月に乗じ
て
〜く
夜が白々と明けてきた。春霞にたなびく東の空に一条の光が伸び、峻烈に冷え込んだ満州の空に暁闇を吐き出している。
なにもかもが凍てつき、時間さえも凍ると言われた仮借のない時間帯だ。しかし、それは騒々しい一夜の幕引きに相応しい
厳かさだった。
一難去って疲れが躰に重く圧し掛かり、それでも湘北のメンバーたちは取りあえずひと休み
したあとの、河岸を変える算段をしていた。ここに留まっていても、またいつ憲兵の襲撃を受けるか知れないから、
それも当然だ。
人々が動き出し炊き出しが始まった。家屋とも呼べない建物から湯気が上がるさまには、急激な空腹としゃがみ込み
たくなる虚脱と、同等の安らぎを覚える。バラックだが仮眠を取っていけという赤木の申し出を仙道は丁重に断った。
宿を取ってあるし、ここでの自分はあまりにも部外者でありすぎる。騒ぎが引けてから合流した伝説の
総攬把
の福福しい顔も拝めたし、あとは挨拶だけでなにも言わずに出て行こうとする仙道の背に流川の視線が張り付いた。
振り返ってそれを受けてやると、勝気な瞳が僅かに揺れて、まとまりのつかない心情を表している。
悪いがそれに手を貸してやる権利はオレにはないんだ、と仙道はただ曖昧に笑った。
――流川。彼らに会いたいと思わないのか?
――会いたくねーのはアイツら。
そう。
衝動的に躰が動いてしまうほど、彼らに会いたかったのは流川の方だ。
決めるのはいつだって自分自身。決定的に主義が異なって相容れず袂を別った仲間同士ではないのだから、再会を機に
ここで人生をやり直しても、それは流川の自由だ。仙道が口をはさむ問題じゃない。だから尚のこと、早々にこの場を
離れようと思った。
選ぶ。
ただそれだけのこと。
奉天の仲間たちとの出会いと別れが否応のない選択だったとしても、それ以降のおまえは確実に自分自身で道を切り開いて
いった。だから今回も、言葉になんかしなくていいから、選べ。
そして、その選択肢の中から、今度はおまえ自身でオレを選べ。
けれど、だぁれがそんな睦言、口に乗せて、これ以上いい気にさせてやるか。仙道は踵を返し、片手を上げただけで
立ち去って行った。
「……」
そのあまりの呆気なさに、残された流川の内に沸いてきたのは、純粋な怒りだった。いつもは過剰なくらいの甘さを見せる
くせに、よそよそしく線引きしやがった。どーでもいいことはベラベラ一日じゅうでも喋るくせに、なんで、いま、
なにも言わないんだ。あーしろ。こーしろ。そんなことはするな。なに考えてるって、厭んなるくらい口煩いくせに。
けれど、ここに至るまでの経緯を思い出して一度急速に冷え、そうは言っても、いつもいつも
ダンマリは卑怯だとか詰るあんたがその態度かよ、と、あっという間に二度目の沸点を見た。
しばしの間呆然と立ち竦み、微妙な顔色の変化を見せる流川楓なるものを目の辺りにし、声をかけられずにいた湘北の
面々の中を鬼の形相で突っ切った。木暮たちの護衛を受けて戻ってきた安西の前に立つと、老師は白湯の椀から立ち昇る
湯気の中でほっこりと笑う。
「流川くん、君も白湯をいただきなさい。躰が冷え切っているでしょう?」
「安西老師」
「どうしました? せっかちですね。もう、行ってしまうんですか?」
「オレ……」
流川の切羽詰まった様子に苦笑して、安西はズズっと白湯をすすった。
「オレ、爺さんと爺さんが育てた馬を守っていきてーんです」
「そうですか」
「ちっぽけな村なのに、襲うヤツとかも、いて……」
「なるほど。それはほんとうに由々しき事態です。同じ満人同士、なぜそのような浅ましい真似が出来るのでしょう」
バラックの一番奥で、木箱の上に腰掛けていた老師は、背の高い少年を間近に寄せて座らせた。パフパフと流川の
