月に乗じ 〜よん








 目覚めてしばし呆然としたあと、盛大に髪の毛をかきむしった仙道は、空っぽになった左側のベッドに向けて、日本語と 中国語とが入り混じった、思いつく限りの悪態を吐き捨てた。
不是(ブーシ)(冗談じゃねー)。 分かんないのか、あの忘八兎子(ワンパトウズ)(くそったれっ)!  考えナシの混蛋(ホンタン)(バカ野郎)がっ。不是(考えらんねー) 。不是((ありえねー)」
 なにかに当り散らそうにも家財道具の極端に少ない宿屋の一室。備え付けのベッドを壊してしまうには、常識と理性が 邪魔をした。貴重な掛け布団。投げつけたところで綿埃が舞うだけだ。出来ることと言えば、至福でいて淫靡な昨夜の名残を 追いやるために窓を開け放つことくらいで。
 なにが哀しくってヤケクソのように消し去らなくてはならない。
 だからこそこの怒りをどうしよう。



 瞬間的に沸騰して瞬く間に収まって、血圧が必要以上に波打ったのか、まるで自分のものとは思えない重い躰を持て余し、 のろのろと身繕いを終え、それでもどうにか朝食の席にだけはつけた。仙道が食堂に足を踏み入れると、不自然なくらい にその場はシンと凍りつき、六哈台のものたちから向けられる言葉にならない不可思議な瞳、瞳、瞳。それは、窮地を 救ってくれたが三分の一。いらぬお節介が三分の一。そしておまえたちはなにものだと探る瞳が三分の一だ。
 軍人だろうが馬賊だろうがただの農民だろうが、我が身を守る護身術に長けていたところでなんの不思議もない。 ただ少し、昨夜の流川は、常に戦いに身を置くものの目で見ても、鮮やか過ぎたのだろう。
 計らずともカイゼル髭が苦言したように。
 けれど、いつだって闊達だった青年の憔悴し切ったそのさまは見るものに哀れを催し――昨夜の騒動の後遺症と寝不足と理解 されたと見た――追求の言葉も射る視線も不自然さもすぐに消えていった。
 これもある意味、人徳のなせる技だろうと自画自賛。
 室内の空気が変わって見渡せば、大攬把の呉の姿はない。唯一顔と名前の一致する程だけが、申し訳ないほどの気遣いで 彼に湯椀を差し出してくれた。
「おはよう、仙道さん。昨夜は申し訳ありませんでした」
「いや、こちらこそ」
「流川くんは、まだお休みですか?」
「うん、まぁ、ちょっと別件で――」
 見た目を見事に裏切って食い意地のはった少年を知っている程に対して、苦し過ぎるいい訳だ。程の瞳に猜疑に色が 走るのも無理はない。アイツが朝食も取らずに出掛ける はずがないのだから。だからといって朝の散歩なんてのはもっと白々しいだろう。いずれ出立のときに分かるのだけれど、 ここは語尾を濁らせてその場をやり過ごすことにした。
 礼を失すると思ったのか、程も深く聞いてこなかった。
 豪勢にも献立は二日続けての米の粥だった。これからどうしようかと、箸を持ったまま流離っていた視線も、ハラが減ったと 認知されればこんな悩みなんか、てんで些細なものに思えてきた。人間、寝て食って動きだせば大概のことはなんとかなる。 尤も、ハラが満たされて血の巡りがよくなると、さらにフツフツと沸いてくるのは純粋な怒りで、それが活力となるん だから、こういう場面では盛大に怒るべきだ。
――覚えてろよ、バカ流川。
 確固たる目的を控えての朝食は、文字どおり五臓六腑に染み渡り、躰の節々にまで英気が漲るようだ。
 遠慮も会釈もなしにたいらげたあと、隣の部屋をのぞくと、きのうのきょうで形相の変わった呉と数人の男が、 昨夜の捕虜を尋問していた。やはり理由も告げられずにただ付き従っただけの下っ端だと分かった。さらに身分を 問いただせば、仙道の予想どおり、上海の共同租界、延安路に拠点を置く組織の一員だと吐いたが、その名前もどの系列 に属する会なのかも知らない駒では問い詰めようがない。
 報復する気もない呉はすぐに立ち去れと命令しただけだ。
 捕虜たちの背を見送った呉の視線の流れから、逃がしはしたものの尾行をつけたと仙道は踏んだ。尤も仲間と信じて いたものたちから見捨てられた下っ端が、そのまま上海に戻るとも思えない。訳も分からず襲撃されっぱなしでは気が 収まらないが、敵を突き止めるのはかなり困難と思えた。
