〜打算と惰性







 藤沢の自宅を出て海岸沿いの国道を西に向かっていた母の運転するボルボのステーションワゴンは、茅ヶ崎辺りで北上 し次第に山間部を縫うように進んでいた。
 ボリュームの抑えられたFMから流れるBGMはすっかり夢路へと誘い、いつの間に方角が変わったのかも気づかず、 幾分寄りかかったウインドウから差す日差しが柔らかく感じられて、流川は目覚めた。
 それでも木立から時おり差す葉こぼれが、チカチカといいように閉じた瞼を刺激し、立ったままでも居眠り可能とまで からかわれた彼をして安眠出来ない。仕方なくもたれかけていた頭を運転席側に戻すと、「あら、起きたの」 と、母の軽快な声がかかった。
「この林間を抜けたら真正面に湖が見えるわ。そうしたらすぐだから、起きてなさい」
 ああとか、うーとか、凡そ返事らしくない音を立てて凝り固まった背筋を伸ばしていると、母の言葉どおり目の前 が一気に開け、折り重なる山間に抱かれるような湖水が朝の光を弾いていた。
 寝起きの瞳には痛すぎる照り返し。室内球技に明け暮れていたものには居心地が悪いくらいの開放感だった。
 近くにあるのは野外活動センターかカントリークラブかオートキャンプ場くらいなもの。古来よりたびたび神意が現れ、 天狗が来住すると言われている神山と清流と鏡面のような湖とそれに伴う景観と。そんな場所に流川の従兄弟は脱サラ した挙句ペンション――本人はホテルと命名している――を建ててカントリーライフを謳歌しているという。
 唐突な人生設計の転換に、思い切りがいいいというか、酔狂というか、ひとさまの去就に大した 感心はなくても、変わり者だなと思う。
――景色はいいけど、なんもないところ。
 別にそれでも構わない。彼は母が告げたひと言で、夏休みの残り二十日間をこの地で過ごそうと決めたのだから。



 それは、中学最後の試合を敗戦で終えて、やけに重く感じるドラムバッグを提げて帰宅したときに、珍しく 玄関まで出迎えた母から告げられた提案が発端だった。
「終わった」
「そう、残念だったね、楓。でも三年間よくがんばった」
「うん」
「それでね、前にも言ったと思うけど、梗子がもうすぐ出産なのよ。ほらあちらもお姑さんが亡くなってて女手がないでしょ。 ひと月ほど付き添ってあげたいんだけど、あんたどうする?」
 どうする、と聞かれても答えようがない。流川が面食らって瞳をぱちくりと瞬いていると、母は息子の思案顔を 置いてけぼりにして話を進めた。もう、彼女の中では決定事項らしい。イチオウの問いかける形態は、親子のコミュニケーションと いうわけだ。
「部活も引退だし、ちょうど夏休みだし、一緒についてくるって言いたいんだけど、産まれたての赤ん坊と一緒じゃ、 受験勉強もはかどらないでしょ。それに双子だっていうのよ、梗子のとこ。赤ちゃんふたり抱えて、あんたにかまけ てられないし」
 恐らく最後の言葉が本音に近く、手のかかる無精者の世話までしてられるかと言ったところ。無頓着なひとり息子とて、 母の魂胆は見抜いている。
「母さんひとりで行ってくりゃいいじゃん」
「そこなのよ」
 と、母はエプロンのポケットから一枚の絵葉書を取り出し、それを息子の目の前に突きつけた。
「こんな大きなナリしてカップラーメンのお湯を入れるだけで火傷しちゃう息子を、ひと月近くひとりっきりに出来ない でしょ。だからってお父さんに帰って来てもらうわけにはいかないし」
「だから?」
「従兄弟の紳ちゃんとこにお手伝いがてらお世話になるってのはどう?」
 母はにっこりと最後通達をつきつけ、そこに息子の是非はない。
 いま玄関先で固まってしまっている彼、流川楓は市立富ケ丘中の三年生。ちなみに男子バスケ部主将を務め、 冗談でなくデビューしたての一年のころから強豪私立から引き合いが来るくらいの選手なのだが、そのひとつひとつの 住所を確認し、なぜか他は遠いからという理由で近くの公立高校を受験しようという正真正銘、根っからのモノグサも のだ。
 これには、息子の進路に口を挟まなかった単身赴任中の父親までもが急遽帰宅し、「私立に行っても構わないんだよ」 と息子の性質を誤解した説得を試みた。授業料の高さを遠慮してとか、スポーツ特待で入学したはいいが怪我をしたとき には潰しが利かないとか、そんな気遣いや処世術からの言動ではないとすぐに知れた。
