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 仙道主導のまったりとした昼食からようやく解き放されて学生食堂を出たあと、広いキャンパスの閑散とした中、 風を切った流川の足取りは跳ぶよう軽い。まるでモーゼの十戒か、滑走路に並ぶビーコン波か。想いの強さは大海を 干上がらせ、総ての願いはたったひとつに誘導される。
 彼の後ろに道はでき、彼の背中には翼がある、だ。
 まるっきり置いてけぼりのかたちで体育館目指し一直線の背中を追って、仙道は息を弾ませながらようやく真横に 並んだ。
「そんなに慌てなくても逃げねーって。流川ったら意外と積極的v」
 と、わざと語尾にハートマークをくっ付ければ、
 「時間がなくなる。終わってたらどーすんだ」と、冷淡でいて尤もなご意見。バスケモードに切り替わった少年に対して、 ちょっとでも甘ったるい態度を滲ませれば、ライバルどころか鬱陶しいだけの追っかけ軍団のひとりとして認識されて しまう。ソロソロと地雷原を避けて進まなきゃならないオレっていったいなんなんでしょ?
 そんなもの、だれに問うても明確な答えは返ってきそうになかった。
 さすがの冷徹魔人もキョロキョロと視線を泳がせるくらいに立派なクラブハウスで着替えを済ませ、流川の気負いが 伝播したかのように黙ったままで体育館の階段を上がった。 重い扉を引きアリーナへ一歩踏み出す前に、ふたりは同時に頭を下げる。仙道にすれば、体育会系の礼儀をきちんと 守る少年が少し意外でもあった。
 試合と試合の合間のたった一日しかないオフのため、Aチームのメンバーは数えるほど。それでもB、Cチームを中心に 二十名近くが自主練に励んでいる。
 パス鬼ごっこで白熱していた連中が、ふたりが入ってきた気配に気づいて動きを止めた。その中から抜け出て彼ら に近づいてきた華奢な長身は、同学年の神宗一郎のものだ。ポジションは二番。AチームもAチーム。仙道同様、二年生に してスターティングファイブだったりする。
 ただ仙道との絶対的な違いは無類の努力家だという点か。地獄の基礎練。怒涛の走りっ子。海南の伝統を高等部に いたころから身に染み込ませている具現者だ。
「アレ、珍しい。おまえがオフを返上して姿を見せるなんて、絶対この一カ月の間に台風が上陸するな」
「ひと聞きの悪いこと言うな。けど、台風なんてこの時期、一カ月と言わずに週いちの割合で発生してるぞ」
「おまえが真面目に取り組むのはそれくらいの確率だろ」
「人間、波があって当然だよ、神。おまえみたいに三百六十五日、オンだろうがオフだろうが試合前だろうが後 だろうが、ポテンシャルが変わんないって方が異常なんだ」
「なにがポテンシャルだ。おまえの気紛れは駆け引きでもなんでもないよ。近頃はさ、試合前の仕上がりを見にくる 報道陣も、おまえの練習状態見て、調子が悪いのか、なんて書かなくなったな。いっつものことだから」
 高校のときからそんな感じなんだって、と彼は鎌倉の方角へ手を合わせた。
「緩急の付け方が上手いって言ってくれよ」
「緩ばっか。あ〜、けど、この件に関してはいまさらかぁ。オレなんかが語っちゃいけないな。陵南の連中は三年間 ガマンしたんだ。心労、察して余りある」
「ま、そう悲観しなくても」
「嘆いてんじゃなくって呆れてんの。ちょっとは周りの連中を気の毒がれって話だよ。毎日五百本、正規練習の後で 居残りしろとまでは言わないからさ」
「神。ひとのことばかり言ってるけど、おまえだって、自分にできることが他のだれにも出来るなんて思っちゃいけないん だぜ」
 目の前の華奢な男は、淡々となんの気負いもなく努力できる天才という人種。それはおまえだけの専売特許だからと 笑うと、神の背後から少し唖然としながら近づいてくる少年の姿が目に入った。
 モチロン海南大のメンバーじゃない。新入部員かと思うには若すぎた。どこをどう見ても中高生、と神に視線を戻した そのとき、少年の罵声に近い叫び声が上がった。
「あっー! てめーっ。富中の流川っ」




 流川?