 呉たちは『白髪鬼』なる人物がなぜ上海のものから狙われているかは勿論、人となりも行方も本当に知らないの だろう。カイゼル髭の組織が調べたとおり、その御仁がこの宿を利用したことがあったとしても、接触しているとは 限らない。宿屋とはそういう特性も持つ。特にあの男はそれを確信していた。
 けれど――。
 尋問の部屋を出て仙道は自分たちの部屋へ戻る。
 朝食を相伴になればあとはすることがない。旅嚢を整えそれを担ぎ、世話になった旨を呉に告げると、再び彼らは深い 謝辞を告げ、ふんだんな量の携帯用食料を分けてくれた。いつでも出立出来るように、愛馬にも飼葉や水はたっぷりと補給 してくれたらしい。
「世話んなったな。大したもてなしも出来ないで。しかもあの騒ぎだ。みっともねーとこを見せちまった」
「いえ、気にしないでください」
「ルカワ村夫子(ツンフーズ)(村長)によろしく言ってくれ。 あの仔は大切に育てるよ」
「賜りました。またご縁がありますように」
 名馬を育て手放してくれた感謝と、旅の安全、そしてもうひとりはどうしたんだと いう訝しさとがない混ぜになった呉たちの見送りを受けて、仙道はひとり宿屋をあとにした。
「流川、いなくなっちゃったよ」
 手綱を引いたまま歩き出し、つい、そんなふうに赤兎(せきと) に語りかけた。
 赤兎と流川の愛馬、蚩尤(しゆう)。 二頭仲良く繋げられていたのだから、当然流川がひとりで出立するさまを見ていたであろう聡明な愛馬は、主人の落胆ぶり に歯を鳴らして哂い、その後凄むような視線を向けてきた。
 代わりにヤキを入れてくれるつもりなのか。仙道は赤兎の首筋を撫でて小さく笑った。
「おまえ、気づいてたんならひと声啼いてくれればよかったのに」
 とは無理難題を押し付けた愚痴でしかない。赤兎は知るもんかとばかりに首を振る。ついでに必要以上に前脚を 高く上げ、気が臥せっているなら、早く乗れ。爽快にぶっ飛ばしてやると誘っているようだった。
「そんなに慌てなくていい。一日しか休んでいないんだから、無理はさせられない。それに言っとくけど、流川を 見つけたからって勝手に蹴り入れるんじゃないぞ。絶対に手出しするな。オレが先に啼かすんだからな」
 赤兎は躰を大きく震わせ、ヒヒンと高く啼く。本当に受け答えをしてくれているなんて、飼い主の欲目でしかないけれど、 それでも流川と接しているとき以上につうじるものがあるのだから、少しは赤兎を見習えと言いたい。
 裏通りを出て、途端に差し込む陽光の量が増え仙道は目の辺りを覆った。陽春の穏やかさを一杯に浴びて、躰の中の澱を 洗い流すように目抜き通りをひとしきり闊歩。まず古着屋を探した。丸い黒眼鏡や爪皮帽など目当てのものを買い 求めると、六哈台を出て、あとは一気に南東を目指す。
 一旦城市を出てしまうと、馬にとって条件のいいとは言えない悪路が続く。轍で踏み固められた街道は至るところで デコボコと隆起し、駆けるのには困難な道だった。けれどその合間を縫うように赤兎は地面を蹴り、脚並はやたらと 快調だ。
 間違いなく流川は『白髪鬼』を知っている。また過激な連中から命を狙われていることも。そしてなによりも、敵もそのこと に気づいている。カイゼル髭たちは流川に対しての懸念と動向に注視するだろう。あさも早くから勝手に飛び出して、 まるで見張ってください。ついてきて下さいと言わんばかりの行動だ。
 深夜――というよりも騒ぎの収まった明け方近く、墜落的に睡魔に襲われた流川を叩き起こしてでも喚起を促すべき だったのだ。あれほど呆気なく襲撃者たちが立ち去ったわけは、おまえにあると頭に叩き込めばよかった。
 まさかあんな短時間で目覚めるなんて、ふだんの流川を知っていれば考えもしない。
 それでもヤツは黙って飛び出しただろうか。そうなると己の存在価値が奈辺にあるのかと、覚束なくなる。
「あの大バカもんが」
 行き先は十中八九、奉天。流川と馬賊とのつながりはあの街にしかないはずだ。カイゼル髭たちはその跡を追っているだろうか。 その攻撃性に反していささか防御の疎かな男でも、尾行がついていることに気づかないほどお気楽でもないことを祈る しかない。