「湘北……確かに近い」
「うん。チャリで五分くらい?」
「――歩いてもそれくらいで着くんじゃないか? しかし、あそこってバスケは強いのか?」
「毎年、予選一回戦負けらしー」
「それは、ちょっと、だな。けど、ああ、そうか楓が入って強くしようと思ってるんだな」
「バスケはチーム競技だから、無理なんじゃねー」
「じゃあ、どうして? 強いチームメイトと競ってこそ、楓も鍛えられるんだぞ」
「電車で通学するの、かったりーし、寮に入るんも性に合わねーし」
「それだけの理由で? 湘北ってチームを知ってるのか?」
「センターのリバウンドがすげぇ。ガードはめちゃくちゃテクニックはある」
「本気なのか?」
「うん」
 息子が依怙地なら父親は淡白で、母親の盛大な溜息の中、父子会談は滞りなくピリオドを打ち、晴れて一般入試で受験 と相成ったわけだが、高校三年間に得られる僅かばかりの毎朝の睡眠時間を選んで、バスケ強豪高からのお誘いを蹴った 息子の価値観は奈辺にあるのか、未だに窺い知れない両親である。
 進路指導の教師が言うには、とにかく内申書が悪すぎる。授業態度がなっていない。提出物や忘れ物など目も当てられない。 唯一教師に刃向かう素振りは見せないらしいが、それはそうだろうと母は思う。
 何処でどう育て方を間違ったのか、この息子にとっての学校とは体育館が総てなのだから、気炎の狼煙を揚げて教師に 盾突くような時間の無駄は冒さない。そんな、世間一般の男子中学生が抱える有象無象のしがらみから、解放され きったような性質に将来の不安を感じずにはいられないが、そのうち世間さまと折り合いをつけて、多少なりとも角が 取れて生きていってくれるだろうと達観する辺り、さすがに母子。血は争えない。
 トータル的に見て息子の志望高は内申偏差値両方ともに到達していないらしい。相当努力しないと、と渋る進路指導の 教師の顔が蘇るが、それに関しても彼女は意に介さない。あのモノグサがモノグサなりの理由をつけて選んだ高校だ。 後々三年間、モノグサ振りを謳歌するためにはそれなりの努力が必要だとは、モノグサなりの理論で分かっている。
 公立落ちたら、海南か翔陽か、陵南ね、と三枚のカードをチラついているのだ。そういうところでしか発揮しない努力を 惜しまないだろう。
 それもどうかと思うけれど、そんな息子に育ってしまったのだから仕方ないと、母親はいつの世も自己弁護を 忘れなかった。
 だからこんな大切な時期ながら、妹の梗子が嫁ぎ先の京都で双子を出産するという、のっぴきならない事情で、 心配だったのは生きてゆくための最低限の手段だった。すなわち、三度三度の食事。 連れてゆくにはかさばるし、案じた母は、暑中見舞いに送られてきた絵葉書に飛びついた。
「紳兄ぃ、とこ?」
「そう。早いものだわ。もう一年になるのね。経営も順調みたい。ほらね、近くにお越しの際は気兼ねなくお寄り下さいって、 書いてあるでしょ」
 それはそう書くだろう。思い切りの社交辞令だが、どうせなら年の近い、それに文武を兼ね備えた従兄弟に預けた 方が勉強も見てもらえるかもしれない。手伝いのひとつやふたつ、この横着ものが勤まるかどうかが心配だが、 以外と縦の関係には絶対服従の体育会系精神の持ち主だ。
 従兄弟の命令ならば渋々従うだろう、と母はほくそ笑む。
 件の牧紳一とは、彼女の姉の子に当たる。そして幼かったころの流川が初めて目にしたケイジャーでもある。 神奈川の強豪海南大附属の一員として、一年のときからレギュラーだった彼の、インハイ予選の応援にくっ付いてきた 小学生になりたての息子は、牧のプレイとバスケの存在にブチのめされた。
 それからはもう、傍が気に病むほどののめり込みようで、校区のミニバスチームが三年生からしか受け入れない事情 を、ほぼ二年間に渡って説得した毎日と言っていい。冗談でなく、甥の牧に、「紳ちゃんがなんとかして!」と 練習相手に呼び出したくらいだ。
 あちらも夏のかきいれどき。猫の手くらいにはなるだろう。どうせ家にいても机は爆睡するためにあると思って いるような息子だ。夏休みの課題くらいはなんとかしてもらおう。
 完璧、と母は腰に手を当てた。
