jack in the box
scene one







――思えば、あの夏のあの一瞬から少しずつ開き出したんだよな。
 オレの中の箱。
 いや、箱の中のオレか?
 自覚するには余りにも不確かな。
 けれど自分の中で確実に何かが芽生え、伸びをしたときにその拳が何かに当たった予感がしたんだ。



 再会は唐突だった。
 セミの鳴き声もかまびすしい夏の日の午後。
 ちょうど江の電の踏み切りを背に。
 逆光の中、アイツが突っ立っていた。
 インターハイ出場を目前に控え、チーム練習に余念がない筈の、誰もが認める神奈川ナンバーワンルーキーは、 少し離れていてもはっきりと分かるきつい目つきのままで近づいてきた。
 人違いである筈のない不穏な空気に、はじめあれっと思い、当たり前のように後ろを振り返り、改めて オレに対する敵愾心なんだと気づいて苦笑が漏れた。
 だってアイツ、いまにも討ち入りか押し込みに入りそうな抑えた殺気が立ち昇らせてたから。
「よお」
 片手を挙げてそれだけの挨拶を送ると、流石に傲岸不遜なルーキーも体育会系の血が流れている。口先 だけで、いかにも不本意だとばかりに挨拶を返した。
 他校の後輩が、わざわざ電車に乗って陵南エリアまで足を伸ばしたんだから、それ相当の覚悟と切羽詰った状況に 陥ったんだろう。それは理解できたが、その理由もまたどうしてオレの元へなのかは、黙りこくったまま睨みつけている 男からなんのアクションも起こらないから分かりようがない。オレは辛抱強くヤツの出方を待った。
 県立湘北高校一年、流川楓。
 インターハイ予選の注目を集めた男。
 神奈川の帝王、牧さんを唸らせた男。
 そしてオレたちから全国への切符をもぎ取っていった男。
 そのヤツの黒髪が浜風に煽られてさやさやと揺れている。
 どのくらいそうしていたのか。ヘラリと笑ったまま動こうとしない俺に業を煮やした流川はついと視線を逸らした。 なんだガンつけに来ただけかよ、とそんな考えが一瞬過ぎる。だが寡黙な男は、本当に思い立った行動を単語だけで 言い表した。
「あんたに」
「うん?」
「勝ってねーって、監督が」
「へぇ。安西先生がそう言ったんだ」
「だから」
「だから?」
「勝負しろい」
「いま?」
「ああ」
 そう言い残してスタスタと歩き出す流川をオレは追いかける形になる。勝負しろって、一体どこでとその背中に問いかける と、コイツ、地の利がないはずなのに鼻が利くのか、ストバスコートまで先導しやがった。詳しく聞けば、先に オレを訪ねて陵南の体育館へ行ったとか。その道すがらで見つけたらしい。
 駅から道に迷ったなとオレは笑った。だってこのコート。最短ルートでもなんでもなかったからだ。
 でもやっぱりコイツ鼻が利くんだ。それともリングに吸い寄せられるのかもしれない。
 コイツの両手から離れたボールみたいにさ。
 バスケの女神に愛でられし子は違うね。
 少し感心した。
 でも、よく分からん。
 そう思いながらも、肩を怒らせて威嚇する流川の背中に苦笑しつつ、そのままくるりと振り返り、オレだけを見据えた瞳の深さに 躊躇いつつ、そして瞬時に臨界に達したオフェンスの強さに舌打しつつ、その後俺たちはリングが見えなくなる まで互いのボールを奪い合った。
 なんだかんだと言ってもコイツとのマンツーは面白い。手の内にすっぽりと入り込むかと思えば、不意に 予想を裏切る。押しの強さを前面に、相手を破砕して突っ切る。突っ走る。根っからのフォワード体質だ。 それに、これほどのレベルを誇りながら、未だに発展途上。どこまで伸びるのか見当もつかねえ。
 ピタリとボールが手に吸い付く。かと思えば指先の僅かな動きで軌道を変えやがる。重力を感じさせない 空中でのタメは、全身の筋肉の総結集だ。見習おうと思っても出来るシロモンじゃない。
 こいつのテクニックには魅せられる。見せ付けられる。
 けど、オレには勝っていないと言った湘北監督の言葉は的確だったと、気づいた。