 時間的な遅れは数時間ほど。ただ大都市奉天の人ごみの中から、流川ひとりを探し出せると思うほど仙道は楽観的ではない。 あの街に駐留していて、貧民街の煩雑さと、地下に潜る抗日組織の数の多さは実感している。闇雲に探し回っても徒労に 終わるだけだ。
――だから。
「だからって言って、こんなところにオレを呼び出すか、この節操ナシ」
 そう言って小言と苦言を口にしたのは、元同僚の神宗一郎だった。



 ところは奉天柳町。関東軍満蒙対策軍令部と目と鼻の先にある一軒のバー。ここはかつて牧が懇意にしていた店で、 彼の配下にあったものなら誰でも知っている。もの静かに語り合うならうってつけの場所だった。
 奉天に到着したのが丁度夕暮れどきであったこともあり、仙道は実直そうな現地人に小銭を握らせてこのバーに 神を呼びつけた。モチロン六哈台で買い求めた変装キットを使ってかなりご満悦で満人になりきったていたのだが、 彼からは不評の声しか上がらない。
「しかも意味のない変装だし」
「似合ってないか?」
「そんな問題じゃないだろう」
 カウンターテーブルを人差し指でコツコツ叩いて神は小さく凄んだ。
 なにを着せても嫌味なくらい似合う男なのだが論点がズレている。ひとの機微と動向には聡いくせにどこか要所を 外したもの言いは健在のようだ。
 軍籍を離れて一年近く。仙道はどう思っているのか知らないが、長年染み付いた軍人としての姿勢のよさやきな臭さは 簡単に洗い流せるものではない。ましてや彼は西洋人かと見紛うばかりの偉丈夫だ。そうお目にかかれる体型ではない。
 裾の長い長袍を隙なく着こなし、爪皮帽でトレードマークのツンツン頭を隠し、眼鏡で顔貌は分からないと本人は 信じているのだろうが、知らないものが見れば胡散臭い諜報部員。知ってるものなら、仙道彰の変装だと隠しようがないのだ。
「余計に怪しいんだよ」
「別にオレは脱走兵ってわけでもないんだから、軍に見つかってところで痛くも痒くもないんだけど」
「にしてもだ。おまえは怪我が元で内地へ後送されたんだろ。故郷で動かない躰を持て余して、盆栽でもいじってなきゃ ならないの」
「そんな余生はヤだなぁ。丈夫でよかった。あのときの執刀医に足を向けて寝られないな」
「ホント運のいいヤツ」
「なに怒ってんだ?」
「おまえじゃないんだよ。オレだ。おまえと会ってると知られると、オレが痛くもない腹を探られるんだってば」
 けして自分に向けられたのではない苛立ちを感じ取って仙道はビールグラスを一気に煽った。間が空いて、レコード針 で引っかいたような音色で、メロディーラインの綺麗なドイツ語の歌が耳に飛び込んでくる。厭になるくらいの恋歌だ。 所々しか理解できないが、ハスキーボイスの歌声で恋人と離れ離れになった心情を切々と歌われた日にゃ、気が滅入って 悪酔いしそうだ。
 仙道と違って神は酒は好まない。頼んだままひと口だけつけた白ワインのグラスを持て遊びながら、正面を向いたままで 彼は仙道の言葉を待っていた。レコードに聞き入っているふうを見せ、なにがあったんだ、どういう風の吹き回しだと、 興味深々に水を向けてこないのが神らしい。
――生きて帰れたら再び会えるね。
――いとしいリリーマルレーン。
 女性歌手の歌は佳境に入っていた。
「牧さんがいなくなってかなりになるけど、部隊のみんなは元気にしてるのか」
 まずは前口上からきた。いかにも仙道らしいが、神の苛立ちの核心部分だ。仙道だって嘗ての古巣が気にならないわけ がない。
 豪放磊落だった上司のお陰で意味のない 鉄槌や加虐などから解放された部隊だった。ただひとつの強大な防波堤がなくなって、抗えない波が押し寄せていると容易に 察せられる。あのひとがいたお陰で、故郷を遠く離れた満目棲涼の曠野にあっても、思想と信念が目の前にあったのだ。
 時代がまだそれを許していただけかも知れないが。
 続く神の声はかすれていた。
「牧さんのシンパだったものは見事なくらいにバラバラにされたな。なんか、あのひとを満州に返したくない思惑が見て 取れる人事だった」
「だれの差し金だ」
