月に乗じ
て
〜さん
物音よりもなによりも、そこここに充満する滾った気に、先に反応を見せたのは流川。
一拍遅れて仙道が気づく。
闇を裂いて獣が嘶くように軋む蝶番。位置からいってあれは裏扉が開かれた音だ。
階下ではまだ宴会が終わっていないのだろうか。興が乗って他の店に繰り出そうとでもしているのか。しかし、そんな悠長な
ものに、爆睡体勢に入っていた流川の五感が触れるはずがない。そしてなによりあれは、秘めやかに出てゆくというより、
懸命に気配を殺したなにものかが侵入する息遣いだ。
雑多に入り乱れた感情が横たわっていたとはいえ――尤も仙道側においてのみだけれど――久し振りのぬくもりを
腕に抱いて、朝、目覚めるまでの穏やかなひとときを、旅先という少し浮かれたシチュエーションで味わえるかと
思っていたのに。いまはまったき純朴な酪農家業。青天白日な無辜のいち市民に対して、これはいったいなんの因果か。
だれがこんな夜更けに不法侵入しようとしているのかは知らないが、どうせ行動を起こすならもう一日待ってくれても
罰は当たらないだろうに、とは仙道の感想。流川にすれば、後だろうが前だろうが一日先だろうが、自分たちの周囲で
なにかを脅かす存在が息を潜めているのだ。蠱惑モードは一切斬り捨てている。
片や当然のように、此方渋々肩を竦めて、ふたりは心地よいまどろみから引き離された。
続いて階下から聞こえてきたのは室内のどこかの扉を蹴破るような物音。哀しいことに存在を思い切り鼓舞したような
登場の仕方だった。仙道が長い嘆息を吐くのも無理からぬこと。
なにせ、目抜きどおりから随分離れた場末といっても立派に経営の成り立っている宿屋だ。抜き足差し足で忍び込んでの、
金品目当ての単なる物取りでありますように、と願わないでもなかったが、事態はそう甘くないようだ。尤も、宿泊客の
旅嚢まで狙う輩なら、どちらにせよ、こんなふうに絡み合ってもいられない。
仙道の胸の辺りに顔を埋め、空気の振動すら感知しようと張り詰める流川がその躰を突っぱね、起き上がろうとした。
それをまだ動くなと片手で制した彼は、寝床を抜け出し手早く衣服をつけてゆく。
建物自体が緊迫感でたわむ。雲の流れが切れて窓から伸びる月の光の揺らめきは、間合いを計るタイミングでしかない。
仙道は部屋の扉に耳を当てて階下の様子を探ろうとした。
「おまえは寝てな。オレが見てくるから――」
「――!」
そう制したのも束の間、壁になにかがぶち当たったような音がした。だれかの怒号。続く罵声。多方向からの沓音。
そしてなにかを打擲する厭な物音。尋常じゃないと扉を開けたとき、既にきっちり胡服を着込んだ流川が真横にいた。
「大丈夫なのか?」
「なにが?」
「いや、だから、おまえ――」
「大丈夫じゃねーのは下の方だろ」
流川は愛用のブローニング小型拳銃を既に抜いている。
今宵、先に水を向けたのが仙道であっても、互いが希んだ結果だから、躰を気遣って押し留めたところで彼は聞きは
しない。その手の配慮を口にしようものなら、軽蔑し切った視線を当てられるのがオチだ。不本意ながらも
流川の説得なんて、いまでも仙道の最も不得意とするところ。階下が気になる。時間も惜しい。ふたりはもつれるように
室外に飛び出した。
階段を下りた先、廊下はT字の形をなし、幾つもの小部屋の扉が行く手を遮る。喧騒の根源はそこを右に折れた辺り
――先ほど持て成しを受けた食堂だ。
罵声がさらに大きくなっている。細い廊下の曲がり角には六哈台の男がひとり、その先を伺っていた。
「なにがあったんだ」
憲兵かと仙道が小さく続けると、男は首を横に振って分からないと答えた。憲兵隊の臨検だったらなにをとっても
逃げ出さなくてはならない。ヤツらは中国人を人間として認めていない。ましてや抗日組織として逮捕されてしまえば、
取調べもなにもなく、残虐な拷問のうえ銃殺だ。では、巡警の手入れかと重ねても、男は違うと言う。
そうと聞けばほんの少し肩から力が抜けた。
過去はどうあれ、いま現在、自分たちはこの宿屋の招待客であり宿泊客だ。たとえ軍や巡警に踏み込まれたとしても、
