月に乗じ 〜はち








「ちっ、そうそう思ったようには動いてくれねーか」
 仙道は口調ほど落胆した様子を見せるでもなく、軽く舌打をして逃げ足を早めた。
 憲兵隊が発砲したように見せかけて、上海――藍衣社の男たちとの間で相撃ちになってくれたらありがたい、くらいの 気持だった。そこまで上手く運ばなくても、疑心暗鬼が生じてもっと揉めてくれたら時間稼ぎにもなっただろうし、流川 たちの体勢も立て直せる。
 ところがところが、ヤツらは仙道が思っていた以上に互いを信用していなかったということだ。上海の男たちなど だれが仲間を撃ったのかさえ、どうでもいいのだろう。平気で憲兵隊に背中を見せ、撃つなら撃ってみろの様相だ。 詮議も追及も中途半端なまま、一直線に『白髪鬼』だけを目指している。
 憲兵もその挑発に乗って、ここで三つ巴の泥仕合にもつれ込ませたりはしない。状況をひっそりと凝視している といった感だ。
 そしていま自分は沢北に追われている。
 ただ逃げるなんてカッコ悪いったらないが、ここでひとり彼らと遣り合って足を止めてしまえば、捕まる可能性が 高くなるだけだし、身元がバレて被害を被るのは自分だけではない。流川の目の前でお縄、なんて恥かしい真似が 出来ようもなく。そんな目にあった日にゃ、どんくせー、のひと言で断罪だ。
 持てる財産、総て賭けてもいい。絶対にそう言う。いままで どちらかと言えば流川の無謀を口煩いくらいに諭してきた身だから、冷ややかさも倍増だろう。
 あの仏頂面にそんな隙を与えるわけにはいかない、と仙道はことさら慎重に闇をかいくぐった。
「待てっ! 止まらんと撃つぞ!」
 止まって捕まりでもしたら、想像を絶する厳しい尋問の後、容赦なく蜂の巣にするくせによく言う。哂いしか出ないが、 右に左に、銃弾が飛来し、どこ狙ってんだと余裕だったのはほんの束の間。追っ手は多数なのだろう。右腕を掠められ ヒヤっとした。
 だいたい長袍って、着こなすにはカッコいいけど逃げるのにこれほど適していないシロモノもない。足が取られ、障害物に 引っ掛け、すっ転びでもしたらシャレにならない。瓦礫の中にしゃがみ込んだついでにそれを脱ぎ捨て、戸板の角に 吊るしてそのまま中腰で進んだ。
 あの長袍、自分で言うのもなんだけど、結構似合っていたし配色も柄もお気に入りだったから、 身代わりとして捨て置くには勿体ない。けれど、大都市、奉天ならもっといい品があるはず。村に帰る 前に流川とおそろいのを買って、仲良く写真でも撮ってやるか、と取りあえず自分を宥めた。すかさず 一箇所に銃弾を撃ち込むものスゴイ音がした。哀れ、お気に入りの一張羅はボロ雑巾よりも酷い状態だ。
「くそっ。こんなモノに引っかかるとはっ」
「どこへ消えたっ」
「八方をくまなく探せっ! 生きて捕らえるのが難しくば、殺しても構わん!」
「はっ!」
 奇しくも、沢北の注意を呼び込み憲兵の数を分断することになったこの追いかけっこ。仙道は上海の男に向けて一度発砲 したきり、その後は撃鉄さえも起こしていない。ただ身をひるがえしているだけだ。
 欺瞞だけど、専守防衛。我ながら反吐が出るほど滑稽なんだけど。
 神の言ったとおりだと仙道は思った。
 いくら悦に入って満人を装ったところで、嘗ての同胞に銃を向けることなんて出来ない。 どんなに憲兵を厭っても流川が大事でも、日本人である事実は頭のてっぺんから爪の先まで染みついている。 こうして流川を助けるために動くのが精一杯で、例えば隣り合って、真正面にその命を狙う兵士たち。そんな状況にでも 置かれないかぎり、銃口を向けたりは出来ないだろう。どうしたって流川と同じ立場には立てないのだ。
 民族が違うという現実は、嘗て敵同士だったという事実は、どれほどの夜を重ねても生涯ふたりの間に横たわり 続けるかも知れない。それは違うと叫んでいま沢北を撃ち殺すのか。そうすれば壁を壊せるのか。そうしたいのか。 したくないのか。
 たぶん。
 いまはスイスにいるという嘗ての上司に、顔向けできないような男には成り下がりたくないから仙道は走る。 これは間違いなく彼らの戦いじゃない。一線隔すべきなのだ。けれど流川はその中に、どっぷりと身を浸すことをよしと した。だから彼には諦観を決め込むしか方法は残されていない。たぶん、これからもそうやって流川と関わってゆくの だろう。
