桜木の父親が帰るぞとばかりに軽トラのクラクションを鳴らせば、見てくれヤンキーの孝行息子はまた後でな、と素直
に帰って行った。
流川は何事もなかったように黙々と作業をこなしている。
バスケ見て勉強も見て、その上微妙なご機嫌取りまでしなきゃなんねーのかと、牧を恨んだが、
あのとき、差し出した手を払いのけられ、癇癪というよりもなにかに傷ついて揺れた流川の瞳がやけに痛々しく、
ガキっぽい真似をされてもなぜか怒りは沸いてこなかった。
親切心よりも悪戯心から、寝込みを襲った形になった起きぬけは、哂えるくらいにストレートな反応を返した流川が。
なんだろうと思ってしまったのだ。
姿形も恐らく経済的にも総てに恵まれ、その上バスケの才能まで。なのになにを恐れる。ひとの心配をするガラでも
そんな余裕もないはずが、ただ確かめたかったのだ。たかだがマンツー勝負で総てが手に取るように分かるものでもない
けれど、いつもは適当に休憩しながらこなす午前の作業を一直線に切り上げた仙道がいた。
流川に声をかけ牧の了承を得て、昼食までの一時間半。夏休みの宿題もという仰せだから、先にそっちを済ませてしま
おうかとも思ったが、気になることは先に、好物から手をつけるを身上にしている。それらしい格好に着替えて、
ホテル裏のコートへ向おうとしたら、目ざとく見つけた女性客から歓声が上がった。
「え〜。やだ、かっこいい〜」
と言ってもTシャツと短パンに着替えただけなのだが、彼女たちの瞳はすでにハート型に変形していた。
「仙道くん。バスケするの?」
「うん。まあね。青少年の相手をして失った青春を取り戻そうかと思ってさ」
「なに言ってるのよ。真っ只中じゃない」
「もう、枯れ枯れっすよ」
「さては遊びがすぎたな」
「そーかもしんない」
「簡単にそう言い切っちゃうんだから大人だよ。いまからなの? あたしゴルフ、キャンセルしちゃおうかしら」
送迎係りの木暮さんが待ってますよ、と返しながら裏庭でアップをしていると、ほどなく流川が姿を現した。階段状
の観客席に陣取っていた女性客たちが小さく悲鳴を上げて色めきたち、それを目の端で捉えた流川の瞳が剣呑さも
顕わに引き絞られる。だが、彼の乏しい表情筋の動きでは眩しさに目を細めたくらいにしか見えなかっただろう。
あれだけ楽しみにしていたマンツー勝負を前に、薄氷を踏みしめるような慎重な面持ちだ。
なにやら一日でこの寡黙で無愛想な少年の心の動きが読めるまでに成長した仙道だった。
だからかな。悪いけど、玩具にしたくなるタイプなんだよな、と仙道は近づく流川に声をかけた。
「彼女たちが見学したいって言うからさ。気になる?」
「別に」
「さすが中学のスターはギャラリー慣れしてらっしゃる」
慣れてはいるだろう。これだけの秀でた容姿を持っていれば。けれど纏う気は嫌悪に近い。それは仙道にも向けられ、
神聖なコートで、敬虔なマンツー勝負に、フェロモン撒き散らしてんじゃねーと顔には大書してあった。
「時間ねーから、さっさと始めるぞ」
ニッコリ笑えばさぞかし可愛いだろうに。要点と用件だけの紋きり口調に、仙道は恭しく言い放った。
「仰せのままに」
年上の余裕から、最初のオフェンスはおまえに譲ろうと、仙道は流川にボールを放り投げた。子ども扱いするなと
食ってかかるかと思えば意外と素直にそれを受け取り、コートの感触を確かめるようにそれを何度もバウンド
させる。
議論する時間の無駄を許さないのだろう。スっと視線を仙道に合わせたまま、なんの合図もなしで流川は既に
臨戦態勢だ。
余計な取り決めは不要ということなのだろう。つられて仙道も低く腰を落とした。
一見クールに完全武装した流川が、ボールをひとつ弾ませるごとにポテンシャルを上げてゆく。白皙の美少年がドリブル
を繰り返すだけで黄色い声を出すギャラリーなど、歯牙にもかけないとはまさにこのことだ。
一直線に据えられた視線は仙道の目の動きを読み、間合いを取って位置を右にずらす。態とその動きに反応せずに、隙を
見せても流川は乗ってこなかった。挑発を読んでやがると感じたその刹那、右手にあったオレンジ色のボールは、
左手先を大きく越えた地面にバウンドし、そのまま地を蹴った躰は一気にゴールを目指した。逆方向に流れた仙道の、
一瞬のモーションの隙をついたはずだったが、両手を広げ踏みとどまった躰に防がれ、流川はピボットを使ってそこから
