〜労働と報酬







――こう見えても二年にして海南大のエースだったんだからな。



 そのひと言で流川からの強い疑惑と同等の闘争心と、ほんの少しの憧憬を身に受けた仙道だったが、実際問題、かきい れどきのホテル業務の合間にバスケ少年の相手をしてられるほど暇ではない。一階にある従業員用の部屋には二段ベッドが 三つ。牧はそこに流川を案内し、お互いひとつづつ使えてまだひとつ余るということは、下っ端がふたりしかいないという 事実を突きつけた。
「朝は早い。五時起床だ。後で紹介するが、製パン製菓子担当のふたりなんか仕込みで四時起きだ。その代わり夜も早い がな。体力勝負だ。超中学級のケイジャーならそれくらいどってことないだろうし、仕事を早く片付けて仙道をせっつ いてやるのもひとつの手だ」
「紳兄ぃは? 絶対無理なのか?」
「オレはもう現役から遠ざかって長いからな。おまえの期待には応えられんよ」
「あんないいコートがあんのに、もったいねー」
 アメとムチを使い分け、それでもブツブツと口を尖らせて呪いの言葉を吐いている従兄弟を促して牧はダイニングへと 誘った。
 流川の母親は昼食を取ったあと、牧に何度も頭を下げて帰って行った。そのあとから夕食の準備まで怒涛の数時間が 始まる。昼食の後片付け、湖やコートで遊ぶ客のもてなし。近くのゴルフ場への送迎。館内風呂場トイレの掃除。 食材の搬入に夕食の準備と。ほとんど総員フル回転で跳びまわっている。
 オーナーの牧と仙道の他に厨房を切り盛りしているのは四人。目を惹く華やかな美貌の男と銀行員のような眼鏡をかけた 二メートル近い大男がコンビ。そして顎に瑕のあるシニカルな雰囲気の男と穏やかそうな眼鏡の男がもうひと組。あとで 紹介すると言われたように、まず流川はそこに放り込まれたのだが、
「藤真だ。イチオウここの管理責任者。おまえ野菜の皮むけるか?」
 はしばみ色の髪と瞳を持つ陶器人形のような印象の男は腰に手を当て、よくとおる声で言い放った。
「皮?」
 と流川が答える前にシニカルな男はオレは三井だと自己紹介したあと、眼鏡の優男を指差し、藤真を押しのける形 で口を突っ込んできた。
「ジャガイモとかニンジンとかだ。きょうは手伝いのおばさんが急に休んでてよ。この木暮とふたりきりで正直猫の手も 借りてぇ」
 美貌の男がモロ不機嫌そうに三白眼になった。なにやら力関係が微妙なふたりだ。
 モチロンそんなことが流川に分かる訳がなく、思ったままを口にする。
「皮むいて食うの?」
「……皿洗いは?」
「したことねー」
「なんだとぉ!」
 三井が盛大に顔を歪めた。見れば結構端正な顔立ちをしているのに、なぜかそうやって凄んでいる表情がしっくりくる 不思議な男だ。怒髪天をつく様相の三井を制して藤真が前に出た。気づけば木暮と紹介された男は、ふたりの様子を 心配そうに見守っている。もうひとりの大男は、我関せずで作業を進めていた。
「ここをよく見回してみろ。メシをつくるんだ。お客さまにお出しするコース料理を。見回しておまえがなにか出来そうな ことあるか? 猫の手は借りたいけど、はっきり言って手取り足取り教えてる暇はない」
 藤真にシンと凄まれて流川は鈍く光るステンレスで統一された厨房を見渡した。フライパンが釣り下がり鍋から湯気が 盛大に上がり、シンクの中には汚れた食器がつけ置きされてある。巨大な冷蔵庫の前には、幾つものダンボール。 まな板の上には下ごしらえ中の食材が転がっていた。
「味見」
「なに?」
「じゃ、野菜、片付ける」
「本気で殴られたいのか、おまえっ」
 流川の襟首を掴んだ三井を制して藤真が館内に響き渡るような大声で呼ばわった。
「仙道っ」
 近くで様子でも伺っていたのか、アタフタと仙道が流川を引き取りに来た。ひとめで苛烈だと分かる三井よりも、冷徹に断罪 できるのは藤真の方かもしれない。続いた言葉はそう思わせた。
「んな使えないヤツ、戦場に放り込むな」
「なんでオレに言うかな。コイツの保護者は牧さんでしょう」
「つべこべ言うな。新人の教育は下っ端ってのが世の倣いだ」