 日本人、仙道彰として。
 だから。
 沢北。全部、オレんとこ来い。
 同胞に向けて発砲できないなんて悠長なこと、言ってられない状況に自分を追い込んでやるか。
 引き付けられるもの総て、可能なまで背負ってやると、身を起こしかけた、
 そのときだった。



 彼の目の端に大きな影が過ぎったのは。



 仙道言うところの上海の男たちの猛攻に湘北の五人は正直手を焼いていた。
 男たちの中でも、とりわけこちらに向って突き進んできたふたりは、この闇の中でも総てが見渡せているのか、彼らの 僅かな動きにも反応を示した。身を潜ませた瓦礫から少しでも狙う素振りを取れば、瞬時に銃弾が飛来してくる。だが、 正確でいてアラレのように降る銃弾の多さに臆していては、ヤツら接近を許すだけだ。
「ちくしょうっ」
 三井が舌打をした。赤木は背後を振り返った。
 安西たちはどこまで逃げ切れたろう。どこかで馬でも調達してくれれば いいが、どちらにせよ、この男たちをこの場で倒してしまわないことには、彼らに安寧の時間は訪れない。どうにかして ヤツらの足を止めなければ。
「宮城」
 赤木は前を向いたままその名だけを呼んだ。呼ばれた宮城もなんの説明もない中、この現状を打破する方法はそれしか 思いつかなかったのだろう。「了解」とだけ告げると呼吸を整える。無謀だろうがなんだろうが、彼の俊足と身の軽さに 頼るしかない。そう決心できたのも、その無謀を作戦の段階にまで高められる射撃手が、いま、彼らの傍にいたからだ。
「宮城を陽動で走らせる。オレと桜木はその援護。オレたち三人が引きつける。三井と流川は確実にヤツらを仕留めろ」
 なのに、
「オレも援護に回る。三井サンがやれ」
 そんな平坦な声が返った。
「流川?」
 すばしこい宮城に押し出しの強い赤木と桜木。そして技術力の高い三井と流川。五人の特質を活かした布陣のはずだった。 だが、かつてメンバーの中で一番の射撃の確率を誇った男が、その ポジションを三井に譲るという。流川の腕を信じただけではない。なによりも一番安全な位置にいられるという気遣いを 彼は瞬間的に厭ったのだろうが、それでは赤木たちの立場がない。
 そう短く告げると、流川は端的に、
「オレ。たぶん、腕、落ちてマス。三井サンの方が確実」
 と、あっさりとくくった。
――オレが守る。
 自らが言い放ったその言葉に殉じようとしている。
 負けず嫌いが服を着て歩いているような男の、絶対に口にしないようなもの言いに 桜木などは目を剥いているが、「早くしねーと、やばいんじゃねー?」と水を向けられ、まず、宮城が大きく頷いて瓦礫の 中からその身を躍らせた。銃弾の嵐が束の間止み、すぐに宮城に向けて放たれる。躊躇などしていられない。 互いが互いの責務をまっとうするだけだ。
 流川は身を乗り出して瓦礫に躰を固定した。愛用のブローニングが敵の所在を確かめて火を噴く。手応えはない。闇に 残響だけが尾を引く。弾かれたように桜木もそれに倣った。敵の男たち――髭と丸坊主は連携を見せだした流川たちにも 怯む様子はなかった。
 後ろを狙うには遠すぎる。しかし髭と丸坊主が縦横無尽に動いていられるのも、背後で固める仲間たちの援護射撃が あるからだ。流川は慎重に弾道を辿った。闇の中で敵が撃鉄を起こす。小さく火花が散る。遅れて硝煙。
 いまだ――。
 流川は火花の出所に向けて続けざまに銃を撃ち放った。悲鳴がふたつ、地に消えてゆく。しかし、十発放って二発しか命中 していないということだ。やはり謙遜でもなんでもなく、腕は落ちている。
 流川がカラになった弾倉を取り替えるまでのタイムラグを生じさせまいと、赤木と桜木はかぶせるように銃を乱射した。 また悲鳴が上がる。弾倉を装着し終えると、たった十発で弾丸がつきるのがもどかしく、流川は予備の挿弾子を口にくわえ、 前のめりになった。
 ひとり、ふたり。まただれかの血煙が飛ぶ。前を突き進んでいたふたり、丸坊主の男がたまらず背後を振り返った。
 その機会を三井は逃さない。
「いけぇっ!」
