波紋 〜4







「じゃあな」
 ジャケットを片手に出てゆく男を背中で見送った流川は、カウンターの上に置かれた合鍵を手に取り、それを 手の中で転がし暫くもてあそんでいた。自分がここに長居をする意味はもうない。避けられているのが分からないほど鈍感でも ないし、なにに意地を張っているのかも分からなくなっていた。
 から揚げ弁当の残りをダスターボックスに捨て、先ほど仙道が飲み干したペットボトルのお茶に口をつけても、 狭いはずの1DKがやたらと空虚に感じるだけで時計の短針は一向に進まない。
 流川は仙道の軌跡を追うようにローソファを枕にしてゴロンと横になった。
 主不在の部屋でコチコチと時計の秒針が奏でる無機質な音が余計に眠気を誘った。ビデオラックに視線を移し、 背表紙のタイトルを目で追ったけれど、何度見ても飽きないNBAのビデオ にもきょうは食指が動かない。バスケ関係の月刊誌はもともと動きがないからそんなに読まない。だったら 帰ればいいのに自分の家にいても暇を持て余すのは一緒だと納得して、いつもこの部屋で寝転んでいる。
 ――いつも。
 他人の部屋のフローリングのひんやりとした感覚を肌に直に受けて、いつも早く朝にならないかなと願う。
 ひとりでいることは苦にならないけれど、日が暮れるとボールを持てないから嫌いだ。
 暇を持て余したことのない日常。日が暮れたら照明施設のあるコートまで遠出し、それも無理ならロードワークに 切り替えて、自分の中のサイクルはオレンジ色のボールで一色される。
 バスケをしていない自分もそれ以外に気を取られている自分が嫌いだ。
 連日の外泊のわけを問い詰められ、上手く説明出来ない自分も嫌いだ。
「待ちなさい、楓! なんで毎日毎日他所さまのおうちから学校へ通わなければならないの! 一体なに考えてるの、 あんたは!」
 家で夕食をかっ込んで、ひとこと「仙道んち」と残して出掛けようとした一昨日、当然のように母の癇癪が落ちた。
「部活のあとも練習、できる」
「いまでも十分してるでしょ。いい加減にしないと、安西先生に言いつけるわよ! それでなくたって赤点だらけの 進級スレスレのくせに。あんたね、高校生なのよ。勉強もバスケも全部ひっくるめての高校生活なんだからね。 それに泊まりに行くなとは言ってないでしょ。毎日っていうのが迷惑なの。自分の勝手ばかり押し付けてないで、 ちょっとは仙道くんの都合、考えてみなさい!」
「くんなって言われてない」
「仙道くんは言わないでしょ。穏やかな子だから。じゃ、母さんが言うわ。ちょっと自重しなさい。それとも 安西先生の口からはっきりと言われたい? 毎日外泊してます。それも他の学校の先輩のところです。このままじゃ、 バスケや学業に支障が来たしますって言おうか?」
「勝手にチクれば」
「楓!」
 にべない息子の言いように青筋を立てた母親の常識的な小言は、彼の耳にも胸にも掠らないで、叩きつけるように 締めた流川家のリビングの扉が吸収した。
 バカじゃねーの。
 迷惑だとか都合だとか。
 仙道は迷惑だなんてこれっぽっちも感じていない。それどころか、存在すら目に入ることもないだろう。
 目に見えるものすらも隠してしまうひっそりとした深夜、嫌いの最たるものが、仙道の部屋でただ寝そべっている自分じゃないか。
 バスケが出来るのにしないヤツよりも、そんなヤツに勝てなかった自分よりも、沈み込みそうな澱のなか、ただアイツが 帰ってくるのを待ってボールを手にする瞬間を望んでいる。
 これはただの嫌がらせだ。
 途切れ途切れの意識の下、もういいや、と流川は微睡みへと落ちてゆく。
 アイツのバスケ。
 もう。



 真夜中、ガチャリと開いたリビングの扉と共に侵入してきた少し冷えた新鮮な空気と、微妙に甘ったるい香りが流川の 鼻腔を刺激した。 墜落睡眠爆睡系の自分が、このときは僅かな物音に半覚醒してしまった。熟睡できない分は帰ってからでも授業中にでも 補えるから別に苦にはならないけれど、なんだかよく分からないオンナの残り香の存在には辟易だ。
 恐らくそれも彼の計算のうちなんだろう。
 おまえが待っている仙道彰はオンナ遊びに呆けてますよというあからさま過ぎる自己表現。
 しつこい、しつこい、しつこい。
 仙道が歩くだけで空気が動き香りが強くなった。