逃れようとする。
190センチもあるのに、なんてディフェンスをしやがる。そう睨みつけた流川に仙道は満足そうな笑みを零した。
「利き手は右だろ。左から抜くのも得意なんだ」
抜かれてもいないのにやたらと感心口調で、やるねー、なんて分かってはいるけれど高みからの余裕で、ひとつ舌打を
した流川は、低い姿勢のドリブルのあと、ふいに仙道の頭上を越す軌道でボールを放り投げた。
それは仙道の背後にポトリと落ちて、相手の脇を抜き去った流川の手に入るはずだった。だが、クレイコートに弾む
はずのボールは、腰を下げた状態から伸び上がった仙道の手にカットされ、気づいたときには、目の端から男の
姿は消えていた。
190センチもあるのにドリブルも早い。
しまった、と躰を反転したがその背中との距離は縮まらず、飛ぶように駆けた仙道は目にも鮮やかなレイアップを決める。
流れるようで、無理をせず、全世界の祝福でも受けたように朝日を躰に受けて、着地までもが教本どおりだった。
鈴生りになったギャラリーは大騒ぎ。たかだか一本シュートを決めただけじゃないか、なんて声はだれにも
届かない。仙道も調子よく、彼女たちの声援に手を振って愛想を振りまき、ドリブルしながら戻ってきた。「あぶねー」
と口が象どっているけれど、ひとつも大変そうに感じていないのがアリアリで、この余裕ヅラに目にもの見せないことには、
今晩、うなされそうだ。絶対に夢見が悪い。なのに被せるように、
「抜いたと思った? けどオレと流川とじゃ、10センチの身長差がある。中学じゃ流川もデカイ方だろうけど、
このミスマッチ。計算に入れないと」
したり顔で解説されて頭の血管がブチ切れそうになった。そんなことはとうに分かっている。計算外だったのは、
仙道の反射神経の方だ。あの低さから、あの高さのボールに手が届くとは思ってもみなかったのだ。
スピードとキレでしかこの相手には敵わないと考えていたから、そういい訳してしまうと全面降伏になってしまう。
流川は内心の動揺を仏頂面で防御した。
けど、どこを崩せばいい。どこから切り込めばいい。成す術がないまま、流川は仙道のオフェンスに備えた。
小刻みにバウンドを続けるボールに踏み込むが届かない。地面を離れたボールは仙道の手に吸いつたような微妙な
変化を見せ、それが体感したことのないタイミングのポンプフェイクを生み、いとも簡単に脇を抜かれた。
両足は地面に根を張ったように反応が出来なかった。
気を抜いていたわけでも、ディフェンスをお座なりにしていたわけでもない。それが身動きひとつ許されずただ翻弄
されて、これが大学一部リーグの、エースを張る男の実力なのかとブチのめされた。
またしても遅れて手を伸ばした先、今度は長いストライドが軽快に地を蹴って、ほんの数歩でペイントまでを許し、
後ろからブロックに飛ぼうとする流川を見ていたように、仙道の躰がボールを携えたまま宙を駆ける。
流川の手は及ばず、あの位置からのジャンプでダンクなんかできるはずがないと目を見張ったそのとき、ガツンと音を
立ててリングがたわんだ。
「きゃー!!!」
中空を支配したスラムダンク。
バスケファンでなくてもこれには悲鳴に近い歓声を上げてしまうだろう。ギャラリーは立ち上がり足を踏み鳴らし、
その興奮はコートを席巻した。
仙道は掴んだそれをなんの惜しげもなく離して、ふわりと地に降り立つ。思いどおりに綺麗に決めたにしては、天性のフェミニスト。
女性客へのお愛想のひとつもない。
流川を振り返り、少し斜めに躰を傾けて立つ癖でもあるのか、そしてこれがこの男の本来の気質なのか、納得したかと
居丈高な表情を隠そうともしない。
格下の、しかも五つも離れた中学生への温情などどこにもなく、だが、それが燻っていた熾火に息を吹きかける。
「まだそんなもんじゃないだろう。本気で相手してやるから牙を剥けよ」
そんな程度で超中学級といい気になっていたのか。
顎を上げて哂った笑顔はただ倣岸で、けれどほんとうに、いままでそう言ってくれるひとがいなかったから。
眩暈にも似た陶酔をこの男は与えてくれたのだ。
バスケ経験者のコーチがいたミニバス時代はまだよかった。だが、中学ではクラブ顧問とは名ばかりの、ただの体育館管
理責任者でしかなく、流川を手本にとは、本気でその指導者の口癖だった。
