「きゃっー!」
「ちょっと流川くん、大丈夫!」
重力の枷を取っ払ったように宙を駆け華麗にダンクを決めたものの、その場に倒れた流川を心配そうに駆け寄りかけた
ギャラリーを、背中越しに右手を上げただけで制した仙道は、こめかみを襲う頭痛に耐えな
がら一歩踏み出した。
ゴール下で大の字になってうつ伏せている少年は、盛大に肩が上下しているところから気絶してしまったわけでは
ない。激しいマンツー勝負に足を取られて、指一本動かせないだけだ。ほんとうならば、あんなキツいプレイの後に、
急激に躰を停止させてしまうのはよくないのだけれど、仙道にしても立っているのがやっとの状態だったから、
配慮まで頭が回らなかったのだ。
あのときなぜ、この手からボールが取りこぼされたのかと、仙道は右手を精一杯に広げた。初速の勢いで飛び出した躰が、
逆モーションをつかれて戻ろうとする流川に追いつかれるはずがなく、無論、あのとき爆弾を抱えた膝には支障が
なかった。
万全の状態での全力疾走。それが阻まれ、躰を返しても届かず、目の前であんな絵に描いたようなダンクを許して
しまった。やられちゃったと軽快に哂い飛ばしてしまっては、ぶっ倒れるまで駆けた流川に対して申し訳がない。
取り繕ってもいけない。
それは仙道なりの矜持だった。
たった一本。
そう。たった一本、格下の選手の気迫に圧されて奪われたからと言って揺るぐものはなにもないのだけれど。リハビリ
中の名目で放置している膝の具合も、前期が始まってからコートに背中を向けていたため失っているはずのカンも、
騒ぎ立てるほどのことはなかった。
なのになぜこんなに頭の芯が疼くのだろう。なぜ真夏のアウトコートで競い合って躰が冷えてゆくのが早いのか。
なんだろうと感じていた疑問。流川の迸る闘争心と見え隠れする不安定さ。どちらも自分に馴染みのないものながら、
どこかで繋がっていると確信する。
いや、掘り起こせば見えるひた隠しにしていたもの。
危なっかしい部分をひとに気取られるほどの可愛げがなんか自分にはない。自分が敵わない強い相手を総て倒したい
なんて徒労ぐらいにしか思っていない。強敵とは当たらずに勝ち進んでいけたら幸いだし、喩えその相手に負けたとしても、
機会があればいつかリベンジできるだろう。なければ前回よりも上を目指すだけだ。
仙道、仙道と目の敵にする他校の自称ライバルたちもいるにはいたが、一度コートを離れてしまえば、結構気の合う
顔なじみに変化する。
喩えば現役時代の牧。世代が食い違ったものだからコート上で対決する機会には
恵まれなかったが、海南大附属高校のインハイ出場を阻んだ陵南高校のエースなのに、これ以上ないというくらいに
目をかけてくれた。
牧という男も大らかなもので、だからいまこうしてお世話になっているわけだが、母校の仇だろうが、学年が違おうが、
見事としか言いようのない交友網は全国に渡っていた。
その牧に対し、コートを離れて勝負を挑んだことは一度もない。仙道が牧を追うように海南大に進学したとき、彼は
もう引退していたから、同じコートで同じ熱を共有することは一度も叶わなかったのだが、牧に心酔しながら好敵手として
後ろを追いながら一度もそうしたいとは思わなかった。
自分に向上心がないわけじゃない。そりゃ、上手くなりたい。負けたら悔しいに決まっている。けれど試合終了の
ホイッスルを聞けば、バスケとは切り離して考えてエンジョイライフを謳歌してきたのだ。いまの流川のようにぶっ倒れる
まで挑んだりはしない。
いまの流川。
いったいなんだっけ、と仙道は思い至った。
そう。なんで流川が怯えを機嫌の悪さで誤魔化してたのか考えていたのだ。
「流川。生きててるか?」
と、問えば「……てる」と少し呼吸を整えた答えが返った。
そりゃ、よかったとうつ伏せのままの少年に近づく。
流川の中に内包したものを、なにひとつ理解したつもりはないけれど、コイツの傍はしんどいかもな、とただ警鐘が鳴り
響いた。
