〜ベクトルとスカラー







 『長い間本当にごめんなさい』



 京都に嫁いだ妹の産後の手伝いを終え藤沢の自宅に戻ったのか、流川の母が電話を入れてきたのは、近隣の村々の一大 イベント、大山阿夫利神社の秋季大祭の日だった。
『迷惑ばかりかけたんじゃないかしら』
「いや、それほどでもなかったよ」
 そう返すと三姉妹の中でも抜きん出た美貌と、なのにどこか浮世ばなれしている叔母は、紳ちゃん、誤魔化そうとすると 一段と声が低くなるの知ってた、と闊達に笑った。
『あんな子でもね、紳ちゃんの言うことなら聞くかもって思ったんだけど、梗子に言わせたら甘いわよって怒られちゃった。 よくそんな荒業思いついたわねって。あの楓があろうことかサービス業よ。紳ちゃんの迷惑考えたことあるの。自分が どんな息子を育てたか分かってないでしょ、ってまで言われて。お恥かしいわ。でもほんと助かりました。京都のお土産、 どっさり持ってあした迎えに行くわね』
 初日はともかく、意外と戦力になったけど、と報告する前に流川母からの電話は切れていた。
 押しの強さと引き際の放恣さなんか、やはり血は色濃く出ているし争えない。ひとの話しをちゃんと聞かないところ なんか特にそっくりだ。気の早い三井が法被と手ぬぐい片手に、お囃子を口ずさみながら駆けてゆく姿を目で追いながら、 牧は苦笑するしかなかった。
 阿夫利神社の主祭神は、オオヤマズミの神、タカオガミの神、オオイカヅチの神。古代からこの辺りに住む人たちの 心の拠り所となり、 国を護る神の山として崇められてきたという。
 すなわち、この地方のクニミタケである。
 神社の本殿までは、小田急伊勢原からバスとケーブルで比較的容易に行けるため、大祭は毎年結構な賑わいらしい。
 この日ばかりは宿泊客もスタッフもお祭りを楽しむ無礼講となる。厨房は朝食の用意と夜の軽食だけで解放され、 館内清掃もサニタリー重点で許された。流川なんかはもう、午前中の十二分なマンツーで満足したのか、昼食を取るとさっさと 自室に引き上げていた。シーツ類の取替えに仙道が戻ったときには、タオルケットを抱き込んでとっくに爆睡、夢幻郷 の住人だった。
 風が流れて過ごしやすい山間部とはいえ、一日で一番気温の高いこの時間帯だ。薄っすらと滲む汗で前髪を張り付かせ ながらも、なんともあどけない寝顔を晒してくれている。こんなデカいナリをして不遜もあらわなものだから、日頃は 忘れてしまいがちだけど、まだ小児科のお世話になっても可笑しくない年齢なんだ。
 粉薬は苦くてイヤだとごねて、プラスティックのボトルに入った液状――イチゴ味――を目盛りの分量だけコクコク 飲んでいる流川が簡単に想像できて、ちょっと得した気分になる。雪崩込むようなそんな想いを持て余しながら仙道は、 二段ベッドの端に躰を折り曲げ腰をかけその黒髪をすいた。
「ん――」
 絡んだ指に反応したのか、暑さに耐えられなかったのか、僅かに開いた流川の口から熟れたような吐息が漏れる。
 正直言って前例があるから――またどこからともなくあの佳人が姿を現しそうで、その疼きにイチイチ反応して いられないけれど、小児科対応のガキがとんでもない艶を出しやがる。ただの寝顔だぞ。正気の沙汰じゃない。けれど 間違いなくそれを体感している自分がいた。
 流川が押し付けた想い。いつか追い越しちまうかもしれない。
 そう遠くない将来に。
 いまにして微妙に食い違いを見せている互いの真情だ。願うかたちのズレは、仙道にこそ辛い結果をもたらすだろう。 何度も恋を手に入れてきたけれど、囚われるという経験が皆無だったから、そのさじ加減が分からなかったりする。
 ま、それごと抱え込むのも愉快だと、額に張りついた髪を戻してやりながらゆっくりベッドを離れた仙道の耳に、 ドスドスと床を踏み抜く勢いの物音が聞こえてきた。
 従業員用のタコ部屋を出てみると、真っ直ぐな廊下を肩を怒らせながらやってくるのは、ねじり鉢巻に法被姿も勇ましい 桜木花道、十五才。お祭りを支える青年団としては当然の格好だが、余りにも似合いすぎる由緒正しき流れ家業。 でも、ヒヨコ釣りは道徳的見地から手が出せない、心優しきテキ屋の兄ちゃんにしか見えなかった。
