月に乗じ
て
〜ろく
「どっかでちゃんと宿でも取ってんのかね、あのバカは」
日もとっぷりと暮れた闇の中、仙道は奉天憲兵隊本営前に建つ宿屋の二階にいた。目の前の物々しい建物の入り口には
歩哨兵が傲然と顎を上げて立ち尽くし、その全体像を浮かび上がらせるくらいの灯が煌々と照らされている。手にした
双眼鏡で覗き込まなくても、ひとの出入りくらいは見て取れた。
仙道はまず神と別れたあと、以前に流川を彼らのアジトまで送っていったことのある愛馬に、そこまで案内してくれる
ように頼んだ。一年も前のことだからな。覚えてるかな、という煽り方は人馬を越えた負けず嫌いへの常とう手段だった
ようだ。流川が何処へ消えようと知ったこっちゃないはずの赤兎も
鼻息荒く地を蹴ったが、突然開けた裏路地の瓦礫の山を前に、たたらを踏んで立ち尽くした。
「なんだこれ? 取り壊しか?」
月白の空に千切れた雲の流れも速く、途切れ途切れに差す光の合間に居様な情景が浮かび上がる。点在しかしない
集落の名残。その中で点々と灯る生活の匂い。一般市民と反乱分子の別け隔てのない壊滅がそこにあった。
赤兎にしてみれば、唐突に怨敵を探している現実に気づいたわけでも、足場の悪さに躊躇ったわけないだろう。嗅覚と
カンとで覚えていた道がなくなってしまったのだと分かった。だから、もういいよと首筋を撫でて引き返すよう
促したのは、この暗がりでは流川の所在を探しようがないし、治安も秩序も崩壊してしまった集落には夜盗や流賊の類が
出没する可能性が高い。またその類に勘違いされる危惧だってあると判断したからだ。
場所の特定が出来ただけでもヨシとしよう。総ては明るくなって状況が判断出来るまで待つ。
嘗ての住処がこの状況にあっては、さしもの流川でも無茶はしないだろう。五感を研ぎ澄まして地に伏した山猫のよう
に身構えているに違いない。慌てて追いかけてきたにしては、そう達観して仙道は馬首を返した。
そして官舎が立ち並ぶ目抜きどおりまで引き返し、憲兵の動きを監視するにはもってこいのホテルで、格好のポジション
取りをしている。
いまの彼らは抗日組織と反乱分子の壊滅をなによりの責務としているから、確かな情報を得られればその出撃は
昼夜を待たない。正面を見渡せるここで目を光らせていれば、動向のひとつでもつかめるだろうと思った。
まさか夜通し見張るわけにもいかないけれど、どうせ待つならこの場所がいい。
そう思って、座った状態で窓枠から眼下を見渡せる位置にベッドを移動させた仙道は、上掛け布団をコートのように
羽織って目を瞬いた。すかさず双眼鏡で覗けば、見間違いじゃない。どうやら憲兵隊本営に珍客到来。
上海訛りの――おそらく藍衣社に身を置くあの男たちだ。あのとき仲間を置き去りにして兵力が半減したにしては人数が
ふえている。きっちりどこかで補強してきたのだろう。
「にしても奇遇だな。同じこと考えてるよ」
『白髪鬼』なる人物の消息を得るために流川を追いかけていたはずの彼らがここに姿を現したということは、キレイに
振り切られて姿を見失ったとみていい。執念深い彼らのこと。流川を捕らえて手がかりを掴み、その怨敵を憲兵に委ねたり
なんて絶対にない。自らの手で抹殺に向うはず。
流川は絶対、無事だ。
それにしても関東軍の出先機関に、反対勢力である蒋介石の手のものが接触するなんて、共通の敵の情報を得るために
一時休戦も止むなしという柔軟性を褒めるべきか。なりふりかまわない節操のなさに眉をひそめるべきか。はたまた後先
省みない暴挙に憤るべきか。
「よりによって憲兵を引きずり込むか、ふつう」
話がややこしくなる。困ったもんだとごちるけれど、いずれにしても驚くべき胆力だ。奉天憲兵隊を相手どり、どう身分
を偽って元抗日馬賊の首魁の居所を聞き出すのか。向学のためにここはひとつご教授願いたいものだと、仙道は顎を
引いた。
眠い目を擦りながら待つこと小一時間。永遠のように思えた時間にも眠気は襲ってこない。彼らの手並みが楽しみでも
ある。そして本営が動きを見せたその瞬間に、仙道は待ちかねたように上掛けを取っ払って立ち上がった。
「展開、早くて助かる」
監視体制に入っていたとはいえ、一晩中なんてことになると、体力がついてゆかないと危惧していたところだ。
