〜1
「なんだか、先行きに自身、なくなってきたなぁ」
仙道はケータイをベッドに放り投げ、自室の窓から僅かに見える削げた月をぼんやりながめながら呟くと、
そのまま長い躰を横たえた。
関東大学リーグ一部に属する海南大学バスケ部の、自他共に認める二年生エース仙道彰には、怪我を理由に
休部届けを出し、ついついなまけ癖が頭をもたげ、ついでに大学の方もどーんと長いお休みを取ってしまおうかと、
やさぐれ気分に浸りきっていた時期があった。
そんな状態の彼を後押ししてくれたのは、海南にこのひとありと称された伝説的なOB牧紳一。救ったという
よりも、人手不足だった自らが経営するホテルの従業員として補填するという色がなきにしも非ずだが、その誘いにいとも
簡単にホイホイと乗っかり、天性のフェミニストぶりも、それこそ妖花ラフレシアか徒花ように開花し、それはそれは
お客さまからのウケもよかった。
水を得た魚というか歌を忘れたカナリアというか、なんのために地元を離れて、心洗われ心染み渡るような大自然の中で
頭を冷やしに来たのか分からない。誘った方もいい加減冷や汗をかくような、それは見事な泳ぎっぷりだったのだけれど、
オーナー牧の従兄弟に当たる中学生の少年が、親の事情でホテルに預けられて状況は一転した。
とにかく、親戚筋の牧を前にしても親の顔が見てみたいと叫びたくなるような、無口で無愛想で無表情で
ぶっきら棒ですげないワガママものだったのだ。
それだけなら、ヤなバイトが入ったなぁくらいでやり過ごしていたのだろうが、彼は中学バスケ界では十年にひとり、
出るか出ないかと称されたほどの逸材だった。その上、その年にしてストイックなまでにバスケ以外のもの総てを
削ぎ落とし、盲目的なまでに向上心のある少年だった。
煽られ、駆り立てられ、教唆され、誘われ、真摯な瞳を当てられ、気づいたときにはまさに自分の立っている場所を
見失ってしまったような浮遊感に襲われた。アレ、オレ、いまなにしようとした? てなもんである。
リゾート地にあるホテルでもないけれど、見渡せば目に眩しい軽装の女性客たち。お声かかりもひっきりなしである。
そんな色とりどりの色彩をすり抜け突き崩し、なぜそっちに目が奪われた、仙道彰、二十歳と少し。
ひとを射抜くような視線と無愛想を差し引いたとしても、つい目を奪われる怜悧な美貌よりも、他を省みないバスケに
対する熱情が、仙道の根底を揺るがした。だが、なんといっても若気の至りではすまない年齢になってしまっている。
それくらいの分別は残っていたけれど、覆水を盆に返すのは大変だし、後悔は先に立とうが後に立とうが忘れてしまった
もの勝ちだ。
つまり、かなり確信的に落っこちた。
奈落――もとい、恋というやつに。
それも五つ年下のまごうかたなき男の子に。
これってどうよと思わないでもないけど、一時的な気の迷いならそのうち醒めるだろうし、なるようにしかならないのが
世の常だ。いわし雲から除く秋の陽光がやけに目に染みるぜ。達観し切って手始めに、別れ際に交わした約束を履行
しようと彼に連絡を取った。
おまえのご希望どおり、海南大の練習に参加できるよ、と。
あの無愛想もんでもこれにはちょっとは嬉々とした声を上げるかと思いきや、
「分かった」
そんな素っ気ない言葉が返ってきたのだ。
「それだけ?」
「他にどう言えって?」
それは九月初めの日曜の夜のことだった。
久し振りとか、元気にしていたかとか、勉強ははかどってるかとかの挨拶とコミュニケーションを一方的に遮って、
流川は『じゃぁ、いつ?』と、自分の疑問だけを突きつけてきた。
これじゃまるで大学の練習に参加させてあげましょう、のエサなしに電話しちゃいけないみたいじゃないか。憮然と
口調が尖るのもしょうがない話しだが、敵は一切気づかない。無愛想やぶっきら棒なもの言いなら、自分で慣れてるだろう。
彼に勝るものは、ちょっと見渡しても仙道は知らない。要するに、年季負けなのだ。
「九月十九日。都合は?」
「大丈夫」
中学三年の二学期ともなると、休日ったって課外授業だの補習だの校外模試だのと忙しくなるのだろうけど、まぁ、
仮に重なっていたとしても、彼ならなにをさし置いてもバスケの練習を優先させるのは間違いない、か。
それは二十日間ほど一緒に暮らして仕事して、イヤというほど突きつけられた現実だ。
