流川楓の中学生活最後の夏は、頃合を見計らって現われるようになった桜木を交えた仙道との三人で
ボールを奪い合い、そのあとのお約束の数学で競い合いいがみ合い、指導担当の男に呆れられながらも何事もなかった
ようにゆっくりと過ぎていった。
藤真の話しを聞いてからこっち、気づけば流川の視線は彼の膝の動きに当てられることが多かった。痛ましいまでの事故は、
アスリートにとって身につまされるどころではなかったからだ。
歩行は問題ないのだろう。小走りして
いる場面もお目にかかったから、日常生活には支障がなさそうだが、一日の業務が終わったとき、立ち仕事による
疲れからか、少し庇う仕草を見せると、決まってその場に牧の手と気遣いが存在していた。
からかいながらも重い荷物を肩代わりする。それに文句を返しながらも素直に任せる。時間が空けば休むように
言葉を添え、藤真でなくてもいい仕事には可能な限り花形を押す。流川からすれば、瑕の舐めあいでしかないような
関係だと思う。けれど、何度も目にするうちに、絶対に揺るぎない思慕をゆったりと編みこむふたりに対して、
だれの介入も口出しも不必要なんだと思い知った。
三本で止めるんじゃなくて、もっとシュートを打てたらいいのに。
一緒にマンツーできたらいいのに。
紳兄ぃも藤真も。
そう思って彼らに注いでいた視線を戻すと、その日なぜか仙道のそれとぶつかった。
「――?」
業務の合間、あるいは休憩中、女性客と親しげに顔を寄せて笑い合っている仙道を目で追ってしまうことがあっても、
その視線に気づいたあの男は、いつだってふんわりとした笑みを送ってくるだけだ。
避けるわけでもなく、確かめるわけでもなく、同じ部屋で寝泊りしながら、他のメンバーたちに接するのとなんら
変わりない親しさと気軽さで流川に触れ微笑みかけてくる男に、もう二度と悋気を起こしたようなもの言いはしない。
叩きつけた言葉は戻らないけれど、サラリと流されて返るものがないものに、それ以上固執する手立てを流川は
知らなかったからだ。
いま、ケツをまくって帰ったとしても、逃げたことにはならないと思うけれど。
なにかにつけて突っかかってくる煩い赤毛サルと博愛主義の権化のような男に挟まれて、毎朝定期的に行われる
マンツー勝負に未練があったから。藤沢の自宅近くの公園でひとり練習をしていても得られないものがあるから、
払えない雑多な心情を持て余しながらもそこに身を置いていた。
だからじっと視線を当てられ、なんか用かとばかりに剣呑さを増すと、仙道は実に不可思議な顔をして肩をすくめる。
交差するものがなにもなく、そのまま踵を返して、互いが背を向けたふたりだった。
「流川。桜木。お子ちゃま口のふたり。スプーン持ってこっち来い。新作のケーキの試食をさせてやる。あり難がれ」
朝いちの納品に来たついでに、そのまま「テロメア」の仕事を手伝うようになった桜木と、競い合って朝食の片づけを
済ませたころ、厨房から藤真のそんな声がかかった。いかついヤンキー面の男はああ見えて甘いものに目がない。
流川だって、皿の上に並んでいたら残さず頂く。つまりザルでワクな左党集団にあって、イレギュラーズのふたりだけが
藤真の芸術作品を前にして怯まない貴重な人材だったのだ。
「おー。ほんとはよ、んなに甘ったるいもんは得意じゃねーんだ。もうガキじゃねーからな。けど、補欠くんの菓子は
結構いけるから、味見してやるぜ。喜べ」
嬉々として前のめりな桜木と、取り合えずなんか食えんのか様相の流川の前、厨房のど真ん中で相当なスペースを
占めているステンレスの調理台の上に、それぞれ二種類のケーキが綺麗にデコレートされた皿が並べられた。そう言い
切ったものの、強面ヤンキーツラの顔いっぱいに、うまそう、の四文字が大書きされてあるのはだれの目に明らかだ。
「小難しい正式名称なんかどうせ右から左だろう。要するにオレンジソースのチョコムースと洋ナシのババロアだ。