「紳ちゃん、お勉強もだけど、バスケ教えてくれるかも。なにもないところだけどバスケのコートはあるんだって。 大自然の中でシュートを放つのも清々しいものです、って書いてあるわ」
 そのひと言で彼は手を打った。



 真ん中に小さな小山を頂き、ひょうたんを寝かせたような湖には、釣りを楽しむためか桟橋がかけられ、ボートがつないで ある。そこを望む形で建てられたホテルの名を「テロメア」というらしい。一枚板でつくられた田舎暮らし を誘うそれっぽい看板を過ぎると駐車場が見えてきた。
 腐っても夏休み。どう見繕っても十部屋くらいしかない規模の「ホテル」にもそれなりの数の車が止められてある。 閑古鳥が鳴いてどうしようもないという窮状でもないらしい。
 ホテルの外観は昔ながらの西洋館ふうの三階建て。正面から見える部屋の窓には総てバルコニーが張り出してあり、 鹿鳴館華やかなりし頃といった風情だった。
「戦前の華族さまの別荘らしいわ。さすがにいい味出してるわね」
「ぶっ壊れねーの?」
「意外と昭和初期の建物って教科書どおりにつくられてて、手抜きがないからしっかりしてるらしいわよ」
 車外に出ると湖面からの照り返しがきつく、孟秋と呼ぶには早すぎる八月の日差し。流川は後部座席からドラムバッグと バスケットボールを入れてあるリュックを取り出し、エントランスへ向う母を追い越した。荷物をそこに放り出し、 ホテルの背後へと回る。真正面は切り立った崖。裏庭のように拵えられたそこには、3ON3のクレイコートが彼を 待ち受けていた。
 ちょうどホテルの全景と山肌が日陰をつくり、アウトのコートにしては直射日光も気にならない。サイドライン 際には二段の観客席まであった。シュートを打つ視線で顎を上げると、青い葉陰と圧倒的な山肌が目に飛び込んで、 自分が放つオレンジ色のボールがさらに際立つのだろう、きっと。
 すげぇ、と一歩踏み出すと、ホテルの裏口からネットらしきものを抱えた男が 姿を現した。コートの端に突っ立ったままの流川を目に止め、ニッコリ笑って近づいてくる。背の高いツンツン頭が 特徴のひと好きのする笑顔を振りまく青年だ。
「やぁ、こんにちは。早いお付きですね。一応チェックインは十二時からになっているんですけど、お部屋は 用意できると思いますよ。とりあえず玄関に回ってもらえますか?」
 流川を新しく到着した客だと勘違いした男は、あ、ご家族の方が済ませてるか、と作業を続けるために背を向けた。 コート脇のホールにポールを押し込み、背の低さからいってテニスのコートをつくるらしい。地面がクレイで出来ている わけは、バスケ専用でなくテニスやバレーボールにも対応させるのには納得だが、つい、流川は、あ、と声を出してし まった。
「どうしました?」
「バスケ、出来ねーのか?」
「ああ、ここね。予約制になってるんだ。いまから二時間は女子大生たちのテニスのお時間。君はバスケするのか?  身長あるもんな。もしするんなら受付で聞いてみて。ナイター設備はないけど、六時くらいまでなら使えるから。 一時間千円ね。ボールやラケットは貸し出しオッケ。シューズは自前でお願いします。なんならお相手もしちゃうよ」
「バスケも?」
 今度はその青年が、え、と言い募る番だ。ほんの少し流川からは頬を背けて影をつくった青年は、時間が空いてたらね、 と木で鼻で括ったような答えを返した。相手のそんな状態に気づくほど、自慢じゃないがひとの機微に長けていない。 じゃあ、いつ、と流川が一歩踏み出したとき、同じ裏口からこのホテルのオーナーが精悍な顔を覗かせた。



「荷物をお袋さんに運ばせて、こんなところでなにしてる。部屋に案内するからさっさと入ってこい」
 怒るでもなく命令するでもなく、久し振りに会った八つ違いの従兄弟は、浅黒さをさらに増した顔で白い歯を覗かせて ニっと笑う。青年はコートに膝をついてネットを張る手を休めないまま牧に問うてきた。
「え、牧さん、この子」
「ああ。きょうからアルバイトをすることになってる流川楓だ。よろしくしてやってくれ」
「じゃあ、牧さんの従兄弟って、この子ですか」
「そう。なんだ、おまえ。まだ挨拶もしてなかったのか? しょうがないヤツだな。ちょっと無愛想なんだが、これだけ タッパがあるんだ。力仕事くらいは手伝えるだろ。その合間に勉強を見てやってくれだと」