んじゃ、とばかりに電話を切る雰囲気に本気で冷や汗が出そうになる。想いを口にしたり遂げあった仲ではないけれど、
あのときあれほど甘やかなひととき――多少ふたりの間でニュアンスは違うかもしれない――を過ごしたふたりだ。
学校の連絡網を回してんじゃないんだから、そんな事務的にと電話口に向い、『迎えに行くから十二時くらいに辻堂で
待ってろ』と一気に叫んだら、
「いー、ひとりでも行ける」
またしても、ツレナイにもほどがあるお返事。
あの口づけはトリップしていた仙道が見せられた白昼夢だったのだろうか。それとも流川だからキツネに化かされた、
と疑うほど。情熱的というよりも喧嘩腰だったけど、それだけで相手の首筋に両腕を絡めたりはしないだろう。
彼がどう思おうと、それだけは事実だ。
世間一般的には新学期が始まっていても、大学内では未だに就職活動中の最上級生か、クラブに所属している学生の姿
しかない。だから、
「そうは言うけどさ、流川。いっくら最寄り駅から海を目指して一直線の道程でも、大学のキャンパスは広いんだぜ。
道を聞こうにもいまは人っ子ひとりいないし。(そこまで閑散としてないけど)それに同じ敷地内に附属もあって、
近くには小中学校が隣接してるんだ。迷いでもしたら、時間がもったいないと思わないか」
と、必死でかき口説いたのだ。
そんな自分の姿を冷静に眺めるくらい虚しいものはない。
『ホテルテロメア』から帰ってから初めてのデートは――ふたりっきりじゃないけど――たぶん槍でも降らない限り
大丈夫だろう。第一のハードルはバスケ絡みだから簡単だ。いままで燻っていただけに、大学生相手に思い切りコートを
駆けてわき目も振らずにボールに喰らいついてゆくだろう。いまからその姿が目に浮かぶ。
けれど第二段階は手を焼くかもしれない。なにせこの流川から、楽しかった。こんどはいつ会える、という言葉を
引き出すというものだったから。
――そんな日がほんとうに来るんだろうか。
虚しいをとおり越して、遠い目になってしまいそうなくらい低レベルに設定された流川とのプロセス。けれど、
いままでとはまったく勝手の違う相手なんだから、その過程も楽しまなくちゃ享楽主義者の名が廃る。
仙道フリークの女性たちが聞いたら卒倒しそうなほど、健気な決心だった。
そんなこんなで待ち合わせ。胸中に巣食うモヤモヤをあざ笑うかのようにカラっとサラっとした九月の祝日。
こちらが遅れでもしたら二度と信用されなくなってしまう。
いやいや、信頼なんて最初っから存在しないものよりも、ふだんは立ったままでも居眠り可能な少年が、イチオウ
バスケ絡みだからスイッチ・オンで気配を察し、部外者立ち入り禁止の体育館にたどり着いて潜り込んで、『仙道の紹介』
のひと言でちゃっかり練習に参加できた日にゃ、彼の存在理由なんか塵芥のごとく溜息ひとつでけし飛んでしまうだろう。
安易に想像できるから、そら怖ろしい。
ここはきっちりだれのお陰かを認識させなくてはならないのだ。
百戦練磨の仙道彰らしくない、セコイ目論みをハラにひそめつつ、珍しくも――聞けばきっとチームの連中が
天変地異の前触れだと近所の神社にお祓いに走るくらい――時間厳守も厳守。約束の十分前には駅に到着した
仙道だった。
藤沢でJRに乗り換えてたったひと駅。まさか迷ったりはしないだろうかと、幼稚園児なみに案ずるあたりが、
たった二週間で彼の生活能力のなさを知り尽くしている所以だ。
だが、チャリで行った方が早いと言い切る少年を説き伏せて、辻堂での待ち合わせを強行したのは、その方がデート
気分を味わえるからで、あの日別れて以来ほぼ半月ぶりの逢瀬だったりする。
仙道彰、休部を解いて復帰そうそう、全日本からお声もかかるスーパースター。意外と設定に酔う性質である。
大学バスケ界ではいま現在シーズン真っ只中で、関東大学リーグ戦の最終節まで待っていたら十月も終わってしまう。
それが終われば休む間もなくインカレだ。だから四節と五節のたった一日しかない休みを流川とのデートに当てた。
無論敵はそんな甘ったるい響きのものを期待してやってきはしない。彼にしてみれば待ちに待った海南大学バスケ部の
自主練の日なのだ。
中学のクラブを引退して高校入試を待つ身ながら、間違いなく、毎日受験勉強よりもボールに触っている時間の方が
