月に乗じ 〜ご








「ちっ」
 目抜き通りから路地をひとつ入ったところで流川は小さく舌打した。
 ふたり、いや、もっとか。背後から押し寄せる余り種類の宜しくない思惟の塊に、首の後ろ辺りがひりついたように 焦れて、苛つくことこの上ない。
 雨が降ろうが日が暮れようがだれが近づいて来ようが、殺気さえなければ正面を遮られても一直線に進むと称される流川 だって、当然、つかず離れずの距離を取りながら、背中に張りついた視線に気づかないほど安穏とはしていない。
 角を曲がりしなに、チラと後ろを伺う器用さなんかなかったから、その視線の持ち主がだれだか分からないけれど、奉天に 着いてからずっとこの調子だ。このタイミングから言えば、六哈台を出た瞬間に、あの夜のあの連中から 尾行されていたと見るのが一般的。だが別件の可能性だってなくはない。不審だという理由だけで憲兵に目を付けられた かも知れないのだ。
 尤も憲兵だったら問答無用でしょっ引かれるか。けれど、ひとの顔を覚えるのが苦手な自分のこと。自慢じゃないが、 服装なんか変えられた日には、それがあの襲撃者たちなのかまったく別の役人なのか絶対に識別不可能。日にちもたって いることだから、すれ違ったとしてもだれだっけ、に三千点。やり合った間柄ながらあの男たち、流川にしてみれば 特別珍しくもない人相だったのだ。
 髭と丸坊主。ふたり揃ってくれた方が分かりいいかも、なレベルだったから、監視がだれだろうが、どんな目的が あろうが、瞬間的にどうでもよくなった。突然襲ってきたらやり返すだけ。ただの尾行なら貧民街に入ってしまえば 土地勘と脚力で振り切ってしまえる。コッチのもんだ。大したことじゃない、と顎を上げる。
 あらゆる状況に対応できるように予測を立てて行動しろなんて、どこかの だれかは絶対に口を尖らせるだろうけど、流川楓にはどだい無理な話だった。
 こういう場合、先入観がない方が絶対しなやかに動ける――と、心底思う。
 どこかのだれかが知れば眉をひそめる結論に達して流川は顎を引く。滅多なことでは表情を変えないそのだれかの、 困惑仕切った顔がふと過ぎったからだ。
――なんで報告しなかった。
 夜明け近くのあの時間に眠りについて、信じられないことに仙道よりも先に目覚めてしまった。抱き込まれる両のかいなと 頬に当たった男の胸が温かく、なのに、仙道の寝息を頭のてっぺんで聞いても再び訪れる眠気は襲ってこなかった。
 だからこっそりと寝床を出て身繕いをした。宿屋を出た瞬間に吹きすさぶ暁闇の風の冷たさは、歯の根がかみ合わない ほどで、どれほどのぬくもりに包まれていたのか分かろうというものだ。
 けれど。
 行く先もなにも告げず残した男に対して悪いという気まで回らなかった。彼はきっと止めようとする。危険だとか様子を 見ろとか無謀だとかまだ状況が把握できていないとか。最後には自分の頑迷さに押し切られる形に落ち着いたとしても、その言い 合う時間さえ惜しい。置き去りにした仙道への気遣いよりも、早く伝えなければという気持の方が勝ってしまったのだ。
 仙道にしても困惑どころの話じゃないだろう。なにごとにつけ物腰の柔らかいあの男にも、流川をして怯むほどの 凄まじい怒りを内包しているのだと、自分はもう知っているのに。
 そう。
 一年近く一緒に暮らして、彼は流川がひとり勝手に行動することを極端に嫌うと思い知らされた。それはことあるごと に見せつけられ言葉となり。頭ごなしに怒鳴りつけられたこともあった。原因はなんだったか。たしか放牧中に見失った 仔馬を探しに行ったとき、まる一日曠野を走り回りどうにか見つけ、疲労困憊の様相でルカワの村に帰ったら、顔を 見合わせた瞬間に襟首を捻り上げられたのだ。
――なんで報告しなかった。
 傍にいた祖父が目を剥くほどの手の早さと空気を裂いたような悲痛な声音だった。
――なにすんだっ。
――なんで報告しなかったって聞いてる。
――なんでって、すぐに、探しに行った方がいいと思ったから。
――そうだな。でもいなくなった仔馬をおまえが探す。同じようにいなくなったおまえをオレたちが探さなきゃならない って考えつかないのか?
