かすみ色の花ふぶき









〜五




 尾張の藩邸。
 朝廷から尾張藩藩主に与えられる人臣の極位、従二位権大納言の位を持つ流川の兄であるひと。
 初代将軍家康の九男義直を祖とする家柄。
 他人に近い遠い親戚。
 どこか既視感を覚えたのも、子供の頃に会ったからかもしれない。
 そして。
 牧の言葉が蘇った。
 尾張と紀伊の戦争になる。
 父と流川の兄との。
 それだけが理由でないけれど。
 止めなければ。
 なんとしても。なにがあっても。
 あの男を。
 そう呟いて仙道は尾張の屋敷に背を向けた。



 そして翌日。
 尾張徳川家江戸中屋敷の長い廊下を、江戸家老赤木剛憲は強面と称される顔をさらに強張らせて歩いていた。
 廊下ですれ違う藩士たちも彼が放つ沸き出る怒りへの恐れと、そしてある意味の哀れみも込めて、挨拶も そこそこに通り過ぎてゆく。
 慣れてはいたが、同僚たちのその対応は彼にしてみれば願ったりだったのだ。挨拶以上の何かを口にすると、抑えに 抑えた怒りが噴出してしまう。
 我慢にも限界があるが、いまに始まったことではない。耐えろ。要点だけをかいつまんで釘をさせばいい。理路整然 と説教をかましても聞く耳を持つ可愛げもない。泣き落とし作戦も通用しないだろう。
 我慢だ、赤木剛憲と念仏のように唱えながら彼は歩を進めた。
 赤木は件の部屋の襖の前で膝を落とすと、一度咳払いをして、若、と声をかける。いらえは返らなかったが、 そのまま襖を開いた。
 案の定、朝の筆写に飽いたかつての主が、文机の上でうっ伏せていた。傍らには少年のお側係り、木暮公延が 眼鏡の下から困惑仕切った視線を向けてくる。そのだらけきった雰囲気にあからさまな叱責を返すが、受けて彼はポリ ポリと頬をかくしかなかった。
 もともとじっと部屋に篭ってなにかをするという ことを大の苦手としている少年である。置物のように微動だにしないのは、朝餉がまだ済んでおらず、動くに動けない 状態だというのが理由のひとつ。最たる原因は昨日昼過ぎに、具合が悪くて臥せっている剣術指南のひとり、安西師の 見舞いに行くというしおらしい理由をつけ藩邸を出た。その後監視と供を振り切って、帰りついたのが深夜のこと。
 しかも盗賊よろしく塀を乗り越えてのご帰還だ。知らせを受けた赤木が飛んで行けば、少年はすでに自室で爆睡中。 代わりに申し訳ないと詫びたのはこの木暮だった。
 どこで夜遊びしていたかは知らないが、朝寝、午睡、惰眠を愛する弟君がいまの状態で起きていられるはずもない。
 聞く耳がなかろうが船を漕ごうが、かまうものか。そうでなくてはひと癖もふた癖もある偏屈ぞろいの尾張家 藩士は務まらない。いまが好機なのだ。
 それなのに、お側係り筆頭のこの男は、この状態を許している。
 赤木の怒りは木暮に向けられた。
「木暮、おまえは一体なにをしておったのだ」
「いや、きのうのことはマズイから、イチオウお諌め申し上げてはいたんだよ、これでも」
「この状態でか!」
「大丈夫。ちゃんと意識はあるから」
「そんなことは聞いておらん!」
「でも少しは分かってくださったよ。だって、安西先生のご自宅にはお伺いするとの旨を先にお伝えしていただろう。 きっと先生は楓さまのお出ましをいまか、いまかと待ってらしたと思うんだ。それ袖にしてはあまりにも先様に対して 失礼だし、安西先生のお気持を思うとさ、申し訳ないでしょって、お話していたところ。楓さまはちゃんと分かって くださったよ。ほら、お小さい頃から剣術を指南してくださった恩師は大切にするべきだし」
「放蕩をお諌めするのに、そんなところから掘り下げて説明しているのか、おまえは!」
 まったくどいつもこいつも。大喝にもまったく意を解さない木暮と、そんな大声にも身じろぎひとつしない 人外のものと、赤木は自分の主義主張を貫く難しさを実感していた。
 燃料切れで身動き出来ないいま、頭と首根っこを押さえてこってりと絞り上げる。 腹が満たされてしまえばところ構わずに惰眠を貪るか、目を掠めてどこへ飛び出してゆくか分からない。 小言のひとつを捻るにも、その手順は彼が幼少の頃から培われてきたものだった。
