〜参 願わくば。 父の突出した統治能力と行動力が地盤固めにのみ向けられるように、と。 才幹もその使いどころも熟知した手腕にはだれもが瞠目した。揺るぎない自信。能吏を引き寄せ、口先だけでへつらう 佞臣は断罪できる即断のひとだ。男っぷりも押し出しも強い自慢の父。だれもが誉めそやし快哉を上げたものだった。 だが、飽くではないが、父の目線はさらに上を目指していると言葉と行動の端々から窺い知れる。 いち藩に納まるような器ではないと冗談でも言ってはならない。強すぎる野望は周囲を巻き込みだれをも傷つけて、 昇華されることはけしてない。 それを手中に収めるまで。 頭を撫でてくれていた手はいつしか素通りし、他に目が向けられ、目線の高さを追い越すにいたって、顔を合わせることも なくなっていった。 毛嫌いしながらも出奔するほどの勇気も諌める気概もなく、浮き草のように生きてきたツケ。 いまから、それを払わされるかもしれない。 カタンと空いた杯が卓を鳴らし、いつの間にか一気に煽っていたのだと知る。 酔えない酒とはこういうことを言うのだろう。一七〇四(宝永元年)年から始まった酒の江戸表廻漕を駆使して、 西宮港から陸揚げされた灘の産だという触れ込みの名酒も、流し込んでしまったとはもったいな話だ。 「水面下でどう動かれているかは知らんが、そのウワサというのはウチの親父のひとり言のような危惧だ。幕閣 上層部の間で流れたわけではない。安心しろ。しかし――」 呆然自失としかけた仙道を目の端で捉え、ひと言ひと言選んで語り出した牧がそこで言葉を切った。 ――しかし、だれもが想像しうる危惧なのだと。 「オレにどうしろと」 「どうもこうもない。心にとどめておけ。それだけの話だ。知っているのとまったく聞き覚えがないのとでは、対応 に差が出る。おまえが抑止力になるとは思わん。思わんが、いつまでも実家から逃げ続けるわけにはいくまい。 妾腹とはいえ、切れ者で知られたおまえの無位無官の放蕩を、いつまでも許してくれるお父上でもないだろう」 ――潮時だ、と。 厭って逃げていたものに視線を戻しきちんと正面から向き合えと、牧の目は語っていた。 「どうする。おまえに現実を直視してもらいたいと願うのはオレひとりの考えだ。そこにおまえの否応はない。 だが長年の友として将来あの家を背負って立つものとして、いまなにが起ころうとしているか、耳を閉ざさないで 欲しいと思う」 牧の真摯な眼差しに気おされて仙道が焦点を戻す。それを確かめてから彼ははピシリと続けた。 「月光院さまと天英院さまとの確執に、お父上が火に油を注がれるのは必至だろうというのが、親父の懸念だ。 ご大樹の廃嫡。下手をすればお命に関わる事態もやぶさかではないほどのご執念が見えるらしい」 牧の父は幕政の実権を握る将軍家御側用人、牧越前守。脈々と続く譜代の家柄で、実直な人柄と潔癖さで重用されて いる重鎮だ。そして月光院とは現、七代将軍家継の生母。天英院とは先の将軍家宣の正室だった方。当然生母の月光院は ひとり息子の地位と命を守ろうとする。将軍家そのものを守ろうとする天英院とは微妙に立場を異にすると牧 は説明した。 「けど、確執って。大奥ではなにが起ころうとしているんです? ご生母の月光院さまがご大樹を守ろうと躍起になる のは理解できる。けど、天英院さまは本気でご大樹を廃し奉るおつもりなのか? そんな、将軍家が揺らぐような真似が なぜ出来るんだ」 幼子の生存率が極めて低かったこの時代、継嗣とはいえ五才の将軍の後継問題が取りざたされるのは当然のことなの だ。有り体に言えば、いまの幼君よりも年齢的に人物的に優れた傍系は それこそ石を投げれば当たるくらいにそろっている。また幼なさゆえに大奥主体の政治となる可能性が高かった。 生母の発言権が幕閣のそれを越える懸念だ。 「十一で将軍宣下を受けられた第四代将軍家綱さまには、保科さまや有能な大老老中たちがついていたから事なきを得たけど、 いまの幕閣の方々にはご生母を抑えるだけの力がないと? 牧さんのお父上らしくない気弱さだな」 「あのころは奇跡的に能吏がおそろいだったんだ」 「けど、それほど攻撃的になってしまうほど、危険な方なんですか、月光院さまって」 「鋭いところをついてくるな」 「だってそうでしょ。