in the zone
scene two








 十月末の国体までに、土日を利用して行われる強化合宿期間中、寝泊りは総合体育館の畳敷きの多目的室での 雑魚寝だった。
 自分に宛がわれたスペースは、布団一枚分少々と荷物の置き場くらいなもので、国体選抜メンバーと いえども高校生。個人のプライバシーなどは考慮されていない。
 それでも、同じ施設内で練習が出来て食事も可能で、簡単なジム施設もあり、少し歩けばふかふか とは呼べないまでも愛するお布団が待っている。練習の鬼の流川にとっては、正しく夢のような環境だった。
 給食のような夕飯をそれこそ親の仇のように腹いっぱいかきこんで、多目的室に取って返して即熟睡にふけり、 ぼうっと目覚めると、薄暗いそこにはだれの姿もなく、寝過ごしたかと思ってもまだ夜の九時。一時間ほど 寝入っていただけだ。それでも、仙道を迎え撃つには体調万全とばかりに彼は布団から抜け出した。
 夜の体育館は必要以上の照明を落としてひっそりとしている。静まりかえった廊下を歩いているとひとつだけ灯りが 漏れている部屋があった。視聴覚室だ。テレビの音が小さく聞こえるからだれかがそこで集っているのだろう。 この廊下を抜けると体育館。仙道よりも早くついてアップしなければと、速度を進める流川の耳に聞きなれ た声が飛び込んできた。
「……んなこと、珍しくもねーけどよ」
「アイツがてめえのことしか考えてないのは、いつものことだからな」
「おまえもさ、迷惑ならそうはっきり言えよ。アイツに遠慮なんか必要ねーから」
「迷惑だとは思ってないすよ」
「ガキの子守は大変なんじゃないか?」
「そうだな――」
 その声の主は三井と宮城、そしてなぜか仙道だった。あの先輩たちは奇縁な繋がりながら、アレ以来結構楽しそうに つるんでいる。三年生で残ったのが三井だけだから、宮城にとっても普段は煩わしいと思いながらも、 頼りにしている部分はあるのだろう。
 その場にいる仙道をどうしようかとも思ったが、そのまま通り過ぎるつもりで踏み出した流川の足は、 彼の次の言葉で止まってしまった。
「流川の頭ん中には強くなりたい思いしかない。可愛いもんじゃねーか」
 なんだオレの話をしてやがるのかと思わず舌打が出た。立ち聞きするほどひとからの評価を気にする性質でも ない。さっさと通り過ぎようと、ふと思い立つ。
――じゃあ、迷惑っつうのはオレのことか。
「あいつを可愛いなんて表現するのはおまえくらいなもんだ」
「違うな、宮城。コイツはそー言うことで自分の余裕を周りに見せつけてんだ」
「酷いな。三井サン」
「事実だろうが」
「違いない」
「来る者は拒まず体質をどこまでも広げてんじゃねーよ。他校の後輩だろうが」
「あれ? それって可愛い後輩の興味を持っていかれたくないっていう嫉妬?」
「ぬかせ」
「ま、おまえの人間関係も垣間見れるってなもんだ。どーせ広範囲に渡って愛想振りまいて、コクってきた オンナ全部と付き合ってるんだろ。十本の指から溢れたオンナが呆れて、立ち去るまで放っておくタイプだな、 きっと」
「そこまで言うか、宮城リョータ」
「けっ、てめーに、高校入ってから十人に振られたうえに、本命から相手にもされないもんの気持が 分かるかよ」
「それはこの際全然関係ねー」
「三井サン!」
「ま、それは置いておいて。実際流川とマンツーするのは楽しいし、湘北さんでアイツの相手出来るヒト いねーだろうしな」
「ふん。言いやがる」
「けど、アイツほんとに仙道に甘えてるよな。相手出来るうんぬんよりも、そっちが不気味。さっきさ、あんな 嬉しそうに尻尾振った流川、初めて見た。おまえが相手してやるっつったとき」
「あはは、そう見えたね」
「他人に興味ねーだろ、アイツ。だから懐いたらとことんなんだろ。そーなると懐かれたもんにしちゃ、 重くねーか?」
「そりゃ、重いすよ」