「藤真インホテルテロメア。世の習いじゃなくて、藤真さんの倣いってヤツで」
「仙道。きょうの賄い。放棄してもいいんだぞ」
「おまえがいつ賄いをつくったんだ!」
 それを言うのはオレの役目だと三井が割って入ってガンを飛ばす。
「パンと菓子しかつくれねーヤツがエラソウに言うな!」
 モチロン言われた方も負けていない。
「オレが厨房の一切を取り仕切ってる管理責任者だ」
「ただの火元管理人だろうが。メシはオレがつくってんの!」
「オープン当初からレシピもふえないヤツに言われたくないな」
「あんだとぉ!」
 ジャガイモの皮が投げつけられる中、ラチがあかないからと仙道は流川の腕を取って退散した。ああ見えてふたりとも 仲いいし、腕は確かなんだと説明を受けた。けれど心なしか棒読みだし、切望がアリアリと感じられる。 そうジト目で睨むと仙道は闊達に笑って彼を促した。



 次に連れて行かれたのは玄関ホールで、業務用の掃除機を渡され全館清掃を言い渡された。手にしたその吸引力に 驚いていると、四角い部屋を丸く掃除するなと、どこからともなく降って沸いてくる藤真の声。見渡し探したがもういない。 素早いヤツと呆れていると、今度は作業の終わりを見越したように仙道が帰ってきた。
「それが終わったらモップを濡らしてダイニングの拭き掃除。その次はテーブルクロスを敷いていってくれ。斜めかけ だからな。学校給食みたいにするなよ」
 それはもう、津波のように次から次へと用事が押し寄せる。やってらんねー、と罵りながら濡れたモップで床をなでる と水気を含んでスニーカーの底がキュっと鳴った。リノリュームの床とラバー底との擦過音。懐かしい響きに胸が軋む。 自分のバッシュが体育館から離れて一週間もたっていないのに。
 関東大会に出場したものの一回戦で敗退して自動的に引退してから一度も聞いていないのだ、あの音を。
――受験勉強の合間に指導に来てくださいよ、流川先輩。
 そう言って惜しんでくれた次期主将。けれど最後の試合。小田原アリーナのAコートで突き刺さったチームメイトの 言葉が彼を自チームの練習に向わなくさせた。
――信じらんねーのかよ。
 パスも出せないくらい。
 試合終了のホイッスルが鳴く中、相手チームの歓声にかき消されて、それでも零れた言葉は聞き取っていたのだ。
 手を止め頭をブンとひとつ振って大きく息を吐くと、「さぼってんじゃねーよ」との声。ニコヤカな表情を乗せた仙道が カトラリーセットを抱えて戻ってきたところだった。
「まだ終わってねーのか、床掃除。仕方ないな。んなもん、腰入れてちゃっちゃと済ませちまわないと」
 手にしていたものを脇に置いて、素のままのテーブルに一枚一枚クロスをかけてゆく。そうしていても、流川はモップ にもたれたまま動こうとしなかった。仙道は大仰に溜息をついて流川と向き合った。
「もう、飽きたって顔に書いてある」
「飽きた」
「正直でよろしい。ついでに晩飯食ったら出て行ってやるとも書いてあるな」
「こんだけ働いたんだ。メシ食わせてもらっても食い逃げにはなんねー」
「時給五百七十円ってとこか。高校生の最低賃金にも達してねーよ」
「るせー」
「なぁ、楓くん」
「流川」
「あ、じゃぁ流川。教えておくけど三井さんの旨い賄いにありつけるのは早くて九時だ。んで、その時間だと最寄り駅行きの バスの最終は出ちまったあと。ヒッチハイクなんか到底望めないだろし、麓まで歩くのはオススメしない。クマは なくてもイノシシはありえるぞ」
「ちっ」
「明るいうちに麓まで着きたいならいまからじゃないと間に合わない」
「じゃあそうする」
 ポンとモップを放り投げて背を向けた流川に仙道は構わずに語り続けた。
「おまえが一時間で飽きたってこんな仕事でもさ、バスケの試合と同じで得点差を縮められる場面と無理な場面とが ある」
 なんの話しだと流川が振り返った。相手の注意を引き付けられたならコッチのもの。あとは手玉に取るのも、なし崩し にするのも得意中の得意なのだ、このお兄さんは。