ご生母が亡き家宣さまの菩提だけを弔っておられる方なら、天英院さまもそんな過激な手段には 出られないはずだ」 「天英院さまのお心内は図り知れんが、女の意地とも仕返しとも、口さがない連中はそう言うな。天英院さまは 六代将軍家宣さまのご正室。お父上は関白太政大臣近衛基煕さま。片や月光院さまは町娘から側女に上がり、お子を 成した経緯の持ち主。しかも天英院さまが成したお子はそれ以前に夭逝されている。他の側室が産まれたお子たちもなぜか 急死され――」 「それって、月光院さまが、わが子可愛さに――」 「勘ぐられても仕方あるまい。恐らく天英院さまはそう考えておられる。こう都合よくお世継ぎが亡くなられては、な」 「真実がどうであれ、いまになって仕返しですか。側室の月光院さまが産みまいらせたご大樹以外であるなら、だれでも よいと。そこに付けこまない親父ではない」 「そう。それに六代将軍家宣さまのご遺言の件もある。乗り出されて当然のお立場なのだ。おまえのお父上、徳川吉宗 さまは」 ざわめいていた店の喧騒が一切耳に入らなかった。それほどに集中していた。 「遺言? 当然の立場? あの人が? そこに人柄は考慮されないんですか? あの人は血を分けた父や兄たちを次々と 始末して当主の座に収まったような男なんだ!」 五代紀伊徳川家当主吉宗の長男というのが仙道がまとった枷だ。 長男であるが嫡子ではない。若気の至りと勢いで 父が十四のときに奥女中に産ませた子。その産みの母は仙道が生まれた瞬間に暇を言い渡されたらしい。名も知らないし、 顔も見たことがない。彼は父の生母、浄円院の元で育てられた。 後にきちんとした体裁で正妻側室を娶ったときから、仙道は飼い殺しも同然の立場だった。 三十をひとつばかり越えた男盛りの父、吉宗は先の藩主徳川光貞の四男として誕生している。 順当にいけば藩主の座につけるはずもなかったのが、光貞存命中に家督を譲った嫡男が急死し、その心労から光貞が没する と次の当主についた兄も後を追うようにこの世を去った。紀州が揺れたと巷間でウワサされ、お家騒動だと嫉まれ、実際に 二十二才であった四男である男が藩主として君臨するのに、一年を擁しなかったという。 勿論、まだ子供だった仙道が物のどおりを理解する前の話だが、江戸に出てくる前よりお膝元である紀州ですら囁かれ た限りなく実態を伴った陰口と言えた。 「仙道、それこそウワサの域に過ぎんのだろう。オレはそう聞いている。息子のおまえが信じてやらんでどうする」 「信じていましたよ、子供の頃は。どんな誹謗が耳に入っても心には届きゃしなかった。けど、もしかして、そういう こともあったんじゃないかと、思うようになって見てみたら、あのひとの権力欲には底がなかったんだ。藩主として 藩政と財政に尽力された手腕には頭が下がる。けど、あのひとの身内に当てる目を一度見てみるといい。だれが邪魔で だれを手駒として残し、だれをだれに嫁したら紀伊徳川家のためになるか。オレは――オレにはなんの後ろ盾もないから、 自分の存在意義をかけて生きてきた。学問も剣術も、他の幼い兄弟たちにほんの少しでも劣るわけにはいかなかった んだ。だれもためでもない、あそこで生き残るために」 「仙道――」 「放蕩はね、牧さん。父の命なんです。オレの能力は買ってくれてると思いますよ。けど、まだオレの処分を決めかねて いるから。幼い弟たちがどこまで成長するか分からないから、保険をかけての様子見なんだ」 「そうだったのか」 「けど、そんなことはどうでもいい。家宣さまの遺言ってなんなんです?」 余りにも幼いわが子を征夷大将軍として残してゆくことに心を痛めた先の将軍家宣は、正徳二年に没する前に 次のような遺言を残したという。 『天下のことは私すべきではない。跡継ぎが無くはないが、幼いものを立てて世を騒がしくした例も多い。そこで 余の後は尾張の吉通どのに譲ってはどうか。ないしは鍋松(家継)に継がせておき、尾張どのを西の丸に入れて後見とし、 政治を任せるか。どちらがよいであろうか』、と。 「尾張の吉通さま――」 「そう。御年二十五の英邁な君だ。って、おまえ、尾張家のご当主も知らんのか?」 「親戚づきあいは必要最小限でしたからね。お会いしたとしたら、ほんとに子供の頃だろうな。覚えてないけど」 「なるほど。