後ろ暗いところがなにもないのだから堂々としていればいい。個人的な諍いやトラブルにならなおのこと。安眠と安穏を
割いてまで首を突っ込む必要もない。寝なおそうぜ、と踵を返す仙道の真横を流川はすり抜けようとした。
「流川?」
「確かめる」
「なにを? 大事じゃないなら、見て見ぬふりをした方がいいときだってあるんだ」
「そんなんじゃねー」
一種独特の野生のカンでいまの事態がそんなんじゃないのか、仙道の諌めに対してそんなんじゃないのか。相変わらず、
受け手に答えを丸投げしたような分かりにくさで、それでもきっぱりと言い切って、気だるさと眠気で寝食されている
はずの流川が、押し留めた仙道の手を振り切って前をゆく。
物見高さからの行動じゃないことだけは分かる。絶対的に言葉の足りない流川とここで押し問答する気の長さは
いまはなかった。ときと場合によってそれも楽しいのだけれど、頑固で依怙地。一度言い出したら聞かない流川が
確かめると言っているのだ。納得しないままに腕を取って押し留めでもすれば、キツイ一発が飛んでくるとは、
哀しいことに過去に何度も経験済みの事例だった。
肩をすくめた仙道もモーゼルミリタリーの撃鉄を起こし、細い廊下を進んだ。
折れた廊下のつきあたり、他に比べて広いスペースを持つ食堂の扉は半分開かれ、隙間からは灯りが漏れていた。
中には数人の男の気配。先ほど仙道たちが夕餉のもてなしを受けた喧騒とは打って変わり皆が息を詰めている。
綾絹を引き裂いたような野犬の咆哮。板張りの床が軋みを上げ、木製のなにかが蹴飛ばされたような物音が建物全体に
響き渡った。
そのときだ。
「言えっ。――はどこだ!」
「――し、――っ!」
「知らんはずがないだろう!」
突然の罵声に仙道は躰を低くして扉と蝶番の隙間から中を伺った。死角になってひとの影しか見えない。問い詰めた
声に続く返事はくぐもって半分以上聞き取れなかった。
だれかがだれかを探している。言葉の調子は追い詰められた切迫感がある。けれどそれだけではない妙な違和感。
なんだろうと探る暇は大攬把の呉から発せられた大声で遮られた。
「そんなものはここにはいない!」
「隠し立てをすると為にならんぞっ!」
ガツンと、恐らく吭拉
(牛革の長靴)の底で蹴り上げられでもしたか、様子を伺っていた扉との隙間に、仰向けに倒れ込んだ呉の姿が
過ぎった。さらに問い詰める声は複数だ。
いったいだれがだれを探しているのか。部外者である自分たちが首を突っ込めば、
話は余計にややこしくなるに決まっている。けれど流川の場合、現状とひととしての義侠心との折り合いに耐え性が
ないというより、貴重な米粥と温かい寝床を用意してくれた彼らが殴られ一方では、黙っていられるほど冷淡でも
聞き分けがいいわけでもなかった。
いまにも飛び出しそうに逸る流川を取りあえず制する。彼らの窮状を黙って見ているつもりはないが、ただ判断材料が
少なすぎるのだ。六哈台の連中にしても、個人的な問題に、闇雲に関与して欲しくはないだろう
尤も仙道だって、これ以上、一方的な狼藉が続くようであれば、状況判断云々は無視して飛び出すつもりだ。
「ひと違いだ!」
「ではどこだ! この宿に長逗留していたとの情報を我々は掴んだ。ここを出てどこへ行ったっ。言え!」
「知らん!」
「嘘をつくな!」
「当家っ」
ゴキっとなにかがひしゃげる音がした。銃の台尻で打擲されたような音だ。止める仙道を振り切って流川が部屋に
飛び込んだ。
「てめー!」
「このバカっ」
敵の数は五。入り口に背を向ける格好で、三人の男が六哈台の者を背後から拘束していた。丸坊主の四人目は総てを
睥睨するように銃を構えて腰を落としている。そして壁に背を預けた余裕の様相の、カイゼル髭の男が首魁格なのだろうか。
「なにものだ!」
弾かれたように――その同じ数の銃口が一斉に向けられたが、撃鉄を起こす音ひとつ、硝煙の匂いひとつ、起こらなかった
なんてただの奇跡だ。流川の動きの素早さに敵の反応が遅れただけ。だからと言って、ひとを助けようとして自分を標的に
