「大学に戻ることにした。ちょっと長い夏休みだったけどな」
穏やかな風がさやと流れて流川の癖のない髪をなぶる。軽快なお祭り囃子がどこか次元の違う遠い場所での出来事の
ようだった。隣で女の子たちがなにか悲鳴のような歓声を上げているが、目にも耳にも止まることなく、ただ、ふたりして
相手の真意だけを受け取ろうとした。
仙道が丸く笑む。それがいままでとどう違うのか区別なんかつかない流川だったけれど、この男と真正面を切る
心地よさだけは自覚できる。前に、『行くな』と叩きつけた言葉を拾って咀嚼して、仙道はこの位置にいる。
自分だけを見ている。
「ほんとか?」
そんな問いだけが口をついた。
それを知ってなぜ語尾が震えるのか分からないけれど。
「ああ」
「なんで、急に――」
「いつまでも不恰好なことしてらんねーからな。自分に対してもおまえに対しても」
「じゃあ――」
「ん?」
絡み合っていた視線を一度外して目が泳いだあと、スっと正面を見据えた流川に対して、ここが衆目なのを忘れたように
一歩踏み出した仙道の腕を、女の子のひとりがいとも簡単にグイと引っ張ってきた。
完全に忘れてた、お客さまの存在を。でもいいところだったのにと尖ろうものだけど、天性のフェミニストは、
とことん顔に出ない性質だ。
「大学に戻るって『テロメア』辞めちゃうってこと?」
「ん、まぁ」
「え〜、残念。でも大学ってどこだっけ? 東京?」
「いんや、神奈川」
「大学でバスケしてんだよね。それも戻るってことだよねっ」
「そうなるね」
「え〜、嬉しいっ。いまよりも断然近いじゃん。あたしたち応援に行くからっ! うそぉ。仙道くんがバスケしてる
とこなんか想像しただけで眩暈起こしちゃいそうだよっ」
ありがとう、とこれっぽっちも心がこもっていない言い草でも、流川の位置から見れば満面の笑みを浮かべて両手を
広げているようにしか見えない。
自分に向ってほんの一歩。でも確かに触れ合いそうなものがあったというのに、それを遮られてもこの態度だ。
ジリジリと身の内で焦げつくものの正体に、正真正銘手を焼いて睨めつけると、女の子たちを向いていた仙道の視線だけが
申し訳なさそうにチラリと動いた。
「仙道くん、見て見て。ミニフープがある」
女の子のひとりが指差した先、小さなフープが五つほど並んだ屋台があった。天井が低くてボールもゴム製だから、
下から放ろうがフォームが目茶苦茶だろうが、どうとでもなるシロモノだ。それをひと組のカップルが嬌声を上げながら
興じている。
「あ、ほんとだ。やって見せてよ」
「これで復帰祝いって変? でも、シュートしてるとこ見たい」
「流川くんもやらない? ふたりで競争しなよっ」
「やって、やって!」
おねだりモード全開の彼女たちだが、ほんとうにふたりがこのゲームに興味を示すとでも思っているのだとしたら大した
ものだ。
しかもなんで復帰祝いに縁日のミニフープに正対してお手軽ボールを放らなければならない。自分たちの分野だからって
得意になってホイホイとそれを手にするとでも思ってるのか。
それなのに、隣の男は眉を下げただけで、きっぱりとした拒絶を示していない。
コートを離れると視線が定まらないのはどっちだと言ってやりたかった。
だめだ。こんなところじゃ太刀打ちできない。
「もう飽きた。帰る」
流川は、何度もそうしたことがあるかのように、自然に手を伸ばし仙道の腕を取った。取って力を込めた。
唯一のものを引き戻すために。
「えっ。ちょっと待ってよ。来たばっかじゃん」
「流川くん、帰っちゃうの?」
「なんで?」
「神輿奉納、見ないのか?」
仙道の大きな手は痛いほどに掴まれた腕を流川の指ごと包み込む。言葉とは裏腹にそれを外そうとはしなかった。
「見ものらしいよ」
「いー。お賽銭もあげたし、まだ日暮れには時間がある。ほんもののバスケがしてぇ。あんたが付き合え」
「綿菓子買ってやろうと思ったのに。この我がままもん」
――この我がままもん。
たぶん、それはいまにして最大級の褒め言葉。
「あした、帰るから」
そう言って男の腕を取ったまま流川は足早に歩き出した。
ここで二十日間の最後の一日を過ごすのもいいけれど、どうしてだか、もったいないと感じてしまう。祭りに来たら
遊んでくのが神さまに対する礼儀だと桜木は言ったけれど、たぶんもっともっと子供の頃に行ったっきりのこんな喧騒を、
