月に乗じ
て
〜に
「おまえ、結構気が利くじゃん」
六哈台の連中の感謝の意の表れだろう。その日ふたりに用意された宿屋の一室は、隙間風の入らないしっかりとした
つくりの窓枠と、鉄パイプで組まれた洋式ベッド。暖房器具で暖められた室内に、柔らかい布団という極上のものだ。
休んだ気がしない強行軍とはまさにこのことだった。運がよければどうにか宿屋。なければ民家の馬房を借り、
最悪野宿を強いられてきた身にとって、思わず両手を合わせてしまうほどありがたかった。
顔には出ないが、流川もやはり嬉しかったのだろう。気分が悪いなんて心配させておきながら、スプリングの効いた
ベッドに子供のように大の字の形でダイブして、一度ピローに沈めた顔を戻してから言葉が返った。
「なんのことだ」
「さっき、オレが困ってたから助け舟を出してくれたんだろ」
「眠かっただけ。いつまでたっても終わりそうになかった」
「素直じゃねーな。ま、そういうことにしといてやる」
流川の、ときと場所を選ばない爆睡体質は、近頃さらにレベルアップしている。農作業の最中、鍬や鋤は傾く躰の支え
になるみたいだし、また、手足を動かせていても意識を飛ばしていることもしばし。恐らく唯一安心していられるのは、
馬速を上げて疾走しているときだけというのだから、まったくもって危なっかしい。
そんな少年が、部屋が用意されているならそこで寝るに越したことはない、なんて口を尖らせても、説得力がない。
妨げになったのは酔っ払いたちが立てる喧騒や、室内にこもる紫煙だけではなかったのだ。
ほんのたまに、こういうことをさり気なくやってのけるから、流川の傍はたまらない。
カラになった腕が淋しくて彼を追ってベットの端に腰をかけた。指でサラサラの黒髪をすきながら、出立前の孫に
対し痛ましげに視線を絞っていた村夫子(村長)
を思う。流川の祖父が口に出来なかったであろう問いかけを、投げかける役目はきっと自分にある。
流川が本気で寝入る前の僅かな時間。ひとときも無駄に出来ないのだから、いつだって忙しない。
「オレさ。満州に赴任が決まって初めて足を踏み入れた場所が奉天なんだよ」
「ふうん」
「砂漠の中に都会があるって思ったな。地平線の真横に街があるんだ。日本じゃ考えられない。珍しがってたオレを
牧さんが一度だけソビエトとの国境線近くまで連れてってくれてさ。岩肌が粗くてゴツゴツしてて、同じ砂漠でも、
ちょっと北へ行くだけでまったく様相が違って、ビックリした覚えがある」
「……」
「その国境線を睨んで、ここからソビエトに繋がってるって牧さんは言った。だからここを守り通さねばならないって
いうのがあのひとの持論だ」
「だから?」
「いま牧さんは大佐に昇進して、スイスで行われてる国連会議に紛糾ってとこかな。満州における日本の立場
をそんなバカみたいな遠い土地で、他国の説得に回ってるんだって。ご苦労なことだよ。
だいたいさ、五族協和って壮大な理念を地球の裏側でどう伝えられるんだ。そう思わない?」
「ウザってぇ言い方はヤメロ。はっきり言えよ。わけ分かんね」
その言い分は尤もだけど、なにか説得するときや言葉を引き出したいとき仙道は、まず外堀から埋めるようなアプローチ
を取る。流川のように一撃で核心を抉ったりすることは、まずない。
凍える心配のない温かい部屋で、十日ぶりに手に出来る柔らかな温もりに包まれたこんな状況でも、だ。言葉遊びを
駆使する周りくどさを流川が心底嫌がっていると知っていても、仙道にとっては、もう習い性のようなものだ。
眠気の勝った流川の背から発せられる殺気は肌が粟立つほど、壮絶だ。
「おまえ、奉天の様子、気にならないか」
「なんで、んなことを聞く」
半分ピローに埋まった口からはそんなくぐもった声が聞こえた。関係ないのひとことで遮断されるかと思っていたが、
彼は彼なりに祖父が課したその意味を探ろうとしていたに違いない。
