かすみ色の花ふぶき









〜四




 見えないなにかで殴られたような――喩えて言うなら脳震盪。どこが真っ当勝負だ。なにが誤魔化しだ。衆人の前で、 しかも辺り憚らない大声を出して自分たちの罪状を言い合うな、このバカ。
 まったく流川というヤツはこちらの予想を裏切ってくれる。
 だが、やはり牧は冷静だった。
「聞き捨てならんな。ご禁制破り猛々しいとはこのことだぞ」
「やかましいわ! 自分の金でどこでなにしようが、おまえらに関係あんのか! 顔、突っ込むなや!」
「せやせや!」
「勝手なんぼ、負けてなんぼの博打渡世や。神妙に負けを認めんかい!」
「るせー! イカサマ野郎!」
「言い掛かりもいい加減にせぇや! そんな証拠がどこにあんねん!」
「せや。証拠出してみぃ!」
「ないやろ。あるわけないやんけ! あんたらコイツの保護者か? せやったらコイツの負け分、立て替えんのが筋ちゅう もんや」
「やり逃げはあかんわ。ついでに借金踏み倒そうとすんねんから、どっちが悪いか一目瞭然やろ!」
「出るとこ出たろか! 番所なんか怖ないで!」
 上方訛りの小汚い威勢の強さに、口数の少ない男が敵うはずもなかった。罵声の種類が尽きて口籠もる流川が見られる なんてのも結構楽しい。
 なおも豊玉軍団はワラワラと仲間の援護射撃を口にするが、どっちにしてもご禁制だろうと、抜刀するものバカらしく なった牧は鯉口を戻すと、ガゴンと拳骨を岸本と流川の双方にお見舞いしている。刃物持ってる相手に拳骨はないやろ、 とわめく岸本。いっぱしの剣士ならそんなつまらんものは仕舞えと、牧は説教口調だった。
 道場破りの次はサイコロ賭博かよ、と仙道は牧の鉄槌を喰らって頭を抱えた羽織袴姿の少年に目をやった。
 いつぞやの稽古着姿じゃないから、きょうはやけに大人びて見えるが、することなすことチグハグな、ものの道理を 解さないこの頑是なさはどうにかならないものか。どういう教育を受けてきたんだと、仙道ならずとも思ったろう。
 だから、恐る恐る尋ねてみた。
「負けたって、幾らつぎ込んだんだ?」
「……しんねー」
「百両や、百両! 耳そろえて持ってこんかい!」
「ひゃく……」
 ヤレヤレと、その額には牧も仙道も肩を竦めるしかなかった。



――コイツって……。
 世間知らずもここに極まれり。道場破りなんてのも、その延長線上での考えなしでの大暴れだったとしたら、 看板を持ち去られた幾つかの道場の皆さんは目も当てられないだろう。野犬に噛まれたと思って諦めてねと仙道は心の 中で両手を合わせた。
「百両って、どのくらい賭場にいたんだ?」
「小半刻(三十分)くらい」
「そりゃ、いくらなんでもボラれ過ぎだろうが。なにやってんだよ!」
「だからイカサマだって言ってる。なにが出るとこ出てやるだ! 面白れぇ。出てやろうじゃんか!」
 と、流川は息巻くが、出るところへ出てただで済まないのはお互いさまなのだ。道場破り。ご禁制の賭場で大損。 その上お縄と来ては、この年にして見事としか言いようがない経歴がつく。
 仙道は前に出かけた流川の腕を取った。
「首洗って待ってろって言った割には賭場遊びかよ。迎え撃つつもりで、あれから毎日道場に詰めてたんだぜ、オレ」
 幾分詰る色が含まれていても仕方ない。少しがっかりしたことは確かなのだ。シレっと聞き流すかと思った当の流川は、 仙道から顔を背けて呟いた。
「こっちだって大変だったんだ」
「いい訳なんて聞きたくないな」
「いい訳じゃねー。せっかく、口煩せーヤツの目を抜いて外に出られたと思ったら……」
「うん?」
「アイツらに出会っちまって、こないだの仕切り直しだとか言われて。男らしく勝負しろって。行かねつったら 逃げんのかってほざきやがるし」
「無理やり引っ張ってかれたんじゃないのか?」
「ムリヤリじゃねーよ」