クソ暑いからってソルベだのアイスクリームだのって、いかにも芸がないからな。ちょっとどっしりとした
甘さをウリにした。旨いなんてのは聞き飽きた。なんでもいいから感想を言え」
繊細な指先仕事だのセンスがあるだのと大言を吐くだけのことはある。藤真のデセール(デザート)は、まず彩りと
香りで惹きつけるんだよな、と仕込み中の木暮が目を細める中、目で楽しむなんて高等技術、望むべくもない欠食気味の
中坊ふたり、皿をわし掴むと、とりあえずスプーンは使ってやっているとばかりにパクついた。
もう少し厳かに食えないのか。既に試食係りの人選は誤りだったと、後悔が頭をもたげている藤真に向け、すでに
チョコムースを丸呑みした桜木の第一声は、あろうことか「冷めてー」だった。
その表現に、見た目を裏切る気の短さを誇る天才パティシエが――もの静かにキレた。
「冷たいってなんだ冷たいって。んな感想しか言えねーのか、このサル。そんなに冷えたきゃ、氷でもかじってろっ」
やおら桜木が抱えている皿を奪って、もうおまえには食わせないの意思表示は大人げないが、半分残ったデザートを
奪われた桜木も当然黙っちゃいない。
「なんでもいいって言ったじゃねーかっ。返せっ! まだ食う!」
「おまえのひと言で、オレの苦労が全部台無しだ。やる気がなくなるんだよっ」
「旨いと冷てー以外にどう言えってんだよっ! 不味いって言ってねーだろが!」
「どう旨いか聞いてんだよ。おまえには語彙がないのか」
「食いもんは旨いか不味いかしかねーだろ!」
「幼稚園児!」
哀れ、いまにも神聖なる厨房が格闘場へと変わろうとしたそのとき、
「あれ。みんなして仲良く試食会ですか。いいな〜」
と、流川の肩口辺りから一触即発状態に水を差す長閑な声がかかった。目の前の騒動に気を取られていたせいで、
いつ後ろを取られたのか。そしてどこから登場してやがんだと、流川は思わず躰を引くが、絶対にこの男はそんな反応
が返ると分かってやっている。
「いいな〜って、甘いもの食えないくせになに言ってる」
「食えなくないですよ。酒のアテに幾らでも食べちゃえるから」
「おまえは、そこの土産の牛肉しぐれ煮でも食っとけ」
常連客からの差し入れの折箱を顎で示すが、仙道はババロアをすくったスプーンを持ったまま、毛並みを逆立てて
いる流川の肩を抑えるように背後から問うてきた。
「すげぇいい匂いしてる。オレンジソースとチョコの組み合わせって面白いですね。洋ナシの方はどうだった?
おまえの感想は?」
嫌がらせか、このヤロー。
耳元近くでの囁きに、瞳に険を乗せほとんどヤケクソ気味に言い放つ。
「砂糖の味がした」
「け、てめーの味覚の認識は砂糖と塩だけかよ」
律儀に反応してカラカラと大笑したのは桜木。藤真は仙道と流川――ふたりの微妙な立ち位置とまとう空気に視線を
絞っていた。
「じゃあ、てめーは冷てーの他に説明できんのか」
「う、え、あ――」
「母音だけで喋んな」
「砂糖の味たぁ、まんまじゃねーか」
「冷てーよりマシ」
「そういうのをドングリの背比べってんだ」
「四字熟語的に言ったら大同小異かな」
「目くそ鼻くそを笑うとも言う」
「藤真の口から『くそ』、はよくないよ」
「こいつらを言い表すのに、他に言いようがあるか」
下ごしらえの手を止めて乱入した木暮も加えてたやりとりを楽しそうに見守っていた仙道は、流川の手首をひょいと
持ち上げて、スプーンですくったままだったシャルロット・オ・ポワール――洋ナシのババロアをパクリと口にした。
「お、――」
オレのババロアと言ったのか、オレが口をつけたスプーンと言ったのか、それとも過剰なまでの接近か。流川は放電
しそうなくらいにピリピリしている。ひとの悪い笑みを浮かべている男に対して、これ以上引きずられてたまるかとは、
自制心を総動員しての虚飾だ。
だが、そんな肩肘の張った態度もなんのその、仙道は掴んだ流川の手首ごとスプーンを口から離すと、ぺろりと唇を
舐めてからニコリと笑う。
