in the zone
scene three
物音高く、バーンと開け放たれた扉。
ろくに説明もしないでここにたどり着いたのだろう。体育館関係者が泡を食って止めに入って騒然
としている。
そんなものはモロともせず、勢いのまま突っ込んできた男が入り口で仁王立ちしていた。
「天才桜木花道、だたいま復帰!」
「げっ」
「桜木!」
相変わらず登場は派手だ。立ち居振る舞いも以前のまま。変わっていないというか、痛い目をみたのに
成長していないというか。桜木はズンズンと音を立てて進むと、コート脇のパイプ椅子に座していた首脳陣
に近づいて行った。
「お、おい。赤木!」
「おう!」
赤木と三井が瞬時に反応する。桜木が監督やコーチたちに対して礼を失するのは目に見えていた。
暴言を暴言と理解していない男に現場を荒らされては、身の置き所がなくなってしまう。これから始まる
長い合宿だ。そのあと国体も待っている。
湘北のイメージを崩さないためにも、ひいては安西先生の評判を落とさないためにも、ここは三年生である彼ら
が身体を張ってでも止めなければならない。
ふたりの動きは俊敏だった。
スクリーンアウトよろしく監督と桜木の間に身体を入れ込み、水際で食い止めようとする作戦だ。
けれど常軌を逸するバカ力を要する桜木は、退院したばかりとは思えないような強い押しでいいポジション取り
を果たした。
「くそ! バカ力出しやがって!」
テクニック以前の問題だが、自称天才は先輩ふたりを阻止して満足そうに顎を上げていた。そして邪魔は
させないとばかりに両手を上げた。
「監督のひとですか?」
「ああ。そうだけど」
「聞いちゃあいるとは思いますけど、オレが天才桜木花道です! ちょっと遅れましたがこの合宿、天才
桜木が参加したからには、これ以上ないというくらいにハイレベルなものになるでしょう! 遠慮は無用です!
腑抜けたヤロウどもをぶっ倒れるまで鍛え上げてやりましょう! 大変お待たせしました!」
内容はともかく一応敬語だ。
「天才桜木は知らないが、怪我で不参加と聞いていた桜木くんは知っている。身体は大丈夫なのか?」
さすがに年の功。監督は桜木の根拠のない自信をあっさりとスルーした。
「おう! 体調万全! 意気揚々! 勝つ気満々! 向うところ敵なし! 遅れた分はこの有り余る才能で
カバーして見せます! どいつもこいつもビビんなよ! この天才がおめーらを率いて神奈川に優勝旗を
もたらせてやる!」
ビシっと一同を指差してガハハと高笑いする桜木の頭にすかさず赤木の拳が炸裂した。怯む隙に三井と宮城
の二人がかりで監督の前から拉致る。さすが慣れている連携プレーと他校の面々は感心しきりだった。
「ご無礼申し訳ありません。浮き足立つとなにを言い出すか分からないヤツでして。あとできちんと言って
聞かせます」
赤木が四十五度ほど腰を折った。苦労が絶えんなと、牧と藤真は他人事とは言え赤木の心痛を思い遣っている。
「構わない。それなりの働きをしてくれるなら自信過剰、大いに結構だ」
しかし本当に練習させていいのかと問う監督の目の前で桜木は、持っていた荷物をかなぐり捨て、
執拗にフットワークの練習を始めた。スタートダッシュを繰り返し、
小煩いくらいに目の前を行き来する姿に苦笑しながら、その許可を与えるしかない監督だった。
「よっしゃー! リョーちんパス!」
桜木は言い放つと一気にコートを駆ける。
久し振りに聞くバッシュの擦過音。天井からのライトがやたらと眩しい。閉塞し切った空間なのに青空を見上げる
よりも開放感を味わえる。小気味いいその音と、コートに存在出来る喜びを楽しむような走りっぷりだった。
痛くない。
大げさに両腕を振って走っても痛くない。
飛び跳ねても全然痛くない。
なんの衒いのない桜木の満面の笑みを、だれもが息を詰めて見守った。
なかなか動かない宮城に業を煮やした桜木は一度リング下まで存分に駆けてから、もの凄い形相で
戻ってきた。
「なにしてんだ、リョーちん。パス出してくれ! 天才の復帰第一号ダンクを華麗に決めてやる!」
「あ、ああ」
背中を向けた桜木を追い越す形で放られたボールは、周囲が見守る中綺麗な放物線を描き、その手に収まると
思いきや、弾き零れ落ちてエンドラインを割った。あっと、パスを受ける手の形のまま固まった桜木に、
周囲は詰めていた重い息をどっと吐き出す。
「ど−したんだ、大丈夫か花道?」