 そりゃ、そうだ。逃げるのかと言われたら、まったくもって間違いなく背を向けるようなことはしないだろう。この少年は。 敵も一戦交えてその性質は見抜いている。だからホイホイついてゆく羽目に陥って、待ち構えていた相手の罠にまんまと はまってカモにされた、と。
 笑うなという方が無理だ。声を殺しヒクヒクと肩を震わせていると、流川に思い切り向う脛を蹴飛ばされた。 目に涙を溜めているのは痛さからだけではない。笑うなと凄む目元が羞恥から真っ赤で、仙道はさらに腹筋で 絶えるしかなかった。
「のーたりん」
「地面に這い蹲らせてやろーか、てめーも!」
「やれるもんならな。で、腕は? 平気か?」
「ふん。蚊にさされたみてーなもんだ」
「そっか。イチオウ約束、果たそうとしてくれたんだ」
「たりめーだ。まだ、あんたに借りを返してないからな」
「あしたは来る?」
「行く。ぜってー」
「分かった。その心積りをしておく。でもおまえ、何処の道場に通ってんだ? 流派がやけに雑多だったから気になって たんだけど」
「道場には行ってない。色んなじじーが教えてくれてる」
「家自体が道場なのか?」
「そういうんじゃないけど」
 なにやら親しげに、おまけに周囲には目もくれず世界を構築し出したふたりに、牧はその場を引き取ったとばかりに 仙道に目配せした。機会を見つけて早く連れ去れと言っている。意を解した仙道は、牧の背に隠れて後退った。
 それを認めて牧は続ける。
「そうか。そこまでイカサマではないと言い切るなら、その賭場の場所を教えてもらおう。この目で確かめにゃならん」
「確かめるってどうするんや?」
「ご城下の悪所といえど、庶民の遊興を総て禁止しまくっていられるほど我等も暇ではない。しかし、かなりの被害が 報告されている場所もあるにはある。やれ脅しだ、タカリだ、イカサマだとな。年端もゆかぬ子供から一刻のうちに 百両も巻き上げた賭場だ。オレには十分きな臭いと思うんだが、それでも大言を吐けるのか?」
「げっ、あんた、牧! 奉行所のもんかいな!」
 違う。御側用人の牧越前守の補佐のような仕事だ。だが、権力をカサに着ての職権乱用。この際奉行所勤めでも 与力でも大した差はないだろう。
「だったらどうする? だが近頃町方には、金品を賭けないでサイコロを振って楽しむという場所もあると聞く。 碁会所みたいなもんだ。そうなると取締りの対象にはならんが、どうだ?」
「あほ! なに腑抜けたこと抜かしとんや! んなじじいがヨレヨレ集まるようなとこと一緒にすんな! ワイらが 遊んどんのは、泣く子も黙る――」
 豊玉道場のだれかが噛み付くのを口を塞いで制したのは岸本だった。牧が敷いた風呂敷をたたみ損ねるような 男ではない。ここで引き下がるなど業腹な話なのだが、引き際も知らないのかと思われる方が癪だった。
「お決まりの科白やけどな、きょうはこれくらいで勘弁しといたろ、や。ワイらの口から賭けはなかったって言わせたいん やろ。海南にこのひとありと言われた牧ともあろうもんが、しょうもない助け舟出しやがって。おい、そこのガキ。 牧に感謝せぇや、って、おらんやんけ!!!!」
 牧の後ろに隠れていると思っていたはずのデカイふたりは、とうの昔に消えていた。



 流川の腕を取った。豊玉の連中が牧に気を取られている間に、野次馬たちの間をすり抜けて、逃げなくてもいいのに 駆け出した。なにからと問われると、先ほど牧から聞かされたきな臭い謀略と、抜き差しならない現状と、 他人事では済まされない立場からと答えるしかない。
 そんな権謀術数の世界にどっぷりと浸かってしまった身からすれば、余りにも子供じみた流川の行動総てが、 見たこともないような光に彩られていたのだ。
 突拍子のなさに呆れるのも、剣筋に感心するのも、腹筋が痛いくらいに笑いを堪えるのも、そして思わず伸ばして しまった腕の先に巣食う胸に覚えのないざわめきの正体も、なにもかもが小気味よかった。