――おめーには負ける気がしねえ。



 そう言い切ったあとの流川の表情は辺りが薄暗すぎてよく見えなかった。



 その後のインターハイで湘北はあろうとこか、前年度の覇者を破る大波乱を巻き起こしたらしい。出ていない もんだからあまり気にしていなかったが、部活に顔を出すと越野がもの凄い勢いで報告してくれた。
 感想はと言えば、やったな、かな。
 うかうかしてらんないな、とオレは体育館の窓から見える空をちょっとだけ仰いだりする。
 全国の強豪と渡り合って、アイツはまた成長して帰って来るんだろう。
 プレーヤーは試合でしか成長しない。それはどの競技でも言えることで、どれほど練習を重ねても上手くは なるだろうが、強くはならない。練習嫌いのオレの言い訳じゃない。集中力の問題だ。
 だからこの夏。オレよりもいくつもの試合を経験した流川は、冬にはどんな変貌を遂げているんだか。
 楽しみでもあり、恐ろしくもあり。
 ちょっと思いを馳せたものの、その後またすぐに流川との再会が待っているとは思わなかった。
 夏休みもあと僅かばかりを残した土曜日。午後からはバレー部に体育館を明け渡さなければならないバスケ部は、 練習を早々に切り上げ、終了時間に現れた越野たちの彼女と、近くのファーストフード店で昼飯を食ってた。
 仮にも神奈川に名を轟かせる名門陵南男バスのレギュラーだ。彼女たちも相当イケテる。それに同じ体育会系 の女子部が多いのも頷けた。
 この中で彼女連れじゃないのはオレと福田くらいだ。現在フリーのオレとは違い、その歴史の長そうな福田は 随分と居心地が悪そうだった。オレも実はこういうシチュ、あんまり得意じゃない。
 ほれ、現に、
「仙道くんがフリーなんて信じらんない」
「え〜、嘘でしょ?」
「ほんと、ほんと。そんなにモテないってオレ」
「あり得ない〜。なんだったら紹介しよっか? いい子いるよ?」
「君みたいに可愛い?」
「え〜。あたしの方がいいよ〜」
 とか、横に彼氏がいながら上目遣いで視線を送るのはキョウコちゃんだったか、ケイコちゃんだったか。オレは頭を かいて人のよさそうな笑顔を貼り付けるけれど、向かいの越野の機嫌が急降下だ。
 越野よ。安心しなさい。その子、趣味じゃないって。断然オレは可愛い系よりも綺麗系なの。それなのに、
「こいつは他所の高校にオンナがいんだよ」
「えっ、いまは女子大生だって聞いたッスよ」
「その情報は古いで。OLと半同棲中ですよね、仙道さん」
 と、やっかみ半分興味半分でヤツらは暴露する。
 けど、彦一。おまえの情報も古い。それは半月前に終わったって。いい加減溜息をついたオレに、彼女たちは非難めいた 表情をしながら顔を染めている。いったいなにを期待してんだか。
 なんか彼女を紹介するってヤツらへの義理も果たしたし、いい加減飽きてきたし、帰ろっかなと腰を浮かせた そのとき、表通りに面したウインドウの向こう、マウンテンバイクで疾走する見知った姿を発見した。
 流川?
 ほんの一瞬だ。だが間違いない。見間違いようがない。
 右から左に。つまりオレ的にはヤツはあのストバスコートへ向っている。
「仙道?」
「どうしはったん?」
「悪い。用事思い出した。先に帰るわ」
 なんの確信もなく思い立ち、クエスチョンマークだらけになっているメンバーに片手で謝って、 その店を飛び出した。



