もしたためたことのない、 本人にすれば貴重なシロモノだ。 あの父が本気で画策に動き出せばおそらく釘を刺した程度にもなりはしない。『藩政にご尽力くださいますよう』とは、 おまえになど言われたくないと一笑され、吹けば飛ぶような懇願だ。けれど、なにか動かずにはいられなかったのだ。 実際に傾きかけた藩の財政を藩主自ら倹約に乗り出して立て直したひとだ。豪快な気質に惑わされがちだが、地道な 手段こそが治世へのもっとも近道だと知っているひとでもある。ただみなぎる自信と天に選ばれたものであるという自負が 総ての主幹にあって、能力のないものは必要ないと斬り捨ててしまえる倣岸さを持ち合わせている。 だから藩政に、そして幕政に不必要だと判じてしまえば――そう思い至って仙道は重い嘆息をついた。 「なにしてるんだ、仙道のヤツ」 式台に陣取ったその余りの覇気のなさに、福田は同じ門弟の越野を呼び止めた。聞かれた越野の顔には、直接本人に 問いただしやがれと大書してある。 「稽古に顔を出したと思ったら、腰も落ち着かないでウロウロしだすし、そうかと思ってたら、あそこでずっと 外を睨んでんだからな」 「なにを待っている?」 「さぁ? 言わねーから、アイツ」 門弟たちの憤りも溜息も彼には届かない。本人はなんでもないと言い張るが、ムツカシイ顔をして玄関から戻れば 、気の入らない素振りをお情け程度にこなしてまた玄関に戻る。これでなんでもなかったら、世間のどんな奇行も 大したことないで済まされるだろう。 「やる気がないなら帰るように言ったらどうだ。あれでは他の門弟たちにも影響が出る」 「そう言ってやったんだけど、もうちょっとって引き伸ばすんだよ。待ち人にしても大げさ過ぎやしないか?」 「まさか、吉原の花魁が足抜けするのを手伝って、手に手を取って仲良く駆け落ちっていうんじゃないだろうな」 「福田ぁ。ありもしないこと思いついてんじゃない。それに仙道はこんなとこに女を呼び出さねーよ」 「それもそうだな」 結局、本人の口が重い以上余計な詮索でしかなく、諦めて道場へ戻ろうとしたふたりの前で、仙道が式台から腰を 上げた。門前に現れたのは海南道場で師範代を勤めていた男だ。仲がいいのは知っていたが、なにか切羽詰まった様子で 仙道は地を蹴る。この距離で会話が聞こえるはずもなく、ふたりは顔を見合わせて一度逡巡したあと、結局牧に任せる かたちで道場へ戻っていった。 「牧さん!」 陵南道場の仲間たちが己の挙措に一喜一憂しているとは気づかない男は牧しか見えていない。きょうは下城後 そのままなのか裃姿。呑みに行こうのお誘いでないことはその厳し過ぎる表情から一目瞭然だ。 きのう以上に差し迫った様子。 仙道の喉がゴクリと上下した。 「どう、されたんです?」 逸る。思わず牧ににじり寄る。早く。なにがあった。 そして。 ――なぜ流川は来ない。 「牧さん!」 「きのうのきょうでこんな事態になるとは、正直思わなかった」 「言ってください!」 「尾張の吉通さまが、お亡くなりになった。原因は食傷だそうだ」 「そ、んな」 「いま尾張の藩邸は収拾のつかないありさまだろう。なにせ、ご当主だけでなく、五才のご嫡男の五郎太さまも同じものを 召し上がって、こちらは少量だったお陰で一命は取り留められたが、未だに生死の境を彷徨っておられるらしい」 「なんで!――」 血の気が引く。足元が音を立てて崩れてゆく。仙道の危惧をあざ笑うかのようなこの頃合。なにも知らなくて、知った あとですら止める手立てはなく、深く父に食い込めなかった自分が恨めしくさえある。 存在を蔑ろにされて肩の荷が下りた気がした。気ままに生きてゆけと言われ初めて父を憎んだ。そんなに煙たいのか 自分の存在が。