 お祭りに気合を入れないでヤンキーは勤まらない。
「キツネのヤロウ、真昼間から寝こけてるって聞いたぞ、センドー」
 怒りながらもわざわざお迎えにきたらしい。そのストレートな表現に、なんだか困ったなと思わないでもない。
「相変わらずフヌケたヤロウだぜ。あいつ祭りに行かねぇつもりか?」
「さぁどうだろ。ま、いったん寝ついちゃうと、ちょっとやそっとじゃ起きないからな。凶暴だし。ハラすかせて勝手に 目ぇ開けるまで放っておいた方がいいぞ」
 と、注意してやったにもかかわらず、横着もんをケリ起こしてくると、後ろ姿も勇ましい桜木をそのままやり過ごした。 お仕事の途中だったから、足早に階段を上り二階の客室でリネンの取替えをしようとしていた仙道の耳にまで届く 凄まじい、声。
「だぁっ! なに寝ぼけてやがんだ、このキツネ!!!」
「だから言っただろうに」
 その怒号を背中で聞いて、だが、なにがあったかは押して知るべし。二階にまで響く想像に難くない物音と、続く桜木の 連続罵声に、ねぐらは無事だろうかと思う仙道だった。



 この日一番大変だったのはマイクロバスの運転手役の木暮で、お客さまを送迎したっきりには出来ないため、三十分で 往復できる神社とホテル間を一時間おきに往復している。交替してあげればいいのにと言えば、意外にも大型免許を 取得しているのは、このメンバーの中でも木暮だけらしく、
「花形なんかこのガタイで50ccだけなんだぞ」
 と、いらぬ説明を加えて藤真は笑った。からかわれた当の花形は、「大型を取りに行っている暇があれば、テクのひとつ でも磨けと言って顎を上げたのはだれだ」と、取り合えず必要最小限の反撃してから軽食の下ごしらえに取りかかって いる。
「ここって、ふつうじゃ考えられねーくらいにギリの運営だな。もっとちゃっちい民宿だって人手、かけてるぞ。 じいがケチなのか?」
「牧の経営努力っつうか、言われもしねーのに給料以上の働きをしちまう体育会系資質の集まりっつうか」
「ん。ギリでもなんとかなってきたんですよね、いままで」
「そんで、そのとばっちりを食うのがメガネくんか」
 援護しながらも桜木は時間を気にしていた。
 次のバスの出発はホテル前午後二時。気合も格好もばっちり決めて、早く行きたくて腰も座らない状態だが、 自宅から直接ではなく、わざわざ「テロメア」に寄り道したのは、あす、流川が帰ると知っているからだろう。
 仮にも二十日間。僅かな時間とはいえ全力でぶつかり合った相手だ。
 どシロートだの、そのガタイは飾りかだの、目ぇどこにつけてやがるだの、センスねーだの、ブルドーザーだの、 見掛け倒しだの、あらん限りの罵詈雑言を投げかけられ、それを拳で返してきたムカツク相手だが、同じ釜のメシならぬ 同じボールを奪い合った仲。最後くらいはコート上以外の思い出でも共有してやってもいいと想ったのだろう。だが、 早く行こうぜと顎をしゃくった流川の反応はにべもなかった。
「祭り? オレも行かなきゃなんねーの?」
「だぁっ! てめーニホン人の心をなんて心得てやがるっ。ニホンの夏は祭りに始まって祭りに終わんだっ。ゴコク ホウジョウとムビョウソクサイを祝ってだな、神さまにそのお礼をしねーヤツに、米のメシは食わせてやんねーぞ!」
「てめーが田畑耕したわけじゃねぇくせに」
「あんだとぉ!」
「ひとに押しつけんじゃねー」
「お囃子聞いて、なんとも感じねーって、てめー、神経ブチ切れてんだろっ」
「ガキじゃねーからよ」
「つまんねーヤツ」
「はいはい、ふたりともそこまで。流川もせっかくここまで来て、夏休みの思い出がバイトとマンツーだけってのも 不憫な話しだろ。牧さんの温情と去年からの慣例と桜木の熱意をくみ取って、ほれ、腰を上げろ。ワタ菓子買ってやる からさ」
「センドーっ。オレさまはひとの道を教えてやってるだけだぞ! だれが熱意だっ!」