 夜風が肌を刺し、いくつもの闇と町家の灯りを通り過ぎ、互いの息遣いが荒くなる。追って来るものはいない。けれど ヒタヒタと音が聞こえるほどに迫ったやるせなさから背を向けた道連れが、物事に疎く、深く拘らない少年でよかった。
 クスクス笑いながら駆ける自分に、なぜとかどうしてとか、なにかあったのかと問うて欲しくない。変なヤツと 思われるだけでいい。
 言葉がないのがいい。
 流川でいい。
 いま一緒なのが流川でよかった。
 闇雲に走って麹町を抜け八重桜で有名な心法寺あたりまで来ていたようだ。夜祭というには少し寂しいがいくつかの 出店が並び、香ばしい匂いまで漂ってくる。そうなると現実に引き戻してくれるのは、イキナリ訴え出した 三大欲のひとつだ。
「流川、ハラ減らない?」
「減った」
 と、即答が返ったが、流川は自分の腕を肘から上げて目の高さまで持ってくる。その手首にくっ付いているのは 痛いほどに握りこんだ仙道の指だった。ずっと掴んだままなのをすっかり忘れていた。あ、わりぃと指を解き、 照れ隠しもあって仙道は、浮いた手でパンパンと流川の背中を叩き顎を杓った。
「なんか食ってこうぜ。オレも肴をつまんだくらいだから、このままじゃ家に帰りつく前に餓鬼になっちまう」
「奢りか?」
「賭博で負けが込んだヤツに払わされねーな。っていうか、おまえ銭を払ってねーじゃん。一文ナシで出歩いてんの か。さては見境なく使い込むから小遣いを与えられてないんだろ」
 図星なのか答えたくないのか、流川は唇を尖らせただけで、けれどその代わりにハラのムシがグウと鳴った。 年上の甲斐性を見せて奢ってしんぜようと笑うと、幾つだよ、と元服前の少年は聞いてきた。
「十六」
「ち、いっこしか変わんねーじゃん」
「十五と十六の間には深くて広い川が隔たってるんだよな。オレは十四で元服したぜ」
「だったら、どうだってんだ」
「いやいや、おまえのことだから、素行の悪さに家のひとが見合わせてるとか、烏帽子親が恐れをなしてるとか あり得るかなって思って」
「エラそうに。あしたきっちり済ませて前髪落としてやる!」
「おい、あしたは対決だろ?」
「じゃ、明後日!」
「無茶苦茶言うなぁ」
 前のめりのまま顔を突き出してくる少年の髪を無造作にかき混ぜて、このままで、この性質のままでいて欲しい とは口にした途端、タコ殴りにされるだろうから心に留めておく。こんなのがひとり身近に居ればさぞかし気苦労も 耐えないだろう。
 けれどなにかを、例えば絡まって先っぽを失った縄のひと塊を一刀の元に切り刻む力を感じてしまうのだ。 解決には至らないけれど、閉塞感を払拭させる力。すさみが綻びほっこりと温かくなる。そんな気質など一片足りとも 持ち合わせていない少年が、だ。
「流川ぁ、なに食う? 団子? 焼き餅? お、イカの姿焼きがあるぞ。香ばしかったのはこれか?」
「イカ」
「承知」
 焼いた醤油がしたたりそうなそれをふたつづつ、火傷覚悟で貪った。あまりの食べっぷりに団子も餅もつけてやる。 当然のように受け取って、仏頂面が少しだけ嬉しそうだ。身なりもこざっぱりとした武士の子弟にあるまじき買い食い は、ほとんど餌付けの様相だった。
「ふぅ。ちょっとは落ち着いたな。旨かったか?」
「ん」
「せっかくだから、送ってくよ」
「いい。女子じゃねえんだし、こっから近いし」
「じゃ、散歩がてらついてく。それならいいだろ」
「勝手にしろ」
 ハラが満たされて眠気が襲ってきたのか、上体が定まらない流川の真横に並ぶと、幾度となくガクリと膝が抜けそう になり頭が落ちる。それでも支えようとする仙道の腕を振り払って、器用に彼は歩き続けた。



 心法寺を出て千代田のお城に添う形で北に向く。瞼が落ちそうになる流川の気を引くために、あれこれ質問攻めにして 歩かせた。実際眠ってしまってるかも知れない。返る答えが段々と要領を得なくなってきたのだ。
「流川ご両親は?」
「いない。兄が面倒――」
「はいはい、面倒見てくれてるわけか。えっと、この先って藩邸が軒を並べてんだけど、間違ってないよな」
「ねーよ」