眼前では、灯りの落ちていた部屋にも火が入り、ひとが駆けずり回り、門前があわただしい。この建物の中で彼らに
よってどんな種類の裏取引がなされたのか容易に察せられた。私兵以上一個
小隊未満ほどの憲兵隊兵士が馬首を揃えて門前に集結し出したのだ。どうやら本当に昼夜を待たない臨検出動のようだ。
藍衣社なんかに踊らされやがって、と切れ者とウワサされる憲兵大尉のひとを食ったような顔を仙道は思い出した。
あんたらしくねーんじゃないの。けど、と思い至る。
上海のものたちが欲した情報。いや、正確に言えばきょう彼らは奉天のどこかに『白髪鬼』が潜伏していると知りえた。
街の方々に散らばる貧民街や集落の中で凡その見当がついたのか、嘗て関東軍を恐れさせた伝説の
総攬把がそこにいると教えられれば、奉天憲兵隊を統括
するあの男ならどう動くだろう。
不穏という理由ひとつで、臨検の名を借りた壊滅だって十分に大義は成り立つ。この際ピンポイントの場所の特定は
必要ないのだ。その辺りを総てさらえばいい。多少被害が拡大しようが、きな臭い将来の禍根は瞬時に摘んでおくに
越したことはない。『伝説の』と冠がつくということは、いまでもその名にすがるものがいるという証拠だ。
関東軍による熱河省掃討が始まったばかりのいま、多少看板が古かろうが、抗日の拠りどころは徹底的に潰す。
実際、先ほど見た集落への仕打ちはそんな名目によって行われたのだろう。
そうか、ヤツら、憲兵隊に露払いをさせようとしたんだな、と仙道は眉根を寄せた。数を頼んで奇襲をかけ、その隙を
ついてただ『白髪鬼』を目指す。その手で仕留めればなおよい。
なんにせよ、こうしちゃいられない。
けれど、休ませたばかりの愛馬はわずかな時間で叩き起こされて、さて、機嫌よく駆けてくれるだろうか。仙道は盛大に
嘆息をつき、神はああ言ったけれど、用意周到、結構じゃないかと、変装キットに着替えて部屋を飛び出した。
夜目が利くのか前をゆく桜木は障害物も難なくやり過ごし、三尺ほどの戸板を二枚、両手が塞がれているのに、平地をゆく
のとなんら変わりない速度で歩いている。その後を追う流川は、一枚、手を貸そうかという気すら回らず、膝の高さほど
ある瓦礫に足を取られないように、それでも桜木の背中ばかり見ていた。
「トロくせぇキツネ野郎だぜ。なにモタモタしてやがる」
「るせー」
時おり振り返り小ばかにしたように笑まれて流川の速度は増すけれど、ほんの一年、抗争の真っ只中に身を置いて
日々暮らしていた男からは、別れた当時を偲ばせる危なっかしさと、必要以上の背伸びと、ただ流川と張り合うだけの
頑是なさが消えていた。
昔なら、再会しただけで襟首を捻り上げられ、帰って来たのではないと知って殴られ、おまえではこれくらいの荷も持てねーだろうと、
間違いなく威張り散らされていた。流川の知る桜木とはそういう男だった。
そしてこんなに頼りになる背中もしていなかった。というより、この男の後ろを歩くことなんてなかったと思う。前しか
見ないから。いつも先頭を走るから、だれの背中も流川は知らなかったのだ。
「ほんと、ひでーことしやがるよな、憲兵のヤツら。ひとがひとでなくなる瞬間なんざ、だれにも簡単にやってくるって
オヤジは言ってたけどよ。恨むなって方が無理な注文だ。どーにかして抵抗してやろうって思って当たり前だろ。んでまた
反撃を食らう。抗争に終わりはねーってほんとだよな」
そう。こんな達観したようなもの言いも絶対にしなかった。根拠のないカラ元気がコイツの身上だったはずなのだ。
嘗ての仲間たちは自分の知らないところで戦い、銃弾を潜り抜け、駆け引きと引き際を覚え、成長せざるをえなかった。
いまそれを目の辺りにする。仲間に背を向け停滞を選んだ流川にとっては、目を見張るばかりだ。
「相変わらず体力のねーヤロウだ。返事も返せねーくらいにへばっちまったのか」
「チガウ」
「てめーはそればっかだな。んな愛想も欠片もねーてめーでもよ、顔出しゃ、みんな喜ぶんじゃねーの」
桜木は、よいしょ、と戸板を持つ手の位置を変えて歩く速度を速めた。
たぶん湘北と呼ばれた集落は過ぎたのだと思う。月の光だけでは右も左も天も地も分からない。それでもチラチラと
暖を取る灯りが見え隠れし、瓦礫の中でも幾分土台のしっかりしたバラックのひとつを桜木は指差した。