「ラム酒がすごく抑えられてますね。だからバニラの風味が生きてるのかな。外が優しいから中の洋ナシの甘さとの
バランスがいい。思っていたよりずっと濃厚ですね。けどコクがあるから嬉しいや」
「嫌味なヤツだぜ、おまえは」
その、あまりにも的確な評論家的感想――だれがそこまで情感たっぷりに捉えろと言った――は、藤真にとって酷く引
っかかりを覚えるものだった。仙道は、特に気負うわけでもないのに、なんでも小器用にこなしてサマになるこの男は、
自分の才の一部をこれ見よがしにひけらかすのを心底嫌がっていたはずだ。たぶん、ひとよりもしおらしく振舞っていて
ちょうど、波風も立たないと理解しているんだろう。
それが彼なりの処世術だったと思う。
学業も部活も人間関係も、そして片手間のこのバイトも。如才なくスルスルと流れに逆らうことなく己のペースで
渡ってゆく。その抜け目なさに、一度どっかで頭を打ちやがれと、やっかんでみても、仙道の場合、これっぽっちも
思い浮かばないのだ。そのシチュエーションが。
けれど、いま、なにか剥がれたような気がした。彼を纏っている鉄壁の外面が。剥がれて棘が見え隠れする。それは
ただひとつの方向を指し示し、その先にある少年の秀麗な面にヒタリと合わせられていると見知って、藤真は小さく
喉を鳴らした。
「それでね、仙道くん。あたし言ってやったのよ、カレシに。。あたしにだって付き合いがあるんだからね、って。
だってさ、友達と会うって言ってんのに、しつこくケータイしてくんだよ。オフ電にしてたらあとですごい怒るしさ」
「わぁ、メーワクなくらいに愛されてるぅ」
「それってヤバくない? フったりしたらストーカーとかに発展しちゃいそう」
「でしょ、でしょ」
長年ひとの手に触れられていい感じにあめ色に変色した階段の手摺を確かめながら一階に下り切った辺り、
エントランスへと続く空間に、フカっとした重厚なソファが六人分とテーブルだけの憩いの場がある。
予定がないのか予定待ちなのか、そこに陣取っていた女性客に、午前中の業務が終了した仙道はとっ捕まってしまった。
バスケコートに行くからと言うと彼女たちは、それじゃ、見学させてと、ゾロゾロついて来る。遠慮してよ、なんて
言えるはずもなく、その合間にカレシのグチを語りだしたのは、ヘソ出しキャミにローライズジーンズという
哂えるくらいに同じファッションに身を包み、同じようなマスカラ強調メイクの女子大生たちだった。
昨夜からの宿泊客で、気軽に声をかけあっていたら、すっかり話し相手にされてしまった仙道だ。
どうすればいいと思うと、ケイちゃんだったか、レイちゃんだったかが口を尖らせるが、別れるなり我慢するなりそれは
もうお好きなようにとしか言いようがないだろうに。もし、カレシのグチをダシに慰めて欲しいんなら、他をあたってく
ださいと言いたい。けど、そんな剣呑さが一向に表情に現われなかったりするから、お客さまも気安くそんな話を振って
くるんだろう。
我ながら胡散くさい笑顔だなと思わなくもない。
それでなくてもいまから昼過ぎまでの貴重な自由時間だ。近頃はもっぱら家庭教師とバスケのコーチに無理から
費やされ、少しは健康的な使い道かなと思うようにしていた初めのころ。いまは女の子たちに取り囲まれ、愚にも
つかないお喋りにつき合わされるのがたまらなく苦痛に感じる。
「ねぇ、仙道くん、聞いてる?」
「え、うん。聞いてるよ」
「いい加減な返事してぇ」
「でもさ、男ってどうして自分は平気で浮気してるくせに女のは許せないんだろうね。どう思う?」
なにやら話しは個人的な話しから一般論に移行していたようだ。だからといってそう問われても返事のしようがないから、
平たく押しなべて当たり障りのない答えを返してやった。
「全部が全部、浮気してるとは限んないでしょ。誠実な男もいるにはいるよ」
「ウソ、ウソ。してない男なんていないよぉ。仙道くんの口から誠実なんて言葉が出ても信用できないっ」