話を続けるが、そのとき、お側近くに仕えていた儒学者の新井白石が即座に異を唱え、つまり、みだりに 尾張さまの名を明言してしまうと、心ない動きをする者も出てくると諌めたんだ。それでも後顧の憂いは尽きない。次に 上がったのが吉通さまの子と、紀州徳川家当主吉宗さまの子を養子とし、おふたりにに後見させよという策だった」 この場合の吉宗の子とは仙道のことを指していない。正室伏見宮理子姫との間に子がなく、側室須磨の方が産んだ 長福丸のことらしいが、その名指しも大した意味はないと牧は言った。 そう記した途端に尾張と紀伊の壮絶な争いとなる。だからこそ当主ではなく、その子供たちに権利を委ねた のだが、この遺言はさらなる混乱の元だと幕閣の間で受け止められた。幼子の次がまた幼子。継承問題は なんの解決にもなっていないのだ。 だから幕閣の重職たちが家継亡き後の将軍候補として、幼子たちの後見人のふたりを想定するのは当然と言えた。 尾張の吉通と紀伊の吉宗だ。 「当然の権利ってそういうことか」 「そう。尾張と紀伊の戦争になる。大御台天英院さまは、どちらかに加担するおつもりはないだろう。家継さま の後は恐らくなんの興味もあるまい。だが、ご大樹になんらかの働きかけを、どちらかが成された場合、それが 天英院さまの望んだ象であるなら、後押しされることはだれの目にも明らかだ」 牧は慎重なくらいに慎重な言い回しをした。真綿に包んで衝撃を和らげても、そこに奈落が広がっている事実は消え ない。 天英院さまが望まれる象。それは父の渇望でもあるはずだ。 「どうやったって、物心がついたかつかないかの幼子では三百諸藩が寄り杖をなくしてしまう。けど、幾つであろうが 継嗣は継嗣、か」 「そう。なによりも重んじなければならない。痛し痒しだな」 「それがかえってご大樹のお命を風前にかざしてしまった」 と、仙道が思わず瞑目したそのとき、突然店の表で喧騒が上がった。おおかた酔いにまかせた者たちの諍いだろう。 女将が眉をひそめて小さく詫びを入れる。それを制し、表に合わせていた牧の視線が戻ってくる。機制を削がれた仙道 は腰を浮かせて立ち上がった。牧の話も後が続かないようだ。 徳川御三家の男子として生を受けたのなら、ご大樹を補佐するという天命以上の果報に手が届く場合がある。 それを男子の本懐と受け止めるか、権力欲だと眉をひそめるかは本人の心持ち次第。もしくは大人の事情というやつを 理解しているか、していないか。 仙道の義憤はつうじない。言える立場でもない。青臭いと一笑にされるのがオチだろう。余りにもいまが心地よくて、 何れ染まってゆく世情の情け容赦のないさまが、深遠に沈んでいるからと言って踏み出さないわけにもいかないのだ。 出る杭は打たれる。突出できるのは父親が暗黙のうちに許した範囲だけ。そううそぶいているオレは一体何者なんだろう。 何れにしても父の傘下で雨露を凌いでおきながら、その傘が邪念に彩られていると訳知り顔で糾弾するような子供 にはなりたくない。 そこに矜持を見い出すしかなかった。 勘定を牧が持ち、女将に礼を送って障子を開け放つと、先ほどの喧騒が一際大きくなっていた。 まだ収まらないどころか、喧嘩の場をこの店の前に移している。 いい気なもんだ。陰鬱とした話を聞かされてムシャクシャしているのはこっちの方なのだ。いっそのこと、ウサ晴らし にひと暴れしてやりたい。けれど痛いのは厭だ。だれか黙って殴らせてくれないかな、と考える辺りが仙道の仙道たる 所以だった。 店の軒下に立ったまま、酒の呑み方も知らない輩はこれだから困ると、牧の眉根が寄ったとき、団子状態になっていた 男たちの輪が解け、殴られでもしたかひとりの男が後ろ向きのままで仙道の懐に飛び込んできた。 えっと言葉がまろび出る。 思わず抱きかかえる腕を振り払い、グイと拳を真横に引いた男の後姿には見覚えがあった。 「る、か……」 ドっと周囲が湧き上がった。喧嘩の輪がはっきりと形どり、だれとだれの諍いなのか、勢力の構図も見えてきた。 だが、なににも臆することのない闘気と殺気と前のめりな姿勢。明らかな多勢に対してたったひとりで立ち合う 向こうっ気の強さと無謀さ。どちらも徒手空拳。竹刀勝負じゃなく素手でも遣り合えるのかと、仙道が口笛を吹いたとき、 敵の一団のひとりが短刀を振りかざした。 