 仙道は自分の背後にいる少年を振り返る。突然名前を呼ばれ、それも体育館に響き渡るような音量に、 少し驚いた表情なものの、彼は目を細めて小さく首をかしげている。相手が自分のことを知っているふうだからといって、 こちらがその相手を覚えているとは限らない。自分に照らし合わせてもよく理解できる仙道だったが、認識している人物の なけなしの在庫を引っ張りだして、流川はそれでも思い出したようだ。
「……えっと、神奈川県予選のファイナルで当たった……ナントカ中の……」
「セミファイナルだろうが、セミっ。しかもてめーんとこ、ウチに負けてファイナルには出てねーんだよっ」
「そうだった」
「寝ぼけてんじゃねーぞ。優勝して関東大会に出たのはウチ。おめーらは三位で出場。ちなみに富中、関東大会は 一回戦負けだろうが」
「……よく知ってんな。あぁ、三番、張ってたヤツか」
「そんくらいの動向、知ってて当たり前だ。しかもたっぷり二十秒も悩みやがって。清田だ、清田。いっつもおめーに マッチアップしてたのはオレなんだぞっ。なのに思い出したらポジション番号かよっ」
「うん」
「うんじゃねー。負けた相手のツラくれー覚えとけっ!」
「髪の毛、ウットウしいんだよ、てめー」
「ひとのこと言えんのかっ」
「言える。バンダナ、ズレてた。あんとき」
 何度か対戦しているようだから、あんときがどのときかだれにも分からないが、最初に思い出したのがソレかよ、と 自分の頭を差し示した流川の指に噛みついてやらんばかりにお怒りだ。無理もないけど流川相手にそれでは神経が 磨り減るだけだと思う。早々に諦めた方が心身のためにはなんぼかマシ。けれどそれは達観しているから言えることで、 ぼんやりと尖がりを併せ持つ少年は、相変わらずひとの神経を逆なでするのが上手い。
 ほんとに。
「てめーだって、ボサボサ頭じゃねーかっ!」
「信長、声、デカイって」
 流川の胸倉を掴みかけた清田の腕を取り、神が割って入って諌めるけれど、歯をむき出しにして中指おっ立てている 少年も相当なものだ。なんか近頃の中学生は喧嘩っ早いのが多いなぁ、と自らの過去を振り返って仙道は思う。 どうやってサボろうかと腐心していた覚えはあるけど、チームメイトや他校生と喧嘩どころか言い合いに発展したことも 皆無。ほんと、至ってマジメ――っていうか、柳に風だったのだ。
 アツイぜ、青少年。
「スンマセン、神さん。けど、コイツ、新人戦のころから同じポジションでやりあってんのに、未だにコレなんすよ。 ムカツクでしょ」
「まぁ、そういうタイプは往々にしているよ。けど、覚えてもないくせに適当に話を合わせられるよりはマシじゃない?」
 だれにアテ擦ってるんだと、仙道はチラリと寄こされた神の視線をやり過ごして流川を見ると、清田くんお怒りの 根源は、ボールゲージの中からオレンジ色のそれをひとつ取り出し、両手で掴んで手に馴染ませている。同時に キュっと音を鳴らしわざとバッシュのつま先を床に引っ掛けて、その滑りを調べていた。
 さっぱりと聞く耳を遮断したさまに、清田はさらにいきり立ち、神は呆れたような笑い声を上げるが、それに対しても チラっと目線が流れただけだ。
「こんのヤローっ」
「まぁまぁ。けど仙道が連れてきた子とは思えないな。ひたむきで真摯で、ここが何処だろうとすっかり臨戦態勢じゃん。 早く動きたくって仕方がないんだろうけど、ボール、中学とは大きさが違うもんな。大丈夫か?」
 神の心配は杞憂だ。
