〜弐 風向きが変わった。中庭に面している武者窓から花散らしの雨ならぬ強い風が吹き込んできている。 道場の中は相対するふたりの呼吸音と足先が擦って鳴る板間の軋みだけ。詰めていた息を吐くのでさえ苦しさ を感じる長い間だった。 その長さを嫌って流川が先んじる。長身が一度せり上がったかと思うと深く沈み、地を這うような速度の突きがきた。 それをかわし、軸足を前に流川の額を狙った。だが裂ぱくの気合と共に打ち込んだ仙道の竹刀は宙をかいている。 気づけば目の前から流川は消えていた。 その速さに目を剥いている仙道を嘲るように流川は、型を左八双に変えて胴打ちに出た。まともに喰らえば肋骨の骨折 も免れないような鋭い打込みだ。それを受けると見せかけて仙道は前に出る。流川は咄嗟に左足を引いてその突きを かわした。 流川にすればかわしたと思ったのだ。仙道の間合いの長さは身体が理解していた。だが、思った以上の速さと 長い腕が流川の顔面を捉え、しまったと気づき身体を引いたときには肩先に焼けるような痛みを感じた後だった。 「――!」 「一本!」 魚住の顔が誇らしげに、そしてどうだとばかりに仙道を指し示す。どっと周囲の門弟たちが沸いた。みな腰が落ち 着かない。歓喜して仙道に跳びかかりたくても、礼を重んじる師範代が睨みが怖い。中腰のままで仕方なく、 その場で快哉を上げた。 「すげぇ。すげぇよ、仙道!」 「さすが仙道さんや!」 「ざまあ見ろ! てめーじゃ仙道の足元にも及ばないんだよ!」 「スゴイ二段打ちだったな。あれをまともに喰らえば昏倒くらいではすまないぞ」 「どーだ。、参ったか! さっさと尻尾巻いて帰れ! 二度と来んな!」 「ひとんちの看板狙うくらいなら、てめーんとこのも持って勝負しやがれってんだ!」 「そーだ! 取りに帰れ!」 罵声と喝采が飛び交う中、信じられないといったふうに切れ長の瞳を見開いていた流川が、ツイと残心の構えを取った。 打ち込まれた左肩を中心にドクドクと血が逆流するかのように熱い。痛い。しかし、身体の節々まで、筋繊維の一本まで がそれを拒絶する。総てがこのままでは厭だと叫んでいた。 その姿を認めて仙道は目を剥く。 あれをまともに喰らっては竹刀に手を添えるのもやっとのはずだ。なのに闘争心が失せるどころかまだ遣り合おうと している。無理だと咄嗟に叫んでいた。 「なに言ってやがる。あと二本残ってるだろーが」 「試合じゃないんだからだれが三本勝負だなんて言った。やめとけ。内出血どころじゃ済まないぞ。オレにとっても 渾身の一撃だったし。いま無理をしてあとに響いたらどうするんだ」 「まだ負けちゃいねー!」 「なにをムキになっている。負けは負けと潔く認めて竹刀を下ろせ。武士としての体面まで汚すつもりか?」 「まだやれるっつってる!」 「流川……」 「勝負しろい!」 「いい加減にしないか!」 ハラの底から叫んだのも、そしてそんな仙道を見たのもたぶん陵南道場の面々からすれば初めてのはずだ。礼を失する 少年の狼藉に対する怒りはすっかり治まっている。それよりもいまは激痛を押してまで勝負に拘ろうとする無謀さへの 憤りの方が大きかった。 だれかが足元にも及ばないと吐き捨てたが、先ほどの打ち合いにおいてふたりの間にそれほどの実力の差があったと は思えない。現に言えやしないが胴を掠められていた。もう少し切り返しと踏み込みが遅ければ、まともに喰らって昏倒 していたのは仙道の方だったろう。 それは謙遜でもなんでもなく、冷静に判断してそう思う。 儀礼に欠くのは勝負以外でのこと。竹刀を交えてその嫌悪が吹き飛ぶくらいの技量を持った剣士に、そしてその剣筋 と剣気すら好ましいと思った少年に、これ以上の無茶はどうしても止めたかった。 仙道は竹刀を下げると一歩踏み出し右手を差し出した。 「竹刀を下ろせ。傷を見せてみろ」 そんな仙道の科白に当の流川の驚愕はもとより周囲からも咎める声が上がるのは当然だ。 「仙道! なに言ってんだ、おまえ!」 「――傷って……」 「いいから。だれか軟膏を持ってきてやれ」 聞き間違えじゃないと、再度仙道がそう告げると、末席の門弟は従うべきなのかどうなのか、兄弟子たちの様子を 伺っている。