――オレは仔馬じゃねー。帰り道くらい分かる。
――そうか? でも、なにも聞かされてないオレたちにどうしてそれが判断できる? おまえが怪我してないかとか、 不測の事態で動けないとか、どうして分かる。おまえが何処へなにしに行ったか、どうしてオレたちに分かるんだっ。
 ダンっと空いた拳が壁を叩き、底冷えのする仙道の瞳が間近にあった。
 腹の底から出た言葉は痛いのだ。胃液すらせり上がってくる空腹よりも、その視線の方がはるかに痛かったのだ。 あのとき。
「あれ?」
 なんだかそのときといまと、状況が似てる気がしないでもない。けれど、どうしたって仙道を奉天に連れてゆくわけには いかない。
 ひとこと告げるだけ。
 湘北の連中が敬愛する師父の危機を知ってしまったまま、ルカワの村に帰るわけにはいかない。
 満足に会話すら、そして素直に和む素振りすら見せなかった流川にも、まろやかな笑顔を見せてくれたひと。
 彼らほど心酔し切っていたわけじゃないけれど。
 気持よりも先に躰が奉天を向いていた。
 ただそれだけの身勝手な道行。
 すぐに戻る。六哈台に。
 あんたが――
 愛馬の蚩尤(しゆう)が、周囲の緊迫を感じ取り低く何度も嘶く。
 尾行には気づきながら、仙道が危惧したものとは別の帰着点に到達した流川は、真っ直ぐに貧民街へと足を向け ていた。



 一年ぶりの奉天を楽しむようにゆったりと大通りを歩いていた流川は突然、愛馬の頭絡を外し鼻ヅラを撫でひとつ囁くと、 そのまま馬腹を叩いて疾走を促した。一、二度たたらを踏んだ蚩尤は、なにもかも心得たように主を振り返ることなく 地を蹴る。そのタイミングと合わせ走り出し――愛馬とは反対方向――流川は大通りを右に折れた。
 瞬時に。背後の尾行者たちが息を呑んださまが手に取るようだった。
 二手に別れて見せても馬は必ず主の元へ戻る。しかも目標物としては人ごみの中にあっても馬の方が目につき易い。 だが主を捨てた身軽さと相対して、騎乗のままでは機動力に差が出てしまう。
 躊躇いなく徒歩になった流川の行動に虚をつかれ、追跡者三人組のうち、ひとりがそのまま 蚩尤を追い、もうふたりが馬を降りたころには、路地に入り込んだ少年の背を見失っていた。
「やっぱり気づかれてたか」
 馬を降り複雑に入り組んだ路地の手前で立ち止まった男は、あの夜、呉たちを襲撃したもののひとり――流川言うところ の丸坊主だった。
「こないだ、あんな動きをしたにしちゃ、トボトボ歩いてんなとは思ってたんだ」
「すぐに追いかけよう」
「無理、無理。オレたちには土地勘がなさ過ぎる」
「でもそれじゃ――」
「あのひとに報告する。『白髪鬼』の居場所が奉天だと分かっただけでも、ヤツには感謝だろ」
 丸坊主の男は狭い路地に背を向けると、そのまま大通りまで戻るように仲間を促した。
「考えてもみろよ。大海の中から小石を拾うような確率だったもんが、奉天の貧民街に絞られたんだ。ここがどれくらい 入り組んでようが、抗日組織のアジトが幾つあろうが、燻りだす手立てはいくらだってある」
 あとはあのひとが考えてくれると、あっさり追跡を諦め彼らは待ち合わせの茶房へと消えていった。
 後ろも見ずに細い道を幾つも折れ、しつこかった圧力がイキナリ弱まっても、振り切ったと思っていない流川の速度 は落ちない。束の間気を巡らせ何度も確かめて、ようやく弾んだ呼気を整えた。
 なぜ野放しにされたのは分からないけれど、尾行がないならそれに越したことはない。辺りを伺って警戒を強め ながらも、彼の足は嘗ての古巣へ向けて急いだ。
 奉天の裏路地は変わらず空が狭い。
 ひとひとり、とおれるかどうかの狭い隘路。日干しレンガと板張りの粗末な民家。道行くものはだれも下を向いて 顔を合わそうともしないし、足早やに行過ぎる。道路にしゃがみ込んで通行を遮るのは、 浮浪児の集団ばかりだ。だが子供と思って侮ってはいけない。獲物と見定めれば容赦なくフクロにされて身包みを剥がれる。 それらを刺激しないように慎重にやり過ごして、流川は進んだ。