 表通りに出て行方を捜すが、流川らしき後姿は見つけられない。尤も走って追いかけたところで相手はマウンテンバイク。 追いつく筈もなかった。
 努めてゆっくりとオレは歩き出す。
 アイツなら、コートに向ったアイツなら、そこにリングがあるのを知っているアイツなら、だれがいても、 そしてだれがいなくても、きっとそのまま素通りはしない。これは予感じゃなくて確信だった。
 きっと流川はいる。
 オレを待っている。
 もしくはオレを想定してドリブルで抜いてる。これは確信じゃなくってただの希望だ。
 なんでそんなことに希望を馳せてんのかは分からないけど、どうやらオレは嬉しいらしい。好きなオンナとの 待ち合わせみたいに、ゆっくりとその場所へ向った。



 やっぱ日頃の行いがものを言うな、とその光景を認めてオレはしみじみと腕組みをした。
 湘北の人間がこんな校区外にまで、なんの気なしにバスケしに来やしねえ。
 見せ付けるみたいに宙をかいたりしねえ。
 目の前に敵がいるみたいにあれだけ腰を落としたりもしねえ。
 それに焼け付きそうなくらいに瞳をギラギラさせて地面を蹴ったりもしねえ。
 まだ日の高い公園の入り口で、オレは暫くそのせめぎ合いを眺めていた。
 オレンジ色のボールが流川の足元で跳ねた。
 一息ついた流川がオレに気づいて振り返る。
 ただ振り返って視線を絞る。それだけの仕草に、やっぱ待ってやがったと得心したオレは多分、相当満足そうに 微笑んだんだろう。流川は睨み据えながらズンズンと音を立ててこちらにやってきた。
 そして開口一番オレに指を突きつける。
「どあほう」
「なんだよ、唐突に?」
「嘘つきやがって」
「ひでぇ言い草。いつ嘘ついたって?」
「北沢じゃなくって沢北だったじゃねーか」
「沢北? 北沢じゃなかったっけか?」
「名前くらいちゃんと覚えろ。ややこしい」
「そうだな。唯一負けた相手だったんだ。なんでかな。昔のことだし。けど負けてないのに、流川の名前は 間違えないよな、オレって」
「フカしてんじゃねー」
 それは見事なくらいの仏頂面で、綺麗に横を向き、それにあわせて黒髪も揺れる。なぜかそこだけ切り取られた 風景みたいで、流川の先輩を先輩とも思わない口調も気にならなかった。
 流川が来た。
 全国から帰って来てもオレと勝負しに来た。
 北沢? 沢北? と競って、山王に勝利してもなぜかここに戻って来た。
 オレを求めに来た。
 あの流川が一直線に睨んでいる。
 まだコイツの前を走っていられるんだと気づいて、オレはバッグを肩から外した。
「流川、シようぜ」
「たりめーだ。そのために来たんだろうが」
「はいはい」
「ハイは一回!」
 なんでだろ。
 叩きつけられるように渡されたボールに、流川の強い想いが集結されてるみたいに感じて、それを受け取って こんなに嬉しいと思うなんてさ。ただのライバルだぜ?
 ホントなんでだろ。
 コイツと対峙してるだけで、オレの中の何かが壊されるような予感すらする。壊したいのか壊されたいのかも 分かんねえけど、オレとのプレイで流川が成長するなら、オレはそれ以上なんじゃないかなとさえ感じる。
 オレに影響を与えたプレーヤーって同年代じゃ牧さんくらいかな。山王に行ったエースには、中学のときに 負けたと思ったけど、根底を覆すようなもんじゃなかった。だからやっぱり牧さんは別格だ。
 けど、コイツは影響を与えるんじゃなくってオレを壊す。
 殻なのか、閉じこもった箱なのか、オレがなにかしら押さえつけてるもんを呼び起こす。
 それを感じ取ってコイツは突っかかってくる。
 コイツも楽しみらしい。
 オレの中のびっくり箱。
 さてさて、なにが飛び出すやら。
 おまえを失望させないだけの余裕はあるつもりだぜ。




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