髪を一、二度かき回していた肉厚の両手が流川の頭にそえられる。だから続けられた言葉はてっぺんから降ってきたように
聞こえた。
「君が考えて到達した結論は君だけのものです。それを大事にしていってください」
「……」
「そして君の銃は、君が広げた両腕に収まる範囲で使うべきでしょう。本来ならそれが一番正しい道だとわたしは
思います。どこへ行っても君は湘北の仲間です。その事実は変わりようがない。ましてや、君はわたしの危機に駆けつけ
てくれた。今後もし、君たちの身になにかあったら、遠慮せずにわたしたちを呼びつけてください。それを約束して
ください」
「ウス」
「月に乗じて――幾人か帰る。君はちゃんとたどり着いてくれましたね。嬉しい邂逅でした」
赤木たちがもの言いたげに近づいた来たが、それを制した安西はさらに穏やかに続けた。
「ではもう行きなさい。待っているひともいるのでしょう?」
「ハイ、けど、その前に、ひとね……」
「流川くん?」
座り込んだが運のツキ。日が落ちたら――もとい、日が落ちなくてもいつでもどこでも居眠り体質は健在のようだ。どこか
具合でも悪いのかなんて心配してはいけない。こんな時間まで起きていて、ひと波乱あって、その後イチオウひとに
理解できる言葉を発しただけでも喝采もの。予備電源を使い切ったとみた。
「……ね……」
くぐもった言葉は、ひと寝入りさせてくれ、と続けられることなく、オイオイと湘北の面々が呆れる中、ガクリと頭を
落とした流川はそのまま躰を横たえた。
あまりの寒さと腕の痺れと背中の痛みで、流川は強制的に目が覚めた。ぼんやり目を瞬いた天井の風景が、
自分ちの厩舎によく似ていたから、また馬の世話をしながら寝入ってしまったのかと思った。けれど干し藁に包まれて
いるのだったらもっと寝心地がいいはずだ。「せんどー、寒みぃ」と、無意識のうち
にそう呟き、ガシガシと頭をかきむしって上体を起こすと、だれかがかけてくれた皮大衣(上着)がハラリと落ちる。
目線を上げた先で、そこにはいるはずのない男の背中が狭いバラック内で忙しなく動き回り、流川の気配に気づいたのか、
こちらへと向きなおる。そーか、まだ湘北に居たんだと、その赤頭と目があって思い出した。
「いつまで寝こけてんだ、このクソ忙しいときにっ」
みんなバタバタと立ち動いてる中で、平気でくーすか寝てられんだから相当な神経してるぜ、と桜木はひと睨み入れた
あと手近にある食料品を旅嚢に詰め込んでいた。
「寝た気がしねー」
「たりめーだっ」
「他のみんなは?」
「新しい寝ぐら探しに東西南北ってとこだ。オレもまたすぐ出かけなきゃなんねー。おめーの荷物と旅嚢はそこだ。
二、三日分の携帯食料は詰めてある。馬は表だ。リョーちんがしきりに褒めてたぞ、おめーの馬。血統がどうとか、こう
とか。ちゃんと手入れしといてやるから安心しろってよ」
旅嚢を背負った桜木は出て行こうとし、「おまえ――」と口籠もったまま立ち止まった。その、らしくもない
たどたどしさに剣呑な様子を隠そうともしない流川に対し、彼はひとつ首を振り、「いや、いい」と打ち消す。
頭の中はクエスチョンマークでいっぱいだが、そこであえて
気を利かせ、流川も重ねたりはしない。気を回すこともない。「そうか」と桜木の逡巡をぶった斬るだけだ。
諦めたように桜木は、んじゃー、気ぃつけて帰れと、当たり障りのない言葉だけ残してバラックを出て行った。
かつての天敵がなにを言いたかったのか分からないけれど、だれもいないそこにひとりぼっちにされ、思い切り所在ない。
けれど、そうかと流川はそこだけ思い至った。近所に買出しにでも行くように帰れと彼らは言っているのだ。大層な