してどうするんだ。直情径行の大バカもん。
けれど。
いくら見境なしの流川でも、この至近距離で蜂の巣にされないという自信はいったいどこから
沸いてくるのか。一度深く沈み込んだまま床に手をつき、跳ね上がりざまにつま先を頭上よりも高く上げ、まず、十日間の
道程を一緒に駆けた程を盾にしている敵の手から銃を蹴り落とした足技か。その足を地につけることなく高速で半回転
させ、隙の出来た別の敵を戦闘不能にさせる己が少林拳への絶対的な信頼からか。
そしてその流れるような一連の動きに虚をつかれた他の男たちを、仙道なら制してくれるという信頼からか。
もしかしたら単純に五人ならなんとかなるという、根拠のないただの楽観かも知れない。
こいつならあり得る。
けれど流川は一瞬のうちにふたりを昏倒させ、銃を構えた丸坊主の男を牽制している。さっきまで寝入っていた
くせに攻撃力だけは情け容赦がないし、どんな状態だってキレがある。その動きを見て残る
ふたりに銃を突きつけてしまった仙道も、ほとんど条件反射のようなもの。
これはもう、成り行きだ。
動ける敵はこれで三。それでも羽交い絞めされている六哈台のもうひとりは彼らの手にある。仙道の銃はそれまでなんの
手出しもしていなかったカイゼル髭の男の眉間を狙っていた。そのまま目端だけで足元を見れば、形相を変えさせられた
大攬把の呉が血だまりの中で倒れていた。流川でなくても脳漿が沸騰しそうになる。それでも冷静でいられたのは、
奇襲をかけ先の先を制し、まだ三人の敵を残した彼を諌めなくてはならない立場からだ。
均衡状態が続いた。だれもが息を詰める。そんな状態で、仙道に眉間を狙われた男が、静かに口を開いた。
「おまえたちはなにものだ」
その問いに答えたのは程だった。
「このひとたちは客人だ。なんの関係もないっ!」
「関係ないならなぜしゃしゃり出るっ」
「あんたらがこんな夜更けに無体を働くからだろう!」
騒ぎを起こしてすみません、と程はふたりに謝った。謝りながらも、
その目は困惑に塗れている。ほらな。ありがた迷惑だったんだと、仙道は首をすくめるが、ふつうにその場の雰囲気を
察せられる性質なら、こんな修羅場に飛び出す愚行は起こさない。
こんなの、命がいくらあっても足りないじゃないか。
「なんでもないですから、お客さんたちも引き上げてください。あまり煩くすると隣近所から巡警に通報されます。
このお詫びは、あす、させていただきますから」
こっちに謝りあっちを牽制し、程の顔色は、倒れこんだまま身動き出来ない呉を目端で捉えて蒼白だった。
巡警の部分はタイミングよく闖入者たちに動揺を与えたようだ。流川に倒された男に腕を捻り上げられていたもうひとりが、
ようやく自分の解放に気づいたのか、もつれる足で呉の元へ駆け寄った。
「当家っ。大丈夫ですか!」
したたかに口の中を切ったのか、脳震盪でも起こしたのか、呉からはその返事はない。緊迫感が一気に解け、六哈台の
ものたちがひとりふたりと呉の元へ集った。
だれかが呉を抱きかかえ、水の椀を口に当てた。他のだれかが薬箱を取りに走る慌しさの中、それでも首魁格の
カイゼル髭は仙道の牽制をもろともせずに、意識を取り戻しつつある呉に向って言葉を投げつけた。
「もう一度聞く。安西はどこだ」
「――」
流川と仙道は少しズレているものの、入り口近くで背中合わせの位置にいた。もちろん顔は見えない。見えないながらも
仙道にとって耳慣れないその名前に、さらに気を張詰めるという反応を流川が示したことを感じ取っていた。
カイゼル髭の意識がなにかを感じ取ったのか流川に移る。そして呉へと、男は視線を行き来させていた。
「安西で分からなければ『白髪鬼』か。貴様たちがなんと呼んでいたか知らんが、我々はあの男に借りがある」
「白、髪鬼――」
まだ意識を朦朧とさせながらも、血だまりの中で呉が呻いた。顔面を緋色に染めながらも片手で上体を持ち上げ、
敵を射殺さんばかりに睨みつけている。一度口に中の血を吐き出して、呉はいま一度顔を上げた。