ちょっとでも味わったんだからこれ以上は無理をする必要もない。
背後で女の子たちの不平と不満の声を上げているが、そんなものはなんの抑止力にもならなかった。
だって。
「しばらく、できないかもしんねーから」
これで最後だからとは言わない。絶対にまた会える。忌々しいのは高校受験。どうもこうも身動きが取れないから、
会えたとしても間違いなくいま以上に差が開いてしまうのがなによりも悔しい。だけど、あのホテルで出会って、
惹かれたいまはきょうで幕切れだから。
だから、どうしてもあんたとマンツーがしたい。
乱暴なくらいに腕を引いて、ズンズンと人ごみを抜けてゆく流川の背中だけを見ながら、仙道も素直にそれに答えた。
「同感」
神社前のマイクロバスで待機していた木暮も、ふたりの姿を認めてもう帰るのかと呆れ顔。こんな時間に戻って来る
者なんかだれもいないと思っていたからだ。
「え、またバスケするのか?」
相変わらず流川だなぁ、と木暮は変な納得の仕方をした。そのひと言で収まるくらいに、おまえ変わってんだぞ、と
付け足してやると、敵は慣れてるんだろう、どこ吹く風だ。
バスは予定時刻きっちりに発進し、山間を縫ってホテル駐車場に到着するが、停止する間も惜しいとばかりに流川は立ち
上がる。扉をこじ開けるように外に出た少年の背を見送って、木暮はホトホト困り果てた顔をした。
「おまえさぁ、アイツの首に縄つけて暴走するの止めなくちゃいけないんじゃない?」
「無理すよ、木暮さん。バスケしたいモードに切り替わった流川をだれが止められるって?」
「そりゃそうなんだけど、完全に停止するまで立ち上がらないでください、だ。危ないだろ。けど、なんか流川の人生
そのものって気がする」
「同感です」
そんなに慌てなくてもコートは逃げないしまだ時間はたっぷりある。背を追いかけての全力疾走で、左側に広がる
湖面からの照り返しを弾きながらホテル側面に回り込もうとした流川を、仙道はようやく捕まえた。
ほとんど全員が出払っていて、外も館内もヒソリとした沈黙が落ちている。そんな中、捕まえた流川の腕を取って、
戻る形で正面玄関からホテル内に入る。あまりの強引さと素早さに流川が抗議の声を上げる前に、二十日間、ふたりが
寝泊りしていた従業員用の部屋へ進む。流川の思惑から大きく離れたその手を彼はようやく振り払った。
「痛てぇだろうが」
「分かってる」
「なにすんだっ。バスケは?」
「ちゃんと約束は守る。だから――」
少しだけ、と離れた躰をもう一度取り戻して、仙道は流川を扉横の壁に押しつけた。
密着した躰の圧力だけで抵抗さえも抑え込み、少し顔を下げ、不機嫌そのままで見上げてくる流川の唇に自分のそれを
重ねようとしたが、アレ、と思ったこの角度。もしかして二十日間のうちに少し背が伸びたのかもしれない。目線の位置
が少し上向きになっていると感じたのは仙道だけではなかった。
一度呼吸をついて離れると、表情に少し嬉しそうな色が見とれるのは、間違ってもこの行為のせいじゃない。てめぇ、
と珍しくも凶暴な征服欲が頭をもたげてきた。どうも僅かな間で、この少年の影響が自分にも伝播してしまったようだ。
だったら。
他に気を取られないようにしてやろうじゃん。
仙道よりもほんの少し細身の躰を片手で抱いて、空いたもう片方は額を押さえて後頭部を固定した。噛みつく勢いで
斜めから唇を貪り、こじ開け、口腔内を思う存分まさぐって、奥に逃げ込んでいた舌を引き出して絡めれば、ずっと泰全と
構えていた流川の躰がビクリとしなる。ざまあみろと言わんばかりに大人の余裕で翻弄するが、あっと気づいたときには
百八十度回転して、体勢が完全に逆転していた。
逆に壁に追いやられたのは仙道の方だ。しかも少し背伸びした流川の両腕は投げ出されて彼の首筋に回っている。
いや、回して躰を摺り寄せているんじゃなく、どこか威圧じみているのは加減をしらない膂力の強さか、やられた分は
きっちり熨斗を付けてやり返す精神の賜物か。息もつかせない程のネッキングに、耳を覆いたくなるような粘着質な音が
混じり出し、それでも先にガクリと膝が崩れたのは流川の方だった。
「っ、ぁ――」
仙道の躰に沿ってしゃがみ込みそうになりながらも、負けた悔しさと覚えたての快楽とを拮抗させ、肩で荒い呼吸を
繰り返しながらも睨みつけてくる瞳に惹かれて焦がれて、仙道は流川よりも先に廊下に腰を下ろした。
