月に乗じ
て
〜なな
筆で描いたような細長い眉月に早い雲の流れが差しかかり、その僅かな光さえ途切れたそのときだった。
ドンという鈍い音が腹の底に響いたかと思うと、窓のない戸板の隙間から白色の閃光が、まるで彼らの所在を探るかの
ように伸びてきた。象を変えた嘗ての貧民街は闇に中にポッカリと浮かび上がり、まるで真昼の様相だ。いつの間にか敵の接近を許し、
照明弾を撃ち込まれたのだ。その場に集うものたちは瞬時に銃を抜き放って身を沈めた。
その後続くべき馬蹄音が聞こえてこないのは、この足場の悪さから自由自在に馬を操れないからだろう。それにしても、
この地区にいま現在どれくらいの人間が息を潜めているのか定かじゃないが、そのほとんどがその日の暮らしにも困り果てる
無辜の民。強引に住む場所を奪うだけでなく、その上この暴挙の上塗りか。憲兵の狙いはオレたちだけだろうと
桜木が歯噛みした。そんな区分けはこの際どうでもいいのだと、受けた赤木がポツリと漏らす。
「そりゃ、どーゆー意味だ」
「抗日運動家であるとか反乱分子であるとか、ヤツらにとって確かなのは、ここは満人の住まう場という事実だけだ。抹殺しようが
根絶やしにしようが、最早なんの躊躇もないのだろう」
「にしても、まどろっこしいんじゃねーか」
三井がモーゼルの撃鉄を起こして低く唸る。混ぜっ返すようだが、その種の暴挙は先日の集落壊滅で終わったはずだ。
それならなぜ、あのとき――戦車を並べたてた日に一気にカタをつけてしまわなかった。なぜこんな段階を踏むんだという彼の
言い分は尤もだった。
束の間、全員が気配を探って黙り込み、そのあと、
「わたし狙いかも知れませんね」
という安西の、状況を鑑みないはんなりとした調子の言葉には、湘北のだれよりも流川が鋭い反応を見せた。
「それって、流川が言ってた――」
「老師の命を狙ったヤツらすか? そいつらがここを突き止めたって?」
「ってことは――」
絶句した流川にみなの視線が集中する。彼は拳を握り締めて立ち尽くした。じゃあ、オレが――オレの行動が――。
「流川、てめー付けられたな、そのナントカに、六哈台から」
「マヌケ」
「おおかた、いっつも調子でボケボケ歩いてたんじゃねーの」
「気を張ってるくせに、大事なとこでヌケてるからね、この子は」
三井、桜木、宮城、彩子の順に毒づかれ、チガウといういい訳も飲み込んだままだ。背後は気をつけた。六哈台から奉天までは
周りを遮るものがなにもない一本道で、何キロ先でも馬体を見て取れるほど見晴らしがいいから仕方ないとはいえ、
この街市に着いてからはきっちり追跡を振り切ってきたのだ。
けれどそれだけの事実であの襲撃者たちにとっては十分だったと、情けないことにいま気づいた。軽はずみな行動は
慎め。状況を見ろとはこういうことだったんだ。束の間、仙道の困った顔が過ぎり、脳裏が殴られたように痛い。
それを強引に振り切って流川は立ち上がる。その彼に座るようにと諭したのは安西だった。
「大丈夫ですよ、流川くん。六哈台はここに来る前に定住していた街市ですからね。どこのだれかは知りませんが、
そこまでかぎつけられたということは、奉天に居を変えたと気づかれるのも時間の問題でしょう。また、わたしもこのとおり、
特徴的な外見をしてますから。元々は己の身から出たサビです。君が気に病む必要はない」
君はわたしの身を案じてくれた。そして戻ってくれた。それだけで十分ですよ、となおも優しく労う声は躰全体が拒否
してしまう。余計な干渉。考えなしの行動。ガラにもないというよりも、ただ躰が動いた。だからなのか。どこまでも、
いつまでたってもあのときの自分となにも変わらない。
けれど。
だったらあのとき、素知らぬ顔で祖父が待つ村へ帰ればよかったのか。あの状況で。なにも聞かなかったことにして。
仙道――。
それでもオレは自分が間違ったとは思えないんだ。
流川はスッと前を見つめた。
「ルカワ、てめーは逃げろ」
そんな流川に向って端然とそう言い放ったのは桜木だった。とたん、流川の瞳に剣呑さが走り、その視線を