「上層部、満場一致じゃないか。あのひとの『五族協和』なんか、いまの関東軍にとっては邪魔でしかない。『大和民族 単独』でいいんだよ。満州をだれにも渡す気なんかない」
 国土と国益の少ない日本にとって満州とは、先の日露戦争で十万の同胞の流血と二十億円の国幣を費やして手に入れた 土地だ。二百七十年続いた清王朝を倒したはいいが、統一はおろか内紛を繰り返し広大な国土は焦土と化した。そのために 侵攻という隙を与えた中国政府にも非がある。それが日本側の言い分。
 しかし、欧米列強により蹂躙されたアジア諸国の現状を見て、国力が弱まれば食い物にされるという犯しがたい実態から、 侵略し続けていかなければ中国の二の舞になるという怯えがあったことも事実だろう。
 だから『協和』による満州は切欠であればよかったのだ。あとは勝手にひとり歩きを始める。立案者の思惑を大きく 離れて。
 神はもう一度、おまえは運がいいと呟いた。
「いまのオレたちの窮状を憂いに来たわけじゃないだろう。心配してくれたところで蚊帳の外なんだから。さっさと用件 に入ってくれ」
 彼は珍しく、そう仙道をせっついた。



「抗日馬賊の大頭目に『白髪鬼』と呼ばれた男がいたことを知ってるか」
 レコードが代わって、むせび啼くシャンソン歌手の呼吸の合間を縫うように仙道は、真横の神から視線を外したままで そう告げた。神は少しも減らないグラスの中身を零れるギリギリの位置で傾け、その波紋を楽しんだあと、 (シー)と小さく頷いた。
「二十年も前に名を馳せた大頭目だな。全満を掌握していたらしけど、かなりの高齢で、引退したか死んだんだろうって 言われてる。十年ほど前に何度か存在を確認されているらしいけど、それっきり表舞台には出てないと思う」
「ふうん。二十年前っていやぁ、馬賊は馬賊だよな」
「あ? あぁ。抗日という意味合いよりも、匪賊や流賊対策の自衛集団ってこと? そうでもないよ。日露戦争からこっち、 主義主張が入り混じって紆余曲折してたんじゃないかな」
 日露戦争終結が1905年。中国では、孫文らの革命勢力が清朝打倒活動を広げ、辛亥革命が起こったのが1911年。 南京に中華民国が樹立し、北京の最後の皇帝溥儀(宣統帝)が正式に退位したのが1912年。このとき清は完全に滅亡した。 その後、1928年の北伐完了までは、中国全土に軍閥が割拠する時代だったのだ。
「その大頭目が上海の組織から命を狙われる理由が分かるか?」
「上海って、青幇(チンパン)? それとも藍衣社?」
「分からない。けど、たぶん、軍関係」
 青幇とは上海で阿片の取引や売春宿の経営にも乗り出している非合法組織だ。上海の闇を仕切っていると言われている。 そして藍衣社とは、割拠した軍閥のひとり、南京国民政府(国民党)の国家主席となった蒋介石の特務機関だ。結成当時は 上海に拠点が置かれ、事変後は重慶に本拠を移した藍衣社――軍事委員会調査統計局――の主だった活動は、反国民政府 運動に対する謀略や秘密工作だといわれている。
 ただ、あの日の襲撃に際して腕に覚えのある手のものと、日雇いみたいな捨て駒とを混ぜて非情な引き際を 見せた男たちだ。馬賊同士の小競り合いじゃない。そして、必要以上の殺戮を避けていた点からいっても、マフィアの 仕業でもないと感じていた。彼らならもっと――そう、口が利けるひとりだけを残して無残な屍を晒していただろう。
「おまえ、奉天に赴任する前は上海だったろう。詳しいかなって思って」
「藍衣社ね。『白髪鬼』と藍衣社か――」
 なにかに思い当たったように、神はワイングラスをテーブルに置いた。
「藍衣社の上海支局長に戴笠(タイリュウ)って男がいる。その 大物が数年前になにものかによって襲撃されて半死半生の目に合ったことがあるんだ」
「タイリュウ、か。どこかで聞いた覚えがあるな。で、そいつと『白髪鬼』との間になにがあった?」
 神の姿勢のいい上背が肩から力が抜けたように崩れた。あからさまな嘆息を間近で聞くのも久し振りだ。
「おまえ、イチオウ関東軍に籍を置いてたんなら、そんな他人事みたいなこと言うなよ。上海を知らないものだって、 戴笠くらい知ってるぞ」