「本来ならルカワの村で程さんに仔馬を渡した段階で取引は終了してるんだ。オレたちふたりが護衛につく必要もない。
護衛を出さなきゃならないのは買い手の六哈台の連中の方だろ。なのに翁はオレたちを名指しした。通遼近くのこの街まで
ついて行ってやれって」
流川と仙道が出会った奉天はここから南東の位置にある。馬を走らせれば二日ほどで届く距離だ。流川は奉天に根を張る
抗日組織の一員だった。仙道は関東軍将校としてそこに駐留していた。そしてふたり、関東軍の熱河省侵攻の突端とも
いえるあの戦いに身を投じた。
軍内部の足並みが乱れたという最大の要因もあったが、結果、関東軍の足を止め、僅かな手勢でそれは大勝と評価される
べきだが、自らの銃で仙道をも射抜いたあの後、流川と仲間たちの間にどんな軋轢が生じたか。彼の口からなにも語られ
ない。想像の範囲に過ぎないが、規律と作戦を度外視したようなひとり相撲で、敵どころか味方をも混乱に落とし入れた
と言ってもいいのではないだろうか。
居たたまれなくなったのか、自分から身を引いたのか、それとも弾かれたか。
仙道が知りえたことは村夫子にも話してある。ルカワ村に身を置いて一年。少し時間を費やして、彼の中では奉天に
いた仲間たちはどう映っているのか。
村夫子は買い付けに訪れた男が通遼近くの街の出身と知って、こんな機会を与えたのだろう。
「奉天には一年、いただけだ」
「一年も、だろ。身内がいるわけでもない。おまえの場合、その仲間たちの抗日の熱意に感じ入ったとも思えない。
厭ならとっとと逃げ出すさ」
「藤真の、命令だったから」
「命令なら尚更だな。いくら藤真さんでも聞かなきゃならない枷じゃない」
「アイツは強引だ」
「知ってるよ。案外苛烈だしね。けど健気に命令を守ってるタマでもないだろ」
「はっきり言えっつった。あんた、オレになにを言わせたいんだ?」
「おまえの中で昇華し切ってるならいい。けど、ちょっとでも気がかりがあるんなら、近くに行くんだから、寄ればいい
って翁は言いたかったんじゃないのか?」
「おーきなお世話」
仙道は流川の躰の両端に手をついてかがみ込むと、晒した方の頬にひとつ口づけを落とした。
「翁のゆっくりして来いって、そういう意味だよ」
「別に、いー」
「彼らの無事は確かめなくっていいのか?」
「確率の問題だ。あれから何回戦争に駆りだされたか。その回数で無事の度合いも変わる」
離れてしまっては無事を祈ることすら叶わない。間近にいてこそ口に出来る言葉なのだ。
「そうだな。でもさ、おまえにとって奉天の仲間ってどんな位置を占めてたんだろう?」
流川にとって。そして彼らにとって。
なにかを吐き出すように流川の背が大きく上下した。半分閉じられた瞼はそのままに、けれどピローの上に投げ出された
両手がシーツに皺を刻んでいる。仙道は拳の形に丸まった手の上に自分のそれを添えた。
「……」
「どう思ってた?」
「……てんでバラバラで、口より先に手が出るヤツばっか。しょっちゅう喧嘩してた。顔が腫れ上がるくらいに殴られたの、
初めてだ。すぐに殴り返したけど」
「へぇ」
「気づいたら、メシ、横からかっ攫われたり」
「そりゃ死活問題だな」
「わけ分かんねーいちゃもんつけてくるヤツとか、すぐに説教垂れるひととか、口煩せーひととか、目つきの悪りぃ
ひととか。煩くって、ガミガミ言われて、ゆっくり昼寝もしてらんねー」
「そっか」
仙道はさらに密着度合いをまして、囁きかけるような声を出した。
「聞き方変えるよ、流川。彼らに会いたいと思わないのか?」
「会いたくねーのはアイツら」
「だれか、傷つけた?」
「あんたに関係ねー」
一年経つと傷口はすでに塞がり、その傷を分かって抉っても、言葉として吐き出した分、流川は握りこんでいたシーツ
から力を抜くだけだ。たぶん先にあるのは諦め。仲間たちひとりひとりについて語られた言葉が、彼らしくない郷愁を
帯びていたことからも分かる。