「時間の話さ。いまから夕食の片づけまで、一進一退の攻防でどうやったって得点差はつけられない。ターンノーバー の繰り返しってとこ。でもな、あした、朝食が終わったあとなら、その後の仕事を効率よくこなせば時間が取れる、こと もある」
「ほんとか?」
 斜めを向いていた体が真正面に周り、覗き込まんばかりに顔を近づけてくる素直さには正直笑えた。ほんとにバスケが 好きなんだなと。取り上げてしまったら、確かに可哀想だ。
「なんか楽しみがないとやってけないのも事実だし。けど、オレ、そんなに長い時間相手はできない」
「なんで?」
「怪我。膝の靭帯。痛めてるから休部中なんだ」
 あ、と流川が悲鳴にならない声を上げた。キツイ視線しかよこしてこなかった少年がほんの僅かに認めた悔恨に 触れて、悪りぃなとサラサラの髪をかき混ぜた。余計に目元が隠されて流川の表情は読み取れなかったが、自分の願望を 突きつけるしかなかった頑是なさを恥じさせたとしても事実だ。
 ちったぁ周りに気を配れと釘を刺したつもりもあったのだが、思慮深いオーナーの従兄弟は、彼が考えていた以上に 我がままだった。
「何分?」
「え?」
「何分間なら全力で走れる?」



 夕食の仕上げからテーブルセッティングまではまさに時間との戦い。使えない中坊がひとり混じっていようが総員総出で 行うしかない。両手で皿を四枚運べとは言わない。片手に一枚づつでいい。とにかくまだセッティングされていないテーブルを 見つけてお出ししろ、と藤真は流川に必要最小限の訓戒を垂れた。
 憮然とあからさまに唇を尖らせながらも、重労働でいい加減血糖値が下がりきっていた少年は、キッチンに立ち込め つつある料理の匂いと並ぶ皿の数々に喉を鳴らし、これが終われば賄いにありつけると、回らない頭ながら考え 至ったようだ。大切な試合前の監督に対しているような神妙な顔で頷いていた。
「なに甘やかせてんだ。最初っからそんな調子じゃ出来るもんも出来ねぇ。藤真の言うこと聞いてたら、いつまでたって も半人前のまんまだぞ、中坊っ」
 そこに割って入ったのは三井。正論ながらも藤真への対向意識がアリアリで、木暮なんかは思わず牧の姿を探してし まうが、当のオーナーはしらんぷりを決め込んでいる。
「左手に三枚、右手に一枚だ。背筋伸ばして腕を安定させとけば落っことすこたねー」
「皿を安定させる暇があったら機動力で往復した方が早い。さっさと行ってこい、流川」
 その中心に位置する新入りは、生来の負けず嫌いとモノグサさと、己の中で拮抗したものの、新しい技にトライする よりも、さっさと済ませて賄いを喰らいたいという空腹感の方が勝っていたようだ。二枚を手にして突撃状態で厨房を飛び出 して行った。
 その姿を追って歯をむき出す三井に、クフンと典雅に笑った藤真はさらに辛らつに続けた。
「金さえ積みゃ、卒業できる調理師学校出の分際で、トゥールダンジャルを支えた天才パティシエの対して図が高い」
「いちいち経歴持ち出すんじゃねーぞ。この卑怯もんがっ!」
「悔しければ新しいメニューを増やすんだな。学食や社員食堂じゃないんだから、一週間のローテで回すなよ、 恥かしい」
「てめー! あとでほえ面かくなよ!」
「かかせてもらおうじゃないか」
 ホテルテロメアの厨房はいつにも増して白熱していた。
 そして一方。
 次から次へと上がってくる料理をなんとか粗相なく提供する流川を目の端で捉えながら、仙道は牧にことの顛末を 報告していた。オーナーといえどもこの時間帯の停滞を藤真は絶対に許さない。その視線をかわしながらのふたりだ。
 いちから十まで仙道に任せっきりだったものの、それでも十二分に不器用だと見知っている従兄弟の様子を牧だって 気にはしていたのだ。
「ほぉー、で、天下の仙道ともあろう者が中学生に撃沈されたか」
「やられましたね。あんな真剣な目をして迫ってくるもんだから、三十分とか、つい言っちゃいましたよ」
「アイツの総ての思考回路はバスケで回っているからな。そりゃ、どうあっても食い下がるだろう」
「ですね。オレにあんな真摯で貪欲なころってあったかなって思い返されましたよ」
「ないな」
「即断しないでください」
