瞬時に反応して重なり合おうとした躰を離したけれど、そこにはほとんど仁王立ちの天才パティシエ。怒るでも
ない観察するでもない醒めた雰囲気には、背筋を凍らせる迫力すらある。
やっぱりオレはきっと前世で贖いきれないほどの重罪を犯したんだ。
よりによってなんであんたが、とその場にうっ伏せてヨヨと泣き崩れたい気分だ。だが、目の前の少年はぱちくりと目を
瞬いただけで一気に現実に戻れたようだ。きょうのメニューはなにと、そう、何事もなかったように立ち上がっている。
急な藤真の出現よりも、そっちの切り替えの早さの方がよっぽど仙道にとってはショックだった。
「フレンチシェフ三井の、世にも珍しい卵丼だと。半熟加減を味わえって煩いから早く行った方がいい」
うん、と素直に頷いて流川は、思い切り汗を吸ったTシャツを脱ぎ捨て、洗濯したての新しいものに着替えて
そそくさと出て行った。その場に残されたのは少し呆然としたまま胡坐をかいた状態の仙道と、その背を見送ってたぶん、
皮肉な笑みを浮かべた藤真。気まずくもあったが、いつまでも背中を向けているわけにもいかない。情事の場面を
相手の母親に見られてしまった心持で仙道は振り返った。
「なにしようとしてたのかな、仙道彰くんは。まさかオーナーの大事な大事な、目に入れても痛くないくらいに可愛がって
る従兄弟くんを、毒牙にかけようなんて不義理、働くわけないよな」
「へぇ、牧さんってそんなに流川のことを溺愛してましたっけ? その割にはなにもかもオレ任せだったような」
「的外れな返しをするくらいだから、相当動揺してるな、おまえ」
「見てたんでしょうが。なにもしてませんよ」
「そうかな? 扉半開きのままコトにイタろうとするほど切羽詰まってたって見えたけど? おまえらしくもない」
「まさか、こんな真昼間からサカるほど飢えちゃいません」
「オトコ押し倒そうってんだから、十分にイっちゃってるよ。部屋替え、牧に進言した方がいいかな。いまのままじゃ、
流川の貞操の危機だぞって」
「中坊押し倒すほどケダモノでもないつもりデス」
「その常識に性別を越えてるモラルは存在しないのか?」
一般的な見地からの諌めに仙道は肩をすくめ、それでもこんな状況が楽しくって仕方ないとばかりにふっくらと笑った。
「ところで藤真さん。『ホテルテロメア』の『テロメア』ってどういう意味か知ってます?」
「イキナリなに話題を変えてんだ。オレをケムに巻こうったってそうかいくか」
「いえいえ、滅相もない。ただ、牧さんも随分とロマンチストだなって思っただけで」
藤真の眉間のしわが二割五分ほど増しになる。言い逃れをしようと思ったわけじゃないけれど、牧の話題に触れれば
彼が敏感に反応すると分かっていての話術だったりする。『テロメア』を得ようと、そして失くしたくないと思って
いるのはなにもオレだけじゃないと。
「なんでも染色体の末端部分の構造の名前らしいじゃないですか。言いにくいし覚えにくいし、なんでそんな名前を
つけたんですかって聞いたことがあって」
「……」
「染色体末端を保護する役目を持つんだって。理系でもない牧さんがよく思いつきましたねって言ったら、
そんな小説を読んだことがあったらしい。それをよく覚えてて、なぜだか惹かれてついホテルの名前にしちゃったって。
オレが説明するまでもなく、ご存知ですよね」
想像のつく話の展開に藤真は黙ったままだった。
牧の説明によると、『テロメア』とは、ギリシャ語で「末端」を意味する telos と「部分」を意味する meros から
作られた言葉であるらしい。その実体は特徴的な繰り返し配列をもつ DNA と、そこに局在する種々のタンパク質からなる
複合体であると、叙事的に解説するとそうなる。
「テロメアが短くなると細胞は分裂を停止する。短くなるからってすぐに死んじゃうわけないけど、活動が停止するって
ことは、それ以上のものを望めないわけだ。そんなことは絶対に許せない。牧さんにとっての『テロメア』
って、バスケそのものだったんだなって、思いました」
「このホテルに封じ込めたって言いたいのか」