ならば心ゆくまで放蕩を楽しんでやろうと、なぜ諦めた。父の果断に過ぎる行状を脅かす存在になって やろうとなぜ思わなかった。なぜ剣術に明け暮れていた。 町方の風情に溶け込んでいっぱしの剣士を演じてみせてなにが楽しかったのか。 藩の実情はなにも知らない。知る立場にいなかった。牧の方が詳しいのは当然だ。どうやって父が警備の厳重な尾張の 藩邸奥深くに住まうひとに手をかけたのか知りようもなかったのだ。 ハッと大きく息を吐いて仙道は両手で顔を覆った。 ご当主のみならず幼子にすら情けをかけない徹底ぶり。この際尾張を根絶やしにしてしまうするつもりか。手を血で染め ひとの怨嗟を飲み込んで掴んだ帝位にどのような陽が当たるというのだ。 いまさら手紙を認めたところで、父の計画は既に転がり出していたこの皮肉。 どこかで信じていた。どこかで許していた。しかしまさか本気でことを起こすとは、牧の話を聞いたあとですら、 及びもしなかった。 流川の兄。流川の甥。 流川の。 ――オレよりバカ。でも、結構いいヤツ。 仙道は全身が弛緩したように膝から崩れ落ちた。 「食傷ってなんですか! 毒殺なんでしょ! 違うんですか!」 「デカイ声を出すな」 「出さずに入られませんよ! 紀伊の刺客が、ご大樹よりもまず後継候補から抹殺したんだ!」 「決め付けるな! ここでおまえが冷静さを失ってどうするんだ!」 「決め付けじゃなかったら、なんなんだ! こんな時期に敵対した相手が食あたりを起こす偶然が存在する んなら、この世界から謀略なんて言葉は必要なくなる!」 「落ち着け、仙道!」 「これが落ち着いていられるか! 流川なんですよ、牧さん! 吉通さまは流川の兄上さまなんだ!」 「なんだと!」 そうか、と牧は思い至った。流川とは、尾張いちの美女と称された先代藩主の側室、流川の方のことか、と。 そんな牧を尻目に仙道の思考は目まぐるしく行き来する。 では。ではなぜ流川は無事だったんだ。運がよかったのか。それともあの少年の言動からすれば残しても大した害には ならないと踏んだか。 いや、ただ仕損じただけかも知れない。 次は流川なのか。 居たたまれなく走り出そうとした仙道の腕を牧はがっしりと掴んだ。 初めてそのひとと出会ったのは五つか六つの頃。母の葬儀の日だった。 心の臓が弱く長く臥せっていた母は朝になっても目覚めず、ひっそりとだれに見取られることなく亡くなったらしい。 泣きむせぶ奥女中に叩き起こされ身支度を改めて通された母の私室で、父はひっそりと告げた。 ――母上はお亡くなりになった。 そう教えられ視線を移した先のやや青ざめた表情の母は、いつもとなんの変わりもなく、もう会えないと言われても 実感はこれっぽっちも沸かない。なぜと、漆石が光を弾く色を成した瞳を上げた幼子に、父は少し困った顔をして、 なにも言わずに頭を撫でてくれた。 それからひっきりなしに見知らぬ大人たちが出入りする慌しさの中、母の枕頭で座したまま、おはようと声をかけて くれるのをずっと待った。空腹も感じずに、ただ待っていた。一日待ってもそのときは訪れなかった。 その母も流川の前から引き離され、暴れて抵抗してもどうにもならず、叱られて不貞腐れて、葬儀だというのに 抜け出して、広大な庭に植林された松の袂に寝転んで庭木に蹴りを入れていたら、頭上から声がかかったのだ。 ――木々を粗末に扱ってはいけない。 松の葉影で薄暗かった中にも急に影が差し、逆光で表情の読み取れないひとは、木肌に手を添えて上を見上げる。 隠れんぼのつもりかい。でもこんなに庭木がユサユサ揺れていたら、一発で見つかってしまう。現に私が見つけたように、と 白い歯を見せて笑った。 ――かんけーねーだろ。 ――関係なくはない。なににも魂は宿るんだ。