〜壱 大川から吹く風にほんの少しのんびりとした色が混じり出した頃は 花降らしの雨の後で、木々もしっとりと濡れそぼち、神田明神前に点在する水茶屋の床几に腰掛けて、 優雅に茶を喫し団子をほおばっていた二本差しが、空いた串を盆に戻し、ウンとひとつ大きく伸びをした。 床几に座していても上背があるのが見て取れる。この若者、かぶいているのか洒落者なのか、どこから見ても格式ばった 身なりでお武家にしか見えないのに、洒脱しきった町衆のようなのん気な雰囲気を持っていた。 「おせいちゃんに煎れてもらった茶は、やっぱ一等染み渡るなぁ」 などと、茶汲み娘の紺の前垂れを引っ張りながら、白昼堂々袖引くお気軽さからだろう。にっこり笑って下げた眉が 一層ひと好きのする気安さで、お世辞と分かっていても悪い気はしない。まき散らす笑顔ひとつで、なにかと 世間の荒波を潜り抜けていそうでもある。 「またぁ、だれにでもそんなお上手を言ってるのは分かってるんですからね」 「お上手じゃないよ。おせいちゃんだけだって」 「うそ。八幡さまのおまさちゃんが、お盆をブンブン振り回しながら『そばかすが可愛いって褒めてくれた』って自慢げに 話してたの知ってんですよ」 「情報、はや」 「水茶屋小町の横のつながりを侮らないでください」 「同盟でもあんの? せっかくあちこちで梅の蕾が綻び始めたんだ。おせいちゃんとふたりでしっぽり、花見としゃれ込 もうって思ってたのに」 そう哀しそうな顔で眉を下げたお侍に、茶汲み娘はまん丸の瞳をキラリと輝かせて顔を近づけた。 「じゃ、八幡さまの梅を見に行きましょうよ。おまさちゃんとこで、ふたり仲良く甘酒を頂くというのはどうです?」 ゲッと顎をひくお武家に娘は上体を戻してふんぞり返った。さあ、どうするのと完全に手玉に取られている。参った なぁ、と弱みを見せるそのさまがたいそう母性本能をくすぐるだの、娘たちにとっても征服欲をかきたてられる だの。それを知った上で身に染み付いた習い性だと分かっていても、女はいい気にさせてくれる男に弱い。 「構わないよ。おせいちゃんがそうしたいなら」 そうやって引き付けておいて笑みを消す。呼吸をつくのと同じようなさり気なさ。思わず朱の登った頬に手を添えて、 あら、困ったわ、と一歩踏み出そうか後退ろうかと娘は思わず躊躇った。そのとき、参拝道の方角から盛大な砂埃を巻き 上げながらけたたましい声を上げた町衆が、それこそ脱兎の如く勢いと必死の形相で近づいてきた。 「仙道さん! 仙道さん! 大変や!」 大車輪のような走法で急に止まれなかったのか、所作も粗忽なら見目も若い町衆は、お武家の前でつんのめり、 どうにか上体を戻して膝に手を置く。喋りたくてムズムズしながらも、舌がもつれてどうしようもない様子の町衆に、 仙道と呼ばれたお武家はニッコリ笑って自分の湯飲みを差し出した。 「相変わらずせっかちだな。お天道さまが落っこちたわけでもないだろうに。ちょっとは落ち着け、彦一。おまえの せいで、のんびり羽休みしてた雀も裸足で逃げ出しちまったじゃねーか」 差し出された茶を一口で飲み干して彦一は早々の復活を遂げたようだった。 「雀は裸足で逃げません! ちゃんと羽で飛んできます! それよりも仙道さん! 出たんですわ。とうとう、うっとこ にも出よりましたんや!」 上方訛りでも 「出たってなにが?」 「なにがって、聞いてへんかったんですか、あんだけ騒いどったのに!」 「ちょっと待てよ。真昼間から恨みを呑んだオンナの幽霊っていうんじゃないだろうな。自慢じゃないけど、そんなもの においでいただくような野暮な遊び方、オレはしてねーよ。本気で出たならオレんとこ来るより、柳の下へ移動して もらえ。場所違えはよくない」 「幽霊がひとの説得に耳貸しますかいな!」 「じゃ、坊さまか祈祷師でも頼んな」 「幽霊の話とちゃいます。なんで『出た』で咄嗟に結びつきますねん。仙道さん疚しいとこありすぎとちゃいまっか」 「違うのか?」 「ちゃいます! 道場破りや! とうとう陵南道場にも来よりましてん!」 道場、破り? グラリと仙道の長身が斜めに傾いだ。 徳川の世も安泰を見せた正徳三年(一七一三)。御年五才の七代将軍家継が誕生した年の春のこと。 世の中あんまり太平楽だと上も下も他にすることがないのか遊興が少ないのか、幕府の重職たちは私利私欲を肥やす ことばかりに粉骨砕身し、その幕閣に取り入ろうと商人は目を凝らし聞き耳を立てる。