「ひでぇなぁ」
心の中で悪態をつきつつ頭をかきながらホテルの玄関を出て湖沿いに右に折れると、湖面を転がる、目に突き差さん
ばかりの照り返しがきつくて片手で遮った。日差しととも聞こえてくるのは、まるでその勝負が予想できるかのような、バスケット
ボールのバウンド音だ。
流川がこのホテルにやってきて十日くらいだろうか。その翌朝の休憩時間から当然のように少年はコートを占領している。
さっさと相手をしろと言わんばかりに睨みつけ、女の子たちに囲まれて姿を現したら、嫌悪と侮蔑に近い視線を投げ
つけられたっけ。
そしていまは、途中から参加するようになった桜木との格闘技に近い勝負の場となっている。こんなにギャラリーを引き
連れていては、また、流川に嫌われちゃうなと、なぜか重い足取りでホテルの真裏に回った。
「くそーっ。んのキツネヤロー! 次はぜってー止めてやる!」
「てめーにゃ、百年経ったって、ムリ」
「あんだとぉ! チマチマした小技ばっか使いやがって! 正々堂々とショウブしろってんだ!」
そこは流川と桜木のふたりが形成した神聖な場所。初めはたぶんお互いがちょっとした興味から。そして流川が放ち
続ける膨大な熱量に引きずられる形で、桜木は勝負に拘るようになった。
「へへー。そろそろへばりやがったな。おめーの体力の限界とやらは、もうすっかりお見通しなんだよっ!」
「るせー。体力だけ男。んなに走りっ子が好きなら、陸上部にでも入りやがれ」
「けけけっ! 負け惜しみが出たな、キツネ! ごめんなさいって言え。素直に認めやがれ!」
仙道が知る桜木とは、バスケに、と言うより、どうすればあのリング目掛けて豪快にシュートを決めるかだけに
興味がある少年だった。仙道の助言どおりシュートフォームを治そうとするのも、次の技を早く教えろとせがむのも、
色んな形から決めたいという欲望だけだったに違いない。
だから彼も小難しくて嫌気が差す基礎をぶっ飛ばして、そのタイミングとフォームだけを教えてきた。どうやって
ドリブルするのか、どうやって相手のディフェンスを振り切るか、いくつも伸びる手をどうやってかいくぐるのか。
そんなものは必要ないと思っていた。
それが。
流川からのオフェンスにしっかり腰を落として対処しようとする桜木がいる。簡単なフェイクに引っかかって悔しがる
桜木がいる。その失敗をもろともせずに、目を見張るような身体能力を見せてブロックに跳ぶ桜木がいる。
ふたりの間に横たわる技量の差は如何ともし難いが、それでも、マンツー勝負になりつつある。
「どうだぁ、ルカワ! オレさまの実力を思い知ったか!」
「けっ。たった一本止めたくれーで」
初めは、仙道が仙道がと、両手に華ならぬ引く手数多な状態で、けれど、ほんのちょっと目を離している隙に、
ほんのちょっとズルしているうちに、いつの間にかふたりはこの場で死闘を繰り広げていたのだ。
「わぁ、スゴイ青春してるぅ」
「スポーツしてる男の子って、やっぱ、カッコいいね」
「桜木くん、流川くん。ふたりともがんばって!」
そんな黄色いだけの歓声、彼らには届きゃしない。そして同じようにただそれを見つめているだけの自分は、ふたりの、
いや流川の視野のどこにも掠りもしない。
「仙道くん、やらないの? そのためにここに来たんでしょ」
そう、モチロンそのつもりで足を運んだ。きのうは接客に手を取られて相手を出来なかったから、張り切っちゃおうかな、
ぐらいの軽い気持で、意に添わないとはいえ女の子たちに囲まれて。
流川が一番嫌う、そんな自分のままで。
だからと言ってなにを狼狽える必要がある。
狼狽える? このオレが?
そう感じた瞬間、爆発的に手繰り寄せたものの正体を知って。
峻険な山肌がわずかな日陰をつくる真夏のコートで。
仙道の肌がザワリと粟だった。
continue
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