下級生は寡黙なエース兼主将を救世主のような目で見るが、同期はそうはいかない。反発は起きる。ただ逆らうなら
それに見合うだけの力を見せてみろと流川は思う。口にしないが当然態度に出る。深まる溝を取り繕う気はさらさらな
かった。
自分の成長に関わる問題だから、進学先がどこでもよかったなんてはずはない。
例えばインハイ常連の海南大附属なら、流川のエベレスト並みのプライドをぺしゃんこにしてくれる先輩もいるだろう。
入学したてのころは実力差があって当然だ。だが、その差も半年後、一年後にはなくしてやる。秋の新人戦を待たずに、
追いついて追い越す気概と自信はある。それだけの努力をしてきたし、これからもとおすつもりだ。
だから。また中学の二の舞。
だから。どこでも一緒。
倣岸と罵られようが、本心はその辺にあった。自分の偏屈さは理解している。なぜのめり込んだのがチーム競技の
バスケだったんだろうとも思った。これがテニスや陸上などの個人種目であったなら、どこにも問題がなかっただろう
に。
あの、つるむだけでやっかむだけで、大した努力もしないチームメイトとの練習なんかに、試合なんかに、なんの
楽しみを見い出せと。楽しいはずの部活がほんとうにただ息苦しくて、自分の周りに結界を張って凌いできたような
ものだ。だから、仙道が海南大のエースだったと聞いて、引き下がれなかったのだ。
このままでいいだなんて、流川だって思っていない。だれかだれかと渇望する相手。コイツを抜きたいと思える
相手。チームメイトでなくてもいい。同年代でなくてもいい。こんな機会が一度きりだっていい。あんたのプレイを
総て覚えて総て越えてやるから。
流川の飢えは一直線に仙道に向った。
「やってる、やってる。この暑いのに、若い子はいいね」
裏庭のコートを見渡せるホテル一階事務所で、オーナーの牧と顔をつき合わせ、来月からの新メニューと七月の収支
業務についていた藤真は、女性客が上げた歓声に引かれて窓に取り付いた。
若草色のカーテンを開け放てば、仙道と流川のマッチアップが一望できる。空調の効いた部屋で、それは特等席と
言ってもいい環境だろう。
そんな藤真に牧はパソコンのモニターから顔を上げようともしない。
「仙道と楓か?」
「ああ。アイツ、適当に力抜いて流すかと思ったら、結構本気でやんの」
「それはそれは。仙道も律儀なヤツだな。楓は大喜びだろうが」
「あ、また抜かれた。――って、あのプライドの塊みたいなヤツが喜ぶ? 頭から湯気噴いてるんじゃない?」
牧は作業の手を止め、宙を捉えるように目を上げた。そこにふたりのマンツー勝負を見るような視線だった。
「たぶんアイツも仙道から懇切丁寧に技の伝授を受けたいわけじゃない。ぶつかってくれる相手が欲しかったんだ。
中学という狭い世界で相当天狗になっていただろうからな」
「ふうん。だから、あんなくそ生意気なガキが育ったのか。天狗鼻をへし折ってやれ、仙道。って、流川に
かわされてるよ。なにやってんだアイツ」
藤真は裏庭のコートの様子を実況中継するつもりなのか、そこから離れようとはしなかった。
「へえ。キレのいいドライブしてやがる。おい、牧。見てみろよ。あの中坊、仙道からワンゴール取っちまうかもよ」
「ここ何カ月も、大したトレーニングをしていなかったんだろう。当然だ。時間がたつと不摂生が出ちまう」
「膝に爆弾抱えてるし」
「不発弾だ。いつまでも後生大事に取っておくもんでもない」
「牧」
営業実績と棚卸表をプリントアウトする音を聞きながら、藤真は牧を振り返った。その様子を眺めていた牧は、億劫
そうに顔を上げる。
「おまえ、まだバスケが辛いのか?」
それを肯定するようにオーナーの瞳が絞られた。この男のそんな表情が見たいわけではない。たぶん、他のだれよりも
藤真にそう問われるのを厭うだろう。だが藤真は追求の手を緩めなかった。
「どうしてあのふたりのマンツーを見ようとしない? バスケに関わるのはお遊び程度でも厭なのか」
だったらなぜ、ここにバスケのコートをつくったと重ねても牧から答えは返らなかった。藤真はそんな牧に、なにかに
馳せるような視線を送る。
「アイツ、流川。神奈川のインハイ予選を見に来たんだってな。一年のときの決勝って、オレたちの試合だろ。のちに
神奈川の双璧PGと呼ばれた最初の試合だ」
あのとき、小学一年生だった流川が牧の迫力あるプレイに目を奪われたように、自分だってこの男の勝負にかける