どんな強豪高のどんな名選手も、適当に息も力も抜いて楽しんでいるはずだと仙道は思う。己が課したスポーツという
枷だけに包まれて生きてゆくには誘惑が多すぎて。それはなにもバスケに限ったことではないけれど、日本人にハングリー
さが欠けて久しいと言われている所以だ。
けれど稀に突出したように、飢餓感だけを食べている人外のものが生まれてくる。安穏とした
ぬるま湯の中で希釈されたものを一身に集め、稀だからこそ怖ろしく濃度が高い。
それをこの少年はこの年で――この年だからと言った方がいいか――体現しつつある。
だれも流川のようなモチベーションを維持していられないだろう。しんどいと称したのはそういう理由からで、温度差
から生じる軋轢は察して余りあった。
そう理解しても。
居場所が定まらずに前だけを見ていた少年が、あまりの温情と居心地のよさに身の置き所がないと逃げた自分に視点を
合わせたとき、それを甘美だと受け止めるか気後れすると厭うか。いまの精神状態では間違いなく後者。
中坊に抜かれて悔しいというより厄介だなが先に立つ。
ただの意地っ張りで初心な反応を返すだけの少年だったらよかったのに。
うつ伏せたまま流川が顔を上げた。この一本をドンマイのひと言で片付けられない仙道を、見越したような強烈な
視線だった。
そんな目で見るなよと声に出してしまいたくなる。
怜悧に過ぎた容貌と苛烈な性格だけを取り上げれば、タイプだと言ってもいいくらいに可愛いのに。
その視線を重いと感じる己を醜悪だと思う。そう思わせる流川がいる。
そして、それを気取らせないズルさくらいは持ち合わせていた。
「おはよう、流川。次は楽しいお勉強の時間だ」
仙道は鉄壁のニッコリ攻撃で胸に巣食う雑多な感情をやり過ごした。
「センドー! 約束どおり来てやったぞ!」
ふたりはダイニングルームで宿題の真っ最中とだれかに聞いたのだろう。再度ホテルに姿を見せた桜木は、ほんの
ちょっぴり不機嫌な仙道と、ほんのちょっぴりご満悦な流川という、世にも稀な、けれど傍目にはほとんど違いが
分からない、微妙な感情の坩堝の中に飛び込んできた。
分からないなりにも桜木は生一本だ。
「抜け出すのに、えれぇ苦労したぜ。朝からあんなにコキ使っときながら、親父はもっと仕事手伝えって煩ぇんだ。
仙道もここの夏は始めてだろう。もうちょっとしたら阿夫利神社の夏の大祭があんだよ。その準備もな。おおわらわって
ヤツで。けど、オレさまにだって立派な用事があらぁな」
「へぇ。お祭りかぁ」
「結構盛大だぜ。出店の数も相当だし。なんつっても深夜の神輿奉納が見ものだ。去年はジイやミッチーやメガネくんも
神輿を担いだんだぜ。エラそうに補欠くんは掛け声だけだったな。たしか」
「牧さんが?」
「おうよ。ジイはイヤイヤ。ミッチーは先頭をきって張り切ってた。補欠くんは涼しい顔して差配してやがんだ」
「なぁ。聞こう聞こうと思ってたんだけど。なんで藤真さんが補欠くんなわけ?」
「へ? ありゃ、オレが初めてここに野菜を届けたときに、たまたま休みだったみてーで、ミッチーが顎上げて
仕切ってたんだよ。んで、その次の日ミッチーが休みで、一見あんなふうだからさ、補欠かよって聞いたら――」
思い出したのか桜木は急に頭を抱え込んだ。たぶん、そのあと、外見に反して凶暴なパティシエに殴られたか蹴りを
入れられたんだろう。自分とタイマンを張れる大男ならいざ知らず、明らかに小柄で華奢な藤真に対して遣り合う拳を
桜木は持っていない。
それは想像に難くなかった。
「なるほどね」
ブンとひとつ頭を振って、四人掛けテーブルで向かい合って座っていたふたりの、ほとんど左頬をべったりとくっ付けて
反対側を向いてしまっている流川の横にドンと腰を降ろした桜木は、「なんだ。寝てんのかコイツ」と覗き込んでいた。
「寝てないよ。ほんとに姿勢も態度も悪いんだから。流川。こら、しゃんとしろ」
その証拠に、辛うじてノートの上のシャーペンだけが細々と活動を主張している。どうやら数学の二次関数。係数だの