遥かに長いバスケ(馬鹿)少年も、ひとり練が長く続くとその限界を痛感しているだろう。チーム競技は相手がいないと
始まらない。相手がいないとなにも成長しないのだから。
だから気合入りまくりでやってくるだろうと思っていたのだけれど。
「あらま」
駅構内に近づいて仙道は目を瞬いた。
約束の十分前。仙道的に言えば約束の十分も前に着いて、流川が姿を現す瞬間を待っていようという殊勝な心構え
だった。しかし、「テロメア」で寝食を共にしていた期間、何度も大声を出して揺すって叩いて、しまいにはケリを
入れなきゃ起きなかったあの流川が。それもそのあと渾身の拳やら蹴りやらを繰り出す至上最恐最悪の寝起きの持ち主が、
十分も前に、いや、恐らくもっと前から彼を待っている。
もとい。海南大学体育館への道案内を待っているだ。
けれど、喩えそうであったとしても、また、こんなときじゃないと発揮されない行動力と熱意だろうけど、
仙道へ向けられたベクトルの強さが嬉しい。練習嫌いに定評があるとはいえ、腐っても全日本当確。ユニバの
ユニフォームは一年のときすでに袖をとおした仙道だ。流川とその瞬間を共有できる喜びに勝るものがないのも事実
だった。
大通りから駅に近づいてくる仙道に流川はまだ気づかない。大きな円い柱に背を預けて、待ち人が改札から出てくる
とでも思っているのか、彼はそちらの方向ばかり見ていた。
白地に赤いロゴマークが入ったTシャツとクラッシュジーンズ。Tシャツと同じブランドのドラムバッグ。そんな
素っ気ない出で立ちでも、やたらと周囲の視線を集める怜悧な美貌は圧巻だ。
チラチラともの言いたげに通り過ぎてゆく女の子たちや、同じように駅で待ち合わせを
しながらひと目でそれと分かる秋波を送るお姉さまがたもいる。けれど、一緒にお茶でも飲まない、の気安いお声がかりを
遮断する冷徹な仏頂面も、それが他人に向けられたものなら、心地よく感じるから我ながら救いようがない。
遠目で彼を観察して、ふと、昔見た映画を思い出す。全編モノクロで印象的な一箇所だけをカラーで伝えたあのシーンを
見ているような錯覚を覚え、いや、逆だなと目を細めた。周りの色彩が色あせて見えるほどに浮かび上がった、
白と黒の奇跡のコントラスト。たくさんの影が彼の前を遮ってもくっきりと浮かび上がり、目を閉じても確かな残像と
なってまなうらに蘇る。
『テロメア』にいたころも、そう感じたんだ。
ヨシヨシ、と妙に安心して納得して、仙道は流川の肩に手を置いた。
「悪りぃ。まさかこんなに早くから待ってるとは思わなかったからさ」
「別に。てきとーに出たから」
そう言いながらも、仙道を見つけてホっと安心したように息をつくさまはまだまだあどけない。一瞬だけど、この辺り
のアンバランスさが、無意識のウチの手管なんだからソラ怖ろしい。思わず手が伸びて、それはもう、ここに仙道ファン
の女の子がいれば思わず身を投げ出したいっ、と叫ぶほどに艶然と笑むけど、モチロン彼にとっては、しまんねー顔って
なものだろう。けど、分かっていながらも頬が緩むのはどうしようもない。
「そっか。アレ? また背が伸びた?」
「たぶん一センチくらいだと思うけど、なんで分かんだ?」
「そりゃ、ね」
何度も間近に引き寄せてるとちょっとした目線の位置で分かんの、と、衆目も気にせず言葉の接ぎ穂のように流川の髪を
くしゃりとかき混ぜる。この瞬間、あぁ、やっぱ駅で待ち合わせしてよかったと思うわけだ。
たぶん、流川がただの流川だから。
雑踏の中で仙道しか見ていないから。
この漆石の輝きを見せる瞳に。
とてつもなく。
時間的にも昼飯は食ってないだろうから、安くて旨くてボリュームたっぷりの学食に案内してやろうと言うと、珍しく
流川の瞳に喜色が混じった。伸び盛りの成長期。それでなくてもこの容姿にして食い意地の汚い大飯喰らいだ。
それに見合うだけの運動量を朝からこなしてきたんじゃないだろうか。返す返すも受験生が。
メシ、メシとばかりに寄り道せずに一直線に大学を目指し、広いキャンパスを歩きながら、目線だけでキョロキョロと
見回した流川は、ドスの利いたひと言を発した。
「ひと、いっぱいいるじゃん」
「きょうは特別かな。なんでかなぁ」
覚えていた言い逃れにはとりあえずすっとぼけておく。ひと睨みが入ったけれど、彼がそんなものに深く拘らない性質で
ホントよかった。