見送りなんか不必要だから、みな、それぞれに課せられた仕事に奔走している。
またすぐ会えるから。気ぃつけて帰れ。
――会えるっつったって、めちゃくちゃ、遠いのに。
ほっこりと笑みを走らせて流川は身繕いを終えた。けれど、旅嚢を背負い、部屋の隅にデンと鎮座ましますドンゴロスの
袋に目を止めてちょっと溜息が出る。
中身は米や医療品などの高価なものばかりだ。思い切りの心づくしだ。それは分かっている。でも言っちゃあなんだが、
どエライ大きさなのだ。よくこの荷を抱えて走ってきたなと愛馬を思う。帰りはそれプラス流川の体重が加わる。
ブローニングの弾丸は欠かせない。怪我が絶えないからアスピリンや
抗生物質も助かる。口の肥えた彼がよこした舶来の菓子。旨いに決まっている。ためしに食ったらほんとに甘くて旨かった。
あとは防寒着。風が切るような曠野を馬で駆けるのだからこの上から羽織ればいい。
だから麻紐を外して米の袋を小屋の中にひとつしかないテーブルの上に置いたのは、惜しいけどこれが一番重いから。
湘北の彼らに土産として置いて帰ったら喜ばれる、だなんて心に掠ったかどうかも怪しい。軽くなって愛馬も喜ぶだろう。
流川がもらったものだから、だれに渡そうがそれは自由。彼が知ればどんなに顔をされるか分かったものではないが、
満足そうに頷いて流川はバラックを出た。
三月の日差しにしては暖かな陽の光を躰いっぱいに浴び、ちょうど
その真横には、雨露を凌ぐだけとはいえ仮の厩舎が建っていた。愛馬の蚩尤は本当に水も飼葉もふんだんに与えられた
のだろう。逸るように蹄を鳴らしていた。
ドンゴロスの袋をくくりつけ、ひらりと飛び乗ると、どこからか「流川っ」と叫ぶ声がした。廃墟となって見晴らしの
よい湘北の何町か先で、彩子と晴子が盛大に片手を振っている。彩子が手でラッパをつくってなにか叫んでいるが、
続く声は遠くて聞き取れなかった。ただ、彼女たちに分かるようにペコリと頭を下げて流川は蚩尤を進ませた。
途中、帰ってきた三井とすれ違った。彼はいつものように口の端だけを上げて哂い、鞍上の流川に紙袋を放り投げる。
「なんすか、これ」と目だけで問えば、「さんざし飴」だと簡潔な答え。
「近所のばあさんに貰ってよ。けど、おらぁ、甘いもんが苦手だからな」
ガキにはちょうどいいだろうと高笑いする背中を見送った。たぶん、貰ったなんてウソだ。なんとなくそう思った。
さらに進んで、かつて湘北だった集落と他の集落との境目には赤木の
姿があった。だれか見知らぬ老人と話しこんでいる。なにかとても真剣な表情だった。流川は馬を降り、彼に向って頭を
下げた。赤木もただ頷くだけ。どうやら街の有力者と再建について語り合っている様子。赤木も大変だなと感心した。
ふたりの前を通り過ぎ、流川はもう一度目礼した。
彼らはもう動きだしている。
あのときはただ諦めたように謝罪を口にしてその場を立ち去った。いまはたぶん、それじゃ、と軽く別れを告げられる。
そして流川は往来で立ち往生した。
仙道は夢を見ていた。
夢だと思えたのは、重力を取っ払った浮遊感の中で揺蕩って、それが手放したくないほどに心地よかったからだ。オマケに
音もなく突然現れた流川が、ベッドの上の彼の傍らで膝をついて穏やかな眼差しを向けてきた。目を閉じてるのに
見えるなんて不思議。それにこんな表情、終ぞお目にかかったことがないから得した気分だ。
「流川?」と声をかけると、「まだ寝てんの?」と、視線に比例した柔らかい声。ホント珍しい。
けれど、たまにはそんなふうに優しく接してくれたって罰は当たらないと思う。
「なんだ、おまえ。帰って来たのか?」と重ねれば、「うん」とあり得ないくらいに素直な返事。夢ってやっぱり都合よく