 別に他人からどう思われようと一切忖度しない。無表情だとか情緒欠陥だとか図太いとか無神経とか、 聞こえてくる言葉はいつだって自分の頭の上を素通りしてきた。外野の声が心の奥底にまで響かないのを ひとは排他的と呼ぶのだろうけれど、フォームの歪みや狂ってしまったカンをひとつひとつ丁寧に矯正 するのと訳が違う。
 小さい頃から練習に邪魔なものは簡単に削ぎ落としてきた。玩具はオレンジ色のボールだけでよかった。 バスケの出来ない友達は必要なかった。遊び場はリングのある公園だけだった。
 テレビのヒーロー物にもゲームにもカードの収集にも興味を示さなかった子供が、初めて執着を見せたもの。 それは小学校の枠を超えて地域で結成されているバスケチームの練習風景だった。
 ひとと交わることを苦手とする息子が、チーム競技であるバスケに興味を持って少しは社交性を身につけるかと 喜んでいた両親も、そのあまりののめり込みように唖然としたという。
――きっとたくさんのお友達に囲まれて、楽しそうにプレイする楓が見られると思ってたわよ。
 母親は未だにそれを口にする。
――初めてシュートが決まったときだって、なにも言わなかったでしょ。コーチの先生から教えられた んだからね。ふつう喜んで報告しない?
――出来て当たり前だと思ったから。
 レイアップのタイミングとフォームを教えられ、自分のジャンプ力を考えたらどこで踏み込めばいいのか、 どの角度で手を差し伸べればいいのかは身体が反応した。もう少し高く跳べばこの角度。もう少し手前で 踏み切ればディフェンスは振り切れる。
 そう考えてプレイしているとしか思えない小学三年生を大人たちは絶賛し、元からいた子供たちは 畏れに似た表情を浮かべていた。
 それでも何も持たなかった少年は、たったひとつ以外の総ては必要と感じなかったし、いままでの飢えはその たったひとつが癒してくれた。
 その延長線上に、大木が横たわるような仙道が存在する。仙道と出来るバスケがある。
――そりゃ、重いすよ。
 流川はクルリと踵を返し、いま来た廊下を戻り出した。
 いつも散々違った意味の言葉をかけられてきたから、アレっと思っただけだ。
――バスケはチームのみんなでするものだから。
――もう少し他のことにも興味を持ってくれたらね。
――練習熱心なのはスゴイことだと思うよ。でも他の子が遊んでいるときくらい、一緒に遊べば。
――おまえさ、チームメイトの名前と顔、一致してる?
 ひとと接するときの気持の振り分け方がいまいち分からない。自分のプレイに集中すればチームメイトに 対して排他的だと誹られ、ライバル視すれば重いと嘆息をつかれる。
 どうでもいいけど、重っ苦しいのなら止めてくれて結構。相手してくれなくても構わない。
 いつだって朝練も居残りもひとりだった。リングのある公園を探してどこまでも走った。
 ひとりで走った。
 けれど。
――アイツだってオレとバスケしてーって言ったじゃねーか。
 一度立ちどまり、背後の視聴覚室を睨みつけても、どこから沸いてきたか分からない空虚感は払拭 されなかった。