それを制して四番の席次を持つ越野が叫ぶのと、流川のそれとはほとんど同時に発せられた。 「なんでコイツの怪我の面倒まで見なきゃならないんだ! 変な仏心出すなよ!」 「必要ねー!」 「ほれ、見ろ。っておまえがエラそうに言うな!」 「さっさと竹刀を構えろ!」 「やらない」 「勝ち逃げする気か!」 「仙道! こんなクソ生意気なヤツ、床に這い蹲らせてやれ! コテンパにのしてやれ!」 「構えろ!」 「いまのおまえと遣り合っても結果は見えている」 いまの――と、仙道はヒタリと冷えた視線を向けてきた。 流川はバシっと叩きつけるように竹刀を床に置くと、きちんと礼を取って口先だけでなにかを告げ、そのまま仙道の 真横を通り抜けようとした。無事な方の腕を掴んでなおも引きとめようとする仙道の手を跳ね除け拒絶する。射すくめる 瞳は焼き殺さんばかりに怒りを呑んでいた。倒されることになった相手から情けを受けるほど屈辱的なことはない。 それが分からないはずもないだろうに、男はさらに重ねてきた。 「待てよ、ちゃんと冷やした方がいいって。別に取って喰わねーからここで手当てしていけ」 「ほっとけよ。必要ねーって言ってんだろうが!」 「流川」 「るせー! あんた、オレをバカにしてのか!」 「そういうつもりじゃない。腕を回してみろ。骨はいってないと思うんだが」 陵南道場の面々にしても、仙道が見せる異常な親切に顔を見合わせるだけだ。門弟でもない彼に窮地を救って もらったのは事実だ。だが、道場内に掲げられた名札に彼の名が記されていない事実を淋しく思う者はいても、 部外者だと拒む者はひとりとしていない。 尊敬よりも敬愛に近い。気安い性格がさらに実力の差を感じさせなくさせている。しかしときとしてこの男、門弟たち に理解できない行動を取ることがあると呆れていると、仙道以上の部外者はさらに理解を超える発言をした。 「くそぉ。また来てやる!」 「え……」 「へ?」 「なんて?」 「なにぃ!」 「きょう引き上げるのは怪我がどうこうじゃねー! あんたにやる気がねーからだ。あんたに勝つまで何度でも来て やるからな! 首洗って待っとけ!」 ビシリと指を突きつけてそういい残すと、流川は板間を踏み抜く勢いで道場を出て行った。 その場に集う者たちの間にひゅぅと一陣の風が舞ったのは見間違いではないだろう。そのなんとも表現のしようのない 沈黙が重くのしかかり、顛末を見事な技で切り抜け、だが新たな騒動を背負い込んだ当事者はポリポリと人差し指で頬を かくしかない。 「あ、その……」 他の門弟たちは何事もなかったように振舞うことが精神上の安泰だとばかりに、さり気なく止めていた時間を 動かしたが、そのとき発せられた福田の一言が道場にいただれもの胸に突き刺さった。 「仙道、この疫病神」 疫病神が呼び寄せた荒神の襲来を予想して厳戒態勢を敷いた陵南道場の面々だったが、翌日は何の兆しもなく 滞りなく一日が終了した。次の日も門弟たちは稽古中であるにも関わらず気もそぞろ。視線は道場の入り口に集中 していたが、問題の人物が姿を現せる様子もなかった。三日目ともなると、明らかな安堵が皆の顔に現われ出した。 「なんだよ、口だけか? 心配して損した」 「あの一撃で剣の持てない身体になってたりしてな」 「そうなっても自業自得だぜ」 週に一、二度しか道場に顔を出さない仙道があれから日参している。「返り討ちする気マンマンやな」、と 彦一は頼もしげだが、仙道にしても、気がかりでとは口が裂けても言えない。 流川の肩を穿った衝撃はまだ手に残っていた。保護された袋竹刀とはいえ、生身であれを喰らっては痛いなんて ものではないだろう。流川が見せた殺気に導かれるように繰り出した渾身の一撃。自分でも驚いたくらいだ。あんな 二段打ちを修得した覚えはない。自分のウチから滲み出た未知なる動きに束の間、歓喜したほどだった。 あのときの流川の動きひとつひとつを再現して見る。それに対応した自分の打ち込みも。師範代の魚住と打ち合って いても、彼が見せた剣筋が追いかけてきてどうしようもなかった。 自分自身でも調子ががいいのか悪いのか、機嫌がいいのかどうなのか、よく分からないなと首を傾げていると、 遠巻きで様子を伺う門弟たちの訝しげな視線とぶつかった。