 たぶん流川なら、中学の部活を引退してしまったら、さっさと六号球とはお別れして七号球はすでに手に馴染んでいる のだろう。『テロメア』で遊んでいたボールも七号球だった。もうなんの違和感もないのだろうけど、バッシュを履いて 初めて訪れた体育館で、リリースもバウンドも靴の滑りも少し様子が違ってくる。
 ひとつ弾ませて右手に送り、また弾ませて左手へ。それを繰り返して、流川は無邪気とも言える表情で小さく笑った。
 心底不思議そうな顔をして神はツツっと仙道に歩み寄ってきた。
「どこで拾ってきたんだ、この子。ツレにしちゃ若すぎるし、おまえとツルムようなタイプにゃ見えない」
「バスケオタクでバスケバカ。オレと正反対だろ」
「うん。なんかちょっと清々しいもんを見せてもらったよ。ボール見て掴んで、あんな顔するか、ふつー」
「するんだよな、アイツは。特にインは久し振りだろうから」
「あれじゃ、対戦相手のこと、ポジションでしか覚えてないのも無理ないかもな」
 さすがに体育館のど真ん中に陣取ることはしなかったものの、アップもかねて空いているゴールをちゃっかり確保し、 ヒョイっと躰をしならせてまずワンゴール。寄せられた視線も空気の歪さも風に流してキレイに二本目。
 そんな唯我独尊を貫く少年を仙道はどこか誇らしく思った。何気ないジャンプショットひとつに目を奪われるのは 自分だけではないのだ。
 仙道は流川に視線を預けたままで続けた。
「バイトしてただろ、牧さんとこで。そこで知り合った」
「あぁ、おまえの逃避行な」
「イチオウ、怪我の療養なんだけど」
「女の子たちとよろしくやって、命の洗濯。情報が入ってないとでも思ったのか」
「ちぇっ。どーせ、あることないこと言ってんだ、あのひと」
 牧のひとを食った笑顔が蘇り肩を竦めた先、流川のウォーミングアップが段々と難易度を増していた。架空の対戦相手 を右に振ってワンフェイク。スピードを上げそして停止し、最小限の動きでボールは右手から左手へ。それを指先に 引っ掛ける距離に放っておいて、流川のダッシュは目を見張るくらいにキレがある。
 肩すかしを食った状態で佇んでいた清田はその動きに完全に触発され、流川の手を離れキレイにリングをくぐったそれを 強引に奪うと、反対側のゴール目指して怒涛のストライドだ。反応する気にもなれない流川が躰を斜めにしてその方角へ 目をやれば、あの身長から信じられないくらいの跳躍を見せ、これみよがしのダンクを決めて顎を上げているナントカ 中の三番。
 のぼりをおっ立てればきっと『清田信長参上』だろう。
 『見参』でもいい。
 田舎の暴走族みたいなヤツ。
 ひとさし指をクイクイ曲げながら挑発する清田を尻目に、ボールなんかいくらでもあるもんね状態の流川は、 ゲージに新しいものを取りに行く。「てめーっ。神妙にショウブしやがれっ」と叫ばれても、「まだ躰が温まってない」 のひと言だ。
 海南大のメンバーからは好意的な笑みが零れるが仙道と神は笑えなかった。
 そう。
 あんなふうに。
「蹴りを入れられちゃったってわけ、か」
「簡単に言えばそういうことになるね」
 さっきまで、ただただ、大学生との実力差に圧されて萎縮気味だった清田が、相手がだれだろうと自らのスタンスを 変えない流川に目の色を変えている。
 同じように、この見た目以上に複雑な気質を持つ天才を揺さぶり起こしてくれたのか、あの少年が。メンバーたちの 心配と気遣いに胡坐をかいていたこの男を。
 どれほどまでにみながエースの復帰を願っていたか。なにが理由での休部かも朧なら、山間の心洗われるような 風景を誇るホテルでなにがあったかも知らない。ある日突然、そういう訳だからと姿を消し前触れなく戻ってきた。 そんなメンバーたちの戸惑いを与える隙すらこの男にはないのだ。