 ひとより少し早く起きて、雑魚寝の連中を踏みつけないように部屋を抜け出して向う先はだれもいない体育館。 九月末の少し凌ぎ易くなった朝の清冽な空気を肺いっぱいに吸い込んで、思う存分駆け回ってやっとすっきり 目覚める。シュート練習を繰り返してやっと調子が戻り始める。
 自分が放ったボールがリングをくぐる音は、どんな音量の目覚まし時計よりも刺激的だ。息が上がるまで 繰り返し、確かめてまた繰り返し、汗だくになったころに、ふと背後から長閑な調子の声がかかった。
「傷つくな。きのう散々待たされた挙句、朝っぱらからひとりで練習してんだから」
 膝に手をついた状態で入り口に目をやると、そこにはきちんと身なりを整えて、つまり、ツンツン頭も 健在な仙道が扉に身体を預けて立っていた。
「オレ、待ちぼうけ食わされたのって初めてだ」
「うす」
「それはなに? ごめんなさいとおはようございますを合わせた言葉なのか?」
 クスクスと笑みを零しながら仙道は近づいてくる。はっきりと表情が読み取れる位置まで来て、その瞳に 苛立ちの色が見え隠れするのを感じずにはいられなかった。
「別に謝ってもらおうなんて思ってねーけど、おまえきのうどこ行ってたんだ。部屋で無邪気な顔して寝てる かと思えば、次に見に行ったらいねーし。どこ探しても見つかんないし」
「ランニングしてた」
「なんで?」
「気が変わった」
「オレとの約束放っぽっといて?」
「走りこみ、したほうがいーと思ったから」
 ふうんと仙道はその気のない生返事を返した。納得した様子もないが、理解を求めようとも思わない。 ひとの気持を置き去りにしたのはどっちだと言えば、仙道はどんな顔をするだろう。どうせまた、ニコリと 微笑まれて、言葉巧みに言いくるめられるのがオチだ。
 こいつのペースに掻き乱される自分を見るのが厭だ。分かっていて対処できない自分はもっと厭だ。
 流川は顎を上げる。
「もう、あんたのこと煩わせねーから」
 そう言い切ってどこかがチリリと痛むのは、初めて手にした朧気な感情の揺れが欠片となって 肉に食い込むからだ。そしてそれが目の前の男によってもたらされたことも分かっている。
 手を差し伸べれば届く距離。何かに苛まれて指一本動かせない。
 もう、これで仙道とマンツー出来ないだろう。
 たぶん。
 一直線だった道にいつの間にか左右を横切る仙道の影。目の前に仙道なんかいないその場所をつくり上げて、 また見晴らしのいい、けれど通過点の朧な目標に向えばいい。
 だれかを倒すなんてバカ気ていた。だれかひとりを視線の先に捉えるなんてことしたばっかりに、 執着してるみたいに思われて、存在が重いと感じさせて、甘えているとまで言われて。
 いつだってだれよりも強くありたいと思っていたけれど、誰かひとりをこんなに意識したことなんか なかった。
 元に戻ればいい。
 そう思って、振り切るように体育館を出て行こうとした流川の腕を、仙道の手が鷲づかみにした。
「煩わせるってどういう意味だ」
 腕が痛いと悲鳴を上げる前に、それ以上に深く突き刺さる仙道の視線にまず竦む。ひとのいいお兄さんの 仮面をかなぐり捨てた仙道は、喧嘩慣れしている自分でさえも怯ませる昏さを持っていた。
「またその話の蒸し返しか。おまえといて、いつオレが煩わしいって思ってるって? おまえ言葉少な過ぎ。 なんでまたそう思ったか、ちゃんと説明しろよ」
「子守させて悪かったよ」
「そういうこと聞いてんじゃねーだろ」
「オレが重いんだろ」
「流川!」
「分かんねーよ。あんたが本当はどう思ってるかなんて」
「オレくらい自分に正直に生きてる人間も珍しいと思うけど? よくそー言われる」
「口ではなんとでも言える。いっつもヘラヘラしてっから、ホントは重っ苦しいって思われてるなんて知ら なかった」
「流川、ちが――」
「オレ、もう、あんたとは馴れ合わねー」
 折ってでもその手を振り払おうとする流川の腕の力に負けて仙道は指を解く。利き腕ではないとは いえ、本気で筋でも違わせたら大変なことになる。その気遣いの隙に後ろを見せた男は、振り返ることなく 体育館を後にした。
 噛みあわないなんてもんじゃない。あれではまだ言葉を持たない小動物を懐かせる方が余程簡単だ。 大切に思う気持は感性で伝わる。そこを閉ざしてしまったいまの流川には、なにを伝えようとしてもつう じないだろう。
「おまえ、そんなバスケでなにが楽しいんだよ」
 たぶん、流川の根底を覆す科白。それを口にして哀しいのが自分の方だなんて。
 背中で体育館の扉が閉まる音を聞く。
「いい加減オレでもキレるって」
 言い捨てて仙道もその場を後にした。



