その後怒涛のディナーは滞りなく進み、最後の一品をつくり終えたシェフと、食後のデザート
を提供し出したパティシエがふたり仲良くダイニングに現れると、拍手にも似た歓声が漏れた。
かたや、渋みばしった容貌と精悍さが定評の職人技シェフ。こなた、美少女めいた儚さと毅然さを併せ持つ、近隣にも
音に聞こえた天才パティシエ。宿泊だけでなく、ディナーのみの利用客も増え出したのは、ひとえにふたりの徹底された
仕事によるものだ。
互いにやたらと女性客には受けがいいようで、自らひとつひとつのテーブルを回って料理の説明をしているさまは、
先ほどみせた意地の張り合いや強烈な火花の飛ばせ合いとは無縁な世界だった。いや、常に火花を散らしているから
互いが研鑽されるとも言えるが、アレはそんな高尚なものではないと、従業員ならだれもが知っている。
きょう来たばかりの流川にだってそれくらいは分かる。
「メインの合鴨とそのあとのソルベが絶妙のバランスだわ」
年配客のそんな声に顔を見合わせて微笑む姿など、流川じゃなくても背筋に悪寒、全身鳥肌、中指おっ立てものだろう。
怪しい、白々しい、訝しい、胡散臭いの羅列でしかないのに、
「なんだかんだ言っても、どうやったら互いが引き立つか知ってるんだ。チームワークの勝利だよな」
と、眼鏡の奥の瞳を細めているのは、三井の補佐をしている木暮だった。
「本気で言ってんすか?」
つい問うたら直球が返ってきた。
「当然だよ。どうして?」
「いえ、だったらいーっす」
天使のわっかと菩薩のようなアルカイックスマイル。総てを受け入れ好意で丸抱えする。木暮のそれは流川にとって
未知なる領域だった。
片づけが終わってようやく自分たちの夕食にありつけたのは、仙道が言ったとおり九時を過ぎたころ。人柄は
ともかく、腕はいいというウワサのシェフがつくった賄いをじっくり味わえるほど余裕はなく、すきっ腹にただ詰め込ん
だという感想でしかない。けれど、空腹を差し置いてもたぶん旨かったはずだ。
ハラが満たされると急に眠気が襲ってきた。従業員用の部屋の、自分に宛がわれたベッドに潜り込むと、とたんに意識が
途切れそうになる。疲れた。つまらない。ただ疲れた。
「バスケしてぇ」
シャワーだけでもとタオルを取って立ち上がると、そんな呟きが漏れる。きょうは一度もボールに触っていない。
こんなこと、バスケの存在を知ってから一度もなかった。こんな生活、続けなきゃならない意味がどこにある。
どいつもこいつもひと筋縄じゃいかないし。
ひと慣れしない自分が一生経験することがないだろうと思っていたサービス業務。
バスケのコートがあるというだけで、ノコノコついてきた自分にも非があるけれど、人間どうしたって向き不向きがある。
ここで窮屈な思いをするくらいなら、二十日間三食コンビニ
弁当で我慢して、触ったことのない洗濯機や掃除機と格闘する方が、精神衛生上ずっとマシだ。小煩い母親もいないし、
不便でも気軽さが勝つ。小言を聞くことなく、ずっと公園でバスケができるのだから。
――やっぱ来なきゃよかった。
廊下に出て窓から見えるコートを睨みつけながら、あした、あの男と対戦したら、その足でとっとと出て行って
やると決心する流川だった。
翌朝、本気に五時起床。朝練だったら目覚ましナシでも余裕で爽快な目覚めが、経験したことのない気疲れの
せいなのかか、名前を呼ばれても脳震盪を起こしかけるほどに揺すられても、ここがどこなのかいまがいつなのか、
それどころか、自分がだれなのかさえ知覚出来なかった。
のそりとした動きで瞼をこじ開けると、ツンツン頭の男の呆れ顔が眼前いっぱいに広がり、それが同室で、しかも
昨夜流川がシャワーから帰って来たときも、戻っていなかった仙道だと知って、反射的に足蹴りが出てしまった。けれど
自宅のセミダブルじゃなくて圧迫感のある二段ベッドの下段。振り上げた足は男の腹に納まる前に上段部分にぶつかり、
不本意ながら痛みのあまり彼岸から引き戻された。
「ったぁっ!」
「あっぶねぇ。親切に起こしてやってるのに、蹴り入れるか、ふつう。流川を起こすのは命がけだな」
目を丸くした仙道はひょいと長い躰を折り曲げ膝を進め、体育座りで足の甲をさすっている流川の躰の両端に
