〜彷徨いと得心







 オレハイッタイドウシタイ?



 ダイニングルームを飛び出した流川は、「昼メシの用意すっから手伝え」と、大欠伸で喉仏をさらしながら声をかけて きた三井をやり過ごした。「無視する気か、てめー! 賄い、食わしてやんねーぞっ」という脅しも耳に入らない。
 立ち止まれない、立ち止まってはいられない惑乱が束の間思考を停止させ、言い放った執着だけがのしかかる。 自分の手に余るほどの激情。目を背けたくなるほどの妬心。言葉にしてなお凝縮されたものが自分を覆い尽くし、 溜め込んだものを吐き出してしまいたい衝動に駆られた。
 みっともないとは思わない。子供っぽいと言われたらそうなんだろう。事実自分は周りが見えない幼子と同等だ。 だけど厭なものを厭と言ってなにが悪い。
 そうは言っても。
 仙道が。仙道の。仙道を。
 オレハイッタイドウシタイ?
 その答えを理由を手にしてはいけないような気がする。一方でその総てを知っている気もする。乾き切っていた 素地に潤いが染み込んでゆくように、体内に取り込まれたものには、目を背けたくなるような名前がある気がする。別け与 えられ、自分で育てた熱は収まりようがなかった。
 そう。
 アイツはオンナになんかかまけちゃいけない。
 それはもうほとんど呪いの類だ。
 バスケしてなくちゃいけない。オレと対決しなくちゃいけない。力を抜いてもいけない。オレから目を逸らしても いけない。そして一日も早く現役復帰しなくちゃいけない。
 そう思い至って流川は顔を上げた。
 最後のふたつはとてつもなく相反する。
 片方では、こんなところで油を売ってないで、さっさとリハビリを済ませ、コートに戻るべきだと背を蹴飛ばす声がある。 その才をどこで浪費しているつもりだ。第一線で活躍できる限ある時間をどれだけ無駄にしてきたんだ、と。だが もう片方では、いまここで仙道が海南大の練習に戻ってしまえば、手の届かない場所へ追いやられてしまうと、消沈する 自分が確かにあった。
 オレハイッタイドウシタイ?
 それは――当の仙道がどう思おうと、流川の手の届く範囲で、いっときも離れずに、視線の先を走り続けて欲しいと いう、だれ憚らない欲望だった。
 それがどれほど端迷惑かなんて考えなくても分かる。勝手だ、我がままだ、倣岸だ、自己中心的だ、専横だなんて 陰口だけじゃなく、面と向って言われるのだから、きっとそうなんだろう。
――アイツのペースについてけないオレたちが悪りぃのか。
――ペースを乱すアイツが悪りぃのか。
 卑屈な哂いに逃げる前になぜ喰らいついてこない。
 それは最後までチームメイトに届くことはなかったけれど、総てバスケとバスケとバスケにおいて勝つために強引に 引っ張ってきた結果で、それに関してはだれがどう詰ろうが、今後も一切変える気はない。
 でも。仙道が停滞しているからといって、自分たちの試合に影響するわけでも、ましてや自分のバスケ人生に支障を 来たすわけでもなく、ただ素のままに、ただひとに向けて、「行くな」と叫んだ事実に、自分が驚いている。
 不意に頭から水でもかぶらないといられない衝動が湧き上がり、流川はレストルームに飛び込んだ。
 洗面台で水が飛び散るのも構わずに息苦しくなるまで顔を洗った。火照った頭がようよう冷えてきたとき、カシャンと いう馴染みのあるもの音に、ついと視線を押し上げた。レストルームの鏡に映った窓の向こう、先ほど死闘を繰り広げた コートで、スリーポイントの位置からゆったりとシュートを決めている後ろ姿は藤真のものだった。
 ペーパータオルでお座なりに水気をふき取り、つられるように裏口から外に出た。
 中天にある真昼の容赦のない陽光が、遮るもののなにもないアウトのコートを焼き尽くしている。立っているだけで ジリジリと音をたてる肌に一切構わず流川は、距離を取って立ち止まり、正確な フォームから押し出される放物線をただぼんやりと見つめていた。三回連続でシュートを決めて、その気配に 気づいたのか、藤真は背後を振り返ることなく問うてきた。
「なんだ、お勉強はもうすんだのか?」
「うす」