「命、取られなかっただけでもめっけもん。凍死しねーだけでも御の字ってとこだ」
戸板を建物の横に立てかけると、桜木は扉らしきものを開け放った。みんな無事だという。あの日、背を向けた彼らが。
棒立ちになったままの流川は知らず、月を仰ぎ見ていた。
「花道? どうだ首尾は?」
「おうよっ。天才のご帰還だ。ちょうどいい感じの板を手に入れたぜ。ついでに面白れーもん拾ってきたから、見て
驚くなっ」
流川の背を蹴飛ばすようなような大声だった。
桜木の後に続いて足を踏み入れたバラックの中は思っていた以上に温かかった。ちょうど夕食どきなのかなにかを煮炊きした
匂いと人いきれと熱気が流川を圧倒する。広い桜木の背中が邪魔をしてなにも見えないと位置をずらしたそのとき――
襲い掛かる沈黙というものを流川は経験した。
「流川っ」
熱気が視界を遮った。たぶん目の焦点が合わなくて、最初にそう叫んだ声は赤木だったと思う。
「帰ってきたのか、おまえ!」
「いままで、どこでなにしてたんだっ」
「心配してたんだぞ。ほんとに、ほんとに……よく戻ってくれた」
続いて怒鳴り声を上げたのは三井。宮城は目を丸くしたまま立ち尽くし、木暮の眼鏡は不自然に曇っている。水戸たち、
桜木軍団の姿もあった。そのさらに後方には牀に腰掛けている安西の福福しい顔。流川がここまで足を運んだ、いわば
根源の柔和な笑みを認めて、何度も目を瞬いて、コクリと顎を突き出すだけの挨拶をした。
「流川くん。元気そうですね。よかった。きょうはとてもよいことがありそうな予感があったんですよ」
わたしのカンもまんざらではありません、と少しやつれた、それでもその瞳は炯々と輝き総てを内包している。
このひとだけはなにがあっても、目に痛いほど変わらない。
そんな安西に対してなにも言葉を返せないでいると、突然、頬を両手で抑えられた。目線を戻すと彩子だった。
「流川! あんた、ちょっと顔、よく見せなさい。痩せたんじゃないの? ちゃんと食べものはあるの? いま、なに
やってんのよ? どこにいたって? どーしていままで連絡ひとつ、寄こさなかったのっ」
「遠かったから」
「遠いとか近いとかの問題じゃないでしょっ。このばか! 遠かったらなおさらよ。なんのために手紙とか電報とかが
あるのよっ。その頭が飾りじゃないならね、ちょっとは頭使って気を使いなさいっ」
気丈だった彩子の顔がクシャリと歪み、あ、泣かれちまうと身構えていると、背後の三井が流川から引き離すように
彼女の肩に手をかけた。と、急にブンと腕を振り上げた空気がしなる音。てめー、と喉から絞り出る声。桜木が前もって、
十二発なんて牽制してくれていたから、ほんとうに悪いけれど予想できた動きだったのだ。
「気が済むまで殴らせろっ」
「三井っ!」
ここで、はい、そうですか、って言えるくらいなら流川楓の看板なんか背負ってない。無意識の反応と習い性は怖ろしい
ものだ。一発くらいならいいかも、なんてガラでもないこと、瞬時に過ぎって瞬時に躰が厭った。大げさなくらいに振り
かぶられたその腕を必要最小限の動きでひょいと交わしてしまったのだ。
「なっ!」
あるべき衝撃をなくした慣性で三井の躰は前のめりにつんのめった。殴りかかった相手が真正面じゃなく、
真横でシレっとそのさまを見物しているなんて屈辱ものだろう。あわや地面と正面衝突、という危機を、まるで猫の仔
よろしく、襟首掴んで引き上げたのは赤木の丸太のような腕だった。
「せっかく戻ったものを。いい加減にしないか」
「やかましい! おめーらが怒んねーからオレが代表してやってんじゃねーか! ここはな! 大人しく殴られて神妙に
項垂れてごめんなさいの場面なんだよっ。その方がコイツにとっても気楽なんだろうがっ。おまえも、なんで逃げんだっ」
「痛い思いして、気が楽になんかなんねー」
「あんだとぅ! じゃなにか。てめーは散々心配かけときながら、はい、ただいまで終わりなんかよ。もっと
他に言うことあんだろうがっ」
「出てけっつったのはあんただ」
「る……」
さっきまでの殊勝さはどこへやら。なんの気なしにそう言い放ち、瞬時にその場が凍りついた。きょろりと周囲を
見渡して眉をひそめたものの、でも事実だろとなおも留めを差す。当の三井は酸素を貪る金魚状態だ。けれど心なしか、
