怖ろしく濃密な空間を築きつつあるふたりに対して。
それは受けた日差しよりも激しい眩暈をともなった。
嫉妬? このオレが?
それはなんの衒いも枷もなくコートを駆け続けられるふたりにか。
それともこんな間近にいながらも目線すら合わせられない少年に対してか。
あんな目でひとを惹きつけておきながら、ほんの少し持て余していると、もうそこにオレは必要なくなるのか。
奪ってしまいたいのはふたりの間を行き来するオレンジ色のボール。
取り上げて、余裕面でかかって来いなんて生半可な気持じゃ、もう向き合えない。
流川の執心。
最初に火をつけておきながら、簡単によそ見できるあの秀麗な横顔を両手で挟みこんで振り向かせたい衝動で、
仙道はその場に凍りついた。
「お、仙道のヤロウ。相変わらずよろしくやってやがんな」
ふたりが現実に引き戻されたのは、こちらに気づきマンツーの手を止めた桜木の呟きだった。
流川は発せられた言葉というよりも急に散漫となった桜木の集中力によって。そして仙道は、当の流川から当てられた
乾燥し切った視線によって、想いが立体交差のようにすれ違う。
あまりに場にそぐわない女の子たちの格好と、それを許容している自分に対して、怒りよりも諦観さを表される方が
何倍も所在ない。自分が引き連れて来たわけじゃないけど、華やかなキャミソール
軍団と一緒にいれば流川が絶対に怒ると分かっていた。お客さま商売だからというのは半ばいい訳で、自分なら如才なく
やんわりと断ることもできたろうに。
そうしなかったということは、敢えて確認したかったのか、やはり。
自嘲気味に口の端だけを上げ。
意外と自虐的な自分の性質に、仙道は笑い出しそうになった。
いい訳のように、いまはやけに膝が重く感じられる。
痛むのは、ずっと、ずっと、膝のせいじゃないと分かっているのに。
そう。
年度始めの練習のときに負った左膝の骨挫傷は全治一カ月。あとから聞いた藤真のものとは比べるほどもなく、順調に
そして根気よくリハビリを続けていれば、七月の全日本学生選抜には出場できていたはずだった。
――根性入れ替えてキリキリとリハビリに励めよ。
――いいかぁ。だれもあいつを遊びに誘うんじゃねーぞ。
――おまえ、もうすでに綺麗な理学療法士のおねーさんでも見つけてんじゃねーの?
――学生選抜はおまえにかかってるんだからな。
――コイツに真面目にやれって諭すくらい虚しいことはない。
――ったくなぁ。こんなヤツがウチのエースだってんだから、頭が痛てー。
チームメイトたちからの温かい励ましと小突き足蹴りをくらいながら、至ってマイペースに、主将が言うには息抜きの
合間にリハビリをこなした。当初よりも時間はかかったが、担当の形成外科医から完治のお墨付きももらって、
あの日復帰を果たしたのだけれど。
――あれ?