桜木が真っ向から受け止める。しゃがみ込んだままだろうが、表で敵が銃を構えてようが、構わず殴り合いに発展しそう
なふたりの間に赤木が割って入った。赤木に肩を押さえられながらも流川は前のめりになる。
詰め寄らずにはいられなかった。
「あんだと。もいっぺん言ってみろ」
「撃ち合いになったらスキ見て逃げろっつってんだ」
「だれにもの言ってんだ、てめー」
「てめーはもう抗日から足を洗ってんだろ。こりゃ、てめーの戦いじゃねー」
「オレの口から老師に言って、オレが守るんが仁義だとかぬかしたんはてめーだろうがっ」
己の不始末は己でつけると言い切った流川の襟口を、桜木は赤木のブロックをかいくぐってねじり上げた。
「桜木っ」
「ゴリは黙っててくれ。じゃ、はっきり言ってやらぁ。ルカワ、てめーがよ、前みてーに暴走しねぇって保障はどこに
あるんだって、オレは聞いてんだっ」
低い唸り。泰全とした見定め。そして確認。言葉以上の奥深さをその琥珀に似た瞳から読み取って流川は顎を引く。
この男に正対することになるなんて、思いもよらなかったけれど。だからこそ言い切った。
「ある」
「どっから沸いてくる自信だ、そりゃ」
「るせぇ。あるったらある。守るもんがある」
「駄々こねてんじゃねーぞっ」
「守る」
「あー?」
――オレが守るから。
そう言い放ち、愛用のブローニングの撃鉄を起こした流川は、桜木から離れるとそのままそっぽを向いた。その晒された、
つくりものみたいで酷く硬質でなのに、触れるもの総てを溶解してもおかしくない融点の高い横顔に向けて桜木は、
ついと、口の端を上げた。
湘北に背を向けて出て行った当時といまと、なにが変わってなにが変わらないのか。それははっきり目に見えないけれど、
クソ依怙地で頑固で短気なとこはちいとも治ってねーじゃないかと。ガキでガキで、滑稽なほどガキで。向こうっ気の
強さだけで世の中渡っていけると舐めてやがる。
けれどその姿勢に苛立って同時に目を細めてしまうほど、自分だって同じガキなのだ。
「ふん。そこまで言い切るんならな、なにがあってもオヤジだけは守れよっ。分かってんだろうなっ、キツネっ」
「てめーが言うなっ」
敵に向けるよりもまずコイツのいけ好かない顔に一発。
間に位置する赤木の巨体を押しのける形で双方から同時に繰り出された拳は、互いの頬をかすめ軌跡を残し、敵の接近
を知って瞬時に散開した。
奉天憲兵隊大尉、沢北の目の前でうら寂れた廃墟が陽炎にように揺れていた。
彼の立場にあって、気にかけなければならない地域は
なにもここひとつではない。大都市にありがちな光と闇。下級層が住む地域はいたるところに散らばっている。事実ここは
先日壊滅に近い打撃を与えたばかりだというのに、まして夜も更けてからの出動。軍のおエラ方もいい顔をしないだろう。
本来ならその闇に住まうものたちの怒りの矛先は、不甲斐ない政府に向けられてしかるべきだ。それを肩代わりして
やっているのだから、侵略なんて楽ではないと彼は常々思う。国体を維持したくば強くあらねばならない。
侵略者など蹴散らしてしまえるほどに。それを怠った身でなにが抗日だと。
沢北は真横に立つ年齢不詳の男の顔に目をやった。情報をひとつくれてやる代わりに隊を動かせと提言してきた
厚顔無恥な輩だ。即刻たたき出してもよかった。調子に乗るなと一喝したあと、カイゼル髭を蓄えたこの男は、
沢北の世代では伝え聞くしかなかった男の名を口にしたのだ。
「『白髪鬼』だって? ふん。エラい錆びついた名前を持ち出してきたもんだ。死んだんじゃなかったのか」
「残念ながら生きてる。生きてこの奉天でまた抗日の狼煙を揚げるつもりだ」
「どちらにせよ死に損ないの老いぼれひとり、なぜ我々が貴様らの尻馬に乗って、その男の首を取らなきゃならねー?」
「これは異なことを言う。貴殿は緑林系(馬賊)の集結力を侮っているのか。東三省と熱河に存在する反満抗日の武装
勢力は、二十万とも三十万とも数えられる。そのうち、張学良の正規軍は四万にしか過ぎないではないか。あとはみなロクな
指導者もいないならず者ばかりだ。それらが『白髪鬼』の名の元に集えば、関東軍にとっても憲兵隊にとっても、