そんな佞人たちの狂騒を 面白可笑しくはやし立てて町衆は溜飲を下げるしかないのだが、義憤や陰口や嫉みや悪態が蔓延していた町衆の 口から、ある日まったく趣の異なったウワサが飛び交った。 曰く――神田にある無外流豊玉道場が破られたそうだぞ。いや、根津のなんとか道場が先だ。両国もやられたらしい、と。 正直、このご時世に酔狂な輩がいるもんだと、足繁く通っている陵南道場の縁側を借りて惰眠を貪っていたとき、 聞こえてきたウワサを聞き流して仙道はそう感じた。 「どこのどいつだ! そんなふざけた真似をするヤツは!」 「真っ当な道場で真っ当な剣術を習った者がこんな横紙破りなんかしやしねー!」 「おおかた、周りにチヤホヤされて図に乗ったお調子者だろう!」 「他所ではどうか知らないけど、この陵南道場に現われたら一気にふん縛っちまいましょう!」 「どういう風体の男だ?」 「なんや、わいが聞いたところによりますと、背ぇは――」 他の門弟たちが憤る中、後は眠気に負けてよく聞き取れなかったけれど、そのうちどこかで頭を打って、要するに こっ酷く打ちのめされるだろうとしか興味はなかった。 無頼漢がどこでどんなウサを晴らそうが、遊びが過ぎようが気にも留めないし興味もない。なにを思っての所業か は分からないが、ひとはそれぞれ手前勝手な理由を並びたてて自分を正当化するものだ。剣の腕に覚えがある者。 辻斬り辺りに心身を落とさなかっただけでもマシな方か。 興味はないが、それでもわざわざ、江戸にゴマンとある道場の中から、仙道にとって癒しの場でもあるあの道場に。 敬愛する道場主や師範代の面目を潰させるわけにはいかない。 他所で遊んでて欲しかったなとは正直な感想で。 それでも重い腰を上げずにはいられなかった。 「どうして追い返さなかったんだ?」 笑窪の可愛い神田小町に別れの挨拶をしての道すがら、ことのあらましを尋ねる仙道に彦一は顔を真っ赤にして 怒り心頭の様相だ。 「最初は相手をせんかったんですわ。おまえの来るとことちゃうって、師範代の魚住さんがエラい剣幕で。他流試合も 禁じられてるしって。けど、そう説明して納得したかと思たら、イキナリ門前に取って返して看板外そうとしよって! 『やる気がないならいらねーだろ』とか! もうわけ分からんわ! で、しょうがないから魚住さんが指示出さはって 植草さんが出はったんです」 植草は一刀流陵南道場四十名中でも高弟と称される席次を持つ遣い手だ。剣筋がやや素直すぎるきらいがあるが、 基本に忠実で相手の力量と動きを冷静に判断できる――それだけ修練を積んだ立派な剣士だ。だが、彦一がこうして 仙道を探し出して呼びに来たところをみると。 「植草では相手にならなかったのか?」 「はぁ、まぁ。そのなんちゅうか、やたらと動きに素早い男で。それで越野さんが怒らはって二番手で出はってんけど ――」 ウワサが本当ならその男、道場の威信を地に落とした数はひとつやふたつではない。何度もその蛮行を重ねて自信も つけてきているだろう。勝負は始めなければいい。相手がどんな態度を取ろうが丁寧に対処する。とにかく相手を しなければいい。痺れを切らして帰ってゆくのを待つのが上策。一度竹刀を向け合ってしまえば、どちらもが熱くなって 引っ込みがつかなくなり、背負わなければならない瑕がふえてゆくだけだ。 けれど、有無を言わさずに看板を持ち去ろうとするなど、まったくもって問答無用、斬り捨て御免。有無を言わさない とはこのことだ。常識人である師範代の苦渋が手に取るようだった。 神田明神から離れること数丁の位置にある陵南道場。心なしか建物自体が息を詰めている中、仙道は看板の安全に 安堵して稽古場へ急いだ。三和土を跳び越え履物を脱いで蹴り上がった板の間の稽古場は、三月と思えない熱気に包まれて いるのに、冷や汗が背中を伝うほどの緊張感でピンと張り詰めていた。 門弟たちはみな羽目板の際まで退きポッカリと浮き出た中央の空間。 入り口に立つ仙道の正面を捉えているのは師範代の魚住。鉢巻たすき姿で闖入者と対峙していた。左手の奥には 次席の福田に抱えられるように身体を横たえている植草と越野。