「あぁ。そうだった。そうだった」
「ちっとも分かってねー!」
 あちこちに擦過傷と殴りあったあとを残しながらも、知覚しているのかも分からない胡乱な腕を引いて、まだ半分寝 こけている躰を立たせても、寝足りねーと不機嫌まっ逆さま。桜木の方も口の端を切った見事な面構えを気にもせずに、 パンと法被のヨレを治していた。
「んな、ベタベタするもんいらね」
「じゃ、焼きモロコシにしよう。なんか、醤油の焦げた匂い、想像しただけでヨダレ出てきそうだ」
「アレ、歯に詰まるし」
「こんの、ワガママもんがっ!」
 飴をチラつかせても動かないなら置いてくしかないかと諦めたとき、説得なんてまどろっこしい手を知らない少年は、 有無を言わせない強さで流川の腕を引いて玄関ホールを出て行こうとする。驚いてそれを振り払おうにも、ハラのたつ ことにこの体格の差での抵抗は取られた腕を痛めるものでしかなかった。
「なにすんだっ、このばか力ヤロー!」
「メガネくんが待ってんだろうが。手ぇ、煩わせんじゃねーよ」
 だから行かねっつってんだろうが、という反論を聞き流し力にものを言わせた桜木の膂力に半ば関心しながらも仙道は、 そういう手段もあるけどオレは使えないなと、ふたりの後を追った。



「わぁ、結構大きな神社なんだね」
「縁日なんか久し振りだわ、あたし」
「あたしもっ!」
 女性客三人を含む合計六人を降ろしたマイクロバスは、ホテルに帰るときは毎時三十分に出発するから、神社前集合だよ、 という木暮の言葉を残して走り去っていった。
 境内から参拝道へ向って一直線に伸びた提灯が、ひかり彩られるまでにはまだ間があったが、華やかな浴衣姿の女性客 や、お堂から聞こえてくるお囃子がお祭り気分を盛り上げてくれる。同じように石畳の両脇に並んだ出店からは、 正真正銘テキ屋の兄ちゃんの、威勢のよい声がかかっていた。
 たこ焼き、おでん、リンゴ飴。金魚すくいにスーパーボールに射的。当て物の景品なんて、いまどき小学生でも喜ばない ようなショボいものばかりなのに、意地になってわっかを握ってしまうのもこんなときだけだ。
 昼食を取ったばかりだからお腹がすいているわけではないが、浮き足立つような雰囲気と、雑多に入り混じった 匂いに鼻腔は刺激され、ついつい足を止めて覗き込んでしまうのだが、まず本殿にお参りしてからだろうと、当然の ように桜木は顎を上げている。その律儀さに負けて、一同とりあえずお賽銭を放って柏手を打った。
「ここってなんの神さまなんだ、って。わっ。安産祈願から商売繁盛までなんでも来いか。ま、やっぱ、アレだな。 いまは、流川と桜木が来春、無事に高校合格しますように、だな」
 と、両脇で深く頭を垂れた真っ赤なリーゼントと十度くらいは傾いたぼさぼさ頭を見比べれば、
 「神さまは願いごとなんか叶えてくれねー」と、「自分でなんとかする」との声が同時にかかった。心構えは百八十度 違ったところから発生しているけれど、安易に願わない意気込みもタイミングもばっちり合ってきている。結局このふたり は表現方法が違うだけで似たもの同士なんだ。
 自分なら、きっと拝んで得られるものならなんでも頂いちゃおうと思うだろう。
「花道っ」
「おう。来た来た」
「おまえ、ウチに呼びに行ったのにどこ消えてたんだよっ!」
 桜木の友人たちなのだろう。本殿前を離れて歩き出すと、たこ焼き屋の暖簾から大中小四つの頭がゾロリと出現した。
 失礼極まりなく流川が驚いて目をパチクリと瞬かなくても、リーゼントにパンチパーマに髭面の由緒正しき田舎の ヤンキーたち。こんな絶滅品種はひとりだけじゃなかったのだ。
「わりぃわりぃ。ちょっとな。『テロメア』寄ってたんだ」
「ははぁ。『テロメア』ね。じゃああんたがセンドーで、おまえがキツネくんなわけか?」
 一団の中でもそう大柄でもない少年がひとり前に出て、ふたりを見比べる。受けて流川の瞳がモロ剣呑さを増すが、 それをスルリといなして肩を竦める仕草がやたらと堂に入っている少年だった。