由々しき事態じゃないのかね」
沢北はオヤっと片眉だけを上げた。同じ穴のムジナ同士の覇権争いかと思いきや、どうやら違うらしい。馬賊たちは自らを
緑林とは呼ばない。それは元々、盗賊全般を意味する言葉だと聞く。使うわけがない。そうなるとこの男、馬賊を目の敵に
しているところから見ても、出自はれっきとした軍人なのかもしれない。
何れにしても、
「身内同士で共食いたぁ、さもしいねぇ」
そういう輩は大嫌いなんだと言って腰を上げ、沢北はいまこの場に立つ。同胞同士勝手に殺しあっていればいい。
その場に立ち合わせるのも愉快かも知れないという薄ら昏い思いからだった。
馬を降りて先頭に立つ。照明弾を打ち込んだとはいえ、砂塵が舞って視界は悪かった。あの男たちの仲間が沢北の
真横に並んだ。先陣を切ると言うから好きにしろと返した。言うだけのことはあって、こうして並ばれると、揃いも揃って
肝の据わった面構えをしている。
沢北にすればこんな小競り合い程度の戦闘で大切な部下をひとりでも失いたくない。それをこのカイゼル髭の男は気づい
ている。もしかして、照明弾だけが欲しかったとか。けれどこんなものは一時しのぎの明るさに過ぎないから、すぐに闇が
落ちてくる。
よく分からんけどしっかりやれ、とひとりごちて、沢北は垂直に上げた手を前に振り下ろした。
戸板の隙間から外を伺うと、照明弾の明るさは消え、あとは月明かりと眼前に灯された松明だけが敵の在り処を知る
手がかりだった。そんな中、まず木暮が安西と彩子と晴子とを護衛し、地を這うようにバラックを出た。その彼らを桜木軍団が
取り囲み、さらに残りの五人で敵に正対し、後退しながら敵を蹴散らしてゆく。非戦闘員がいる以上、引きながら応戦する
しかなかった。
赤木を中心にすぐ左右に問題児のふたり。少し間を置いて三井と宮城を配しての布陣。闇雲に広がるな、突出するなと
赤木はシツコイくらいに言い含めた。この暗がりでは敵も味方も区別出来なくなる。そうなると一番怖ろしいのは同士討ち
だ。だからなにがあっても離れるなと。
ザクっとだれかが瓦礫を踏みしめる音だけが響く薄月の夜。ゴクリとだれかの喉が鳴る音。撃鉄を起こす音さえ聞き取れて、
知らず、背に厭な汗が流れた。山水画のような濃淡だけの光景の中、ひとつふたつと影がうごめく。懸念していた人数とは
思えない。背後に控えさせているのか。気配を殺しきっているのか。肉眼で確認できるのは、その奥にひとりと左に
もうふたり。視線を走らせ息を詰めて、流川は愛用のブローニングを構えた。
そのとき、
「『白髪鬼』はどこにいるっ」
と、突然闇の中から胴に響くような声が沸き上がった。赤木はすぐさま両端のふたりを制する。動くなと、腕を掴んだ指に力を
込めて、まだ安西たちが近くにいるから、逃げ切っていないから。だから動くなと、祈るように目線を前に送っていた。
「あの老いぼれがここに身を潜めているのは分かっている。すぐさま『白髪鬼』差し出すんだっ。さもなくば、後ろに
控える憲兵隊の銃が貴様らに向けて容赦なく火を噴く。『白髪鬼』ひとりの命と、ここで生活するもの多数と、天秤に
かけるほどのこともなかろう!」
その大仰な科白を聞いて沢北は爆笑しそうになった。おやおや。いつの間にかそんな盟約が出来て、この確執の後詰めを
任せられたようだ。泣く子も黙る奉天憲兵隊の名を騙って最大限に生かしやがって。けれど、してやられたという不快感
はなぜか湧かなかった。ノコノコと出かけてきた自分たちの、間が抜けていたという話なだけだ。
沢北の苦笑をよそに、カイゼル髭の男の演説は続く。
「『白髪鬼』よ。名高き伝説の指導者よ。過去の遺物よ。貴様も全満にそのひとありと称された将帥なら、配下のものの
背に隠れるという浅ましい真似は止めて、我々の前に姿を現せ。そしてその怒りの裁きを受けよっ。貴様が我々に与えた
屈辱。それ以下でもそれ以上でもない、等価の代償を払わせてやるっ」
「やかましい!」
好き勝手言いやがって、と、どんな種類の懇願も振り切って立ち上がった桜木の頭上を、敵の撃った鉛玉が掠めていった。