手をついた状態で迫ってくる。後退るにも二段ベッドの一階部分。屋根も低けりゃ奥行きもない。喩えは悪いけれど、
棺おけの中に体育会系のかさ張る男子がふたり。好奇丸出しの仙道の瞳が鈍く光って、目覚めたら、飢えた吸血種族の棺の
中だったといった感じだ。
けむたそうに躰を捩ると、クスリと哂った仙道のバリトンが耳の傍にあった。
「なにおまえ。寝起きに襲われたことでもあんの?」
「るせー。離れろよ、暑苦しい」
「潔癖症? それとも接触恐怖症ぎみ? スキンシップも裸の付き合いも過剰な体育会系にしちゃ、珍しい反応だな」
「目ぇ醒めて、んな近くに他人の顔があったら、フツーは逃げんだろ」
「うん。フツーは蹴り入れたりしないね」
結局、根に持っていた部分はそこなのか。そう思って、どーもスミマセン、とばかりに頭を下げると、男はちょっと
意外そうな顔をした。謝って欲しかったわけじゃないらしい。だったらなにと、狭い棺の中視線を絞ると、男は少し
流川との距離を取った。それでも間近であることには違いはない。
「おまえ、なんで一階部分を使ってんの? 同じスペースでも高さがある分、上の方が快適なのに」
そんなどうでもいい話題を、こうも顔をつき合わせてする必要はないと思う。自分のフェロモン濃度を知り尽くしている
男の戯れに、顔を赤らめるような可愛い反応を示すとでも思ってやがるのか。こちとら、自慢じゃないが自他共に認める
情緒欠陥人間だ。だれもが口をそろえてニブイと呼ぶんだから、きっとそうなんだろう。
あんたの手がそれなら、オレはこうするまでだ。
「階段、昇んの――」
邪魔臭い――と最後まで言わずに繰り出した渾身のストレートは宙をかいて、ヒュンと空気鳴りを起こしただけだった。
流川の両脇に手をついていた男の躰は、リーチの長さを読んでいたような最小限の動きでその暴挙をかわし、既にベッドの外
にある。アレっと目を瞬いた先、なぜかまろやかな笑みが落とされ、からかって楽しいのか、一撃すら敵わないと思わせ
たいのか、ただこんな戯れに気をよくしたのか、と思い至って首を傾げる。
ひと慣れしていない自分がいま、気を回して、空気を読もうとした。
なんか、変。
そう瞬きをすると、仙道は、
「おまえの殺気は見え見え。精進しろ」
と、ホテル業務になんら関係のない訓戒を垂れて部屋を出て行った。
痛む足の甲を庇ったままダイニングの清掃と朝食の準備。朝いちで届く食材の搬入。届けられた生野菜と卵は、
もぎたての産みたてのほやほやだ。
「これにフレッシュミルクがあったら言うことないんだけどな」
「止めねぇぞ。ここ辞めて乳牛経営に回ってくれたらバンバンザイだ」
藤真がトマトの香りをめ一杯吸い込みながら呟けば、それを受けて突っ込むのは三井の役目だ。朝も早よから律儀と
いうかご苦労さまというか。ふたり独特のコミュニケーションに、だれも止めないし、突っ込みもしなかった。
「うーん。それもいいけど、オレがいなくなると見栄えの淋しいディナーになっちまう」
「おめーがいなくなりゃ、心穏やかで彩りに満ちた仕事が出来んだよ!」
「どうして牧は、もっと美的感覚にすぐれたシェフを雇わなかったのかな」
「あいつは、オレに頭下げたんだぜ」
「あーあ、同僚に恵まれなかったら、すぐにスタッ○サービ○」
顎を上げる三井と電話をかけるフリをした藤真に、「相変わらずだなぁ」と声をかけたのは、厨房から続く搬入口で
野菜の詰まったダンボールを抱えた少年だった。それを受け取る流川と目が合う。ん、と眉をしかめられ、不躾に覗き
込んだ瞳は琥珀にも似ていて、しかしもっと目を惹いた真っ赤なリーゼントが、藤沢辺りでは絶滅品種。いかにも田舎の
ヤンキー然としていた。
「毎朝毎朝、おんなじような会話して。進歩ないぞ、補欠くんもミッチーも。ってコイツ、新入りか? 見かけない顔だな」
顔一杯に好奇心を貼りつかせて、藤真、三井、流川と視線を戻したあと、真っ赤なリーゼント男は、態と下から
睨めつけるように凄んでくる。受けた流川も剣呑さを隠しもしないから、まさにガンタレ一触即発状態だ。
「桜木に進歩ないって言われりゃお終いだな」