自分の失言を理解していての自己弁護っぽくも聞こえる。もしそうなら、冷血無愛想ご意見無用の流川楓にも、少し、
ほんの少し、情緒ってもんが存在して、場の雰囲気を読む術を覚えたのかも知れない。
と、木暮は過大評価しておいた。
けれどまだ赤木に襟首を抑えられたままの三井の顔色は血の気が引いて蒼白だった。だれも声をかけられないでいる。
それまで黙って成り行きを見守っていた桜木が口を開こうとしたそのとき、
「だからって言うこと聞いて、出てったわけじゃねーけど」
寡黙でいい訳なんか一切口にしなかった男が自分から突端を開いた。桜木は開きかけた「お」の形のまま、三井は
背の高い後輩を見据えたまま、赤木も三井の襟を掴んだまま、一年たっても変わらずつくりものめいた流川の顔貌を穴が
開くほどに見つめていた。
「帰らなきゃなんねーとこがあったから……」
出てったんじゃなくて行った、と謝るでもなければ釈明でもない、流川はただ傲然と前だけを見つめて事実を口にした。
うん。確かに自己弁護している、と木暮は感心し、先ほど三井に押しやられた形の彩子がいま一度前に出た。男たち
は沈没したままだけれど、この不精もんには聞きたいことが山ほどある。
「帰りたかったところって、どこ?」
「ハハオヤの故郷。どーしても見たかった。そこにオレの爺さまがいた」
「いま、そこにいるのね? ずっとそこに住むの?」
「うん、たぶん」
「遠いってどこ?」
「黒龍江省? ルカワって村」
「そんなに――」
じゃあ、どうしてと彩子の視線が泳いで、このままじゃいつまでたっても流川がここを訪れた理由に到達しない
と業を煮やした桜木が「オヤジ」と、安西の名を呼んだ。
「なんだか知んねーけど、コイツが言うには、オヤジの命を狙ってるヤツがいるんだと。んで気ぃつけろって言いたくて
わざわざやって来たらしいぜ」
みなの視線が安西に向けられた。当の安西は「ほう?」と顎をなでたまま泰全と構えているが、真っ先に我に返って
当然の疑問をはさんだのは赤木だった。
「我々は抗日の反乱分子だからな、関東軍や憲兵から命を狙われるのは毎度のことだが、軍人ではないのだな? 匪賊か?
流賊か?」
「さぁ、日本人じゃなかったけど……」
「どこの組織とかは言ってなかったのか?」
「ねーです」
「それでは警戒のしようがないではないか? では風体は?」
「髭と丸坊主」
あと、二、三人と、流川はそこだけはっきりと言い切った。赤木が呆れた。三井と木暮は爆笑した。宮城は「意味ねー
じゃん」と首を振り、彩子は肩の力が抜けたとばかりにしゃがみ込んだ。言っちゃ悪いがこんな情報で、どう対処しろ
と言うんだろう。
「他に手がかりになるようなことはないのか?」
「なんか、借りを返すとか、言ってた」
「しょうがないな。老師、なにかお心当たりはありますか?」
「さぁ、わたしも長く生きてますから、改まって聞かれると想像もつきませんね」
流川が少し困った顔をする。そんな彼を認めて安西は牀から立ち上がって目の前までやってきた。なぜか目線の高さ
が違って流川は愕然とする。彼が覚えていたよりももっともっと年ふりてしまったのだ。
「流川くんはわたしの命を狙っているという男たちに会ったんですね?」
「うす」
「それはどこですか?」
「六哈台って街で」
「そこから奉天までは遠かったでしょ。まして、君がいま住んでいる黒龍江省とは反対方向だ」
ありがとうと安西は突然頭を下げた。君の暴走を止められなかったわたしを心配してくれてありがとう。
君を突き放したわたしたちを許してくれてありがとう。会いに来てくれてありがとう。そして、元気でいてくれて
ありがとう。
流川はあのとき負った三井の怪我の具合についてはひとことも聞かなかった。殴りかけられるんだから大事はないんだろう
ぐらいにしか思ってないのかも知れない。
それでも、たぶん、そんな理由でここに姿を現した事実だけで、この男にして最大の謝罪なのだろうから、
「てめー、意外と得な性格してやがる」
そう、呟いた桜木のひとことはみなの気持を代弁していた。
そのときだった。
流川が桜木が、その場にいただれもが。外の異変に気づいて身構えたのは。
continue
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