すかさず赤木が引き戻したからよかったもの、一歩間違えば頭部を吹っ飛ばされて辺りが脳漿まみれになるところだ。
なのにそんなこと、桜木は全然お構いなしなようで。普段は儒教精神ぶっ飛ばし、老師に対するもの言いが尊大なら態度
もデカイ男が、仲間をコケにされたと知ると、黙って隠れてなどいられないらしい。浪花節を声高に叫ばずには
いられないのだ。
「んの、どあほー」
頭が沸騰している桜木には流川の舌打は聞こえなかったらしい。
「住民が寝静まるころを狙って闇討ちなんかかける卑怯もんが、でけー口、叩くんじゃねーぞ! なにが怒りだ。なにが
屈辱だぁっ。なにが我々だっ。オヤジ相手にタイマン張りたきゃ、当事者同士、サシでショウブしやがれっ。エラそうに
後ろに軍隊背負って、権威、振りかざしてんじゃねーぞっ。来るなら来やがれっ。このオレさまが相手だっ!」
「馬賊風情がよく吼える」
「なにおぉ!!」
あーあ、と流川の傍にいた三井があからさまに溜息をついた。
なにやら口から泡を飛ばして気炎を上げている桜木だが、要するに虎の衣を借るキツネ状態のヤツらにむかついたと
いうわけだ。にしても、所信表明演説というか、宣戦布告というか、戦国期の武将同士の名乗り上げというか。
確かに一本筋にとおったご高説は賜りましたが、こちらが潜んでいる場所を敵に教えてどうするんだ。まったくもって
相手の思うつぼ。術中にはまって高らかに響く銅鑼の音で開戦だ。
この大バカヤロー、と全員が銃を構えたそのときだった。
襲撃者たちの後方から闇を裂いて銃声が響き、彼らの仲間のひとりがドサリと崩れ落ちたのは。
確かにそれは沢北の後方から放たれたものだった。
だれだと、沢北は自ら率いてきた憲兵隊兵士が整然と頭を並べる列を振り返った。許可していないのに一体だれが
発砲した。しかも抗日分子にではなくその間に位置するあの男たちに向けてだ。起き上がってこないところから、致命傷
を与えたのだろう。あの男の仲間たちに憐憫の情などこれっぽっちも涌かないが、命令違反を許すわけにはいかない。
沢北の形相に居並ぶ部下たちの間に動揺が広がった。だれもが顔を見合わせ、小さく何度も首を振る。違うと口に
出しかけて、そのさらに後ろを振り返っているものまでいた。
だれだ。部下たちじゃないのか。なら、どの位置だと軌道の角度を追って走らせた視線の先、兵士たちのもっと後方、
瓦礫に身を潜ませたまま右に過ぎる影を発見した。アイツかと躰を返しかけた沢北の耳に、カイゼル髭の恫喝が届いた。
「貴様っ。初めから我々を挟み撃ちにする算段だったのか!」
そうだともそうでないとも。沢北は眉根を寄せて男に向き直った。
はなから手助けをするつもりなどなかった。それはこの男にもつうじていたはずだ。
抗日馬賊と、どの組織に身を置くものか知らないが――この男たち。互いに銃を向けあって数を減らして、終結した
その瞬間、残った方に一斉射撃を加えればこちらの被害は最小限で食い止められる。どちらも不穏分子。だが胡散臭さと
不審さ加減から言ったら男たちの方が一枚も二枚も上手だ。一網打尽。濡れ手で泡とはこのことで、けれどその計画も、
なにもかもが終わったあとのシナリオだった。けしていま向けられるべき銃弾ではない。
「ネズミが一匹、混じっていたようだ」
「なにっ。言い逃れをするつもりかっ!」
「別に貴様の信頼を得ようとは思わねーけど、オレを窮地に追い込もうとするヤツは逃がしておかねー。貴様は好きな
だけ馬賊の連中と撃ち合ってればいい。オレはそのネズミを闇の中から引きずり出してやるだけだ」
貴様にかまけている暇はないと、沢北は兵士を五人名指しして踵を返した。
カイゼル髭の仲間のひとりが倒れた男に駆け寄った。血臭の強さから夥しい量が流れ出たのだろう。恐らく助かるまい。
どちらにせよ憲兵と協力体制が取れるとは思っていなかった。
男は傍にいた丸坊主にひとつ顎をしゃくり、そのまま怨敵――『白髪鬼』を守るものたちへ向けて発砲した。
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