 青白い煙が中空に流れた。丸坊主の男の顔が驚愕に歪む。手応えがあったのに、丸坊主の男は撃たれた方向を見定めて 銃を乱射した。三井の躰が沈み込む。左右から赤木と桜木が援護する。男の体勢が崩れたその刹那、三井の銃は教本どおり のきれいな姿勢から一直線に火を噴いた。
 それほど間近に接していないのに、眉間の皺さえ、口から絞り出された呻き声さえ聞き取れる。そんな男の躰がドウっと 膝から崩れ落ちた。致命傷を与えてなくても、45口径の弾丸を二発も受けて立ち上がれるものはいない。
 瞬時に――カイゼル髭の男が闇の中から三井の姿を探し当てた。いま、仲間を撃ったのはだれだ。おまえかっ。そんな鬼気 迫る形相で、真っ直ぐに腕を伸ばし、銃身の長いモーゼルを まるで小銃のように片手で扱う男の立ち姿の美しさに、思わず見とれてしまいそうになった。
 ガウンと轟く銃声。三井の耳元で瓦礫が弾け飛ぶ。その衝撃が破片となって彼の腕を頬を掠めていった。続く二発目。 足元に銃弾がめり込む。しかし三発目はなかった。男の姿勢に触発されたわけでもないだろうが、月白の薄闇の中、 同じように仁王立ちになった桜木の銃弾が、カイゼル髭の男の躰を貫いていたのだ。
「サクラギっ」
「やった、か?」
 くぐもった声が放たれた。男は二、三歩よろめき呪いに似た言葉を吐き出す。派手な血煙が舞い、カイゼル髭の男は 仰向けのまま地面に倒れ落ちた。
 オ、オレさまは天才だかんな、と続けられたいつもの調子の言葉は、らしくもなく上擦っていた。まさか当たるとは思わな かった。というよりも立ち上がったことすら無意識のうちの行動だったのだろう。
 首領格ふたりを失って、上海の男たちに動揺が走る。後ろを見せるものまでいる。その波紋は仙道を追いかけていた 沢北にも伝わっていた。
「ちっ。運のいいヤツ」
 憲兵隊を分断したいまの状態で、たったひとりの男と追いかけっこに興じているわけにもいかない。早く隊を立て直さないと 抗日組織につけ入る隙を与えてしまう。沢北が追跡の中止を指示し、流川たちへと向おうとした、
 そのときだった。



 仙道の目の端に大きな影が過ぎった。沢北たちは身をひるがえしかけてそのまま立ち止まっている。ブルンとひとつ 小さな嘶き。仙道の左斜め後方。この足場の悪い中、一頭の馬がその姿を浮かび上がらせている。つい、と手を差し伸べると 戸板の上に前脚を乗せていた馬は、宙を駆けるように飛翔して仙道の真横に立った。
「おまえ、か?」
 立ち上がり手綱を引いてさらに後ろを振り向けば、月明かりで逆光の中、廃墟と化した湘北と他の集落との境目に いつの間にか十数頭の騎馬が揃い、横一直線に並んでいた。
 遠目なうえ目を凝らしても、光が弾いて彼らの姿は確かめようがない。
 けれど、なぜかそうかと腑に落ちて、仙道は鞍の上に身を躍らせる。そうか、そうかと馬首を撫で、立ち止まった沢北を 上から睨め上げる格好で対峙した。
 沢北からも仙道は逆光になる。目を細めるが容貌は確認できない。追いかけていた反乱分子らしき男が馬を得た。 けれどそれだけではなく、どうやら援軍を得たようだ。その背後に十数頭の騎馬。人数的には対等だが、抗日分子との間に 挟まれてしまった不利がある。
 この男、と沢北はもう一度目を細めた。
 仙道はからかうように一歩、間合いを詰めた。
 さらに沢北からは仙道が口の端を上げたようにも見えた。
 その弄るような態度。なにか琴線に引っかかる。引っかかるが、それを詮索している暇はない。沢北は腕を上げて、 「引け」と撤退の指示を出した。
「しかしっ!」
「ここで雌雄を決するつもりはない。部下の数を半分に減らしてまでも得るものはない」
 言い切ると沢北はもう一度仙道の方にひと睨み入れ、そのまま隊を引き上げさせた。憲兵たちが肉眼からは判別できない 位置まで退いたのを確認してから仙道は、背後の騎馬隊を振り返った。彼らは先ほどからその位置から動こうとしない。 それはそうだろう。動いてしまえばかなり不味い立場にあるのだから。
 だから代わりに仙道が騎乗のまま流川たちの前に姿を現した。粗末な胡服に高価な爪皮帽というチグハグな格好の 男が、どうやら敵ではないと知って、湘北の男たちは警戒しながらも、ひとりふたりと瓦礫の中から躰を起こしたが、 当の流川は安堵というより思い切り不審顔だ。