中学生にとって大学なんて未知なる世界なのだろうけど、水着となんら変わらない格好のお姉さまたちのファッション
より、流川にとっての歓喜は、公式試合にも使われるという体育館と隣接されているクラブハウスだった。アレがそう、と
指差し、説明しただけでフラフラと近づく腕を引き戻し、先に腹ごしらえと、己の現状を理解させなければ、間違いなく
その魔力に吸い寄せられて行っただろう。
まったくもって、猫にマタタビ。お女郎に小判。政治家に組織票。流川に体育館だ。
海南大ご自慢の学食――カフェテリア方式になっている――も後に控える練習に気を馳せて、さしもの食欲魔人も
腰が落ち着かない。さっさと取り揃えて脱兎の勢いで食んで、自分の胃が満たされると仙道を目の前にして腕組みだ。
「そのうち貧乏揺すりとかし出すんじゃねーだろうな」
「さっさと食えよ」
「早食いは消化に悪い。消化に悪いってことはエネルギー伝達も効率も悪い。それすなわち、このあとの過酷な運動にも
響いてくる」
お分かり? と、可愛く小首を傾げてからかえば、目を据わらせたまま水の入ったコップを仙道の頭の上で傾け
ようとする。びしょぬれになるのは慣れてるから平気だけど、やっぱここじゃ不味いでしょ、と諸手を上げて降参
したけれど、焦る流川を前に平然と豚肉のピカタを口にする自分に優越感を覚える。
我ながら不可解な愛情表現だ。
急ごうとしない仙道を睨みつけるのは己の精神上よくないと判断したのか、流川はムリヤリ首を捻じ曲げたように
そっぽを向いたまま。首のストレッチをするなら両方まんべんなくやれよ、なんて口にしようもんなら今度は待った
ナシで食器を載せたトレイが飛んできそうなのでやめておく。
きっと流川はなにを食べたかも覚えてないに違いない。こんなことなら、学食じゃなくて駅近くのファミレスにでも
すればよかった。きっと話しも弾んだろうにと、あり得ないことを思う。ゆったりと食後のコーヒーを味わっていると、
我慢も限界にきたのか、「んなもん、早く飲んじまえ」と、敵は仁王立ち。デート気分は味わえないまま。
とことん情緒を解さない御仁である。
「せっかく来たんだからさ、食後の運動もかねて校内でも案内してやろうか?」
「いらね」
「来校記念に生協でも行く? 海南大のオフィシャルグッズなんかも売ってるぜ」
「買ってどうすんだ」
「オレとの思い出の品にするんだ」
「なんだ遺品か? これっきりってことか」
「バカだな。会うごとにひとつづつ増えてゆくんだよ。積み重ねんの。なかなかロマンティックだと思わないか」
「よくそんなくせー科白、吐けんな」
「おまえが嬉しそうだから」
それには相当面食らったようだ。この顔のどこが、と自分を指差し二の句が継げないでいる。自分の表情筋がどれほど
鈍い動きしか出来ないか、流川なりに知り尽くしているのだろう。それを特別どうこうしようとは思わないけど、
なんでそう映るんだ、と唇を上下させただけの動きでそう読み取れた。
「嬉しくないのか?」
「そりゃ、あんたとバスケできるし」
たたみかけるとそんな答えが返った。ことさらバスケの部分を強調しても、『あんた』というとびきりのオマケを
つけてしまっているから、隠せるものではないのだよ、流川楓くん。
そのほんのひと言で十分なのだ。
「オレも嬉しいよ。んで、おまえももっと嬉しくなる」
「もっと?」
「ああ。いまに分かる」
いまにな、と仙道、満面の笑みに対してなにをと問う気はなかったようだ。分からないことに対して思い悩むような
精神構造はしていない。ナニを分かるのか。いまじゃないんならもういい。
流川はガタンと立ち上がって自分のトレイを返却口に
戻すと、スタスタと出て行こうとする。ここまで来たら自分のペースを崩そうとしない道案内なんか、お役御免と背中に
書いてあった。
まったくもってひとの恋情を鼻先で遮断する男だ。
continue
ふふふ〜(←またこのフレーズから始まる)。ひと夏の経験から、ひと秋の経験へ。
今回こそは、このふたりで突っ走ろうと自分で盛り上げてます。
あと、ジンジンと清田が登場予定。いつか流川と清田の中学時代のお話が書きたいと思ってたんですけど、こんな形で
ちょっと叶いそうです。へへ。
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