「『白髪鬼』、とは、我々馬賊にとって、伝説的な、総攬把の、名だ」
「左様。知らぬなどとはありえない。一時期行方不明だった男が、二年ほど前か、この街に姿を現した。そしてこの宿に
出入りしている姿を何度も目撃されている。なんと名乗っていたかは知らん。容貌も嘗ての面影を残していないだろうし、
己が前身を誇示するとも思えん。だが、第一線から身を引いたとはいえ、全満の緑林(馬賊)
がその回生を渇望した男だ。我々が情報を掴んだように、完全に野に埋もれてしまえるものではない。その消息が
この街を最後にプツリと途絶えている」
「『白髪鬼』に借りがあると言ったな」
呉は傲然と顔を上げる。
「多大な借りがな。我々は他人との間に貸し借りは一切つくらない」
「何度も言うが、『白髪鬼』にはお目にかかったことはないし、ここには長逗留の客も少なくない。貴様らの情報どおり、
その中のひとりに『白髪鬼』が混じっていたとしたら、我々にすれば光栄なことだ。たとえ心当たりがあったとしても、
全満の英雄に仇なすものたちにあっさりとその身を売る腰抜けだとでも思ったか。この漢奸(売国奴)がっ!」
「貴様! 言わせておけば!」
瞬時に――カイゼル髭はいきり立つ仲間を片手で制して笑った。呉の義侠心に感じ入っているとも軽蔑仕切っている
とも取れる不可解な笑みだった。
「ここで主義主張を論じあっても埒がないが、あの男の行く先を知っていてシラを切るなら我々にも考えがある。
生憎、執拗に出来ていてな。第二、第三の襲撃も覚悟しておけ。おまえの配下たちがひとりふたりと消え、惨たらしい
死体を晒すことになるかもしれん」
その言葉を受けて流川の殺気が漲った。しかし、呉たちから情報を引き出すと共にこの男、どうやら言葉で煽って
流川の反応を見て取ろうとする節がある。この場においてだれが一番殺傷能力が高いかは火を見るよりも明らかだが、
それ以上のなにかを察しているのかと勘ぐらないでもなかった。
流川にもカイゼル髭の言葉どおりでない意図を感じ取って躊躇いが出る。男は周囲の突き刺すような視線を受け止めて
クツクツと哂った。
今宵はどうも分が悪いようだ、と男が顎を上げると丸坊主が椅子を掴んで窓に向って投げつけた。玻璃の砕け散った
そこから、敵のひとりが外へ身を投げた。丸坊主がそれに続き、だが、慌てた様子がひとつもないカイゼル髭は、
流川を指差して、さも楽しそうに口の端を上げた。
「ひとつ忠告しておいてやる。己が能力を、これ見よがしにひけらかすのは得策ではない」
「なに?」
「待てっ!」
捨て科白を残し男も仲間に続いて戸外へ飛び出した。程が慌てて壊された窓枠へ寄るが、姿はおろかその気配すら
ない。程は視線を室内に戻して、その場に胡坐を組んだ呉と、敵の置き土産とを見比べている。
昏倒してしまっている仲間たちは、捕らえられようが尋問を受けようが、大して害はないと踏んだか、ただ単に
使えないものとして見捨てたのか、哀れなものだった。
「おい、コイツら、空いてる部屋にでも閉じ込めておけ」
呉は吐き捨てるように命を出すと、その場で治療を受け始めた。流川は敵が壊して逃げた窓を仇のように睨みつけた
まま立ち尽くしている。そして、流川へ向って投げられたカイゼル髭の最後の言葉に、その意味ではなく、ただの言葉として、
仙道の中でわだかまっていた違和感がつながった。
そう。あれは上海訛りだ。
その正体に気づき呉の元へと向おうとしていた足を仙道は止めた。男たちから発せられた言葉の訛りは生粋の満人のもの
ではない。公用語を使っていても独特の癖のあるイントネーション。あれは、そう。何度か行ったことのある蘇州辺り
のものだ。
上海。
複雑に入り混じった政治的背景。
なぜ上海のものがと、仙道は眉根を寄せ、窓枠に視線を当てたまま動こうとしない流川を見た。
その流川が。
翌日、仙道が目覚めたときには忽然と姿を消していた。
continue
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