実数根だの考えたヤツも大概だが、それを仙道に個人指導受ける身でありながら、半分寝こけて解こうとしているヤツも
相当だ。
それでも理解してんのかとさらに覗き込めば、ふてぶてしい少年はノートの端々にバスケットボールのラクガキを
大量生産中だった。眉を寄せた桜木を認めて仙道が闊達に笑う。
「コイツ。いかにも理数系でございって顔しときながら、てんでダメ。中途半端なまま投げ出しちまってるからな。
完璧にひとつ覚えちまわないと、進めないし応用も利かないのが数学の哀しいところで。勉強もバスケくらいの根性見せ
ろつうの」
「コイツ、バカなのか?」
「他の教科はしんないけど、数学は欠点ギリギリってとこか。数学も以外と反復だからな。同じとは限らない。けど
似たような問題をいくつ知ってるかによって応用の幅も広がる。バスケのフォーメーションも一緒。基本を叩き込んで
あとは応用を利かせてゆく。地味にコツコツ。飛んで入れる。かわして入れる。抜いて入れる。もうちょっと腰を低く。
もうちょっと高く。って考えたら意外と数学も楽しいだろ」
「へえー。なるほどな」
「バカのひとつ覚えみてーに、バスケに喩えてんじゃねーよ」
我関せずかと思えば聞き耳を立ててるんじゃないぞ、冷や水大王。顔も上げないまま、横に座る桜木には背中を向けたまま、
言葉らしい言葉を出したと思ったらこれだ。テーブルに躰を投げ出したいのは自分の方だと仙道は思う。
「てめーそれが人様にものを教えてもらう態度か! バカはバカなりのシメシってもんがあんだよ!」
テーブルをドンと拳で叩いて、桜木はあくまでも浪花節だった。他の者が諦めたものにいちいち突っかかるのは、
同年代だからというより、見上げるでも見下ろすでもない真っ直ぐな視線でこの仏頂面を見据えていられるからだ。
それがちょっと歪に変化してんだなと勘ぐらないでもない。
けれど桜木なりの理論を振りかざして聞き届けられるのなら、憎まれっ子は世に憚らないし、ここまで尊大に育たな
かっただろう。そういう意味でも流川楓は強敵だ。
「入試は五教科総合だろうが。他でカバーすればなんとかなる」
と、熟考という文字を辞書に持たない少年は平然と言い切る。開き直りもここまでくるといっそ見事だ。
「根拠のねー自信」
「根拠はある。応用全滅でも、計算問題だけ確実に仕留めとけば四十点は確実だ」
オレだって考えてんだと上げた顔はどこまでも誇らしげだった。けど四十点死守策かよ。危急存亡の
秋
とばかりの回天策にしては、あまりにもお寒いとしか言いようがない。
「瀬戸際、崖っぷち戦法だな。他が絶対に落とせないっつうことじゃん。けどさ、なにかひとつだけでも自分のものに
しちまったら、楽勝なんだぜ。ディフェンスの悪さをオフェンスだけでどうにかしようなんて、甘い、甘い。どんなに
綺麗にダンクを決めても二本取られたら負けちまうんだぞ、流川」
「へぇ、バカな上にコイツのディフェンスはザルか?」
「るせーっ だったらてめー、これ、解けんのか」
桜木の横槍にキレた流川が突き出した、仙道お手製の応用問題練習プリント。突然目の前に現れた放物線やら大量の
数式やらに正直桜木は言葉を詰まらせた。
流川は壮絶までに酷薄な笑みを浮かべる。
「腰、引けてんじゃねーか」
「やかましい! てめーこそ、こんくらいの問題にビビってんじゃねー! ちぃっと、数学モードになってなかった
だけだ。天才桜木に不可能はナイ! 特に数学は得意なんだ。サクサク解いてやらぁ。貸しやがれ!」
「やなこった」
桜木の目の前でプリントをヒラヒラさせたものの、急に惜しくなったのか隠そうとする流川に桜木が覆いかぶさる。
それを肘で押し返し足蹴を出し、流川も年相応だな、と微笑ましくもあるがそこはもう、『夏休みに課題を克服しましょう』
の場ではなくなっていた。
「おめーが解けっつったんだろうが!」
「てめーにゃムリ」
「見てもねーのに勝手に決めつけんな!」
「てめーに解かせるくらいなら、オレがやる」
「どこまで我がままなんだ! よこせ! あっちへすっこんでろ!」