 もともと赤木は若輩ながらも彼の父君――尾張徳川家三代当主綱誠の時代からお側係りとしてこの少年に付き従い、 その後藩主となった吉通の目に止まり江戸詰めの家中を任されている身だが、幼い主には道のなんたるかを身を持って教え 聞かせたきた――つもりだ。
 身分上極少人数と接することしか叶わない少年も、赤木の朴訥とした人柄に敬意を払っているのか、他の重臣 には呆れるくらいぞんざいで無関心な態度で挑むくせに、彼にだけはほんの僅かながらも畏れている―― ように見える。
 けれどそれと甘やかせるのとは話が違う。
 それでなくとも彼は微妙な立場にいた。赤木は一度怒気を吐き出してから、丸まった少年の背に向け 切り出した。
「朝のお勤めはまだ終わられぬのか、若」
「――ん」
「だらしのない。きちんと背を伸ばされよ」
「ハラ減った。動けない。なんか食いもん先に寄こせ」
「若君自ら襟を正されて勤めは果たして頂かねばなりません。それで下々の者に示しがつきますのか?」
「坊主じゃねーんだ。なんで朝っぱらから写経なんかしなくちゃなんねー」
「それは経ではござらん。『実朝』の――」
「どっちでもいー」
 眠たそうな焦点の合わない瞳を上げて、それでも少年は底冷えのするような声を出した。それに屈して いるほど年季は浅くない。厳つい体中から怒気を湧き上がらせて赤木は続けた。
「昨晩はどちらにおられた? 藩邸では上へ下への大騒ぎで若をお探し申し上げた。さすがの殿も顔色を変えられた のをご存知か!」
「別にオンナ遊びなんかしてねーから」
「そういうことを申し上げているのではない。その、気軽に屋敷を飛び出される気質を改め、いま一度文武に精を 出されないことには、若君のお立場が悪くなる一方だと、なぜお分かりにならない!」
「立場ってなんだ。てめぇの値打ちを吊り上げるだけの剣術なんざしたくねー。学問なんてもっと願い下げだ」
 ぽつりと呟くその心中に鬱積したものの正体を知って、赤木の胸がチリリと痛んだ。きょうこそは強い口調で、 その生活態度から一新させようと心して来たのに、そういう物言いをされると確かに弱い。
 先代藩主の一子とはいえ嫡子でなければ言わば部屋住み。尾張はなんの保障も用意できない。男子のいない他の藩か、 もしくは婿養子にでも白羽の矢を立てられないことには、一生冷や飯食いの立場なのだ。
 分かっているが、ここで言葉尻を和らげてしまっては、元の木阿弥。水泡に帰す。赤木は背筋を正した。
「そこいらの師範代では叶わぬ剣の腕をお持ちの若君のこと。いささかのご懸念も危惧の念もお感じには ならぬのであろうが、一歩屋敷を出てしまうと、そこは尾張の威光など届き申さん。御身に何事かが あれば、この腹を召したところで、いまは亡き流川の方さまに合わす顔がございませぬ。殿がご寛容だから と申せ、供の者もつけずに出歩かれるのは今後一切止めてもらいたい!」
「退屈だし」
「それが甘えだと申し上げている」
「兄上はもっと退屈らしー」
「殿も、若には甘いにも程がある」
「じゃ、もうちょっとイキのいー剣術指南を用意しろ。安西先生が来られなくなってから、シオれた柳みたいなのばっか じゃねーか。もっと仙道みてーな――」
「仙道?」
「こっちの話だ」
 言ってから少年は、なあ、と僅かに陰の篭った声を出した。
「百両ってどんくらいの価値があるんだ?」
「藪から棒になにを申される。おおよそ、米一石が一人分の一年の米消費量に相当致す。一石が一両前後ですな」
「げっ。百石分、それを小半刻でスっちまったのか」
「なんですと!」
「いー。それと、きのうと同じオレと出会えないかもしれねーからまじないって、どういう意味だ?」
「?????」
 言った本人もよく理解していないのか、親指で唇を引っかく仕草をしたあと、流川はブンブンと頭を振った。なにを 追い払おうとしているのか、珍しく朱の上った目元を見て赤木は、主の心中を占めている萌芽に気づき眉をひそめた。