「だから聞いたことがあるって言ってるじゃないか」
「ほんとに視野が広いんだか、狭いんだか」
 神はほとんど顔をしかめながら、ほんの少しワイングラスを傾けた。関東軍高級参謀の置き土産。年代ものの一級品 なのに、酢を飲んだようなとは、まさにこういう状態。もったいないからおまえは呑むなと言ってやりたかった。
「で?」
「あぁ、馬賊と無法者による抗争だからな。首謀者は分からないし、その後どう決着を見たのかもオレたちには与り 知らないところだけど、そのもっと前だから十年以上になるのかな。高齢のため上海で療養中の親日家の長老が、 藍衣社の手によって暗殺されるという事件があったらしい。日本軍が蒋介石と張り合える現地人ってことで目をつけて いた人物だ。その長老を旗頭にして、抗日の目を逸らそうって算段だったみたいだね。それに親日家っていっても、 元馬賊の大頭目で、大層な思想はなかったんだろう。ただ、内紛する現状を憂いていた。けれど、現地人にすれば日本に 尻尾を振る立派な漢奸だ」
「その仇討ちに、タイリュウってヤツを狙った? 『白髪鬼』が?」
「だれもそこまで調べてないさ。関係ないから。ただ、その長老、『白狼将軍』って呼ばれてたらしいんだけど、 『白髪鬼』の一代前の大頭目だったことは事実だ」
 なるほどと仙道は唸った。五年だの十年だのとえらくスパンの長い仇討ちだ。消息が掴めなかったというのもひとつの 原因。そしてなによりも地盤が揺らいでそれどころでなかったというのが最たる理由だろう。
「『白狼将軍』は親日家って言ったよな。でも『白髪鬼』は――」
「そう。抗日馬賊の大頭目だな」
「立場が正反対なのに、危険を冒してまで、しかも相手は藍衣社の超大物だ。仇、討っちゃうわけか」
「仁義に厚いんだろうね」
 任侠だね、博徒だねと神はワインを舐める。その辺りが理解出来ないという感覚はふたりともに共通していた。例えば 牧と主義主張を異にしていたさる大物軍人の、仇を討とうという気なんて、どう逆さに振っても沸いてこない。
「『白髪鬼』が奉天にいたという情報は?」
「掴んでない。いたのか?」
 逆に神は尋ねてきた。
「たぶんな。じゃ、奉天にある抗日馬賊の潜伏場所ならどうだ?」
「そんなもん、分かってたらとっくの昔に一掃してるさ」
「使えないな」
「おまえが身を置いていた組織だよ。それに我々は抗日馬賊の動向を探るために駐留してるんじゃない。敵は正規軍だ」
 神が笑い仙道は目の高さまでビールグラスを上げた。
 そう。本来は軍隊内の規律と秩序を守るための内部浄化。けれどいまはその苛烈な職務を、関東軍に刃向かうもの総てに向けて いる組織があるじゃないかと神は言っている。抗日馬賊の動向なら軍よりも彼らの方がよほど精通しているだろう。
 仙道の脳裏に切れ者とウワサされる大尉の顔が過ぎった。ノコノコ出かけて行ってお聞きするなんてとんでもない。 彼らから逃げ回らなければならない立場なのだ。
「憲兵に見つかったら、それこそ強制送還されちまう」
 そりゃそうだ、と神はニッコリ笑った。本当なら故郷で盆栽をいじってなきゃならないのだから、それを容認したという ことで、牧にも類が及ぶ。
 居場所はともかく『白髪鬼』がらみの話は聞けた。助かったよと腰を上げた仙道に神はさらりと問うた。
「おまえ、いま、どこでなにやってんの?」
「トップシークレット」
「ちぇ、聞くだけ聞いて自分はダンマリかよ」
「ダンマリって決め込むほどのことはなにもしてないんだ。実は」
「軍に戻る気はないのかな?」
「うん」
 仙道は素直に頷いた。牧さんが帰って来ても、と神は呟く。帰って来ないと言ったのは彼の方だ。壮大な理念を掲げて 湖に放り投げた石ころ。思いもよらない波紋を刻み、投げた本人ですら収束できないものに育ってしまった。その湖すら 越えてしまったかも知れない。
 あとは黙ったままふたり揃って店を出た。
 春先の夜風はまだ冷たい。神はコートの襟を立てて背中を見せた。片手を上げて立ち去ってゆくその背を、仙道は しばらく見送った。






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