出来ている。このままずっとうつつの中で彷徨っていたい。「やっぱオレが傍にいないとダメなんだろ?」
と、口調が調子付くのも無理からぬこと。そんなからかいにも、「途方に暮れた」と返るから笑えた。
「勝手に放って出てくからだ。ちったぁ反省しろ」
「るせー。けど、大変だった」
「なんだそれ。大変だったから、もう勝手なことはしません。ごめんなさいだろ。途中で文章、切るんじゃねーよ」
横着なヤツ、と重たい腕を押し上げて指先が流離えば流川の頬に行き当たった。そこから伝播する肌理の細かさだけで
仙道の懊悩をかきたててくれる相手だ。リアルな肌合いは嬉しい反面酷くせつない。けれど夢だからと言って――
夢だからこそか、ここはきっちり仕返ししてやらないことにはハラの虫が収まらない。
もうちょっと近くに寄れ、と手招きしたら、室内なのに風が動いて懐かしい匂いがした。妄想の入り混じった夢は
親切に出来ている。けれどソレはソレ。コレはコレ。こんなチャンス、めったにない。って言うか、二度とない。
この際だから日頃の鬱憤も晴らしちゃいましょ。仙道は招いた手を思い切りフルスイングした。
利き腕じゃなく左の拳だったのはこれでも情けをかけたつもり。どうせ空を切るし、相手は幻だし、それでも少しは
溜飲も下がるだろうと思った渾身の左ストレートに、あるはずのない衝撃がガツンと走って意識が戻った。
「ってぇっ!」
あり得ない叫び声まで飛び込んできた。ついでにドサっと背後に崩れ落ちた音も、もしかしてホンモノ? ベッドの上に
上体を起こした仙道は、ズキズキ痛む拳とその下で座り込んでいる少年とを交互に見比べた。
「アレ?」
「アレじゃねー! なにしやがんだ、このヤローっ」
「ほんとに当たるとは思わなかった」
「殴ったら当たるに決まってんだろーがっ」
「なんでおまえがここにいるんだ?」
「帰って来た、っつった」
「そうなんだ?」
仙道はまだ夢見心地を流離っている。痛む左手をさすりながら長閑に大あくびをされた日にゃ、殴られた方としては
その痛みを何処へ持って行けというのか。床に後ろ手をついた状態の流川に、一、二度目を瞬いた仙道はようやく目覚めた
ようだった。
「おはよう、流川」
「てめー、いい根性してんな」
「おまえがいるなんて思ってもみないから、びっくりしちゃってさ」
流川はまだ殴られた状態のまま動かない。頬が腫れて口の端が切れている。それを拭おうともしない。ほとんど動いて
やるもんかの様相だった。殴った手は痛いけど――殴られた方はもっと痛いんだろうけど、とてつもなく満足している自分
の加虐性に驚きだ。
温厚なオレでさえそう思うんだから、流川。おまえのスカしたご面相に一発ブチ込んでやりたいと、狙ってるヤツは
結構な数にのぼると思うぞ。うん。
「だれかを殴ったのなんか、生まれて初めてかもしんねぇ。おまえ、運がいいぜ」
「なんであり難がらなくっちゃなんねーんだっ」
「殴った方も痛いなんて、当たり前か。でもさ、オレ、このホテルに泊まってるなんてひと言も言ってないじゃん。おまえ、
もしかして探した?」
流川はプイと顔を背ける。仙道はベットから降りてその前に同じように胡坐をかいた。ついと手を伸ばし口の端を伝う
血を胡服の袖でぬぐってやった。痛そうに顔をしかめるから、もう一歩膝でにじり寄って流川との間合いを詰める。
詰めて、間近でもう一度「探したろ?」と問うた。
「あんた、絶対安もんの宿には泊まんねーだろうし」
「うん」
「目についた高そうなんから――」
「片っ端から聞いて歩いたわけか?」
「ん、でもすぐに見つかった」
一番最初がこのホテルだったと打ち明けられて一気に脱力した。足を棒にして探し回ったと知れば、ザマーミロと