珍しくピリピリしているのがあからさまだったようだ。 いい訳も空々しいのでそのまま道場を退散して門をくぐると、計ったような頃合で大通りの向こうから朋友の牧が歩いて くる。下城後着替えて来たのか、こざっぱりとした着流しに身を包んでいた。 「地獄で仏とはこのことですよ」 なんとなく肩の力が抜けると言えば、 「なんだ。またオンナで悶着起こして、道場の連中に迷惑かけたのか」 そう真顔で返された。 「いちいち、そういう喩えは止めてもらえないかな」 「違うのか。まぁいい。久しく顔を見ていなかったからな。暇があるなら一献付き合わんか」 と、示現流海南道場で師範代を努めていた男は浅黒い顔を綻ばせてそう笑った。厳しい体躯と顔つきながら面倒見のよい 男で、仙道とはまた違った意味合いで、彼の周りにはいつも後輩たちが取り囲んでいるのだが、きょうはたまたまひとり のようだ。付き合いの長さも深さも年季の入った相手のこと。ちょうど聞きたいこともあったし、と仙道は快諾した。 ぶらぶらと互いの近況などを語りながら麹町まで闊歩し、見世物小屋や芝居小屋の間を練り歩いて辿り着いた先は、 牧と何度か共にした馴染みの店。ふたりが障子を開けて店に入り、入り口近くの飯台席をとおり抜けると、 婀娜な女将が軽快な声をかけてくる。その奥の仕切られた小部屋が牧の指定席だった。 「あら、牧さん。きょうは仙道さんを連れてきてくださったんですね。嬉しいわぁ」 「嬉しいのはオレの方ですよ。いつも目の保養をさせてもらって。女将さん、今夜も超絶色っぽい」 「じゃ、たまにはお一人で遊びに来てくださいな」 「あ、それしちゃうとね、意外と牧さん機嫌悪くなるからな」 「そうかしら?」 そうそう、と眉毛を下げている男と女将の間に入るように牧は言い放った。 「酒と適当な肴を見繕ってくれ。酌取りはいらん」 「はいはい。女は邪魔なんですね」 「なんだか穏やかじゃないな。お手柔らかに頼みますよ」 女将が苦笑したのに仙道も肩を竦める。そんな大層な話じゃないと牧は手を振った。仕切りのある小部屋に酒と肴が並び、 互いに手酌で差し向かい。自分の按配で楽しむ酒だ。気兼ねなくすきっ腹に杯を傾けた。 「聞きたいことがあると言っていたな。先におまえの話から聞こうか」 「え、まぁ、なんて言うか。牧さん知らないかな。この辺りを荒らしまわっていた道場破りの話なんですが」 「あぁ、聞いたことがあるぞ。ウチの道場に顔を出したときに、後輩の清田が興奮しながら説明してくれた。 もう既に五つ六つの看板を持ち去ったそうじゃないか。なんでも雲を突くような 大男だとか、夜叉の如く形相だったとか、鬼神のような神速だとか、憶測がひとり歩きしているが、その話か?」 「すごいな。どれも当たってるようであり、全然的外れでもあり、ですね」 「会ったのか?」 「ええ。来たんですよ、陵南道場に。その日は稽古に行く予定はなかったんだけど、とっ捕まって」 牧は青菜の煮びたしを箸で掴んだまま、で、どうだったんだと問うてきた。 「鬼神の如く神速ってのは当たってる。けど、容貌に関しては前髪も落としていない元服前。美貌で孤高の剣士って感じ かな。負けたからそんな相撲取りと閻魔さまを足したような巨漢にされちゃってるんだ。けど、牧さん。いくら お江戸が広いからって、腕のある剣客の名は伝わってくるもんでしょ。交流試合とか奉納試合とか、他流派との 交流はいくらだってある。例えば海南の牧さん、翔陽の藤真さん、愛和の諸星さん、山王の河田さん、沢北、、そしてオレ。現役、 非現役を問わずそんなとこかな」 「読みが浅くないか。名が売れていないからそのような暴挙に出るとも考えられる。己が思っているほどの評価を受けて いないから屈折した思いで他の道場を踏み荒らす。売れていないが実力はこのとおりだと明言したいんだよ、その男は」 自己顕示欲の塊だなと、牧は杯を空にしてまた並々と注いだ。 「んー、屈折した剣筋じゃなかったんですよ、そいつ。だったらもっとギラギラしたもんが迸ってるでしょ。オレを見ろ。 オレは強いだろうって感じじゃなかった。それに、荒らす理由が暇だからとかぬかしやがったしな」 「暇、ね」 「流川って名乗りました。