「せん……」
「よう。久し振り」
 思い切りの嫌味を込めたけれど、全然届いていない。なんでてめーがここに、と顔をしかめる現段階では、流川の頭から 仙道を置き去りにした事実はすっぱり抜けている。 故郷に残した土地家屋を担保に賭けてもいい。忘れてる。だから仙道の出現よりも、彼に背を預けている愛馬の方に目が いったりするのだ。
 ムカツク話だが、ここは衆目。仙道彰はちゃんと大人だ。
蚩尤(しゆう)、おまえ、どこ行ってたんだ?」
 流川の愛馬はフルンと首を振って嬉しそうに何度も足を踏み鳴らした。馬上にあっては居心地が悪い。仙道は蚩尤を 宥めたあと流川に問うた。
「おまえ、コイツといつ離れた?」
「奉天に着いて、すぐ」
 ああ、だからだな。仙道は蚩尤から降りると手綱を流川の手に戻し、遠巻きに馬首を揃えた騎馬隊を指差した。 流川は目を瞬く。だれだ、アレは? 彼らの存在が憲兵を退かせたらしいと察しはついたが、それが自分の愛馬とどう 繋がるんだろう。そんな流川に仙道は、蚩尤の鞍にくくりつけられた荷物を渡した。
「おまえのじゃねーだろ?」
「うん。だけど、なんだ、これ?」
「開けてみな」
 なにやら手にズシリと重いシロモノだ。そう思っているとドンゴロスの袋の中には、貴重な米やら医療品やら焼き菓子 やら衣服やらに混じって、ブローニングの銃弾がカートンで詰まっていた。
「これ……」
 さしもの鈍感大王も弾かれたように視線を上げ、騎馬隊と託された荷物とを交互に見比べていた。ブローニングの 銃弾を流川に託す人物に心当たりはあるけれど、なぜ自分がここにいると分かったのか。惑乱気味な 流川と仙道との間に割って入ったのは桜木だ。「ルカワ。だれだ、こいつ?」と睨みを利かせ、仙道の頭のてっぺんから 値踏みするような視線を這わせた。
 袴子(ズボン)の前ポケットに両手を突っ込み、顔を突き出し睨め上げるそのさまは、恫喝し慣れているとしか 言いようがない。この手にタイプにつくり笑いはかえって逆効果なんだけど、「せんど――」と素直に日本語名を明かそう とした流川を瞬時にさえぎって、センって呼んで、仙人のセンなんて適当に 誤魔化した。なにもここで敢えて日本人である事実を告げて、混乱を招く必要もない。続いて、ルカワの村でのコイツの お目付け役、やってますとは、赤木たちに向けての説明だ。
 敵愾心あらわに間合いを詰めようとする桜木。ボロが出ないように適当な距離を保とうとする仙道。そして、取りあえず 厳かに挨拶を返す赤木という奇妙なトライアングルから、流川はフラリと抜け出した。
 あの中に彼はいるんだろうか。
 こちらからはシルエットでしか伺えない騎馬隊でも、流川の姿はちょうど月に映えてはっきりと届いているはずだ。 もう二度と会えないと思っていたから、流川はもう一歩前に出た。
 不意に、ふつうの流川になって暮らしてゆけと、どこまでも生きろと言われた言葉が蘇った。あの状態の流川を許すと 最初に言ってくれたのも彼だ。
 あの中に。
「おまえと離れて蚩尤はあのひとんとこ戻ったんだろう。おまえがコイツを手放す筈がないから、奉天に来たおまえの 身になんかあったって感じ取ったんだ。だからああして隊を動かしてくれた」
 よかったな、あのひとも無事で。仙道にそう言われて素直にうんと頷いた。それを見ていたかのように、瓦礫のはるか 向こう側、騎馬隊がくるりと馬首を返しゆっくりと去ってゆく。その中のひとりがかすかに右腕を上げた素振りを見せた。
「……」
 小さくなってゆくその背中、完全に消えるまで見送った。あんな姿、見るのは初めてじゃないけれど、足元からジワジワ と遅いくるものがある。桜木がなにか突っかかってきたけど適当に流した。 なのに、荷物の中身を覗き込んだ仙道の、ぽつりと漏らしたその言葉はキチンと耳に届いてしまったのだ。
「なんか、これ。嫁に出した娘の状態を心配したお袋さんが、細々した身の回りのもんを送って寄こしたみたいだな」
 仙道の尻に流川の蹴りが入ったのは言うまでもない。






continue