「いたいけな少年との約束を反故にするなよ。なんとしても三十分、楓の相手をするんだな」
 牧はワインセラーから年代ものを何本か取り出すと、ワインクーラーと共に厨房を出て行った。それを見送って 仙道は思い切り頭をかく。
「あー、かったりぃ。いまさら全力疾走できるかな、オレ」
 たちまち背中にも目のある男、藤真の叱責が飛んだ。
「厨房で髪に手をやるとはなにごとだ」
 肩をすくめてメインの料理皿を手にしダイニングに入ると、ちょうどOLが四人で宿泊しているテーブルに 流川がサービスしているところだった。
 なにか問われてボソボソと返しているように見える。どんな遣り取りがあったのか、急にどっと甲高い笑い声が上がった。 遠目からでも流川の眉間に思い切り皺が寄っているのが見てとれる。彼女たちのあからさまな秋波の洗礼を受けて、 戸惑う美少年というのもたまらないのだろう。
 彼女たちも大人げないが、年上の女たちに取り囲まれて玩具にされている流川が可哀相というより、常連だという お客さまに対して失礼があっては困る。モロ不機嫌が顔に出ているのだ。仙道は手にしていた料理皿を近くの老夫婦のテーブルに、 ことさら丁寧に出すと、彼女たちのテーブルへ急いだ。
「畏れ入ります、お客さま。ウチのスタッフがなにか失礼をいたしましたでしょうか?」
「アラ、仙道くん」
 漆黒のカフェエプロンにギャルソンスタイルも端正な、ホテルテロメアいちのイイ男、仙道彰の登場にOLたちは 気色ばむ。息を呑む。実際、触れれば噛みつかんばかりに毛並みを逆立て、凶暴さを隠そうともしない美貌の少年と、 二十歳ながらも大人の風格と余裕とをひと好きのする笑顔に乗せた爽やかな風貌の男と。ふたりが並べば気質の違いといった コントラストに、OLのみならずだれもが圧倒されてしまうのだ。
「違うのよ。ちょっとね、名前を聞いただけなの」
「そうそう。幾つって」
「そしたらさぁ、『合鴨のローストナントカソース添えです』って言うから、笑っちゃって」
 仙道も苦笑して流川の背をポンと叩いた。なに、と返す視線に、行っていいぞと顎を上げる。意をくみ取り顎をつき 出しだだけの挨拶で流川がその場を離れると、なぜか周囲から尾を引いたような溜息が漏れる。もう少しこのツーショット を拝んでいたいとの羨望は明らかだった。
「確かに目立つな。あのふたり」
 ダイニングを望む格好で厨房の入り口に立った牧がその様子を認めて呟く。コースを締めくくるデザート製作に懸命な 藤真が、それを聞きとがめて顔を上げた。
「なんの話しだ?」
「いや、あのふたりの間に藤真と三井を配したら、たいした目玉になるんじゃないかと思ってな」
 件のテーブルに背を向けた流川とまだ愛想を取っている仙道との間には、距離が出来つつあるのに、とりわけ女性客 たちの視線はまだそこに留まっていた。意識的に振りまこうが閉じ込めようが、持って生まれた華や、つい惹き寄せられる 視線などは、どう邪険にしようが失えないものがある。
 そういう意味では実に対照的で相似的なふたりだった。
「イケメンホテルで売り込んで、女性の客足を伸ばそうってプランも期間限定だ。あの子は長くて夏いっぱいだし、仙道 だっていつまでここにいるか分からない」
「夏限定プランにすればいいじゃないか」
「生憎だがオーナー。夏休みいっぱい予約で満室となっております」
「結構な話しだ。凄腕のパティシエのお陰だな」
「辣腕オーナーの人徳の賜物じゃないか」
 空々しいから止めとこうと笑ったふたりの間を裂くように流川がやってくる。ご機嫌斜めな中坊は憮然としたまま ひと睨み入れたあと、「口動かさずに手ぇ動かせ」、と言い捨て、新しい皿を手にすると、ダイニングへと戻って行った。 藤真のこめかみにはピキンと筋が浮き、それを宥める術を失っている牧は肩を竦めるしかない。
「あのガキ。絶対泣かせてやる」
 それがこの夏のオレの月間目標だ、と藤真は志も高く拳を握り上げた。






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