膝の狂いは上体のひずみを生み、それは即軌道の歪みとなって表れた。
――お、珍しい。ミドルを外してやがんの。
――あれじゃねーぞ。あれじゃぁ。
――ま、仙道のことだから新人戦にはきっちり修正してくるだろう。
――無理すんなって。まだ時間はある。
――頼りにしてっぞ。
――復帰、楽しみにしてるからな。
そう、時間はある。
オレは海南大のエースだ。
確かにそのときは軽く考えていた。身体的なものではない。一カ月と少し、ゲームから離れボールに触ることもなかった
負目が精神的なブレを引き起こしているに過ぎない。そんなものすぐに取り戻せると気軽に構えていたら、
次第に決まらないことが恐怖にすりかわり、コートに立っても冷や汗ばかりが滴り落ちていたのだ。
――突然、乱視になっちゃいました。なにも変わらないフォームのはずなのに、ボールだけがあさっての方向へ行っちゃう
んすよ。
仙道の本音を聞いたのは、六月に行われた関東大学新人戦の応援に来ていた牧だけだったかもしれない。
怖いなんてひと言も口にしなかった。そうすることによって事態が確定のものとなる。なんで手に腕に肩に馴染まない
んだろう。シュートチャンスを畏れるエースなんてシャレにもならない。
試合の帰り、ひとり言のようにそう零すと、偉大なるOBは少し逡巡したあと、
――少し、バスケから離れてみるか。
と、彼を誘った。
感覚を取り戻すまで、いまは血反吐を吐きながら闇雲に練習をした方がいいのだろうが、おまえにはナゼか似合わないと
言って笑った牧の言葉を受け、翌週にはチームメイトに背を向けてこのホテルにやってきた。
休部させてくださいと告げたときのみんなの顔が、いまの流川のそれとかぶって、まるで地面に縫いとめられたように
その場に立ち尽くす男を少し不審に思いながらも、桜木は軽快に重ねてきたのだ。
「仙道。時間がねーんだから早くしようぜ。おめーがいねーと、キツネのヤロウが機嫌悪くてよ」
「だれも機嫌悪くなんかねー」
「なに言ってやがる。つっけんどんがいつにも増して、トゲトゲになってんだよ、てめーはっ」
「それはてめーがヘタクソ過ぎるから」
「思いっきりセイサイ欠いてるヤツにヘタクソ呼ばわりされる覚えはねー!」
「てめーには一本も触らせなかった」
だから仙道は関係ないとばかりに背を向けられて心震えるものがあった。だから瞳以上に多くを語る背中に向けて、
「流川」
と、つなぎ止めるように手を差し出すと、拒絶の色濃い肩が小さく反応し、奇妙なくらいの間を置いて躰が開いた
そのとき、
「見てたらさ、バスケしたくならない?」
キャミソール軍団のひとりが仙道より先に前に出た。
「いいねぇ。あたしたちも混ぜてよ」
待てと止める間もなく彼女たちはワラワラとふたりに群がり、桜木のかいなに挟まれていたボールに手を伸ばす。
彼はほんの少し流川の方へ身じろいでそれを防ごうとするけれど、健康的で肉感溢れる肢体がいくつも迫って、
真っ赤になったままの、見た目ヤンキー本質純情青少年は、簡単にそれを奪われてしまった。
あからさまな流川の舌打が仙道の耳にも届くが、無論桜木に非はないし太刀打ちできるものでもない。
「うん。ちょうど暇だったし。ねぇねぇ、シュートってどうやって打つの? バスケなんて学校の授業で習った
くらいだからさ」
「ボールって意外と重いんだよ」
「知ってるよ」
「そうなの? ちょっと持たせて」
日頃の行いがそんなに悪かったのか。知らない間に蜘蛛の子でも殺しちゃったのか。罰があたるような愚挙を仕出かした
覚えはないのに、よりによってこのタイミングでと天を仰いだ仙道に向け、一瞬ツンドラ凍土なみの荒涼した雰囲気を
纏った流川は、これまた周囲を瞬間ブリザード製造機の中に放り込んだまま、クルリと踵を返してコートを出て行った。
お客さまを睨みつけるなんて、従業員にあるまじき行為だが、さすがに彼女たちも気づいたようだ。
「え、なんで? 流川クン、怒っちゃった?」
「恥かしかったの?」
「いや〜ん。可愛いっ。女は苦手だとか言ってそう」
「シャイなのねっ。美少年はそうでなきゃ」
「仙道くんも一度でいいからそんなこと言ってみたら?」
「彼なら幼稚園ぐらいのときから先生相手に口説いてそうじゃない?」
「違うって、産まれたときから助産婦さんに微笑んだのよっ」