その横には三番を数える池上がいるところから、 彦一が説明したとおり、植草、越野と続き順位から言って池上が相手をするところを師範代の魚住が引き取ったと 見える。 相手の男の風体はこちらに背を向けているため確認できないが、七尺に近い長身を誇る魚住とそう遜色ないところ からかなり上背があるようだった。 一歩踏み出し板間が泣き声を上げる。道場に詰めていた師範代の魚住以下の門弟の視線が、戸口にいた仙道に集中 した。 「仙道!」 「仙道さん!」 「来てくださったんですね!」 門弟たちが歓喜の声を上げる中、情け容赦のない狼藉者がゆっくりと振り返った。 身体を斜めに開いたままこちらに視線を送った男は驚くほど目つきが悪く、呆れるほど年若く、目を見開くほど 整った顔立ちをしていた。 アレと視線を絞る。奇妙な既視感があった。 しかし見覚えがない。 実のところ仙道はこの陵南道場に籍を置いている門人ではない。別の流派の道場で免許皆伝を頂き、見聞を広める ためにツテを頼ってこの道場に通うようになった経歴の持ち主だ。したがって自慢じゃないが顔は広い。真陰流では だれがデキる。無住心剣術では某。無外流とはほとんど打ち合ったなど、遣い手と呼ばれる者は取りこぼした覚えが ないと豪語できるほどなのだが。 しかしまぁ、知らない者は知らない。当たり前だけどお江戸は広いということだと自嘲気味に笑った仙道に、 男と呼ぶにはなにか足りない少年は、スっと剣呑に視線を絞った。門人たちの歓迎ぶりから、そしてその立ち居振る舞い から真打の登場だと踏んだのだろう。 「このデカイのに変わってあんたが相手か?」 と、ふたりを相手にしたにしては乱れた様子もないはっきりした口調で問うてきた。さてどうしたもんかと仙道は その視線をとおり越して奥に位置する師範代に目をやった。門弟でも ない自分がどこまで踏み込んでいいか計りかねたからだ。しかし寄せられる眼差しは仙道ならなんとかしてくれる といった信頼。ふたりの高弟が倒された経緯を目の辺りにして、エラく抜き差しならない状況に陥っているようだ。 魚住が頷き仙道は末席の門弟が差し出した竹刀を受け取り相手と対峙した。 「だれかが説明したと思うけど、ふつう道場では許可なしの試合は禁じられている。しかもおまえのような素性の知れない 者は尚更だ。竹刀を収めてくれないか」 「なんども聞いた。どこでもそう言われた」 「まぁ、それがふつうの対応だろうからな。どうしても試合たいなら道場をとおして申し込めばいいし、なにもこんな 角ばった方法を取らなくてもいいと思うんだが」 あんた、と少年は仙道を遮るように低く呟いた。 「やる気があるのかないのか、どっちなんだ」 「別に相手になるのは構わないけどさ、いらない悶着なら避けたいじゃないか。あちこちの道場を荒らして回ってる のもおまえの仕業なのか?」 「荒らし回ってねー。打ち合ってるだけだ」 「けど道場の顔である看板は持って帰るわけだろ。立派な道場破りじゃねーか」 別に仙道とてこの狼藉者を説得しようと思ったわけではない。一見して短気な気質が見てとれたので、焦らして冷静 さを奪ってやろうという算段だったがこの少年、彼が考えていたよりもずっとせっかちだった。 スっと八双に構えて竹刀の先を持ち上げたと思ったらいきなり打ち込んできたのだ。周囲がアッと息を呑む。しかし 不意をつかれはしたが仙道の気は散じていない。踏み込んでその竹刀を弾いていた。 バシンと竹刀同士がしなる音が道場に鳴り響いた。 「卑怯だぞ!」 「てめー! 礼儀も知らんのか!」 「剣の道は礼に始まって礼に終わるんだろうが! そんなに喧嘩がしたいなら町のゴロツキでも相手してきやがれ!」 周囲からは罵声と非難が轟々だ。当然だがその集中砲火の中、少年の竹刀はもう一度八双に引き上げられ仙道の 隙を伺っている。とことん周囲の雑音が気にならない性質というか、喧嘩っ早いというか。傲岸不遜もここまでくると いっそ見事だ。 「いつもそんな卑怯な手を使って勝ってたのか?」 「てめーがごちゃごちゃ、うるせーからだ」 仙道からの当然の質問にも、さっさと合図を出せとばかりに魚住に対して顎をしゃくるあたりが肝も据わっている。 最後に、と仙道も青眼に構えてつま先で床を探った。 「おまえさぁ、こんなことして楽しいか?」 と、問うて間合いを読む。それに対して返された少年の答えに、仙道の中でなにかが弾けた。 「別に。