大笑してやれる場面だったのに、よく分からないけどツイてるヤツっているもんだ。自分は流川にたどり着くまで結構
苦労したのに、コイツは偶然かよ。なんなんだ、この差は。けれど、一意専心。たとえそれがどんな
道程でも。だからそのあまりの一意ぶりに、周囲のものが根負けしてしまうのだ。
その最たる具現者である己に苦笑して、仙道は流川の腫れた唇に恭しく口づけた。
吐息が重なる位置で目が合えば、さっきの行為といまのこれと、一直線に
結びつかない流川の困惑が肌で感じ取れて、仙道は少し嬉しくなった。寝ぼけた状態で殺気を込めなかったとはいえ、
流川ならよけることも出来ただろうに。
「なんで、なにも告げずに消えた?」
唇にそう乗せて転がせば、「オレ、だけの問題、だから――」と甘い言葉が返った。仙道の行為を跳ね除ける流川の両手は
まだ後ろ手に床についたままだ。舌先で唇を丹念になぞり、鉄錆の味がする口腔内で互いのそれが絡み合うと、力を
失くした流川の躰がガクリと後ろに倒れこんだ。
目抜きどおりの一等地に立てられたこのホテルは客室までも綿織物で敷き詰められてある。これなら背中が痛いとか
どうとかゴネないだろう。絨毯に散った流川の髪を何度もすいて仙道は彼の耳元に囁いた。
「理由を言えばついて来ると思った?」
それはおまえにとって迷惑なのだろうかと、重ねて首筋を愛撫する。寒がりの彼らしく、胡服の上からがっちりと
着込んだ防寒着には少々手を焼いた。大きめのボタンが特徴のそれは手触りも上質で、恐らくあのひとからの贈り物の
ひとつなんだろうけど、外見はともかく、流川の気質をまったく無視した、どこから見ても良家のお坊ちゃま――だたいま
オックスフォード留学から戻ってきましたふうに仕上がっていた。
怖ろしいほど牧童には不似合いな。けれどこれを選んだ彼の意地みたいなものが伺える。
美少女めいた容貌の青年の厚情に、心の中で両手を合わせ仙道は、流川の肌を探る手を早めた。
ひとつ肌蹴れば、暖房の効いた温かい部屋で流川は身を竦める。何度も繰り返すうちに口づけに血の味はしなくなった。
絨毯の上に投げ出されていた流川の腕が持ち上がり、仙道の髪をまさぐる。そんな仕草を取りながらも、甘やかな吐息を
吐き出しながらも、流川は意外と律儀だった。
いや、ほとんど無粋とも言う。
「奉天との往復だから――」
「あ?」
発した仙道すらも忘れていた問いかけへの答えだ。なにも告げずに消えたかの。
「……すぐに戻れるし、それに――ぁ……」
「流川、あのな……」
「ここには、関東軍の本営が――ある」
一昨年に起こった関東軍の熱河省侵攻序盤戦における引責を受けて、満州統括責任者、参謀の牧は更迭され、
仙道自身も負った怪我がもとで軍籍を抜かれた。ふたりの間での取り決めは軍には一切関係ない。いつか牧が
満州に帰ってくるまで自由に動き――牧の一番の懸念――国境付近でのソビエトの動向を中心に、多方面に渡って情報を
収集するのが仙道の勤めだ。
そんな立場だったから、行き先が奉天ではなにかと不都合だろうと、それは流川なりの気遣いだったらしいが、
肌をまさぐりながらする話でもないだろう。けれど、それは後回しにしよう、がつうじないのが流川の流川たる所以で、
だから悦楽を引きずり出しながらそんな質問を投げかけた仙道にも非がある。
そうは言ってもここまで進めば留まれないのも仙道の仙道たる所以だ。膝を進める。流川の背がしなる。こんな状態なのに
――こんな状態だからか、少し素直な流川の懺悔に付き合ってやってもいい。
「おまえ、気遣ってくれて、嬉しいよ。けど、叩き起こしてでも、説明しろ」
「……ん……」
「おまえにはキチンと説明しなきゃなんない義務があるし、そのあとをどう考えるかはオレの自由。