「そうじゃない。ここは新たなる出発点でしょ。ふたりにとって」
中途半端なままで夢が断たれたとき、遺伝子レベルにまでさかのぼって、牧の細胞は死に瀕していた。それでも
もう一度生きてゆくために藤真と共に活動を開始したいと願ったとき、ふと昔に覚えたそんな単語が彼の中で過ぎった
のだろう。
『テロメア』を欠いては細胞は老化の一途を辿る。お互いに。だから第二の人生を歩むにあたって、互いが互いの
『テロメア』でありたいと願ったのではないだろうか。
そう告げると藤真は、
「で、そのゴタクとさっきの軽率な行動とどう繋がるんだ?」
と、キレイに笑った。
「すぐにそう返しますか」
「ご高説確かに賜った。けど、中坊を言いくるめられても、オレには効かないって何度言えばそのトリ頭は覚え
られるんだろうな」
「まぁ、その、なんつーか。突き詰めても仕方ない話題は、三井さんの半熟卵丼にも劣ります。畑の肥やしにしちまう
ぞって怒鳴られる前に頂きにいきましょうよ」
三十六計逃げるに如かず。暗雲が立ち込め抜き差しならない状況に陥る前に、努めてゆったりと藤真の真横をすり抜けた
仙道の背に、クスクスと藤真の笑い声が被さった。
「仙道、あのクソ生意気な中坊の相手をしようと思ったら、いまのままじゃ辛いんじゃないか?」
反撃を忘れるような藤真じゃない。
全体を俯瞰して根本に立ち返れと。
だれもが同じコトを言う。
それも当然か。
けれどゆっくりと振り返った先、一見儚げな美貌を計算しつくしたような笑顔を浮かべている男からは、釘を刺している
のかけしかけているのか、想像つかない思惟が流れ込んできた。
結局流川の貞操を守るために牧へ御注進とはならなかったようだ。その後も変わらず従業員用の部屋にはふたりっきりの
状態が続いた。ただし、どこからともなくじっと注がれる視線つきだ。
藤真は牧の手を煩わせるよりは、この無言の圧力に耐えられるかという手段に出た。そんなものに臆する仙道彰クンでは
なかったが、毎朝ふたりを見比べる藤真の母親的観察眼にはニッコリ哂って撃退するしかない。
おまけに、
「いいか、流川。おまえ、普段はボヤボヤしてるから言い聞かせておく」
と、人差し指を立て、これみよがしの、きっちり仙道には聞こえるような位置を取り、他のものには分からないような
微妙な言い回しで訓戒を垂れ出した。
無言の圧力攻撃レベルアップ。第二段、説得モードだ。
「別にボヤボヤしてねーっす」
「そう思ってるのはおまえだけ。オレからすれば十分に流されやすいって映るぞ。実際にこの間だって――
ヤバかったろ」
「? 流されたことなんか、一回もねーけど」
「よく言うぜ。ボヤっとしゃがみ込んでただけじゃないか。でもな、おまえのそういう無自覚なところに付け入るのが
アイツの狡猾な手口だから。自分さえしっかりしていたらいいって問題でもないんだ。意思を強く持って振り切れ。
いいな」
「意思って。んなに、足取られるくれーに急なんすか?」
「急過ぎる。ココに来て何日だ。早まるなって言いたいよ。それによ、現実問題だれにも相談できないだろ。そうなる前に
鉄壁の防御体制を取っておくに越したことはない」
「そりゃ、あんなんで溺れりゃ、恥かしくって言えねーだろうけど。日にちは関係ないんじゃ……」
「関係あるぞ。おまえ、いま、目が見えてない状況だろうけど、よくよく考えなくちゃいけない。好きなようにしろって
言うにはリスクの大きすぎる問題なんだから。バスケできなくなるぞ。いいのか、それでも」
「バスケどころじゃねーと思うけど」
「そのとおりだよ。それどころじゃない。分かってんじゃないか」
「だったら近寄らなけりゃいーんだろ」
「そう。それが一番肝心。約束できるな」
「ウス」
よし、分かったか、仙道とばかりに顎を上げて流川の言質を取った藤真はやたらと得意げに去って行ったが、
会話の一部始終を聞いていた仙道は肩をヒクつかせてその場で爆笑した。いかにも流川は頭の中がクエスチョンマーク
で一杯だ。
胡散臭い男たちの集団だとは常々感じていたが、いったいなにを諭されたのか、なにを笑われているのかさっぱり