ただ暇なだけ、だ」 言うに事欠いて暇ときた。腕試しだとか功名心だとか見得だとか、あるいはむしゃくしゃしていたでもいい。そう 返された方が納得がいく。 そんなヤツになにを言っても分からないだろう。暇で道場破りをする輩に、皆がどれほど真摯に稽古に励んで剣の道を 究めようと躍起になっているか。ひと括りに武士の子弟といっても、嫡男でない限り家督が譲られることはない。 次男以下は剣か学問で身を立ててゆくしかないのだ。 それでなくてもだれだって自身が身を置く道場には愛着が深い。それをこの男は『暇」の一言で踏みにじろうとして いる。 許せないと、それは珍しく身体の内から湧き出た純粋な怒りだった。 「名前、聞いとこうかな」 「必要あんのか?」 「竹刀勝負で名前も知らない相手と打ち合うのって、座り心地が悪いからな」 「流川」 「そう。じゃ、流川。いこーか」 仙道は相手のどんな動きにも対処できるように全身をたわめてその距離と剣気を探った。ジリとにじり寄り高く 掲げられた竹刀の先よりも流川と称した少年の目に食い入る。しかし彼ほど表情を読み取りにくい相手もいなかった。 先んじた仙道の動きになんの変化も見せない。仙道が右に動けばそれと相対しているだけ。気の短い性質だと踏んだの は見当違いだったかと思った刹那、流川は音もなく踏み込んできた。 速いと思った。四間ほどの間合いを一気に詰め、突かれた竹刀の方が伸びてきた錯覚を覚える。仙道はそれをいま 一度踏み込んでそれを弾くが、相手は攻撃のあとの引き足も速く気づいたときにはもう三間ほどの間合いが出来ていた。 一撃必殺の剣だけではない見事な防御だった。 「なかなかやるじゃん」 にっと口の端を上げて揄っても流川の表情になんの変化もない。恐らくどんな野次を浴びせられたとしても、敵対 する者の切っ先と視線と足の運びだけを見ていられるのだろう。それだけでも稀有な資質だ。 基本姿勢は無住心剣術の八双の構え。けれど拳の握りやスリ足の進め方などがどこか雑多なものが混じっている。 師匠筋がひとりではないのか。いくつもの流儀を渡り歩いてきたのかこの歳で。何者なんだと揺れる切っ先。 今度は流川の間合いに入る前に仙道が打ち込んだ。 周囲が息を呑む。 狙いは肩。しかし流川はその打ち込みをかわしていた。流れるように肩を開き軸足の位置を変えて攻撃に転ずる。 その篭手打ちを逃れて仙道はひとつ息をついた。キリと引き絞られていた流川の呼吸も荒くなってきている。怜悧 だと思われた風貌は情け容赦のない殺気を帯び、冷徹な平常心もやや揺らぐ。なるほど、若い、と仙道は乾いた上唇 をペロっと舐めた。 けれどつい、愉悦に近い言葉が漏れる。 「おもしれぇ」 羽目板の際で正座をしていた陵南道場の面々の背にピシリと緊張が走った。 『おもしれぇ』と、仙道の口からこの言葉をだれが聞いただろう。 師範代の魚住と旧知の間柄らしく、いつの頃からか門弟たちと混じって稽古をし出したこの門外漢は、ひと好きのする 性質と卓越した技術とで、たちまち一同の敬愛を一身に集めた。しかし竹刀を交えてもどこまでが本気でどこに手心を 加えているのか分からない測り難さがあった。稽古をつけて欲しいと頼めば快く応じてくれる。小さな足運びにさえも 気を配り的確な指示を与えてくれる。師範代の魚住や道場主の田岡の顔を潰さないような心配りをした上でだ。 どこか一歩高み。みんなと竹刀を交えるのが楽しくって仕方ないからといつも笑う。それはとても頼もしいのだけれど、 周囲が寄せる信頼以上に仙道が心の底から楽しんでいるとはどうしても思えなかったのだ。 「海南道場の牧さんと打ち合ったとき以来だ」 次席の福田がポツリと漏らす。隠し切れない殺気を身に纏った仙道を見たのは。流川に打たれた肩に手をやりながら 越野も頷いた。 「アイツ、あんな顔してるけど結構獰猛だから」 「本気の仙道がまた見れる」 よく見ておけ、と福田は門弟たちに言葉を向けた。 continue
|
またまた始めてしまいましたパラレル「やっとうプラス陰謀系」。
「月落ちて」とほとんど同じ頃に書き出してたんですが、ストーリーが続かなかったので後回しになっていたお話ですv 「月〜」ほど陰惨な話じゃないです。けど、けしてラブラブ甘々でもないし、完全な見切り発車で(苦笑) そんなんですが、お付合いいただけると嬉しいです。 |