いいなぁと思う。キスした相手にこんな目をされるって、なんか堪んない。これってどういう心理状態なんだろうねと
笑んだ仙道が気に入らなかったんだろう、流川は胡坐をかいた男の首根っこを掴んで立たそうとするが、それがさっきの
リベンジなのか、ただ殴りつけたいのか、はっきり言ってまだ理解出来ない仙道だ。
その境界が余りにもあいまいだから。
「流川」
ねじり上げる流川の手に己のそれを重ね合わせた。勝負じゃないんだから、こうする前にはっきりと言葉にしなきゃ
ならなかったんだ。
「おまえさ、なんか誤解してる、オレのこと。ってか自分のことも理解してないんじゃないか?」
「なにが」
「ちゃんとバスケしたいと思った。おまえのためだけじゃなくってモチロン自分のために。だから戻る。それと
同じように抱きしめたいと思った。なのにさ、なんでそんな喧嘩ごしなんだ? それなのにすげぇ情熱
的に腕回してくるし、どう解釈したらいいわけ?」
そう返されるとは思っていなかったのだろう。少し言いよどんでから彼はポツリと口にした。
「あんたが――」
「ん?」
「あんなことしてくるとは思わなかった」
「そりゃ、思わないよな、ふつー。男同士だし」
「うん。コートの中でだったら、なんとかなるもんが、そうじゃないと無理だし。けど、一方的なんはもっとヤだった」
――だからやり返した、か。
懸命に思いを紡ごうと巡らせている流川のペースに合わせて、待った結果がこの言葉だ。ウソや取り繕い
なんか彼の中には存在しない。無口で無愛想なだけに凝縮された切れ端を拾ってつなぎ合わせるのは仙道の役目だったり
する。はっきりと象ある意味をなさないけれど、ここまで引き出せただけでヨシとしよう。
「オレはさ、神奈川に帰ってもおまえに会いたいって思ってる。バスケだけじゃなくって何回もこうしたいってさ」
「神奈川に帰って、も……?」
「うん。会いてぇよ」
「じゃあ……」
「なに」
「じゃあ。オレを海南大の練習に参加させろっ」
大きな期待はしなかったけれど、しなかったけれど、そのあまりの言葉に。
危うく――この場で押し倒す気なんか――ほんとうに――いまはなく、だが、脱力し切って流川の躰の上に
倒れ込んでしまった。不可抗力だ。どうしようもなくフニャリと力が抜けて起き上がれないのだから。
まさか。まさか。
「おまえ、それっていま考えついたんだよなっ」
どうしても涙目で被害妄想に駆られてしまった。
「そうだけど、なんで?」
いや、中学の部活を引退した身が暇を持て余し――受験という大仕事が残っているんだが――仙道と顔見知りになった
のを機に、関東一部リーグの大学の練習に参加できるかもしれないなんて、流川に限って下心があったとは思えない。
思えないが、この切り替えしの速さはいったいなんだ?
そういやぁ、コイツって最初っからこんなふうに自分を追い詰めてきたよな、と思い出したらやはり笑みが零れた。
一直線に切り崩して風穴を開けるのはいつも流川の役目。だから、点を面体に広げて、あたかも仙道だけが望んだ
象じゃないと、開いた大穴を指差して見せつけてやるのだ。
おまえもムリヤリとおってきた道だぞと。
「参加させろって大見得切ったんだから、それなりの練習をつんどけよ」
「行ってもいーのか?」
「さぁ、試合前は無理だと思え。けど自主練のときとか公開練習とか、チャンスはあると思う。それにしたって、
次に会ったときのおまえの状態にかかってる。ウチは厳しいぜ。伊達に一部リーグに名を
連ねちゃいない。一回きりならどうとでもなるけど、常連になりたきゃ、自分で喰らいついてこい。けど、次におまえ
がなんて言うかだいたい想像がついちまう」
仙道はスゥと呼吸を整えてから、そして同じように廊下に座り込んだ流川が前のめりに吐き出した言葉は重なった。
「「いつから?」」
一度自覚してしまうと、総てが手探りだ。
クスクス笑いながら両手を広げて抱き込めば、言い当てられて憮然としながらも抱き返してくる。最初はいつにしよう
か、九月いっぱいは大学休みなんだよな。ウソ、ウソ。九月のリーグ戦に間に合わせなきゃなんねーし、とそんな科白を
唇に乗せて、もう一度深く合わせようとしたそのとき、
カシャンという耳馴染みのある音がふたりの耳に飛び込んできた。
一階フロアの一番奥まった位置にある従業員用宿所と、事務所を分けたこの廊下の先に開いてある窓は、ホテル背後の