「――?」
 なにかを感知する前に小走りだった足がピタリと止まった。一度背後を振り返って流川は左右の道を見比べる。
「なんで――」
 迷ったとは思えない。同じようなせせこましい風景でも少しずつ表情が違うものだ。この猥雑さは己の網膜の裏にまで 染み渡っているはず。そうでなければもっと前に路頭に迷っていた。絶対に間違っていない。そう自分に言い聞かせて、 それでも首筋辺りが寒々しく感じる。
 離れていたのは僅かな期間。いまよりももっと濃密な時間の中、この地を駆け回って過ごしていたのだから。憲兵や街の ごろつきたちから逃げるのも日常茶飯事。この界隈を知り尽くしていたカンが、いま進むこの道がこんなに広くなかった 事実を告げている。
 こんなに明るくなかった。こんなに殺風景でもなかった。なにかが足りない。なにかがと問う流川の目の前、湘北と 呼ばれた地域を含む一帯が、折り重なる塗炭屋根の圧迫が、疎らに建つ民家だけを残して広い空を覗かせていた。
「……」
 まるで、そう、空襲でもあったようだ。
 だが、実際に爆撃を受けたのならもっと悄然と焼け野原と化している。では貧民街の底をさらう強制的な取り壊しか。 火の手は上がっていないものの、まだ煙が燻りきな臭い匂いが充満していた。
 少なくとも一両日中に、ここで一体なにがあった。
 いつも説教ばかり 口にしていたあのひとは。言い掛かりに近い道理をつきつけたあのひとは。穏やかな中にもちゃんと筋をとおしたあの ひとは。目つきの悪さと愛嬌とを持ち合わせていたあのひとは。そして、意味不明に突っかかって嫌悪も顕わなくせに、 どこか手を差し伸べてくれていたアイツは。
「どこへ――」
 藤真ならなにか知っているかも。いや、赤木たちと友人だという花形なら絶対と、走り出した足を流川は止めた。
 住み家がこんなふうになって、単に住居を変えたのならなにも問題ない。けれどもし彼らの身になにかがあったのだと したら、それを藤真が知っているとしたら、絶対に彼は教えてくれない。どんなに流川が望んでも、藤真の愛着と愛情 表現はそちらに向いている。上手く言いくるめて情報だけ引き出すなんて 高等技術、自分には望むべくもなく、下手すれば軟禁の憂き目だ。
 いや、それよりもまた尾行が張りつきでもしたら、彼の元へあの男たちを案内する羽目になってしまう。
 そんな迷惑、かけられない。
 遮るものがなにもない吹きっさらしの風が頬を切り流川は辺りを伺った。
 蚩尤はまだ戻らない。
「どこほっつき歩いてんだ、あのヤロー」
 なにが最善でなにが最良なのか分からなかった。自分で立ち回って自分で選ばなければならない選択肢。アイツなら と惑う弱さを振り切って、日が傾きオレンジ色に染まる瓦礫の中を流川は進んだ。



 少し進んだ湘北の集落はまるで櫛の歯が抜けたような有様だった。
 嘗ては色鮮やかだった招牌がいまは半分に切れて靴先に当たる。壊滅にしても取り壊しにしても中途半端な掃討だ。 安普請で軒を並べていた家々を、例えば重車両が走りぬけ、遮るものをただなぎ倒したように思える。真っ直ぐに走れ なければジグザグに折れて、ただ壊す。そこには思惑もなければ計画性もない。こんなのただの嫌がらせじゃないかと、 流川にも分かった。
 そんな中でも、瓦礫で雨露を凌ぎ取りあえずの寝床をつくる健気な連中もいる。ほどなく進むと煮炊きものの匂い まで漂ってきた。またヤツらが襲ってきたらどうするつもりなのか。逃げて一時しのぎの宿を確保し、また逃げて。 たぶんそんなふうに生を紡いでゆくしかないのだろう。
 どこが湘北でどこからが別の集落なのかも分からなかった。塗炭がオレンジ色を弾き、そんな中、借宿のための材料か 暖を取る木材探しなのだろう。瓦礫を掘り起こすようになん人もの人影がうごめいている。この中に彼らの消息を知って いるものがいないだろうか。少し歩調を上げて流川が近づいたそのとき、背中を見せていた男がのそりと上体を起こし、 揺れた頭髪が夕陽に焼けて燃えるような赤に染まった。