 もしかしたら自分がここにいる事実が仙道の苛立ちをさらに煽っていたのか。自分がいる限り仙道は部活には戻らない のかもしれない。そんなことを考えながら、それも可笑しいなと気づく。もうそれほど仙道が自分のことを意識して いるはずがないし、ライバルチームの動向を気にする自分でもないのだから。
 気配は感じても半覚醒状態で指一本動かせない。他人の家のソファを占領しながら、さっさと寝ちまえと 意識を手放すその刹那、枕にしていたローソファが顔の両側でトンと一度浅く沈んだ。
 一層強くなる名も知らないフレグランスの香り。 間近で男の息遣いを感じながら、残り香を染み付けながらオレに近づくなと跳ね除けたかったが、億劫さが勝って少し顔を 背けただけだった。
 帰ってきたんだ。でも眠い。そう思っていると眠りかけている自分よりも体温の高い大きな手が、横に背けた 頬に添えられた。間近で空気が動き、それだけで仙道の唇がなにかの言葉を発しているのが分かる。
――流川。
 多分、そう名を呼ばれた。抱くときみたいにひっそりとした闇を伴って。
 続いて少し湿った感触。唇の端にそれを感じて、なぜか安心して一層深い微睡みが襲ってきた。
 媚薬のような誘いだった。
 なにもかもなかったことにして、抱いて欲しければこの鉛を含んだみたいな重い腕を上げればいい。あの自我が崩壊 するような快楽が欲しければさらに縋ればいい。けれどボールを掴むことを拒否した手で触れられたくない。フープを 映していない瞳のままで近づくな。領空侵犯を犯していながら、ただそう思う。
 オレが食い込むのはいい。けど、おまえは一切オレに触れるな。
 バスケ抜きの付き合いなど、自分以上に仙道が許さないんじゃないか。堪えられなくなるのは仙道の方だ。留めた 足を後悔しながらオレを見守るなんて芸当が出来るほど強い男でもない。だから、だからオレからの視線を避けて 逃げ出しているんだろう。
 なににへそを曲げて、なにに憤って、捨てようとしているものの重さを思い知ればいい。仙道が無駄にした日数を 悔やめばいい。オレは先を見続けここにいた。けれどそれすら拒もうとした言葉の刃を身に受けて出血多量で死んじまえ。
 それでもバスケはけしておまえを離さないんだ。
 どこかで、オレも。
 間近で仙道を感じ、鳴る喉を懸命に堪えて、パシンとその手を跳ね除けた。ひっそりとした闇に拒絶と許容の 音がいつまでも反響している。なのにばらけてソファに散っていた流川の髪にスッと節の高い指が絡んできた。 何度もすいて何度も戻ってくる。それが更に眠気を誘って、触るなと跳ね除ける腕も、もう上がらない。
 その象あるものの名前を流川は知らなかった。



 翌朝相変わらずの定位置で目覚めると珍しくも家主の姿が見えなかった。たぶん昨夜帰って来たのは間違いないだろう。 けど夢だったのか、朝帰りするつもりかと、鳴らなかった目覚まし時計を暫く睨みつけていた。働かない頭できょうは 日曜だったんだと認識し襲ってきた突然の脱力に、もう一度パフンとソファに顔を埋める。
 あれからちょうど二週間。流川が毎日のように通い出して一週間。事態はなにも変わらない。もういい加減飽きてきたし と、寝ぼけたままガシガシと頭をかきながら立ち上がりひととおりの身繕いを終えたときに、来訪を告げるチャイムが 鳴った。仏頂面のまま施錠を外すと、そこには陵南のガードとフォワードがびっくり眼のままで立っていた。
「流川?」
 確か、六番と十三番。睨みつけているのが越野で、表情を変えないのが福田だったと思う。
「なんでおまえがこんなとこにいんだよ!」
「そう言えば前にもここで会ったな。で、仙道は?」
「しんねー」
「どこ行ったんだ!」
「起きたらいなかった」
「あのヤロー! 悠長に朝返りしようってか! どこだ! どこのオンナんとこにシケ込んでんだ! こっちが気ぃ使って 触れないでやったら、本気で二週間も部活休みやがって! もともと主将としての自覚に欠けてたヤツだったけど、 無責任にも程がある! ごちゃごちゃとつまんねーこと考えてる暇があったら、体動かしやがれ! だから言ったんだ。 あいつを野放しにしちまったら、とことんラクな方に流れて帰ってこないぞって、言ったろ、オレ!」
「越野。流川を前に言うことじゃない」
「八つ当たりされたくなかったら、こんなとこにいなきゃいいんだ! コイツにもアイツにも遠慮なんか必要あるか!  きょうというきょうは、ぶん殴ってでも引っ張ってくつもりだったのに! くそぉ! 部員総動員してヤツがいそうな とこを虱潰しにあぶり出してやろうか!」