「いや〜すまんすまん。ちょっと身体が鈍ってしまった。なんせ走ったのも久し振りだからな。天才も
木から落ちる。天才も筆の誤りってヤツだ! 気にすんな、リョーちん。さ、次行くぞ!」
「久し振りって、おめーいつ退院したんだよ」
「きょう!」
「きょうだぁ?」
「おー、病院から直行だ!」
バカかてめー、という宮城の罵声に耳なんかかさず、桜木はエンドを割ったボールを取って戻り、お披露目と
ばかりにそのままダンクをかまそうとドリブルを始めた。しかし、それも手から零れ足先に引っ掛け、コート上で
右往左往している。大見得を切って登場したからには、首脳陣やこのメンバーたちに己の健在ぶりを見せつけ
たいのだろうが、如何せん、失った感覚を取り戻すまでには至らない。
その様子をじっと見つめていた監督がコーチを顎で杓った。その意を掴んだコーチは桜木をコート上から
連れ出そうと促した。
「いや、待ってください。オレの実力はこんなもんじゃない。ちょっと調子がでねーだけで――」
自称天才、子犬のように耳を垂れてパタパタと尻尾を振っているかのように萎れている。
だがそのとき――少し基礎練をしようかと告げたコーチの言葉に覆いかぶせるように、冷ややかな言葉が
かかった。
「パスもできねーようなど素人はすっこんでろ」
「あんだと! てめールカワ!」
「ど素人以下じゃねーか。練習の邪魔になんだよ。満足にできねーならさっさと帰れ」
「てめー! この天才がいない間に益々いい気になりやがって! てめーの指図なんか受けねー! 体力の
ねーヤツこそ、走りこみでもして来い! コートに上がるんはそれからだ! 荷物纏めて帰んのはてめーの
方だ!」
「だれに言ってんだ」
「虚弱体質寝腐れキツネにだ! 青白い顔しやがって、もーバテてんのか、あー!」
襟首を捻り上げて凄む桜木に、流川は親指を立てて扉の方を指差した。
「あ、なんだ?」
「隣の小ホール。バスケ教室やってる。幼稚園児相手に。そこに混ぜてもらえ」
「あんだと! こら!」
ヒートアップするふたりに重い嘆息を吐いた首脳陣を見咎めて、湘北三年生コンビが桜木と流川の間に
割って入った。赤木はこの短時間で二発目の拳骨を桜木にお見舞いし、コーチの言うとおりにしないと選抜
メンバー権が剥奪されると凄んで、どうにか事なきを得る。
いまからこの調子では、半月余り続く合宿が思い遣られると他のメンバーは苦笑しきりだ。しかし
牧はコーチに促されてコートを去った桜木の背中を見送ってぽつりと呟いた。
「参ったな」
「えっ?」
「一カ月以上ボールも触れないで、いきなりこの場に現れるとは」
受けて三井が頷いた。
「パスの受け手もドリブルも忘れてやがるし。呆れるをとおり越すぜ」
「いや、感心しているんだ」
「感心だぁ?」
「ああ。県内ベストのメンバーが揃っている場所に、ブランクがあるなら、オレだったら少しでも態勢を整え
てから合流する。無様なプレイなどコイツらには見せたくないからな」
「そりゃそーだ。自尊心がそーさせる」
「桜木にプライドがないんじゃない。それよりも少しでも早く。少しでもこのメンバーとバスケが
したかったんだろうよ。自分の体裁なんか、バスケをしたい衝動には勝てなかったって訳だ」
けどよ、と宮城が混ぜっ返した。
「この調子じゃ、アヤちゃんが言ってたことがホントになりそうだぜ」
「彩子がなんて?」
「ん。花道の場合短期間でいろんな物をモノにしただけに、ちょっとバスケしないと、ものスゴイ勢いで
失われるって」
「そのまんまじゃねーか」
「またいちから基礎練させねきゃならないのか?」
言った藤真は少し残念そうだった。
「いや、そーとも言い切れねーさ」
「仙道?」
コート脇で恒例になった基礎練を繰り返す桜木を見つめる仙道の瞳は深かった。
飢えか。
確かにそんな形の飢えもある。
そういう男をよく知っている。
一度も経験したことがないから分からないけれど。
相当複雑な色を成していたのだろう。言葉よりもなによりも、その色のまま視線を巡らせた仙道に、傲然さ
を隠そうともしない流川の表情が飛び込んできた。
仙道の言葉を興味深く待っている他のメンバーとは違った流川の剣呑さを感じ取って、彼は首を傾げる。
またなにか臍を曲げてやがる、と。
けれど流川の場合、一体どこに地雷原があるのか分からないから厄介だ。肩を竦めて仙道は続けた。
「動き出したらきっと身体が覚えてる。僅かなブランクなんかボールが手に馴染めばきっと取り戻す。