けれど、例えばだれかに仙道のことを話すとき、流川はあんなさざ波立った感情を吐露してくれるだろうか。いま会える
会えないは別にして、共に過ごした年数はほとんど変わらないのだけれど、仙道に対してチラリと見せるものとは
種類の違う感情に対して、躰の繋がりがない分、目を細めてしまうくらいに純粋だったりする。
恋情はときとして、その他の愛情にとてつもなく大敗してしまうことがあるのだ。
カーテンの隙間から僅かにのぞく月の光に照らされ、いまは置物のように微動だにしない流川の視線が何処を見ている
のか。何処に流れてゆくのか。踏み込めない領域に仙道は溜息を落とすしかなかった。
話は終わったのかとばかりに流川は重たそうな瞼を落としてゆく。仙道の嘆息のわけなど知る由もない。
その深さを埋めるために辿る指先はいつも執拗になる。流川においては、
見せる隙はほんの瞬く間で、この指が通り抜ける合間しか開いていない。拒絶は完全なる意識の失墜だ。
けれどひとの想いなんか一切斟酌しない少年の、閉じかける意識が小さく震えている。言葉で理解できないものを肌感覚
で感じ取ってしまえるのも流川だった。
「流川――」
耳朶を覆うように直接囁いた。熱を帯びた手で躰じゅうをまさぐり、顕わにしたうなじに舌を這わせると、あからさま
な溜息。
「邪魔くせー」
この言いようは境界線。構わず仙道は躰を押し付けた。うつ伏せの流川が躰を返すまで待っていたら、気遣いに
包まれた純情とやらを墓の中まで持っていかなければならない。そんな象の自己満足なんか、仙道は知らなかった。
「そういうこと言うもんじゃない」
「眠みぃんだよ」
「アレ? 気分が悪いんじゃなかったのか?」
「どっちでもいいだろ」
「よくねー。おまえ、すぐに忘れるからな」
「なにを?」
「オレを好きだってこと」
頬から顎のラインに沿って舌先で辿ると、まどろみがいっそう深くなるのか、流川の全身から力が
抜けてゆく。そのまま背中から腕にかけて手を滑らせても、返る反応に確かなものはなにもない。そう言えば、
この段階のこの状態で諦めていたときもあったな、と仙道はクスクスと笑みを零した。
敷布と流川の躰の合間に手を差し込んで、腰の辺りから上着をはぐって地肌に侵入を果たす。躰の重みで辿る指は思う
ように進めないのだけれど、ベッドのスプリングを利用して仙道の指は上へ上へと伸びていった。指に弾く小さな尖り。
柔らかい耳朶を唇ではさみ、形を成してきた尖りをふたつの指でもて遊べば、流川の喉がくぅと鳴った。
唇が恋しいと素直に口にする。閉じた瞼は開かない。けれどほんの少し顎が上がったその隙に肩に手を掛けて乱暴に
躰を返した。軋むスプリング。肌から立ち昇る甘やかな体臭。それが仙道のものと混じってふたりを包んでゆく。
非難の色濃い瞳がどうにかこじ開けられたのはすぐ後。一度剣呑さを増し、しかしその意に反するかのように両腕が
持ち上がってくるのだ。
ルカワの村を立って十日余り。あんなに間近にいながら、隣で寝息を聞きながら、抱きしめる腕すら、伸ばす指すら
叶わなかった。余人を介した場では、ほんの些細な触れあいすら流川は厭う。一番最初の痛みを伴った行為が薄れて、
互いに悦を拾えるようになったいまでは、閨の中では存外積極的な流川が、だ。
いつだってそのよく朝には、いっそ見事なくらいに甘やかさを切り離し、何事もなかったように硬質な鎧で接せられる
のは、もう慣れっこなのだけれど、
恥かしがっているなんて考え違いをしていたときもあった。流川の中ではきのうはきのう。きょうはきょうなんだと、
この頃ようやく割り切れたところ。
十日ぶりの口づけは、その余韻に浸る間もなく、離れていた期間を刻むように粘着質な音を立てだした。溢れる唾液を
呑み込んで、互いの口腔内を余すことなく蹂躙する。痺れるほどに絡み合った舌先が奥へ奥へと挑みあい、呼気のつく間も
忘れさせ、大きく酸素を取り込んで、肩で息をつくころには、お互い、一糸纏わぬ姿だった。