「ったくだ。コイツ流川ってんだ。新入りっていっても短期のな。夏休み一杯ってとこ。って、桜木。この頃レタスは
小ぶりなのが多いな」
ふたりのプチ猛獣の威嚇し合いに目もくれず、流川からダンボールを引っ手繰って藤真は納品された野菜を確かめていた。
「おう。天候の加減でよ。だから父ちゃんが数で勝負って謝ってた」
と、返しながら桜木と呼ばれた少年は流川から目を離さない。見てくれどうりのただのヤンキーなら、縄張り根性
と格付けむき出しの牽制なのだろう。張り合うのも馬鹿らしくなって、流川はプイとそっぽを向いた。それがこの
男には気に入らない。
「挨拶もナシかよ、このヤロー!」
「ひとのこと言えんか。てめーだってそうじゃねーか」
「新入りから先に名乗るんが筋ってもんだろっ」
「なんでてめーなんかに。聞きたくもねー」
「あんだとぅ! 表へ出やがれ!」
襟首をねじ上げ、その手を払い、また掴みかかり、小手でタイミングを計りだしたふたりを、止めようなどという
殊勝なものはひとりもいない。間に入って怪我でもしたらバカくせーと三井は口を尖らせ、男の子はこれくらい
じゃなきゃと木暮は目を細め、厨房の中でやり合ったら全員でフクロにしてやると藤真は睨めつけ、その言葉を受けた
二メートル男の花形が、ふたりの少年を子猫よろしく、後ろ首をつまみ上げて搬入口から表へ放り出した。
「え?」
「うそ?」
上背はあっても巨漢とまでは呼べない男の力技で、裏口から放り出されたふたりはぺたんとその場に尻餅をつく。
「厨房のものをひとつでも傷つけると、本気で藤真に殺されるぞ」
覚えておけ、と冷徹に扉まで閉められた。
振り上げた拳の降ろしどころを失って、思い切り所在ないふたりを救ったのは、トラックの運転手と楽しそうに
会話していた仙道で、香味野菜の入ったちいさなビニール袋ひとつ提げてこちらへやって来た。イチオウこれでも
食材の搬入を手伝っているらしい。
「おはよう、桜木。朝っぱらから大声出して、山間内に響き渡ってたぞ。親父さんがアレさえなけりゃって言うから、
親のお手伝いをするいい子じゃないですかってフォローしといたから」
仙道がトラックを視線で示しながら言えば、地面に胡坐をかいた桜木が口を尖らせて流川を顎でしゃくる。
「だって、コイツがよ。あんまし生意気だから」
「てめーだって」
「うん。流川は桜木みたいに開けっぴろげじゃないからな。悪いけどちょっと我慢な」
と、言ってしゃがみ込んでいるふたりの頭をクシャリとかき回す。仙道のこれは癖みたいなものなのだろうか。
きのうも、なにか納得させたい意思があって触れてきた。それに言い含められるのもムカつく話だが、このひと好きの
する笑顔で伏せた視線まで覗き込まれると、ササクレだったものが少し溶けてゆくか、余計に倍増されるか。
その違いは、たぶん、自分にある。
「それにさ、ふたりともおない年なんだぜ。仲良くしてやってくれ」
その思いは桜木にもつうじたのか、それともお願い形式に気をよくしたのか、渋々ながらも視線を寄こしてくる。
流川にすれば単純なヤツといったところだが、
「べ、勉強、はかどってんのか?」
と、唐突に述べられた言葉に噴出しそうになった。目の前の仙道は大爆笑している。律儀というか以外と聞き分け
がいいというか。ふたりの反応に、桜木は真っ赤になりながら凄むが、迫力なんかあったものではない。
「なんだよっ。笑うこたねーだろ」
「いいな、桜木は。そんな強面なのに癒し系で」
「こんなツラで悪かったな。受験生にとって共通の話題ったら、それっきゃねーだろ、で、どうーなんだよ!」
これに答えてやらなきゃならないんだろうか。涙目になってまだクスクス笑っている仙道がどこかそそのかしている。
相手をしてやってもなにも減らないだろうとか、だが好意に似た桜木の配意は、この際腰の座りが悪いでしかなかった。
自然、声音が凍る。
「別に」
「別にってなんだ、別にって。それが答えになってんのかよ。で、公立? 私立? どこ受けんだ?」
「ウチの学区の公立、知ってんのかよ」
「……」
「続かねーだろ。無理に接点見つけようとするからだ」
「だぁー! センドーっ! どうやってコイツと仲良くしろっつうんだよ!!!」