「るせー。仙道、解き方教えろ」
「おめーはいつまでもノートにちまちまラクガキしてりゃいいんだよ!」
流川と同じくらいの上背に加え桜木はウエイトもある。ナリはデカイふたりなのに、「貸せ」「やだ」「破れるだろ」
「てめーが離せ」の応酬では、幼稚園児がお砂遊びセットを取り合ってるのとなんら大差はなかった。
その場で取っ組み合いを始めた体育会系男子中学生の体重を受けて、椅子はギシギシとたわみ、テーブルが悲鳴を上げる。
これらを傷つけようものなら、「ホテルテロメア」の調度品総てを愛する男、藤真に、錘をつけて湖に沈められてしまって
も知らないぞ、と仙道は自分のコーヒーカップを避難させる。
それでも、
「あ〜あ、平和だな〜」
と、溜息が漏れた。
「オレだって暇じゃないんだけどな。おまえらがそんな調子なら、女子大生のマユちゃんたちとボート遊びでもして
こようかな〜。OLさんたちからも誘われてんだよな〜」
きっと。
目の前にいる自分をのけ者にして、妙に息のあった喧嘩っぷりを見せ付けられた腹いせではない。きっとない。そう
思って立ち上がると、流川は急に興味を失ったように動きを止めた。圧力を失った桜木はつんのめりかけて、流川に
覆いかぶさるのをなんとか耐えて上体を持ち直している。
「急になにしやがんだ、このキツネ!」
「――くな」
「え?」
いきり立った桜木ではなく、怒りは真っ直ぐに仙道に向けられていた。
「止めろ」とか「行くな」とか、語尾がかき消えても、ストレートな厳命。バスケしていたときとは打って変わった
やる気のなさを思い切り棚上げしておいて、その目はないと思う。行くなじゃないだろう。教えろでもないだろう。そして
オレはおまえのお守役でもなけりゃ恋人でもない。
束縛される謂れなんか毛頭ない。
「ふたりで仲良く喧嘩してりゃいいじゃん」
思っていた以上にねじくれた色を持って放った言葉に、
「オンナのご機嫌なんか取ってんじゃねーよっ」
それ以上の重みを被せてしまった意味さえ分からず、それごとテーブルに叩きつけるように桜木を押しのけた流川は、
ふたりを置き去りにダイニングを出て行った。
「なんだってんだ、キツネのヤロウ……」
唖然とした桜木がその背中を見送る中、なんだってんだと言いたいのは自分の方だと呟く仙道がいた。
流川の憤りと自分の驚愕をたったひとつの言葉にしてしまうには、あまりにも滑稽で不条理でナンセンスであり過ぎる。
ついでに言わせてもらえれば、オンナのご機嫌をとっているんじゃなくて、立派な接客だ。幾分ホストクラブ色が
色濃く出ている気がしないでもないが、食い物にしているわけでもないし、ひと夏の擬似恋愛を与えているつもりも
毛頭ない。
胸を張っていうことでもないが、宿泊客に手を出したことなんか一度だってないのだ。刹那的な一時の享楽よりも、
牧からの信頼の方が身に心地よかったりする。それをいちいち流川に説明する気はなかったけれど、はっきりと口に
されて叩きつけられて、オレはおまえのなんなわけと逆に問い質したくもなる。
出会って二日。あの少年の意識がバスケの上達とそれを叶えてくれそうな者に向いているのは痛いほど分かった。
牧が相手をしないんなら、ここではオレがその位置にいるんだろうってことも。そして狭い世界で喘いで、カラカラに乾いて
いたんだろうとも推測できた。
だからって、
「なんでヤキモチ妬くかな」
声に出したら桜木が振り返った。思うところは一緒だったようで、単純明快、快刀乱麻、一目瞭然な男にしては、
ジグソーパズルの最後の一片を見つけたみたいな、
そしてそこに浮かび上がったシュールレアリスムの意味不明な絵画を、なんとか理解しようとしているような複雑
な表情だった。
桜木でさえ気づいた歪なもの。
言い放って背を向けたもの。
それにおまえは気づいているのかと、言葉をかける勇気は仙道にはなかった。
continue
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