「覚悟せぇや!」 奇声を上げて闇雲に突進してくる白刃などあの神速の敵ではないだろう。案の定軽くかわしてその男の首筋に手刀を 叩き込み、路上に沈没させると、第二陣、第三陣が襲いかかってきた。ひとり倒してもまだ敵の数は六人。こりゃ、 見てらんねーわ、と仙道と牧が同時に鯉口を切った。 酔っ払いの喧嘩沙汰に首を突っ込む酔狂さは持ち合わせていないが、仙道にすればあたら知らぬ間柄でもない。助太刀 に入った男が仙道だと知れば、またあの切れ長の眦を決して睨みが入る。賭けてもいい。けれどこれでは余りにも分 が悪いだろう。 当の流川が抜刀する気配も見せないのには畏れ入ったとしか言いようがないが、ひとを散々待たせやがってという 文句のひとつ。あるいはムシャクシャのはけ口。そして、その後の展開にほんの少し興味があったのだ。 「助太刀いたそう」 大時代的な見栄を切ってふたりは流川の真横に並んだ。 スっと現れた両脇の男たちを交互に見比べて前髪の少年の視線は 剣呑さを帯びた。少なくとも仙道は知覚したらしい。覚えがないと言われなくてよかったなど、それがとてつもなく 楽しいのだと、いま、口に出して言えないが。 「なんのつもりだ」 「毎日でも来るって言い切ったくせに全然姿を見せねーからさ、どうしたんだろって心配してたら、こんなところで 大立ち回りだもんな。呆れちまったよ」 「るせーよ。ひとの勝手だろうが」 「喧嘩っ早いのは分かったけど、この人数相手はちょっと辛いんじゃないかと思って」 「おーきなお世話だ」 「なんだ、知り合いか?」 牧が前を向いたままで尋ねてきた。 「コイツですよ、牧さん。件の流川」 「ほう? なるほど。聞くと見るとじゃ大違いだ。おまえの評価どおりなら、ここはひとつお手並み拝見といきたいとこ ろだな」 「ん。オレとしてもコイツの体術に興味があるんだけど――」 と、両脇で交わされる会話にいちいち睨みを入れてから流川は肩で牽制した。短刀を手にした六人の相手ぐらいで 構うなと、少し前に出た背中が語る。仙道は予想通りの動きにクスクス笑うが、牧は流川を取り囲んでいる男たちの 方に見覚えがあったようだ。 「確か、おまえたちは――豊玉道場の……」 「なんや! 海南の牧やんけ! あんたには関係ないやろ! 引っ込んどいてもらおか!」 「なにしたかは知らんが、天下の往来でこんな子供相手にその人数か? 豊玉の岸本とも思えんな」 あぁ、豊玉の岸本って聞いたことがあるな、と仙道も思い至った。稽古は洒落にならないくらいに厳しいらしい。しかも 喧嘩腰だ。竹刀剣術本来の型よりも怒涛の攻めで相手をねじ伏せる。気組みが総てを凌駕する。そんな気質を持つ 道場の師範代を勤める男だ、岸本とは。 そう言えば、以前道場破りの話が出たときに、誰かが言ってなかったか。――神田にある無外流豊玉道場が破られたと。 「なんだ。仕返しか? 聞いたことがあるぞ。コイツに看板取られたんだろ。牧さん。豊玉って流川が荒らした道場 のひとつですよ。一対一じゃ敵わなかったから多勢でのしに来たんだな」 卑怯もん、と揄うと、総髪を後ろで一纏めにした男がギョロ目をさらに開いて仙道に噛み付いた。 「ちゃうわ! ワイらを舐めとんのか! なにしたかは、そのガキに聞かんかい! ワイらは真っ当な勝負でコイツに 挑んだんや! それをイカサマとかぬかして難癖つけよったんは、コイツの方や! 言うたら、ワイらは被害者みたい なもんやねんぞ!」 「イカサマしたじゃねーか」 「おまえがどんくさいだけやろ!」 「ちげー! オレはちゃんと見てた。サイコロすり替えただろ。誤魔化そうったってそーはいくか!」 牧と仙道の動きが止まった。 豊玉の面々と流川の悶着は、道場破りの、剣術試合での件に端を発しているのだと思って いたのだ。ついさっきまで。だが、さもエラソウに互いの言い分を突きつけあっているが、このふたり。いま、なんと 言った? 「サイコロ?」 「イカサマだと!」 「そーだ。てめぇから招いておいて、ここぞというときに汚ねー手を使いやがった」 「招いてって――」 「賭場へ行ったのか、おまえは!」 だったらどうだと、ふたりは同時にふんぞり返っていた。 continue
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