分からないのは、なにも自分の言語理解能力が劣っているからではないだろう。
意味不明な言葉を残して去った男の背は音符マークが見えるほどに軽快な足取りだ。流川の足元にうずくまった仙道は
まだハラを抱えている。
むしょうにムカついて、しつこいとばかりに、丸くなった仙道の背中にゲシっと踵落としをお見舞いしてやった。
「ぐえっ!」
涙目のまま見上げると、流川はちょうどいい位置で背中を晒しているおまえが悪いとでも言いたげな顔だ。
「いってぇなぁ。息できねーじゃんか」
「いつまでバカみてーに笑ってっからだ」
「だってさ。おまえと藤真さんって、ある意味すげー息合ってんだもん。よくまぁあれだけスレ違いの会話を続けられる
もんだよ」
「なんであそこで溺れるんか、分かんね」
「だろ? 藤真さんって変な心配するひとだなぁ」
「そんなふうには見えねーけど」
あの湖と、流川は視線を飛ばしている。穏やかな水際が足を取られるくらいに急に逆巻くなんて、台風でも来ない
限りあり得ないだろう。そうそう。凪いでるからって、泳げるからってバカにしちゃいけない。水難はそういう過信
から生まれることが多いんだから、と注意されたと思っていなさい。
流川に婉曲な言い回しは効かない。釘を刺すなら直球でいかなきゃ。
「大丈夫。心配性なんだよ、藤真さんは」
気にすんなとダメを押してやると、いささか腑に落ちないものの、当の流川はあの日以来めっきり真面目な取り
組み方を見せる仙道に対してある種の敵愾心を解いている。思わず触れ合ってしまいそうになった事実を、少年の中ではどう
位置づけされているのか分からない。けれど仙道自身も、真っ赤になって挑んでくる桜木と、低い唸り声で凄む流川に
挟まれる余りの陶酔感に、その都度、ただの休憩時間であることを忘れてしまうほどだったのだ。
「牧さん。お話があるんですけど」
だから、そんなふうにオーナーの牧に声をかけたのは、夏休みも残り僅かとなったころ。ホテル一階の事務所で
パソコンのディスプレイから目線を上げて、しばらく仙道を見つめていた牧は静かに口を開いた。
「戻るのか?」
「はい」
「そうか。いままでよくやってくれた。おまえの抜けた穴は厳しいが、常勤の募集もかけたところだ。人手不足を理由に
無理をさせてしてしまったな。申し訳ない」
「止めてくださいよ。感謝してもし切れないのはオレの方だ。なのに、突然ですみません」
「いや、おまえに関してはその含みもありでの約束だった。謝る必要などない」
牧の語る言葉が静か過ぎて、窓ガラスをとおして聞こえる、セミたちの最期のあがきがやけにもの淋しく感じる。
初めてこのホテルの前に立ったとき、いま集いているセミたちは土中で静かに出番を待っていたのだろうから、ときの
流れもうつりにけりな、だ。
自分の状況をイチオウ分析したものの、どうにかなるだろうと気軽に構え、一抹の不安は日々の業務の間に埋没
させてきた。仙道が動くだけで女性客の視線が移るとまで言われ、ちょっとだけいい気になっていた。また、素人相手の
遊びのバスケで、緊張感もなにもなく、シュートを決めたとしても得るものはなく、
とりわけチームメイトたちが恋しいと思わないように、やはりどこかで蓋をしていたのだ。
きっと。
でもいまはもう、なにもかもが恋しい。
なぜあのとき、簡単に背を向けられたのかと思えるくらいに。
灼熱のサウナ風呂のような体育館で懸命にボールを追いかけているチームメイトたちと、ほんの僅かな暇を見つけて
死に物狂いで挑んでくる少年と。そのどちらに対しても、真正面からきちんと向き合える自分でありたい。無為に
過ごした日々は戻らないけれど、それでもこのタイミングで、この出会いに感謝したいと思った。
翼を置き去りにした仙道が意識しなかったとはいえ、ほんの少しでも気を許せばすぐ真後ろに迫るライバルと、
かけがえのない存在を同時に育てたことになるのだから。
オレってやっぱり転んでもタダでは起きない性格なんだなと、そしてどんな停滞にもちゃんと意味が用意されて
いるんだと、ほんの少し運命論者に感じ入った仙道だった。
「オレ。帰るときに聞こうと思ってたんですよ」