 これは所謂アレなのだろうか。遅まきながら色気づいたと解釈してよいものかどうか。だが、仮にそうだとしたら、 手遅れになる前に早急に手を打たなければ。
 尤も、懸想という心情に手を焼いている少年の相手が、正真正銘の男だとはさすがの赤木も想像だにしなかったのだが。
「なんでもねー。先に言っとくけど、朝餉が済んだら出掛けるから。もうコソコソ抜け出すのは止めた。性に合わねー。 だれもついて来んな」
「若君!」
「だからメシ。出さねーってんなら、大暴れすんぞ」
 宥めようがスカそうが結局撃沈。木暮は肩を震わせて笑っている。それにひと睨み入れた後、赤木は藩邸の器物、 あるいは屋敷そのものを守るために譲歩した。
「別室に用意は済んであります」
「それを早く言え」
 跳ね起きた主の軽快な背を見送り、赤木は平伏しながら主君からの命を伝えた。
「速やかに朝餉を済まされましたら身繕いをお整え下され。表御殿の奥書院においでいただくよう、殿 よりのご命令にござる」
 流川はその秀麗な面を歪めて、一言げっと吐き捨てた。



 尾張徳川家四代当主――徳川吉通は床の間を背に着座するなり、一応儀礼上から平伏している弟の後頭部 辺りにニコニコと笑いかけながら脇息にもたれ掛かった。
 在府の近習や藩士たちからは連日のように弟の行状が報告される。捨て置くようにと軽くいなしても、下々が呆れる ばかりかこのままでは尾張の名に傷がつくと、口角に泡を飛ばしてくる始末。
 枠にはまりたがらない奔放なこの弟は、当主の家筋に連なる者としての務めを蔑ろにしているだけでなく、 なにかにつけて江戸屋敷を抜け出して芝居小屋や見世物小屋を練り歩き、挙句煮売り屋や水茶屋の床几に腰掛 けて町方の風情を楽しんでいるという。
 その罪状にこのたび道場破りなるものまでが加わったのだが、 もう少し色気が増していれば、紀伊国屋文左衛門よろしく吉原の花魁を総揚げして豪遊していたかも知れない というあて推量は、まったく笑えない冗談だった。
 姿を目にするたびに溜息が重くなるとはこのことで、まさに溺愛している弟と藩士たちとの板ばさみ。
 武術、儒学、神道を修め、尾張柳生九世を継承し、木曾林政の改革に挑むなどの為政で、尾張にこのひとありと知ら れた名君が。
 元服までは好きにさせてやれとは常々の口癖で、枠にはまって清く聡く藩主の務めを果たさなければならない 自分の代わりに、藩主の弟としてではなく、ひとりの武士として道に外れない限り、総てを許してきたのだ。
 そう告げると近習たちは、いささか常軌を逸した許容範囲の広大さに溜息をつきながら、ならば即刻元服させよと膝を詰める。 確かに彼ももう十五。弟のためを思って引き伸ばしてきたものは限界に近かった。
――楓と幼名で呼ぶと、尾張徳川家三代当主綱誠の十一男、流川は尾張の支藩が生んだ美姫―― 流川の方の美貌をそっくり引き写したような面を上げた。
「昨日はウソをついて供の者をまいたそうではないか。おまえの無茶も可愛いものだが、ウソはいかん、ウソは。 おまえも何れひとの上に立つ身なのだから、家臣たちを裏切るような真似は絶対に犯してはならない」
「けど、ほんとのこと言ったって出させてくれねーし」
「なんだ。道場破りか? それは楽しいのか?」
「うん」
「幾つ取った?」
「四つ。でも五つ目ですげぇ強いヤツと当たった。負けちまった」
「おまえがか?」
「そう。いまからソイツと対決してくる。邪魔されたくねーから兄上からも赤木にそう言ってくれ」
「そうか。それはさぞかし見事であろう。時間が許せば私も見にゆきたいものだが……」
「殿!!!!」
「若!!!!」
 のほほんと藩主が目尻を下げれば、左右から射るような金切り声が飛んだ。どこか浮世ばなれした兄弟が同時に首を すくめる。
 コホンとわざとらしく咳払い。藩主は取ってつけたように鷹揚に。弟は渋々背筋を伸ばして向かいあった。
「きょう呼んだのは他でもない。おまえの元服が決まった」
「いつ?」
「十日後だ。烏帽子親は水戸の綱條さまが快諾してくださった」
「それって……」