それを阻止する権利はおまえにはない」
「ギム?」
「そう。一緒に歩いてくもの――おまえにとってはオレ――に対して当然の配慮だろ」
流川の中で燻る奔流を総て手の中に封じ込めて仙道は動きを止める。放り出された流川も焦点の定まらない瞳をこじ
開けてきた。軽い律動だけで彼の中を弄り、「ごめんね、は?」とたったそのひと言が聞きたくてしつこく重ねるさまはほとんど
脅迫だ。けれどそこで尻尾を振るほど敵は素直には出来ていない。すがりつくほど従順じゃない。いや、明確にしなければ
気がすまないのだ。身を捩ってうごめく仙道の熱を本気で抜きに出た。
「お、おまえっ、なにっ――」
「言った」
そう言い切って逃げを打つ躰を強引につなぎ止めた。一度弱まりかけたつながりがさらに深くなり、流川は悲鳴を
飲み込むけれど、瞳を潤ませ呼気が乱れそれでも抉るように睨みつけてくる。背筋が震えるほどに壮絶な眺めだった。
「探したっつった」
「そんなんじゃ謝ったうちに入らないよ」
「だってっ」
「だってじゃねー」
「だって、あいこだろっ」
「なに?」
「さっき、あんただってオレを置いてったじゃねーかっ」
ここは甘えるのもいい加減にしろと叫ぶ場面か、それともおまえの仕打ちとオレの行動は同等に語られるものじゃない
と説得する場面か。取りあえず宥めて続きを続行するべきか。頭を抱えたくなったが、沈没している場合じゃない。
不本意だが仙道は譲歩に出た。
「オレがゴメンって言ったらおまえも謝んのかよ?」
「……」
「流川、ソレ、めちゃくちゃ卑怯」
「あいこ」
「あのなぁ」
この頑なさはいったいだれに似たんだろう。一度彼の兄とじっくり話し合ってみたいものだ。流川の躰の上に脱力していた
仙道は、それでもニヤリと笑って、「流川、ゴメン」
と囁いた。目を瞬く。それを受けてなんども同じ言葉を呟く男。どっちが卑怯なんだと思う。そんなことこれっぽっちも
思ってないくせに流川のワガママをスルリと許してしまう。平気で謝れる男。
「あんたが言うな」
「どっちなんだよ」
そう笑うから上体を少し上げてその躰を自ら引き寄せ口付けた。流川の中で仙道の主張が大きくなる。こんな行為だけ
じゃなくても、膨れ上がる仙道は留まることを知らないのに、なのに、これ以上なにを欲しがるんだろう。
あんたのがずっと卑怯だ。舌を絡ませながらそう言えば、
「もう一拍ここで泊まってのんびりしてかないか?」
と、ひなたみたいな笑顔が流川を飲み込む。
だから、だから。
「冗談じゃねーぞ。んな、憲兵隊本部の前で、いつまでもちんたらしてられっか!」
そう言って絡みつくしか手はなかった。
流川は思う。
思いは願いへと移り。
そして。
どこまでも行こう。この目に映るひとを守るために。
end
流川に去られたままの湘北のみんな、特にミッチーの瑕を癒さなきゃってことで書き始めたお話。なんとか
エンドマークを見ましたv 久し振りにこのシリーズの仙ちゃんと流川が書けて楽しかったよ。お話を下さった
らんうめさんには重ねてお礼申しあげます。
湘北のみんなと再会して、でも流川は仙ちゃんのものだから、結局帰ることになるんだけど、それを逃げるんじゃない
って方向へ持っていけたかどうか。そこが一番難しかったかな。 ちなみに、カイゼル髭と丸坊主の男。お気づきでしょうけど、
これは山王の堂本さんと河田だったんです、最初。でもお亡くなりになっちゃうから、急遽、名前を取り上げてしまって、
名無しだからヤヤコシイかったです(苦笑)。 かなり堅いお話に最後までお付合いくださった
みなさま、ほんとにありがとうございましたvv
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