こんなふうに丹精された松にだって、路上に植わっている柳にだって、 何年も地に根を張って生きづいているのだからね。 ――けったら、いたいっていうんかよ。 ――言うよ。君には聞こえないかな。 ――バカくせー。きこえるわけねーじゃん ――聞きしに勝る口の悪い子だな。けれどよくお聞き。器物百年を経て化して精霊を得て、って言うくらいだからね。 お茶碗やお箸にだって神は宿るんだ。こんな立派な木々にはそれ相当の付喪神がおわしても可笑しくない。それに、 君の母上の御霊が七日間は中空に漂っておいでだからね。もしかしたら、君が蹴り入れたそこにおいでかも知れない。 見えないけどね。まだ君の近くにいらっしゃるんだよ。 はっきり言って語られた言葉はひとつも理解できなかったし、母の御霊云々だってなにも感じ取れない。行儀悪い 格好を改めたのはいい加減湿気で背中が冷たくなってきたからだ。 上体をかがめて覗き込んでいたひとは、片膝をついてその小さな背をはたいてくれた。 ――着替えなきゃ。風邪をひいてしまう。君を見守ってらっしゃる母上に、あまり心配をかけてはいけない。 ――しんだら、しんぱいなんかできねー。 ――案じてらっしゃるよ。君があまりに頑是ないと仏様の元へゆけないじゃないか。 ――けど、けど……。 ――なに? ――ははうえだって、おおうそつきじゃねーか。 ――どうして? ――みえないじゃん。ちかくにいてもあえないとおんなじ。うそつきだ。ぜってーひとりにしねーっていった くせに! そのひとの流川の背をはたいていた手が止まった。止まってゆったりと背をなでる仕草に代わる。もう片方の手は 小さな頭を抱えるように回されていた。目の前がふさがれたというのに、なぜかはっきりとした道が開けた気がして 流川は狼狽える。抱き寄せられた大きな背は父のそれよりも温かかった。 ――母上は嘘つきじゃないよ。君には私がいるじゃないか。 ――うそだ。 ――嘘じゃない。 ――あんた、だれ? ――名前が変わって、徳川吉通という。君の兄に当たるわけだ。母上の代わりは出来ないけれど、時間が許せば 私が読み書きを見てあげるよ。 ――あに、うえ? ――そう。 ――でも、よみかきはいらねー ――どうして? ――ねちまうから。 闊達に笑ったひとの目尻が薄っすらと涙ぐみ、それが木漏れ日に弾けて、眩しすぎるそれは流川のささくれ立った 心にスッと落ちた。周りをいつも大人に囲まれて、壊れそうなほどに美しかった母と会えるのは嬉しいけれど、 私室はいつも緊張感に包まれ、居心地のよいものではなかったから。中屋敷を走り回り、一方的に窘められても応酬するものは なにもない。 初めて、答えを期待した言葉がかけられた気がしたのだ。 ――そのかわりけんじゅつ、おしえろ。 ――剣術かぁ。あまり得意ではないからな。 ――へたっぴ、なのか? ――まあね。 ――そっか、じゃ、オレがおしえてやる。 ――お手やらかにね。 約束どおり一日一度は姿を見せてくれるようになった兄の後ろばかりを追いかけていたころだ。 あにうえ、あにうえ、あにうえ、と。 流川はガバリと起き上がった。 光が零れるくらいの色彩に縁取られた痛みを伴う思い出。父よりも母よりも強い絆と親愛を与えてくれたひと。 寝てしまうと分かっていても小難しい書を読み聞かせ、困った顔が少しも困り果てていなかったひと。 剣術指南の手加減を許さず拙い技術と向こう意気だけで食ってかかり、年中生傷の耐えなかった弟に手当てしながらも 見守ってくれたひと。 ほどなくして父が逝き、彼だけの兄でなくなっても、兄はなにひとつ変わらなかった。 その兄は、もう、いない。 continue
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