「オレは水戸っていいます。『テロメア』のセンドーさんのウワサは耳にタコが出来るくらいに聞かされててさ。いっつも 叶わねー、どうやっても叶わねーって、ど素人の分際で頭抱えてんだ、コイツ」
「はは。そりゃ、どうも」
「でもさ、この頃は小奇麗な顔してるくせに、信じらんねーくらいに口汚いキツネくんの話しもよく出るぜ」
「よ、よーへーっ。つまんねーこと言ってんじゃねーよ!」
 無表情に徹した流川と、真っ赤になってオタオタし出した桜木の間を裂くように水戸はふっくらと笑った。
「いいじゃねーか。ほんとのことなんだから」
 そして今度は流川だけにヒタリと視線を合わせる。
「コイツんな面してさ、スポーツってガラでもねーのに、エラいはまりようでよ。どうしても負けたくねーヤツがいる から高校行ったらバスケ部入るかもとか言ってやがんの。笑っちまうだろ。身の程を知れってもんだけどよ、なんか 結構本気みたいで、オレらとしてもイチオウ止めたんだけど、聞かねーのよ」
「だから、なんだっつってんだ」
「目つきわりーってほんとだな」
「なにが言いてーんだ」
「これからもよろしくしてやってくれよって話し」
「オレ、あした帰んだけど」
「らしいな。けどバスケしてたらどっかで会えんだろ」



 束の間、ほんとうに珍しいことに呆けたような表情を乗せた白皙は、キュっと音がするほどに厳しく引き絞られた。
 そう。桜木がどこの高校へ進むのかは知らないし、この辺りにバスケの強豪高があるかどうかも知らない。けれど、 喩え所属したチームが弱小であっても、バスケにかかわっている限り、名のある選手は音に聞こえてくるものだ。
 バスケをタマ入れごっこだと勘違いしていたあのどシロートは、それほどの存在になると仲間たちに息巻いて いるのだろう。
 高校から始めるくせに。ほんの取っ掛かりを覚えただけのくせに。先を進む流川の目に止まるつもりでいる。
 バカじゃないのとは思わない。だれもがそうやって初心者から始め、なにかを目指して気の遠くなる基礎練を繰り返す のだから。
 そしてオレも。
 膿んだ中学生活から離れて、新たなターゲットを見つけた。
 桜木から仙道に視線を移した流川に、花道も本気っつーことでと、水戸はニッコリと笑った。それ以上なにも言うなと ばかりに、水戸の首筋に腕を回してその場から引きはがした桜木は、仲間を追い立てると一度振り返り、「すぐ、帰んなよ。 祭りに来たら遊んでくのが神さんに対する礼儀だっ」と、なおも言い重ねていた。
 自分にかかわる総てのものをバスケとバスケの勝負のみに変換してしまう少年に対して、こんな他愛のない楽しみ もあるんだと言いたかったのかもしれない。
 ただし、相当しつこかったけれど。
 それは少し、流川につうじただろうか。
「だって。流川」
「フン。おせっかいヤロー」
 来たくて来たんじゃねーと、あらぬ方向を向いて揺れた黒髪を仙道はくしゃりとかき混ぜた。
「けど、宣戦布告だな」
「ありえねー」
「おまえも嬉しいんじゃねーの?」
 あんなふうに自分の土俵に引きずり込んで、同じベクトルを強要する相手なんか、いままで知らなかったに違いない から。
 だからそう知覚した瞬間に自然と手が流川に向って伸ばされていた。
「なに?」
「迷子になったら困る。手ぇ引いててやるよ」
 想いは宙に浮いて、それを素直に受け取るような流川じゃなかったけれど。
「ガキじゃあるまいし、はぐれたところでどーにでもなる」
「ダメだよ、流川。おまえが先に手を差し伸べたんだ。今度はオレが差し出す番。いったんコートを離れると、おまえ、 なにもかも放り出したように投げちまうから」
「んなこと――」
「あるんだよ。おまえの目標はオレ。それ以外は認めねー」
「さぼりまくってるくせしてなに言ってやがる」
「オレ、大学に戻ることにしたよ」
 出店と出店の間の木立から漏れる柔らかな日差しを浴びて、仙道は流川と向き合った。






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