 んなわけねーだろうにと哂うと藤真はリング下でテンテンと跳ねているボールを回収しに行った。それをドリブルしな がら戻ってくる手さばきは慣れたものがある。片手で汗を拭って日差しに目をそばめた藤真は、「三本打っただけで 息上がっちまったよ」と自嘲気味に哂った。
「久し振りに持つと、ボールってこんなに重かったんだな」
 と、跳ねたボールをそのままにし、両手でスローインの型を取って見えないそれを放る仕草をした。バックボードも リングもない中空に描いた軌道に目を細めた藤真は、建物近くの僅かな日陰を探してその場にしゃがみ込んだ。
 そして、たった三本で腕がだるい。繊細な指先仕事に支障を来たすと、念入りにストレッチをしている。
「あんた、バスケしたことあんの?」
 問うたのは純粋な好奇心から。他人に対してそれはいつだって希薄だったから、藤真の、久しぶりだというフォームに 目を奪われただけかもしれない。それでも藤真は、はにかんだような笑顔を見せた。
「まぁな。昔とった杵柄ってヤツ。牧の温情から、ここ、色んな理由でバスケをリタイアしたもんの吹き溜まりだ。 あ、仙道はリタイアに片足突っ込んでるだけ、か」
「なんで?」
「なんでって、理由? 牧の交友の広さからだろう。ふつう現役を退いちゃうと疎遠になるもんだけど、どうせ一緒に 仕事をするなら、昔馴染みがよかったんじゃないか」
「チガウ。みんなが辞めた理由」
 ああ、と溜息と共に吐き出して、藤真はなぜか小さく体育座りをした。見下ろす方としても見上げる方としても、首が 痛くなるような角度だ。
 そして、
「そうだな。怪我とか贖罪とか限界とか折り合いとか」
 と、要点だけをかいつまんだ、自分だけに分かる説明を下した。
 怪我は分かる。けれど、ショクザイとかゲンカイとかオリアイってなんだ、と流川は瞳を瞬いた。
 オーナーの牧にしても自分と八つ違いの二十三。本来ならば心身ともに一番油の 乗り切っている時期のはずだ。それを一年足らずで、JBLスーパーリーグに位置していたチームをさっさと退団し、 なぜホテル家業に勤しんでいるのか。身内といえども流川は知らない。敬愛していた従兄弟のことだから、彼の問いにも 熱がこもった。
「紳兄ぃは、なんでバスケ辞めて、ホテルのオーナーなんだ?」
 うん、と藤真は少し言い澱む。
「あのころ、ちょうど牧のお袋さんが亡くなったんだよな。ここってそのお袋さんの遺産だろ? それを遊ばせておく のももったいないからってホテルに改造したんだ」
 それは知っている。母の姉のことだから流川自身も葬式に出席した。牧の父親というひとは早くに亡くなっていて、 長く母ひとり子ひとりの生活だったから、心痛はどれほどだろうと母が気に病んでいたものだ。
 確かに仲のよい親子だったけれど、それが理由と問うた視線に、かぶりを振った藤真の答えはとてつもなく乾いていた。
「ホテルを始めたのはお袋さんの死が切欠。バスケを辞めたのは――そのずっと前に、オレの怪我のせいだ」



 スッと絞られた視線が、他人のために己が半生の大半を占めてきた執着から背を向けることなんか出来るのかと逆に 問うている。流川の理論から言えばそうだろう。だれかのために、それが喩え身内のためとは言え、この少年なら絶対 バスケットボールを手放したりはしない。
 どんな枷と苦渋を強いられても跳ぶことを辞めたりはしないだろう。
 あのころの牧に、それほどの強かさと非情さと、そして忘れてしまえる気丈さがあったら。そして自分にその事実を 受け入れて何度も克服できるだけの強い意思があったら、こんなふうに停滞してしまったときを過ごさずに済んだのかも しれない。
 いまさらそれを言葉にしても詮ないと分かりつつ、あのとき選び取った道といまの生業に後悔なんかないけれど、 バスケの出来る環境でそれに背を向けてしまった藤真がいた。お遊びでもボールを掴んでしまえば、自分以上に 未練を断ち切った牧に対して申し訳が立たないような気がしたからだ。
 牧が無理なくバスケットボールを手にすることが出来るまで。
 そんな戒めが自分の中にある。
 そしてたぶん総てにおいてうやむやに出来ない頑固さと融通性の利かないという部分で、はっきりとした血のつながり を見せるこの子供が、眉根を寄せた一直線な瞳が、牧同様、藤真も眩しかったりする。