「そう。縁談や養子縁組の話も本格化されてくる。いままでのような好き勝手は許されない。私としてもおまえの 活劇譚が聞けなくなって残念なんだが――しかし、元服してしまうと、もう楓と呼べなくなるな。父君がつけたとは思え ないような雅な響きで気に入っていたのだが」
「これからもそー呼べば?」
「そうか」
 と、二十五歳、英邁な君と称される男はほとんど好々爺だ。側に侍っていた赤木たちの苛立ちは沸点をとうに越し、 三月の早朝にしてはエラく室温の上がった奥書院だった。その空気をまったく読めない尾張の当主はある意味最強 とも言える。
「水戸さまはおまえにどんな名を下さるのだろうか。あまり厳しいのは困るな」
 などと、まだ名前で悩んでいる。視線を流離わせ、あさっての方向へ行ってしまった当主に任せていたら、いつまで たっても本題に入れないと危惧した近習のひとりが、それこそ猛獣の前に引き出された兎のような決死の覚悟で膝を 進めてきた。
「殿の御前ではございますが、僭越ながら楓さまには申し上げさせて頂きます」
 家老の赤木は背筋を張って前を見据えたまま、その真向かいに座していた若年寄の三井寿の顔には、つまんねー議題で 時間を割くなと大書してある。
 朝一番から弟君への苦言を呈したものの、結局なす術なく引き上げた仔細は、木暮から聞いていた。家老自らの 進言よりも、他の藩士の言葉の方が身に染みるとは変な話だが、要するに厳しいながらも近しい赤木には、当主にも 弟君にも甘えが存在するのだ。
 だから赤木は他のものに肩代わりさせた。あの男こそいい迷惑だ。大汗をかいて科白を棒読みしている。
 別にいいじゃねーかと三井は思う。藩の財政を傾けるような浪費を犯しているわけでも ないのだから、放蕩のひとつやふたつ放っておけば。欠伸をかみ殺した室内には、藩士の必死の苦言が続いていた。
「幼くして母上さまを失われたことを不憫に思い、 数々の無体を殿も目を瞑っておいでだったのでしょうが、家臣たちからもそしりの声があがるようになった不手際は如何 なものかと存じます。楓さまは殿にもっともお年の近い弟君でいらっしゃいます。殿のお立場とお勤めを理解されて、 お側で支えて頂かなくてはなりませぬ」
 ここまで言い切られた当主の顔を三井は伺い見た。なにもそこまではっきりと言わなくても、と顔に書いてある。だれの 甘やかせと怠惰なのかと、三井は顎を上げて小さく笑った。
「なのにこのような放蕩三昧では、楓君は尾張始まって以来の不出来だとか、称されて返す言葉がございましょうか。 御三家の筆頭、尾張六十二万石に冷や飯者はいらぬのだと――」
 畏れ入ります――と、流川の遥か後方で平伏していた木暮が思わず声を上げたのと、尾張の当主が片手を上げたのは ほぼ同時だった。片手で場を制した当主は表情をさらに和らげて続けた。
「元服の儀は十日後だ。分かっているな、楓」
「うん」
「分かったのならもう宜しい。用事があるのだろう。出かけなさい」
「殿!」
「だが、身ひとつというのは絶対に許さん。これは願いではなく厳命じゃ。それも理解するように」
「……分かった」
「そうそう。長崎千鳥屋から取り寄せた焼き菓子じゃ。出掛ける前に食していかないか。おまえの好物だろう」
 すぐに脱線しがちな当主は茶請けを目の高さまで掲げて半分を口の中に放り投げて言う。
 だから言っただろう、と三井は赤木を見る。苦虫を踏み潰したような彼も困惑顔。群雄割拠入り乱れる乱世ならいざ 知らず、治世の藩主は多少惚けていた方が仕えやすいと割り切った方が身のためなのだが、この謹厳実直を地でゆく 男は、忍耐強く苦言を呈し続けるだろう。
 尾張最後の良心はそれでいいのかも知れない。赤木の苦渋を毛ほどにも感じ入っていない兄弟の会話は穏やかに続け られていた。
「いー。いまから対決だから。帰って来てから食う」
「そうか。では気をつけて行ってきなさい」



 告げた藩主の表情がなにか達観していたように思えた。
 それは後から分かったことだ。




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