 そして流川にとって第二の爆弾は午前中の練習が終了するころに投下された。



 関係者以外立ち入り禁止の措置が取られた体育館で、まずその予兆を感じ取ったのは清田だった。ディフェンスに つきながらしきりに首の後ろを気にする後輩に、注意力が散漫だと牧の叱責が飛んだ。
「清田! やる気があるのか、おまえは!」
「すみません」
 首を竦ませた清田は横の神に言い訳みたいにぽつりと漏らす。
「なんかヤな予感がする。この辺りがムズムズするんすよ」
「なに? 雨でも降るのか」
「犬猫じゃねーんだから、神さん。あーけど、清田の野生のカンが嵐の予感を告げている!」
「台風の直撃?」
「だからお天気の話じゃないですって」
「なに言ってんだ。きょうは流川を徹底的にマークするんだろ。よそ見してない、あんまりへなちょこだと、 流川の相手。仙道に取られちゃうぞ」
「うす!」
 基礎練後のチーム練習は、海南の三人に加えて仙道と魚住でひとチームをつくり、そして対するのは湘北の 四人に福田を加えたメンバーの紅白戦から始まった。
 この合宿では徹底的にマッチアップを重点的に置いた練習に時間を割いている。
 個人技が卓越したメンバーたちに、チームの一員としてどういった機能をさせるか。そしてそれも踏まえた 上で、どこまで己のスタイルを貫けるか。
 一対一であくまでも勝負に拘るのも、それを避けてだれかを動かせるのもよし。
 しかし、練習では拘り続けろと両エースに対して指示が飛んだ。
 仙道と流川。互いのエースに対してボックスワン、あるいはダブルチームのシフトを引きながら、マッチ アップの相手を変化させ、両エースに対して過酷なまでの底上げをなさしめる。どれほど執拗なマークを 受けても斬り込む隙を見つけてこそ真のエース。
 挑んで負けても次は抜け。挑み続けて己の限界と力量が知れる。知らなければその枠も粉砕できない。 それぞれが己を知って次にゲームを構築するためにどう動くか。未だにパス回しよりもマンツー勝負に 燃える流川にとっては願ったりの練習だった。
 自然、仙道と対峙する場面がふえる。
 まるで何事もなかったような顔をしやがると仙道は思った。
 朝の諍いなんかどこにも残っていないのだろう。 無論自分だって練習に私生活を持ち込むような真似はしたことはない。単にそれほど執着するものも、 煩わせるものもなかったからかも知れないが――オンナと別れたすぐあとに平気な顔をして練習できると 言った彦一の弁は事実だったりする。それでも、それを流川からまざまざと見せ付けられると、寂しい 気分が味わえるから不思議だ。
 こういう思いをオレも陵南のメンバーにさせてたのかも知れないな、と殊勝にもそう思った。
 流川のドリブルが早くなる。全国を経験し、その場その場のフェイクより、全体の組み立てを覚えやがった。 あの夕陽が映える公園での謎かけめいた言葉を理解して、実践してきたのだろう。
 ボディバランスは一級品。テクニックは県内でもトップクラス。負けん気の強さとふてぶてしさは折り紙つきだ。 名工がつくりあげたしなやかな大業物のような切っ先。相手を射殺さんばかりに立ち昇らせた怒気にふれる 度、ここがコート上であることを忘れそうになる。
 背を向けられてもなお、この場に立っていられる自分のポジションを誇らしいと思えるのだから、流川と 出来るバスケは、どうあっても失いたくない。
 これを執着といわずしてなんと呼ぼう。
 ディフェンスに入った仙道の腰が落ちる。
 こいつに欠けていたものは全体を見渡す目だけだったと、フェイクをかけた流川の動きを読んでボールを弾き、 視線を送ったその矢先、ご大層な物音を立てて体育館の扉が開かれた。



「天才桜木花道だたいま復帰!」





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