執念と、たったひとつのボールへの執着に惹きつけられたのだ。
同学年。共に神奈川。そして同じポジション。たぶん同じ方向を見て、互いが高みを目指して進んでゆけるだろうと
信じて疑わなかった、あのころ。
けれど。
「藤真。高校時代はよかったという話しなら止めてくれ。これはオレの当然の報いだ」
そう言い放った牧の声音は諦観に満ちていた。
「牧……」
まるで自分が斬りつけられたように痛ましく歪んだ藤真の頬に、立ち上がった牧の右手が添えられる。肩を抱く象で
浮いた手をただ握りこんで、牧は小さく哂った。
「しけたツラすんな。それはおまえの口癖ではなかったか?」
そして裏庭のコートでは、藤真が予見したように、五回連続で仙道に得点を許した流川の猛攻が始まっていた。
圧倒的なテクニックを持つこの男に対して、ごちゃごちゃと頭で考えたような動きは通用しない。予見を立てようとする
から読まれる。ならば、向こう見ずであろうが、考えナシであろうが、ゴール目指して一気に駆け抜ける以外に、
策はなかった。
カットされるなら少しでも前で。抜かれたならすぐにその背を追って。一歩でも半歩でも敵ゴールに迫って。駆け引き
も技巧もなにもなく、小学生のころに戻ったようながむしゃらさだけでポイントを奪えるほど仙道は甘くない。
それどころかひとりで突っかかりひとりでペースを乱して、目も当てられない状態に陥る可能性の方が高い。
それでも、ただ、この男の余裕面に一泡吹かせてやりたい一心で、流川は喰らいついていった。
若いなぁ、と仙道の顔には大書してある。それじゃあまりにもつまらないと苦笑された。流川だって根性論は願い下げだ。
気合でもぎ取れるものは、出会い頭の一発か、ビギナーズラックくらいなもの。こんな作戦、試合では使えないし、
そんな動きしか取れない自分が恨めしい。
けれど。
鍛えて得られるもんでもないセンスと、それに頼らず日々積み重ねてきたものと。そのどちらにおいても流川を凌駕
した男に唯一欠けているものがあるとしたら、公式戦でもなんでもない見晴らしのいいアウトのコートで、勝とうが
負けようが今後のバスケ人生になんの軌跡も残せないであろうマンツー勝負に、牙を剥き続けられる執念。そして
勝利への固執。
それしか見当たらないと思ったから流川はどこまでも開き直れた。
気迫で勝って相手の反応をほんの少しでも鈍らせることが出来たら。歯車は狂うかもしれない。
狂った歯車は僅かでも取っ掛かりになるかもしれない。
それまで自分の体力がもつかどうかだが。
絶対にワンゴール取るまで倒れるものか。
子供だと侮った自分を思い知れ。
なにより、おまえの中に思い切り引っかき瑕を残してやる。オレの飢えを刻みつけてやる。
オレを、オレを思い知れ。
この男とひと勝負したらケツをまくって帰るつもりの決意なんか跡形もなく消え失せ。
もっと、もっとと男を欲する。
その渇望は、フラフラになってもつれ出した足を、届かないとさえ思えた距離を踏み込ませ、仙道の手に収まるはずの
ボールを背後から奪い、軋みを上げる膝を酷使して躰を反転させた。
カット出来た。でもすぐに仙道が狙ってくる。背後から手が伸びる。
バクバクと脈打つ心臓と、したたり目に入る汗と、思うように前に進まない下肢と、指先に引っ掛けて弾いてしまいそう
なボールと。もどかしさに舌打しつつ目線を上げる。ただ、追いつかれたくなくて、ただアイツの前を走りたくて、ただ、
ワンゴールが欲しくて。
流川は跳んだ。
なんの遠慮もない、渾身の跳躍。
空中で躰を支える筋力もたぶんもう残されていない。それでも宙を駆け上体を引き上げ、手の中にあるボールを
リング目指して叩き込む。
ガツンと痛いほどの振動が伝わった。
ボロボロにやられっぱなしだったにしては、いままでにない滞空時間を生んでいた。心臓が引き千切られそうだった
にしては、結構スピードが出てた。きっと最初で最後のチャンスで、仙道に追われた高揚感からあの一瞬だけ、総ての
リミットが解除されたような気さえする。
握りこんでいたのがリングだと認識する前に手を離して着地したとたん、こういうの、なにが猫をかむんだっけ、と
そのままうつ伏せにぶっ倒れた流川だった。
continue
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