「新生児室の隣の女の赤ちゃんとかねっ」
「やだぁ!」
んなわけあるか。やだぁって語尾を延ばしたいのはこっちの方だ。流川の剣幕も思い切り都合よく曲解して、そんな
彼女たちだから仙道の機嫌が急降下したことまでは分かるわけがない。ただ、こんな状況でもたぶん表情はなにひとつ
変わらないから、それもまぁ無理はない。
ストレートに感情を表現するってこんなにも難しいんだと改めて実感した。
けれど、そうか、と仙道は思い至る。
変わらないから、怒っているのか哀しんでいるのか当惑しているのか、なにも変わらないから、彼女たちが気づかない
ものは当然流川にも届かない。
「じゃ、桜木クンでもいいわ。教えてよ。ボールはどう? どう持つの?」
「え。オレっすか?」
このまま背を見送ってはいけない。届かないなら、届けなきゃならないものが確かにある。
だから。
彼女たちの興味がもうひとつの玩具に向いている間に、小さく手で謝る仕草をして、仙道は足早に流川を追いかけた。
「流川っ。待てよ!」
ホテルの裏口を開け放って飛び込んだ廊下。左右を見回しても、そこにはもう少年の姿はなく、足が早いのはコートの
中だけにしてくれよ、と仙道は大きく息を吸い込んだ。
流川に、休憩時間を切り上げて厨房に向い、お昼の賄いを手伝うような殊勝さ
はないだろう。だとしたら、汗を落とすために浴場か、それなら先に着替えを取りに自室へ向ったか。
いまホテル内で機能しているのは昼食準備中の三井たちくらいなもの。扉を隔ててしまえばシンと静まり返った館内には、
なにひとつ示唆する物音は聞こえてこなかった。
それでも流川を追おうとする自分がいる。追いかけてちゃんと向き合って、いい訳でもするつもりなのか。
いや、たぶん逸らされてしまった彼の視線を取り戻したいのだ。取り落としてしまったものを手にしたいのだ。
二カ月間を無為に過ごし探しあぐねいていたものが凝縮された存在。
自分に足りなかったものを特別流川が持っている
わけじゃない。流川が至高のものと捉えているバスケに、背を向けたからといって卑下する必要もない。また、ただあの
真摯な姿に打たれただけでもないだろう。
同じような立場に陥ったとき、流川は流川なりの方法で回避するだろうけれど、自分はこうやって周囲を断絶し、ウチに
溜まった澱を洗い流そうとしたに過ぎない。
間違ったとか逃げたとかではなく、あのとき牧がいてくれてほんとうにありがたかったと思っている。
ただ、ほんとうに、ただ。
それほどまでに流れ込む奔流の最初のひとしずくが愛しくて、その言葉が聞きたくて、仙道は廊下を急ぎ、全開に
なっている自室に躰を半分ほど入れて扉をノックした。
そして、二段ベッドの下段に頭を突っ込んで、バッグの中から着替えを取り出している頑なな背を見つける。
「悪かったな。せっかくいい勝負してたのに邪魔しちゃって」
届いて、ゆったりと振り返った流川と、目線が行き交う。ほんとうに久し振りに正面切って顔を合わせたような気がした。
驚きと怒りと喜色とがない交ぜになった瞳に後押しされて、仙道は部屋に足を踏み入れた。
流川は疲れたように体勢を戻すと、ベッドを背もたれのようにしてその場にしゃがみ込んだ。だから見下ろすような
格好で仙道も扉に背を預ける。
「イチオウ、これでもきのう相手出来なかった分まで取り戻そうって思ったんだけどな。でもお客さまも蔑ろに
出来ないし、で、中途半端なことしちまった。桜木にもおまえにも悪かった。けど、ちょっと目を離しただけで飛躍的に
伸びちゃうのがいまのおまえたちなんだな。桜木をあそこまで引っ張ってゆけたのはおまえだからだ。
大したもんだよ」
しゃがみ込んでいる流川はコトンと重そうに頭を横に傾けると、絞り出すような声を出した。なに見当違いのことを
言ってやがるんだと先に目線が語っている。
「桜木の目標もオレってわけじゃねー」
「そうか? でもすんごい勢いで食ってかかってたじゃないか」
「あんただ。あんたを倒したいからオレにすり替えてるだけ」
それはちょっと違うんじゃないかなとも思ったけれど、それは言わないことにした。話がややこしくなるのは本意
じゃない。
さっき、キャミソール軍団に迫られたときだって、どうもこうも流川を庇うような動きに見えてしまったのは、
この際どこか隅に追いやって、無意識の行動なら藪をつついて蛇を出す真似は避けたいものだ。