 牧は流川の側まで行くと、いまはもう自分と肩を並べるくらいにデカくなった年下の従兄弟の頭を下げさせた。受けた 青年も、作業の手を止めて自己紹介をする。
「オレは仙道。海南大の二回生だ。いや〜、アルバイトの学生が急に辞めちゃってさ、ほんと困ってたんすよね」
「まあな」
「にしても別嬪さんだな。美少年は美人を凌駕するって表現がぴったりだ」
「それを言うと楓は怒る」
「なんで。身長もあるし。百八十ちょいってとこ? 牧さん、もう少しで抜かれちゃいますね」
「楓、もっと牛乳飲んで仙道を追い抜いてやれ」
「いいけどさ、これだけデカイと日常生活正直言って不便だよ。女の子が身長高〜いって見惚れるレベル超してるからな。 勉強って何年生?」
「中三。これでも受験生なんだ」
「中学生働かせたら、労働基準局に訴えられますよ」
「家業だ。家業の手伝い」
「だって。でもバイトしながら受験って、余裕だな」
「出来れば偏差値も視野に入れて欲しいけど、そこまで拘らなくてもいい。この環境じゃじっと座ってられないだろう。 とにかく夏休みの宿題だけはさせてくれと、コイツの母親からの依頼だ」
「そう言われると、かえって教え込みたくなるな、オレ」
「無理、無理。机に縛りつけるだけでひと仕事なんだぞ、コイツの場合」
「そりゃ、またスゴイ」
「紳兄ぃ」
「なんだ?」
 流川が久し振りに声を出した。出したはいいが思い切り自分の欲求だけを突きつけた物言いに仙道は目を丸くした。
「バスケしてー。いつ相手してくれんの?」
「そんな暇ないぞ、オレには」
「約束が違う。バスケ教えてくれるっつった」
「それはおまえと叔母さんとの間で交わされたものだろう。オレは聞いてないし、実際に時間が許さない」
「じゃ、帰る。こんなとこ、居ても意味ない」
「叔母さんはあしたっから梗子さんとこだろが。どうやって生活してゆくつもりだ」
「食うだけならなんとかなる。金、せしめる」
「洗濯や掃除は?」
「二十日間くらい、死にゃしねー」
 おいおい、と年下の従兄弟に振り回され気味のオーナーの困惑顔に苦笑した仙道は、作業の手を進めてことの成り行き を背中で聞いていた。だが牧は、他人事のようなその態度が気に食わないとばかりに話を振ってきた。
「そんなにバスケしたいんなら、仙道に相手してもらえ。こう見えても二年にして海南大のエースだったんだからな」
「出たよ、差配の天才」
「事実だろうが」
「だったらあんたが勉強見てやんなさいよ」
「それもおまえだ。現役大学生に敵うものはいないだろうし、おまえの方が適任だ」
「都合のいいこと言ってるし」
 牧の言葉を受けてからヒタリと仙道に視線を合わせていた流川が、一歩近づき彼を見下ろした。お手合わせお願いします、 なんて可愛いものではない。まるで格好の得物が見つかったとばかりの視線だ。出会ってからこっち、表情を崩す場面 すらお目にかかっていないが、お愛想の三文字がなくても、ひとを圧するほどの怜悧さと成長途中の危うさが、見るもの にざわめきを与えくる。
 そのつくりもののような顔でじっと見つめられると、造作がどうのこうのよりも居心地の悪さが先にたった。
「ほんとか?」
「え?」
「海南のエースって」
 だが流川の興味はその一点のようだった。
「え、うん。まあな」
「だったらなんでこんなとこにいんの? 練習は?」
 直球で抉った流川の物言いに牧は、楓と鋭い言葉で釘を差して制した。
「言っておくが、おまえはバスケをしに来たわけじゃない。三食保障付き、個人指導付きのアルバイトに来たことを忘れるな。 オレはそう聞いてる」
 さっさと来いと顎でしゃくられ、苦笑した仙道を背中越しに何度も確かめながら、流川はホテル内へと消えていった。






continue





ふふふ〜(←不気味)サブタイトルに「ひと夏の経験」とでもつけたいくらいの青い お話です。仙道のことが好きで好きでたまらない流川にしたいな(激しく希望)。受けが押しまくるスタンスも結構好き なんですけど。それに届くかどうか…
今回の仙道君。タラシ度をアップさせようかと思ってます。そんな頭が沸いたシロモノですが、よろしければお付合い ください。