 平気で惰眠を貪りなにに刺激されたかと思えば後ろ姿も毅然とした中学生。なにもバスケしか見えないケイジャーは 彼ひとりじゃないだろうに。そりゃ、戻ってきてくれて、こんなに心強いことはないのだけれど。
「やっぱ不愉快な男だよ、おまえは」
「?」
 きょとんと仙道が顔を傾け、神は肩をすくめたそのとき、体育館を揺るがすような大声が響き渡った。
「なんだ。きょうはエラく可愛いお客がいるなっ」



 最上級生にして全日本の正センター。リーグ戦のリバウンド王に輝くこと二回。走れる205。インサイドでのしなやか なポストプレイは東洋いちと称され、試合会場や雑誌でおなじみの天下の海南大男子バスケ部主将のお出ましだった。
「チワっス」
「おー、集まってんな。コイツら附属のガキどもか」
「附属も附属。けどまだ未満ってとこで。来春入学予定なんすよ、主将」
 高等部、きょうは休みらしくって、せっかく見学に来たもんだから引っ張って来たんです、と神は清田を 紹介した。神のそばまで走って戻った清田のお辞儀にふうんと顎を上げ、彼は視線をサイドライン際でチョコンと頭を 傾けた流川に合わせる。おや、と目をそばめてから仙道に視線を移した。
「なんだ、おまえ、熱でもあるのか」
「どーゆー意味っすか、それ」
「いや、遊びにいけないくらいに具合悪いのかと思ってな」
「その種の嫌味は、さっき、神から耳タコなくらいに聞かされましたよ」
「神っ」
「なんすか?」
 そういうことはオレの分まで残しとけ、と一喝したあと、主将は流川を顎で指し示した。
「あの子がそうか? 牧さんの従兄弟って」
「そうです。なんだ、もう聞いてたんすか?」
「おまえが帰ってきたときに電話入れといたんだ。不肖のエースが散々世話になったからな」
「お心遣い、痛み入ります」
「痛み入っとけ。んで、おまえに妙に懐いた従兄弟がいるって話になって、恐らく世話をかけると思うが邪魔にならない 程度でよろしくだと。あの牧さんが親バカしてたぜ」
「へぇー。おまえの行動、読まれてるよ」
 仙道がからかえば流川は肩を竦めて背中を見せるだけ。だが、聞くともなしに耳に入ったその会話に目を丸くして叫んだ のは清田だった。
「流川っ、おまえ、ま、牧さんと親戚だったのか!」
 周囲のメンバーからもその尋常じゃない名前が飛び出て、じんわりと波紋が広がっている。当の流川は、だったらなに、 てなもんだ。
「そう」
「そうって。ウラヤマシイじゃなくって、だったらなんで附属に行かねーんだよっ。スカウト話、あっただろうが!」
 オレにも来たんだからとは口が裂けても言えない。関東大会一回戦どまりの中学生に、全国から声がかかったという ウワサは同年代にとってはシャレにもならないのだから。
「だって、海南行ったって、紳兄ぃ、いねーじゃん」
「は?」
「いるんなら、行ってもよかったけど、いないんじゃ意味ねーし」
「意味――」
「ねー……って?」
「オレたちは意味のないところで三年間ガンバってきたのか?」
 附属出身者だけでなく、高等部の監督、高頭辺りが聞けば卒倒しそうなことを平然と言ってのける。その場にいた だれもが凍りつき仙道は天を仰ぎ、とりあえず真っ先に自分を取り戻したのは、年の功によるものか。 四年生の主将だった。
「まぁなんだ。時間も勿体ねーし、対面してスクエアして適当にアップしたらゲームしよっか。おまえらもそのために 来たんだろうしな」
 パンパンと手を叩き余裕を見せれば、清田だけでなく流川も今度はちゃんと正面きってコクンと頷いた。






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