だから情感たっぷりに、
「おまえが変えたのは桜木だけじゃない。目の前であんな激しいマッチアップを見せられちゃうと、いくらノーテンキ
に出来てるオレでもおちおちしてらんねーよ」
そう告げ流川の目の前で膝をついた。
目線が同じ。雑多な色を含ませた言葉と視線を覗き込むように返してくる少年に、たぶん仙道の想いの総てを理解して
いないだろう少年に、伸ばそうとする手を止めなければならない枷はない。当の本人が先に取っ払ってくれたというのが
仙道の言い分だ。
「だったら、さっさとコートに来ればいいのに」
「うん」
「トロくせーからあんなのに捕まんだ」
「そうだな」
「嬉しそうな顔しやがって」
「それはないって。困った顔してた。これがな。分かるか? 嬉しそうじゃないだろ?」
仙道は自分の顔を指差して、め一杯困惑してますの表情をつくったらしいが、流川に言わせれば、全然変わんねー、だ。
「まだ一回しかあんたを抜いてねー。それも本気だったかどうかも分かんね」
「う〜ん。そんなにあっさりヤられちゃ、大学生としてのメンツが丸つぶれってなもんで」
「年は関係ねえだろ。そんとき本気かどうかだけだ」
「それ相当にな」
「それが一番ムカツク」
オレはいつでも死ぬ気で追いかけてたんだと、目元が揺れて、それでも凄む漆石色の瞳が射殺さんばかりの苛立ちを
伝えてきた。
「時間ねーのに。あとちょっとで夏休みも終わっちまうのに」
「そうだな。大切にしてかなきゃな。おまえ、マンツーだけじゃねーぞ。夏休みが終わるってことは宿題も終わらせな
きゃなんねーってことなんだから」
少し調子を変えて揄うと、違うだろう、と流川はもたれていた上体を起こして、ダンと仙道の目の前で両手をついた。
「なに言ってんだ、あんた。いつまで、んなとこにいるつもりなんだっ。いつになったらてめーはちゃんとしたバスケに
戻るんだ!」
ちゃんとしたバスケ、か。
女の子たちに囲まれてヘラヘラしてた仙道彰に対して怒っていただけじゃないんだ。
でもなんだろう。もう少しこの怒りを間近で身に受けていたいなんて、やっぱどっか変?
頼りにしているでもない。無理をするなでもない。真面目にやれでもない。楽しみにしているでもない。そして停滞
してしまった自分を諦めるだけでもない。もっともっと純粋な怒りをぶつけられ叩き落としても、それでもまだ怒りを
顕わにする少年。
そんな権利はどこにもないのに、仙道の生活スタイルとバスケに対する姿勢にまで自分のスタンスを押しつけ、
さも当然のように唾棄する少年。
なんの説明もいい訳も必要とせず、事情も理解しようとせず、同じ速度で走り抜けとプレスをかけてだれ憚りない
少年。
これほどに心地よい希む以上の渇望は、仙道に己の中で燻っていた飢えを認識させた。
あの日牧に言われたのだ。
喉から手が出るほどに飢えるまで、離れてみるかと。
その手は、喉どころか全身からのたうつような蠕動は、オレンジ色のボールごと、この少年に向かってうごめいていた。
意識なく辿った指先は流川の頬に行き当たり、そのまま耳朶を挟んで髪をすく。しっとりと汗を含んだそこは戸惑いを
覚えるほどに手に馴染んだ。
扉、ちゃんと閉めりゃよかったかな、と膝で一歩近づきながら瞬時にそう思った。このままそれを閉めるために立ち上
がるのは余りにも格好が悪いのだけれど、密室にしてしまってなにをするつもりなのかを考えているうちに、もう
片方の手も同じように動いて、流川の両頬を包み込んでいた。
だが、鼻先が触れ合うばかりの至近距離に驚いているのはお互いさま。いつの間にその位置まで近づいたのか。
いつの間にその位置を許したのか。戸惑いと昏迷とがぶつかり合い、先に絡み合ったのは互いが吐き出した呼気だ。
「これが嬉しそうな顔」
「さっきとどう違う?」
詰めた間合いを破って隙をつく。なんで分かんねーかなと、その尖った形の唇に触れようとしたそのとき、
「流川、仙道。メシ。呼びに来てやったぞ」
神の鉄槌か、魔王のいかずちか、はたまた救いの女神か。扉に背を預けて腕を組んでふたりを見下ろしていたのは、
だれあろう藤真健司そのひとだった。
continue
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