聞いたことないですか?」 「知らんな。流派は?」 「無住心剣術かな。たぶん?」 「いまはぱっとせんな。一時は町人から大名まで一万を超える門弟を抱える巨大な流派だったと聞くが……無住心剣術か」 牧の視線が僅かに流離った。なにか引っかかる名前らしい。 「そうか。牧さんに聞けばなにか分かるかなって思ったんだけど」 「なんだ、おまえ。まさか負けたんじゃないだろうな」 「負けてませんよ。看板あったでしょうに」 「ああ、そうか。で、そいつの素性が知りたかったのか?」 「そう。牧さんはオレよりも顔が広いから」 「どうして? 負かした相手だろう」 「負かした相手です。けど寸分の差で負かされたかも知れない相手なんだ」 牧の煮物をつつく箸が止まった。おまえがか、と目線だけで聞いてくる。仙道は大げさに肩を竦めた。 「朝帰りで調子が悪かったのか?」 「すぐそういうことを言う。体調は申し分なかった」 「そりゃ、大したもんだ」 「そう。だからちょっと気になって。オレを倒すまで毎日でも来るって吐き捨てて帰ったくせに来ねーし。会心の突きを お見舞いしたから怪我でもさせたかなって」 「反省でもしてんじゃないのか」 天地がひっくり返ってもそれだけはないって、と闊達に笑った先、深い澱を呑み込んだ牧の表情がある。笑んだ象の まま仙道が杯を持つ手を止めると、牧は視線を伏せて問うてきた。 「ところで、お父上はご健勝か」 仙道の笑みがサッと引いた。事情もそして彼が背負っているものも総て熟知している男がその名を口にする。ただの 世間話程度でも、話題に上ることすら厭って避けていた彼に向って。 いつもの揄う口調はとっくに消えていた。いや、きょう出会ったときから牧はどこか苦渋を覆い隠していたのだ。 それに気づいて仙道は丸めていた背を伸ばした。 剣術に才能を見出し、強い相手と巡り合えることが至福で、そしてなにより陵南道場の居心地がよくて、だから それほど好きでもない道場稽古に顔を出してきた。 けれどそれは囲われた檻の中での逃避。省みるつもりがあるのかないのか、それすら分からない血を別けたただひとり の肉親。『励め』と、かけられる言葉はいつもそれだけで、だからこそ言われたとおりに究めるしかなかった。 出会ったことのなかった遣い手に異常だと思われるくらいの執着を示したのもその延長だ。 竹刀を交えていられる瞬間が好きだ。その間だけが世俗の煩わしさを忘れさせてくれる。最後の拠りどころのように しがみついて、剣の腕の立つ仙道として接してくれる友人に囲まれて暮らしてゆけたらと、ずっと願っていた。 願いながらもどこか痛んで仕方がなかったのだけれど。 冷や水を浴びせかけた牧の表情も硬い。束の間の安息に割って入る野暮をする気は毛頭なかったのだろう。だから 仙道は背筋を伸ばした。 「健勝、だと思いますよ。ご存知のとおりいまは国許だからはっきりとは分からないけど、牧さんに気遣い頂く 必要はないと思う。アレは毒を盛ったって死にゃしない」 「あまりよくないウワサを耳にしたからな」 堪りかねて仙道は噴出した。牧の心配りはあり難いが過剰反応に過ぎる。 「牧さん。それは買いかぶりすぎだ。いいウワサの方が聞いたことないのに。よくない程度なんて履いて捨てるほど ゴロゴロしてる。あの人がどうやっていまの地位を手にしたかなんて知らないあんたでもないでしょ。そりゃ、幼い ご大樹を廃し奉って次の地位を狙う算段を画策してそれが発覚したってのなら、腰も抜けますけど――」 「……」 「そう、なんですか?」 射るような仙道の眼差しを受けて、牧は伏せていた視線を上げた。是とも非とも、同情とも哀れみともつかない色が 仙道の背を凍らせた。ウワサだと、しかし名のある直参の嫡男とはいえ、まだ若輩の牧の耳に入るということは、 確実な情報として広まっているのではないか。露見すればただでは済まない。権力欲に取り付かれた男ひとりの咎 では収まるはずがない。 「あの、クソ親父!」 とうとうそんな大それたことまで考え出したとは。 杯を持つ仙道の手の震えはなかなか収まらなかった。 continue
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