瞳を伏せて吐き出すと空気が流れて牧が頷いたのがよく分かった。
「来たときじゃなくって、帰る日があったら、きっとそのときの方が理解できるだろうなって思って」
「えらくたいそうな話しだな」
「まぁね。牧さんがオレをここに誘った理由。藤真さんはあのとき、なんでオレに逃げ道を用意したんだって怒ってたけど」
おまえ正気か――と、一度だけ藤真は牧を詰った。アルバイトに来た経緯を尋ねられて、怪我で休部中なんですよと
軽い調子で答えた仙道ではなく、その姿を見守っていたオーナーの襟首を捻り上げたのだ、あの男は。
無論だと、オーナーは答えた。他のスタッフたちが息を詰めて見守る中、モロモロの想いを飲み込んだ端的な言葉に
気圧されたのか、藤真は掴んだ手を離し、その後仙道の去就に関して彼が口を挟むことはなかった。
一瞬のうちにふたりの間でなにかが咀嚼できたんだろう。
それとも牧に対する絶大なる信頼からか。
たぶん両方。
意識を戻して眼を開くと、牧は牧で、椅子の背もたれに思い切り体重を預けていた。
「そうだな。その逃げ道すらなかったからな、藤真には」
乾いた牧の言葉に思わず仙道の背が伸びる。
「怪我で泣く選手はヤマほどいる。なにもおまえたちに限ったことじゃない。だがそのだれもが、現役生活の短い時間を
一分足りとも無駄にしたくないと己に過重をかけ過ぎる。藤真はそれで潰れてしまった。焦るなと言えば言うほど
オレの罪悪感を気にして無理を重ねさせてしまったんだ。オレも藤真にも余裕はなかった。その事実もアイツなりに昇華
して、いまの現状に満足だと言うが、もっともっと本当の限界まで駆け続けたいのはアスリートならだれでも
同じだ。だからほんの二、三カ月、停滞するなど、なにほどのことでもない」
なにほどのことでもない、と言い切るにはどれだけの時間が必要だったろう。どれくらいの後悔を呑み込んだの
だろう。もう二度とあれほどの慟哭は見たくない。だから牧は仙道に逃げ道を用意してくれた。
尤も、それがまた違った意味での悲劇を生む結果になるかもしれない。このまま仙道はバスケを辞めてしまうかも
しれない。半分唆した立場にあって、また精神的な負荷を背負い込むかもしれない。
それでも同じ轍を踏むわけにはいかなかったのだろう。
そう確信して。
この偉大なるOBには、もう、瞑目するしかなかった。
だから敢えてからかった。神妙な態度で頭を垂れるくらい、牧にとって座り心地の悪いことはないと思うからだ。
「もの凄く理解されてるようで、突き放したもの言いにも聞こえるんですけど」
「当たり前だ。おまえが自分で見切りをつけて引退しようが、意地を見せて踏ん張ろうが、オレにはなんの関係もないん
だからな」
「言うと思った」
「だがな、いつか必ず飢える。ひょうひょうとしていようが、おまえもフープに囚われたいっぱしのケイジャーだろう。
忘れようにも、残念ながらここにはコートもある。逃げたようで目の端に引っかかってしようがなかったんじゃないか?」
「確かにそうだったけど、オレがそのまま復帰しないでここにいたとしたら、多少は寝覚めが悪かったんじゃないですか」
「優秀なスタッフをひとり確保出来るのなら、オレはなにも痛まんよ」
だが、思ったよりも時間がかかったな、とオーナーは浅黒い顔をほころばせて笑った。
「思ったよりってどれくらい?」
「二、三週間。あまりに楽しそうに水を得た魚のように泳いでいるものだから、正直なところ、海南の監督にどういい
訳しようかと頭を抱えたぞ」
「やっぱ、そうなんだ。でも、牧さんだって飢えたでしょ? 忘れようにも忘れられないように、ここにコートを
つくった張本人なんだから。飢えてくれって願ってたんじゃないですか。藤真さんも、そして自分にも」
そうだな、と牧は深く息を吸って瞑目した。第三の人生もアリかも知れないと呟かれた声は、パソコンのハードディスク
が立てる雑音に混じって、それでも仙道の耳に届いたのだ。
continue
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