「オレは怪我。牧は贖罪。三井は折りあい。花形と木暮は限界かな。。こんなふうに並べちまうと、七つならぬ四つの 原罪みたいに聞こえて厭になる。まあ、大人になっちまえば、霞を食って生きてられないってこと」
 漠然とした藤真のもの言いに、我慢の導火線と読み込みのとおりの短くて浅い少年は、当然のように低い温度でキレ た。
「もっと分かり易く言えっ」
 そう言った流川の詰る声なんか無視してもよかったのだけれど、久し振りに見せつけられた熱情にイチオウ感謝の念と、 敬愛する従兄弟の動向に憂慮した姿に感じ入ったということにしておこう。
「前十字靭帯断裂」
 と、言って藤真は己の左膝を指差した。
「オレがディフェンスを振り切った。背後から真っ先に戻ったのは牧。それはよくある接触プレイだった」
 大学一年の、十一月に始まるインカレ一回戦Aブロックは、関東一部リーグ強豪校がひしめき合う激戦ブロックだった。 国立代々木競技場第一体育館。インドアスポーツの殿堂。大学に進んで共に初めて掴んだ同じポジションでの出場 に、互いが多少気負っていたかもしれない。
 折りしもそぼ降る雨の影響でその秋一番の冷え込みと、お天気ニュースの気象予報士が風邪などにお気をつけ下さい、と 注意を促したような日だった。
「ブロックに跳んだ牧の膝が深く入り過ぎたのかも知れない。それをかわそうともしないでバスケットカウンターを 狙いにいったのが拙かったのかもしれない。堪えきれないで、着地したときはブチっていう厭な物音を聞いた。 コートに落ちて、手の中にあったボールはテンテンと転がって、でもそれを追うにも膝はピクリとも動かなかったよ」
 当然即手術。その後の気の遠くなるような長期のリハビリ。課題をひとつひとつ越えてゆく気概も早く復帰したいと いう執念も多分にあったから、どんな地道な訓練にも耐えることは出来た。しかしその無理が落とし穴だった。
 担当の理学療法士が課す訓練以上のものをこなしてしまう。早く早くと気はせく。それは己のためでもあり、そして 真っ青になったまま、それこそ毎日でも見舞いに訪れた男のためでもあった。
――申し訳ない。
 と、牧は何度も頭を下げた。こちらが笑顔を見せても彼の顔色は変わらなかった。不可抗力だ。オレも不甲斐なかった んだ。ストレッチが足りなかったかな。急に寒くなったときでもあったし。あまり怪我なれしてないからデカイのが 一気にきちゃったぜ、とからかっても、牧の下げた頭は上がることはなかった。
 だからというわけでもないのだけれど。
 無理を重ねた靭帯は半月板損傷と軟骨損傷を引き起こし、このまま続けては歩行すら困難になると担当医が 悲鳴を上げたほどだ。
 一年。入退院を繰り返し、その数だけ悪化する症状にクサって隙の開いた胸に、ふと唐突に、実家の和菓子屋でも継い じゃおうかという想いが過ぎった。けど、甘いものはそんなに好きじゃない。特に餡子系は。和装で小豆と格闘する なんてオレのイメージに合わないし。
 けれど、病室の窓の外に広がる変わらない風景を眺めるうちに、なぜか沸いた郷愁の念。甘ったるい匂いに囲まれた 第二の人生もいいかも知れないと諦観できるくらい、報われない努力に打ちのめされていたのだ。
 スポーツ推薦で入学したとはいえ、一般入試で受験したとしても合格出来ないようなお粗末な頭はしていない。 このまま退部という事態になったところで、卒業まで滞りなく過ごしてゆけるだろうとは周囲の声だ。けれど、それでも バスケのためだけに通っていたような大学で、このまま二年を安穏と過ごして就職する未来は、とてつもなく避けたかった。
「そうなったら即行動がオレの身上だ。大学を辞めさせてくれ。製菓学校に通わせてくれって、初めて両親に頭を 下げたよ」
 怪我で目標を失ったアスリートが腑抜けてしまうのはよく聞く話。燃え尽き症候群とも目標の喪失とも。 特に壮絶なリハビリと負荷による入退院を支えてきた母親は、歩けるようになるだけでいいじゃないと、泣きを入れて きたくらいだから、そんな状態だった息子が少しでも顔を上げて未来を見据えてくれるならと、安堵の溜息を漏らした のだ。