流川を指差した桜木に仙道が困ったような顔をする。なぜコイツが困るのか分からない。分からないと苛立つ自分が
さらに分からない。
「ま、おない年だからって仲良くなれるとは限らない、か」
「言ってすぐに撤回かよ。いい加減なヤツ。そうだ。オレ、昼からまたここの仕事手伝いに来てやっからよ。時間
あったら、アレ、教えてくんね?」
「アレってジャンプシュート? レイアップはもうマスターしたのか?」
「おう。地味な技だけどよ、だいたいのカンはつかめてきたぜ。やっぱオレさまは天才だな。一応、センドーの教え方も
よかったってことにしといてやる」
「そりゃ、なにより。けどこんなにハマるんなら部活に入っときゃよかったのに」
「クラブ活動ってガラでもねーよ」
「そうでもないと思うよ。そうだ。流川にも見てもらいな。コイツ中学では結構名の知れたケイジャーらしいからさ」
やっと接点を見つけたとばかりに話を振られ、桜木の嬉々とした表情を横目で睨んでいた流川の眉間の皺が二割ほど
増しになった。
分からない。
仙道と桜木は馴染みで、自分は昨日来たばかりの新参者だ。仙道がなんども桜木の相手をしてやった
としても、そんなものは当然で、自分がまだ叶っていないからと言って、そこに憤る資格はどこにもない。
違う。きっとそういうんじゃなくて。
どこを見回しても寄る辺なく、ひとり捨て置かれたような寂寞感が隙を縫うように押し寄せる。足元がこんなにも
覚束なく、たかだか丸一日ボールに触っていないだけで、苛立つほどに不安定で。
まだ一日。
そう思った刹那、キリと胸の辺りが痛んだ。
――チームメイトがそんなに信じられねーのかよ。
――パスも出せねーくらいに。
――結局流川の独壇場でさ。
――アイツにスカウトの目をあつめさせるためだけにオレたちがあるみてー。
――海南大附属や翔陽からも引きが来てるんだろ。
――そりゃ、来るだろうよ。アレだけ得点力がありゃーな。
――アイツのペースについてけないオレたちが悪りぃのか。
――ペースを乱すアイツが悪りぃのか。
――たったひとりの神通力じゃここが限度ってことで。
――あ、じゃ、やっぱオレたちが悪いんじゃん。
ドッと上がった笑い声がいつまでも耳に残り、負けたというより終わったという感想でしかなかった。
関東大会が行われた小田原アリーナ。そう、敗退してからこっち、ひとり練習をしていても、その実、ボールが手に入っていなかった
のかもしれない。そう思ってしまえば、いまここで、照れながらも嬉しさを顔全体で表している桜木のような無垢な
気持でボールに向かい合ったのは、いつ以来だ。
そう知覚して、ザワリと肌が粟だった。
「へぇ。こんな細っこいヤツでもやれるんか? ウチの女バスの連中の方がごついぞ」
そんな流川を気にも止めず桜木の大声が頭上を掠めてゆく。
「たぶんね。牧さん仕込みって触れ込みだからな」
「そりゃ面白れーや。仕方ねーからおめーも一緒に仲間に入れてやるよ」
「受験勉強も見なきゃなんねーんだ。牧さん、なんでもかんでもオレに押し付けるからさ。もう忙しくって」
「んなもん、必要ねー。な、ルカワ」
桜木の琥珀が、湖面からの照り返しの中でふわりと和らいで、眩しさを躰に受けながら、流川の背に冷たい汗が伝う。
桜木に他意はない。けれど顔は益々強張った。
そんな少年の状態になにかを感じ取った仙道の手が伸ばされる。それを反射的に音を立てて払い、なのに嫌悪では
なく純粋に驚いた仙道の瞳が目の前にあった。浮いた手は宙を掴み、それでもなおも掴もうとする仙道の手から
逃れて、ただ、立ち去るしか、自分の中のなにかを守る方法がないと感じたのはなぜだ。
なぜと疑問に感じることが少なく、なにも気にならないで、気にしないで、前だけしか見ていなかった中学の二年半。
それがここへ来て、躰を止めてしまったからか、首を傾げることが多くて。ひと慣れしないだけではなく、思考慣れも
していなかったんだと、気づいた。
「なにさまだ、てめーっ」
そんな流川の背後に桜木の罵声が覆いかぶさった。
continue
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