バスケコートが見渡せる。ふたり同時に躰を離し、かくれんぼの鬼に見つからないような慎重さで窓から外に目をやれば、
それは――まだホテルに残っていた藤真が角度のない位置からジャンプシュートを決めた音だった。
チっと流川が舌打したのは先にコートを取られた悔しさから。モチロン仙道はまったく別の意味からだ。毎度なんで
こうもあのひとはタイミングがいいかな。なんでお祭りに行かなかったのかなと、窓から目だけを出して外を見ている
流川の頭を下げようとしたとき、ゆったりとした動きで藤真に近づいて行ったのは牧だった。
あ、と小さく流川が声を上げる。仙道も目を瞬いた。
ゴール下で振り返った藤真が手にしたボールを牧に放り投げた。それを両手で受け止めて片手に持ち替え、牧は一度
大きくバウンドさせる。地面と手を、何度も何度も感触を確かめて、彼はそのままセンターサークル辺りまで
歩き出した。
「紳兄ぃ」
静謐でいて厳粛な雰囲気が煮こごるような中、ドリブルを止めた牧は、腕を――頭上高く持ち上げて、背筋と手の力
だけでそれを放り上げた。シュっと聞こえないはずの音がふたりの耳に届き、少し左にズレた軌道はゴールに嫌われて
ガンとリングの上で大きく跳ね上がったけれど、たぶん、彼が引退してから何年かぶりに見せたシュートなのだ。
ゴール下でそのリバウンドを取った藤真は、牧を抜くつもりで自ゴール目指して駆け上がってくる。一瞬虚をつかれた
ような牧の背中。だが、けしかけてくる相手の動きに反応して、深く腰を落とした背中でもあった。
左右にも上下にも速い牧のディフェンス。それに強さも加えられ、行く手を阻まれた藤真はピボットを使って逃れよう
としたが、手が離れた隙をつかれスティールされたそれは、牧の躰とともに背後へ流れて行った。
その場でワンクッション置いた距離のあるジャンプシュート。
三人の瞳が凝らす中、必要最小限の音だけをたてて、それはリングをくぐった。
はめ殺しの窓ガラスに隔てられてふたりの会話はほとんど聞き取れなかったけれど、こんなキレイにしなる背を向けて
放たれたシュートを始めて見た気がした。
その瞬発力の強さに鳥肌がたつ。
流川を仙道を魅了した牧のバスケだ。持久力では現役時代にとおく及ばないだろう。けれど端から見ているだけで
感じるあの威圧感。身体能力の高さ。瞬時の判断力。
背を向けていた牧が取り戻そうとするバスケだ。
「よかったな、流川」
ついそんな言葉がまろび出た。牧の事情をどこまで理解しているのか、仙道の預かりしらないことだったが、無愛想で
無愛想で無愛想なしたり顔がこれ以上ないというくらいに綻んでいる。やはり彼なりの尺度で心を痛めていたのだろう。
ポンポンと頭を叩いてやったが、いまはそれじゃ困る。
「流川、こっち見ろ」
窓枠の下まで頭を押し込め両手で頬を挟み込んだ。外の様子が気になるのか浮きかける腰もその力で抑える。
「だって、いま――」
「コートはだめ。ふたりの邪魔になるから」
だからこっちはこっちで勝負とばかり、しゃがみ込んだ躰を引き寄せた。ドクドクと重なる鼓動をリンクさせて、
クチュっと小さく唇を合わせる。何度か繰り返すと、たどたどしくも流川の舌が仙道の唇に誘いかけてくる。それを
呼び込んで流川のするに任せていると、
流川の気が逸れても仕方ない音がまた鳴った。
どちらからともなく、ゴクリと喉が鳴る。肩をすくめて、分かった、行こうと仙道が腰を上げると、流川はそれよりも
早く立ち上がって駆け出してしまっている。
やっぱ、どうあってもバスケには負けかな。ジーンズの埃をパンパンと払って歩き出すと、ホテルエントランス辺りで
気が急きながらも仙道を待つ流川の姿があった。早く来いと目が語り、それでも立ち尽くす少年に向って、心の底から
沸き立つ喜びを抑えることができない。
うん、と大きく背を伸ばして。
仙道が流川に並ぶ。
そのとき、またひとつボールがリングをくぐった音がした。
end
あはははは〜(←乾いた哂い)ひと夏の経験って明言した割りにはやっぱり
こんなとこで終わってしまいましたね。 なにせ、あの藤真さまが目を光らせていらっしゃるから、ここではそれ以上
は無理だと相成りました。 続き♪ 勢いのまま書くつもりなんですが、ちょっと休憩。
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