絹を思わせる流川の肌にひとつひとつ朱を刻んでゆく。鎖骨の下、腕の付け根、ポイントを避けて胸骨に添って、
わき腹の辺りをただただ彷徨った。あえかな吐息に艶っぽい色が混じり出し、忙しなく胸が上下する。朧な意識の下、
仙道を探し宙をかく両腕。その腕に絡めて欲しくて、仙道は上体を戻した。
「せ、ん――」
コクコクと脈打つ心音を聞きながら、流川の指が自分の髪に絡むに任せ、その音に吐息を返した。片膝を立てさせ中心に
ある流川の熱を確かめ、秘めやかなひとときが始まる。
絡む指先。挑む視線。喉を晒し背を反らせ、舌先で喘ぎを返し貪りあう。密着した躰が互いの汗でぬめり出し、温かい
はずの室温と空気密度が一気に上昇した。綺麗に洗濯された上掛けは、どちらの手ではぐられてベッド脇に落とされたのか。
泣き声を上げるスプリングを厭って、ふたり、落とされた上掛けの上に、転がるように倒れこんだ。
真白い肌に朱が走り、小刻みに揺れ震える淫らな肢体。指で舌で視線であますことなく辿り、まなうらに刻み込んで
情欲がさらに加速する。吐息ひとつ蠕動ひとつ取り逃がさないと流川の総てが絡みつく。日頃の素っ気なさからは
眩暈がするほどに蠱惑的だ。いつだって、そのギャップに飲み込まれないように、仙道をして耐えなければならない
瞬間だった。
降すか降されるかの瀬戸際。ここは互いの精神力が拮抗する場でもある。少しでも気を抜くと、簡単に気を持って
いかれる。受動能動に関わらず、愛撫がせめぎ合いへと変化していった。
呼気の合間に深く抉る。間を与えずたたみかける。ほんの少し仙道が勝って、流川の肢体が大きく跳ねた。
「――っ」
喘ぎをかみ殺すことによって、躰じゅうを走る戦慄がさらに欲深く刻み込むことを流川は知っている。漏れるのは
熟れた呼気だけで、押さえつけたものが、かえって五感を研ぎ澄ませ、凄まじいばかりの快楽となって全身を走りぬけ
るのだ。
「流川――」
貪欲さと気高さを併せ持つ彼の最奥を穿ち、悦楽を引きずり出し、何度も互いの名を呼んで総てで脈動を知って、
包みこむ熱い締め付けに互いがあっけなく昇りつめた。
「ん、っ――」
急速に昇りつめ、ふたり手織ったものはあえなく失墜してゆく。
言葉に出来ない想いがある。口にしてしまえば稚拙なものが、黙っていることによって象あるものに変化する
はずがない。けれど、なぜとかどうしてとか、問わないことにした。愛してると囁けばたぶんひとつの枷になる。それ
以上のものが手に出来なくなる。
これ以上欲してどうするのだろうと、まどろみに揺られながら、荒い息の整った流川に優しく口付けた。
仙道でしか顕わにならない流川がある。けれどそれも彼のほんの一部で、他のものみんなが知っていて、仙道だけが
知らない流川もあるのだ。
ひとつ躰を重ねてなにかを刻み、さらに重ねることによって別のなにかが失われる。男の性衝動は放った瞬間に
霧散され、行為の後に抱き合っても胸の中は空っぽだったりするから、どんな痴態で相手にのめり込んでも、
心の奥底にまでは入り込めないのだ。
なにかわだかまりを残して抱き合えば、必ずこんなざらついた虚脱感に襲われる。それでも彼を求めずにはいられない。
夜毎にそんな想いが強くなってきた。
これを貪欲と呼ぶのか。衝動ゆえのなし崩しと呼ぶのか。受動を取らざるをえない流川にしてみれば、もっと切実
だろうと思えば、敵は存外快楽に忠実だった。
名を呼んだ象のままの唇。彼にとって虚脱感は心地よいまどろみでしかないのか。半開きのそれはだらしない
でしかないのに、不意に爆発的な愛おしさを覚えて、仙道は何度も何度もついばんだ。
けれど――
手近にあった布で取りあえずの身繕いを整えた後だった。ふたりを包む気だるい空気の優しさが一変したのは。
continue
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