 凄みすらあるその赤。
 だれかが近づく気配を感じたのか、男が後ろを振り返る。振り返って零れんばかりに目を見開いた。
「ルカワ……」
「桜、ぎ」
 ふたりして呼吸を忘れ、ただ立ち尽くした。いままで何処へ行ってた。他のみんなはどうしてる。なにしてんだ、と 互いの現状を気にする言葉は出ず、思い出したように、当たり前のように、先に声を発したのは桜木の方だった。
「なんだ。帰ってきたのか?」
「えっ」
「一年も放蕩しやがって。ミッチーなんか、おまえが帰んの遅せーから、ひと月ごとに一発づつ増やして殴るっつってた から、てめー、十二発、覚悟しとけよ。ゴリからはたっぷりねちこい一年分の説教、喰らうんだな」
 そう哂いながら、さも当然のように桜木が、住むとこ補強しなきゃなんねー、出来るだけ大きな平板を 探せなんて命令するものだから、流川はガラにもなくうろたえてしまった。
 まろぶように出た言葉はとてつもなく硬かった。
「チガウ」
「あ?」
「帰ってきたとかじゃねー。オレはいま祖父んとこにいる。そこでフツーに暮らしてる」
 いい訳みたいにどこか苦しくて、睨みつけなければ言えないような科白だった。それなのに、はき捨てた言葉を 正確に拾って、咀嚼して桜木の方が泰全としている。そっか。そっかと二度。手にしていた戸板の埃をはらって、 桜木はひとつ大きく伸びをした。
「メガネくんが、そういう方向もアリだって言ってたな、そういや。ま、いい。とにかく会いに来たってことだろう」
 桜木は作業の手を休めない。背を向けた男につられて流川も辺りを物色した。
「なにがあった」
「見てのとおりだ。二十四時間以内にここを引き払えって、憲兵から通達があったんは、三日ほど前かな。キチンと 整備して住みよい街をつくるとかどうとか。んな要求呑まなきゃなんねー義理もねえし、だれもここが住みよくねーなんて 思ってない。嫌がらせだって怒ってたら本気で戦車、並べやがってよ。応戦しようにも相手が鉄の塊じゃ、いくら 天才サクラギでも無理があらぁ。情けねーけど逃げ出した。その方がよかったってゴリは言ってたな。抵抗しなかった からイチオウ市民に砲撃はなかったけど、敵に尻尾巻いて逃げ出して、どこがイイんだ」
「みんな無事か?」
「おうよ。ピンピンしてるぜ。憲兵隊のヤロウども、首を洗って待っとけっ」
「安西老師は?」
「オヤジ? 変わりねーよ。毎日おんなじもんしか食ってねーくせに、ちっとも痩せねーんだ。たぷたぷは健在だっつう んだから、ありゃ、湘北の七不思議のひとつだな」
 桜木、と流川は敢えて神妙な声を出して彼を振り向かせた。
「老師に伝えろ。命、狙ってるヤツがいる」
「命ぃ? なんでてめーがんなこと知ってるんだ?」
「いーから伝えろっ」
「バカかてめーは。そう思ってきたんならてめーの口からオヤジに言って、てめーで守るんが筋ってもんだろ」
 それが仁義ってもんだ。世間知らずなヤツだぜと桜木は、幾分精悍さを増した顔貌を綻ばせてニパっと笑った。 人手がいるんだついて来いと顎でしゃくられ、それに頷く義理もなかったのに、強引に拉致られたわけでもなかったのに。 なぜか流川は黙って桜木のあとをトボトボと歩いた。
 そんなこと、この男と小競り合っていたときには考えられなかった。
 藤真から引き離されて、流川が生まれて初めて強いられた団体行動。仲間意識は希薄だったけれど、毎日毎日顔を つき合わせていれば紡がれるものが確実にある。あのときもいまも、助けようとか動こうとか教えようとか、そんなふうに 思えたのだから、彼らとの間になにかが生まれていたのだろう。
 けれど、やはり自分はどこか他人とは違っていた。
 なにかが決定的に相容れないで。
 最後になんて言って彼らに背を向けたんだろう。
 あの夜のことがあまりに曖昧だったから、それを確認したかっただけかもしれない。






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