自転車なんかと一緒さ。一度覚えたら何年も乗らなくても、どう足を動かせばいいか簡単に思い出すだろ」
「そりゃそーだろうけど、時間がかかるのはどうしようもねーだろーが。別に国体に間に合って欲しい訳じゃ
ねーけどよ」
「間に合いますよ、三井サン。いまのヤツには長い間バスケが出来なかったっていう飢えが加わってる。
いまはドリブルさえも覚束ない。目も当てらんない状態だ。けど、それで厭んなって諦めちまうようなヤワな
体験してきてないでしょ、インハイで」
インターハイ経験者たちの間にピシリと音がするような緊張が走った。卑屈になっている訳でも、けしかけている訳
でもない長閑な調子だった。
「バスケが出来ない。バスケがしたい。やっと出来るようになった。焦るよりも動きたい。その気持、おまえ
にはよく分かんだろな、福田」
「あ? ああ」
突然話を振られて福田は少し唖然となった。部活停止処分を受けていた間福田が、一体だれを想定して
ひとり黙々と練習していたか知り尽くしているのは仙道だった。
「よく、よく分かる」
その答えにニコリと笑みを送り、仙道は大声で桜木の名を呼んだ。
「桜木、焦んなくていーぞ。まずいまはパスを貰ったときの手を思い出せ。どうやって受け取る?」
「む、センドー。焦ってなんかいないぞ。この天才桜木にブランクという文字はなーい!」
「だったら早くここに戻って来い!」
「えらそうに言うな! 首を洗って待ってろ!」
期待してるぜと言い切って振り返ると、桜木にではなく自分に向けられた敵愾心丸出しの流川の視線が
絡み付いてきた。
面白れー、と仙道は口の端を上げる。
まったく強欲なヤツだ。流川は気づいていないであろう形の覚束ない苛立ちの矛先。一身に集めて愉快だと
思う。
自分から振り切るようなことを言っておきながら、実際に仙道の興味と心遣いが他に逸らされるのが堪ら
なく厭らしい。それがだれでもなく、桜木であることが更に拍車をかけている。これが陵南のメンバーなら
当然と受け止められるのだろうが、あの自称天才に対しては流川の鉄壁の自尊心も崩れるのかと、仙道は
その視線を真っ向から受け止めた。
そして思う。
おまえはオレにどこまで望んでいる。
その後フロアの隅に追いやられても異常な集中力と向上心を見せた桜木は、午後にはチーム練習に
加わるまでに復活してきた。一分も無駄には出来ない。オレはこんなもんじゃないと息巻き、強化合宿は
来週もあるのだから、無理をせずにという諌めは通用しなかった。
変わった目の色の分だけ桜木は確実に成長を見せる。その姿を見て、まるで入部したての頃からインハイで
山王に勝利するまでの軌跡を、僅かな時間に再現しているかのようだと言って目を細めたのは赤木だった。
ダンクは禁止されているものの、背中の怪我などなかったような攻めでゴール下は死守する。体と体が
ぶつかり合うことすら畏れない。恐らく桜木自身の短いバスケ人生の中で、一番にその才能を開花させ、
周囲に認めさせたリバウンダーとしての自分を、真っ先に取り戻したかったのだろう。
やはり根性があるなと牧が呟く。本気で間に合いそうだなと藤真が引き継いだ。チームワークは望めない
がなと三井。それを纏めてこその主将だと魚住は牧をからかった。
三井の予言どおり、チームとしては呆れるくらいに失速気味だった。桜木は必要以上に流川に
突っかかる。パスも出さないし、隙を見せればフレグラント・ファウル覚悟の体当たりも見せただろう。
流川はとことん無視に徹し、凌ぎを削るとはまた違うピリピリした空気を漂わせていた。
「コイツら、山王戦でハイタッチし合ったってウソだろ。全然相手を認め合ってないじゃないか!」
藤真の苛立ちは尤もだった。
「桜木! 周りをよく見ろ! だれが空いてる! 流川だろ!」
「イヤだ」
「桜木!」
まったくチーム競技だということを忘れているとしか言えない。その憤まんを流川が煽っているのも
確実だった。
恐らくと仙道は思う。
きっとあれはどうしても負けたくない試合だったからだ。いまは戦う相手が違う練習中。試合が始まると
きちんと敵を識別して纏まるでしょうという仙道の根拠のない説明に、だれもが不審を顕わにしたのは
当然だった。
結局きつく引き締められた流川の唇は、どんな桜木の挑発にも解かれることはなく、その後一言も言葉を
発しないままだった。
continue
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