 実家の、父親の元で修行をすればという声を振り切って、それでも許可はすぐに下りた。
「リハビリもこなして学校に半年。周囲に認めさせて、交換留学制度を使ってフランスに半年。残念ながら、センスも 兼ね備えた真の天才が本気を出せば、短期間でもどうとでもなると証明した結果なんだけど」
 顎を上げてクフンと哂ったあと、藤真は重い嘆息をつく。
「でも、留学を終えて帰って来たとき、人づてに牧もバスケを辞めたって聞いたんだ」
 そしてほどなく藤真の前に姿を現した彼は恬淡とした表情で言ってのけたのだ。
 一緒にホテルを経営しないか、と。



「そんなの紳兄ぃのせいじゃないっ」
 藤真の話を聞いて感じたのは純粋な憤り。
 怪我をさせてしまった相手に、もっと言えば選手生命を奪ってしまうことに なった相手に、そこまで負目を感じて、あつらえたような人生をどうして送らなければいけない。他に方法はあったはずだ。 藤真の分まで、ふたつの夢を抱えたまま、いや、ふたつどころじゃない。藤真ほどに顕著な例じゃなくても、ひとつの 大会において勝ちをもぎ取った相手の分まで、その途切れた思いと夢を背負って進んでゆくのがアスリートだ。
 勝ち続けるということは、強くなるということは、文字どおりだれかを蹴散らすということ。贖罪はさらに高みを 目指すしか方法はない。その積み重ねを続けてきたんじゃないか、牧も。
 その方法で重荷を下ろしてしまってよかったのか、本当に。
 動ける躰を持て余して。
「あんたはそれで満足だったのか」
 そう言って一歩にじり寄ったとき、ホテルの裏口からウワサの中心人物が顔を覗かせた。扉を開け放った一直線の コートに人影はなく、戻した視線の丁度死角になる位置に座り込んでいる藤真と、その横に突っ立っている流川を認め、 珍しく――ほんとうに珍しく切羽詰まった声を出した。
「どうしたんだ、藤真。具合でも悪いのか」
 弾けるように躰を返し藤真のそばで腰をかがめると、三角座りをしていた膝に手を添える。その声音と性急さに驚かさ れたのは流川の方だ。続いた藤真の言葉は慰撫めいていた。
「なんでもない。ちょっと休憩してただけだ」
「驚かすな」
「驚くほどのことじゃない。心配性も度を過ぎるとフケ込むぞ」
「痛みがあるんじゃないのか」
「ないよ。怪我から何年たったと思ってるんだ。回復の遅い年寄りみたいな言い方をするな」
 そう言ってカラカラ笑った男にオーナーは立ち上がると手を差し伸べる。すんなりとその手を取って立ち上がった男たち の間に流れる気遣いを、流川はただ斜に構えて見守っていた。そんな視線を当てられても牧は至ってマイペースだ。
「藤真、楓も。昼飯、さっさと食わないなら畑の肥やしにすると三井が息巻いてる。片付かんから早くしろ」
 合わせた手を離し、今度はその手で藤真の背を軽く促した。遮るつもりもなく、藤真は牧の名を呼ぶ。
「仙道と流川に影響されてさ、急にボールに触りたくなった」
 そうかと返す牧の声はどこまでもまろやかだった。
「牧――おまえもシュート打ってみればいい」
「オレはいい。さっさと中に入れ。いつまでもこんなところにいると暑気当たりしても知らんぞ」
「スゴイもんでさ、シュートする感覚は、何年離れても躰が覚えてるんだ。これって結構刹那い」
「だったらもうしなければいい」
「刹那いけど、厭じゃないんだ、これが」
「厭じゃないなら、好きにしろ。ここはおまえのためにつくったようなものだ」
 さらりと告げられた言葉に、昼食に向けて一直線だった流川の意識が引き戻された。
 そこまでしなければならないのか。いや、そこまでしてやっと満足出来ているのか。
「好きにしろって、牧はふたこと目にはそれだな」
「おまえの願いが意外と慎ましいからそう言っていられる」
「じゃあさ、こんなひなびたところじゃなくて、都心の一等地に店を出させてくれって言ったらどうする?」
 慎ましやかだろう、と自分より少し高い牧に肩に腕を回してホテル内へ戻ってゆくふたりの背を醒めた目で見送り、 それでも、あんたたちは本当に満足なのかと、安易に割り込める話でもない気がした。






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