「エラいひと? 何処の藩?」
「たいしたことねー。オレよりバカ。でも、結構いいヤツ」
「なに言ってんだ、おまえ。しっかりしろよ」
 町家が姿を消し辺りは広大な敷地を持つ屋敷へと様相は一変する。仙道の歩く速度が急に落ちた。文目も分かたぬ暗 がりとは言え、門前の提灯が行く先を示してくれる。それに目を瞑ってもどこになにがあるのか馴染んだ場所でも あったのだ。
 紀尾井坂。
 のちに江戸が東京と名を変えたばかりの混乱期、政府の要人が暗殺されるという血なまぐさい事件で有名となる場所だ。 それ以前にもうひとつ、その名には別の由来があった。
 汗を吸って引いた着物の冷たい感触が仙道の背に張り付く。一歩一歩そこに近づく。流川は急に立ち止まると、その 広大な屋敷を指差した。
 悪い予感ほどよく当たる。
「ここ?」
「そう」
 あー、また塀を乗り越えなきゃなんねーと腕まくりした流川から仙道は一歩後退った。
「流川、ここって、お勤めとかじゃなくて、その――」
「なに言ってんだ?」
「兄上さまがご当主なのか?」
「ああ」
 そう頷くのを許さないで、仙道は――喉の奥でなにかを呑み込んで――流川を白壁の塀に押し付けた。
 目の前に稀有な美貌。ヒュっと息を呑む音。ガクンと頭が揺れて後ろの壁に叩きつけてしまっても、一切忖度できな かった。
 なにしやがる――と睨む視線を真っ向から受け止め、なにをするつもりなんだ自問する理性よりも、何処から沸いて 出たか定かでない凶暴性の方が勝った。
――オレがなにもので、おまえがなにもので。
 そんなものに関わりなく楽しめると思ったのに。
 竹刀を交える道場でも、それ以外でも側に流川がいればいいと思ったのに。
「これは――かなり堪える」
「離せよ!」
 なおも罵る言葉が飛び出る口を咄嗟に封じ込めた。仙道お得意の虚をついての攻めだ。両の手首は秀麗さが抜きん 出た顔の横で縫い止めたまま。足蹴は密着した下半身が押さた。
 情愛の欠片もない蹂躙に近い口付け。抑えきれないものがせり上がって、仙道を止めなくした。何度も角度を変え、 怯えた舌を絡み取り、息継ぎさえままならない少年になにを残したい。なにかを刻み付けて、それがこんな象で否応なく、 小気味よかった流川との関係が崩れることをこんなにも畏れている。
 畏れて畏れて、手放すのが怖ろしいくらいに愛おしくて。
 愛おしくて。
 一方的で盲目的な押し付けに流川の膝がガクっと力を失くした。
「なんのつもり、だ。てめー!」
「おまじない」
「ざけんなよ!」
「また会えるように、まじないをかけた」
「あしたっつってんだろうが! 疑うのかよ!」
「きょうと同じような流川と、同じようなオレが出会えるようにさ」
 それはとてつもなく不可能に近いから。
 行け、と躰を離すと、やけに冷えた風がふたりの間をとおり抜けた。もう一度行けと言ってさらに隙間をつくった。
 言う言葉を失ってひと睨み入れたあと、流川は仙道に背を向けると、延々と続く塀を見上げて周囲の様子を伺う。 石垣にひっそりと添うように寝かせてある木の枝を掴むと、その下に地面を掘り起こした。大して深くもないそこから 出てきたのは、忍びが使うような鉤のついた一本の縄。取り出したそれを、間違いなく手馴れた動作でそれを振り回し、 石垣土塀の上の瓦に引っ掛けた。
「なるほどね」
 呆気に取られている仙道を尻目に長い体を起用に使ってスルスルと登ってゆく。何度も家人の目を 盗んで抜け出した帰りは、こうやって戻っていたんだなと感心したり、お月さまを背負って瓦屋根の上で仙道を 見下ろした流川の姿に喉を鳴らしたり。
 けれど、先ほど得た驚きはもっと地の底でもがくような息苦しさだったのだ。
「そんなん、アリかよ……」
 耐えかねてポツンと呟く。
 紀尾井坂。
 紀伊家、尾張家、井伊家の藩邸があったことからその名がついたという。
 流川が消えたそこは尾張国尾張藩江戸中屋敷だった。




continue