 陵南のガードは地面を踏みしめ顔を真っ赤にして憤っている。殴ろうと思っていた相手が不在で、そのはけ口 が見つからず、代わりにおまえに一発ぶち込みたいと、ストレートに表現してくる相手を面白そうに眺めていたら、 越野は急に消沈したように声音を落とした。
――あれから。
「あれからずっと考えてたんだけど、仙道のヤツ、オレたちを奮起させるためにわざと来ないんじゃないかって。 なんか、ちょっと、そんな気がしてきて――」
 その浮き沈みの激しさも、チームメイトのひとりに似ていて飽きないなとの感想を口にしたら、また湯気を立てる だろう。答えた福田の声は落ち着いていた。
「そんな心優しい仙道なんかオレは知らない。ただ嫌気が差したんだろ」
「ミもフタもねーよ。それじゃ」
「おまえはどんな答えが欲しかったんだ?」
 福田の問いかけには答えず、越野は部外者である流川に聞いてきた。
「正直なところ陵南ってチームどう見る?」
「仙道のワンマンチーム」
 即答したら目に見えて表情が変わった。
「はっきり言いやがる」
「正直っつったから」
 ん、と越野は腕を組む。立ち話もなんだから入ればとは、他人のうちで言う科白でもない。バスケ部に籍を置く長身 の三人はそのまま玄関で扉と壁に背を預けていた。
「おまえを前にして言うのもなんだけど、仙道にとっての衝撃って夏と冬の予選の海南戦だと思う。そりゃ、夏の湘北も 強かったよ。負けたしな。おまえも凄かった。けど、あれはなんて言うか桜木の予想を裏切るような動きが福田をはじめ 魚住さんや仙道すら翻弄したつうか。ま、交通事故に合ったっていうか、土俵が違ったっていうか。けど、 海南戦は違ったんじゃないかな」
 越野は組んでいた腕を解いて頭をかいた。なんでおまえなんかにこんな話をしてんだと、言わんばかりに。
「純粋に海南ってチームに敵わなかった。それが二回も続いた。夏の教訓を生かしたはずの冬もだ。客観的にみて オレたちが、だ。けど、唯一拮抗した仙道がヤケを起こしたらオレたちは――不甲斐ないオレたちは どこに身を置きゃいいんだよ!」



 痺れたような重い沈黙を与えたのもそれを破ったのも越野だった。福田は扉に背を預けたまま身じろぎひとつしない。
「流川、おまえバスケ辞めたいって思ったことある?」
「ない」
「本気で即答かよ。ふつうちょっとは思い当たる節あるだろ? おまえは、福田?」
「そりゃ、いい加減田岡にガミガミ怒られてばかりのときは――」
「あるよな。どんだけ練習したっておまえや仙道みたいなセンスあるヤツには敵わないんだ。厭んなることもある。 腐って辞めちまいたくなる。けど辞めない。バスケが好きだ。どんなに一歩が小さくたって、確実に積み上げられるもん があるって信じてる。きのう入んなかったシュートがきょう決まることだってある。きのう止められなかった 仙道をブロックできたことだってあったんだ。目の前を走ってるヤツに追い つきたい。一緒に全国で戦いたい。もうちょっと頑張れば手が届くかもしれない」
 けど、と陵南のガードは言葉を詰まらせた。
「仙道は違う。オレたちの中で一番前を走ってるヤツだから何処に目標を置いてるのかも分かんないんだ。時々、 力を出し惜しみしてるアイツが憎くてどうしようもないことがある。 インハイ予選のときもウインター杯予選のときも、悔しくないのかって思うくらい冷静だった。負け試合した あとで自分ちの主将に、悔しいよなって確認しなきゃならないのって可笑しいだろ。それくらいアイツの中で なにも響いてないのかと思ってたらこの仕打ちだ。オレたちに愛想がついたのか、本気でバスケに見切りをつけた のか、なにも言おうとしない。捻挫なんて聞いてるこっちが恥かしくなるくらいのいい訳じゃないか」
「だからじゃねーの」
 ポツンと流川が水面に広がる波紋に小石を投げかけた。それは異なる波状を刻み付ける。
「あ?」
「仙道ひとりに寄りかかって負けた理由まで背負わされなきゃなんねーの? アイツになに望んでんだ? それを なんでアイツが叶えなきゃなんねーの? 甘えんなよ」
「信頼だ。言葉を選んで使え!」
「信頼ってナンダ? 勝手に押し付けられたもんをどーしよーが仙道の勝手」
「……」
「あんたらも遠慮し過ぎ。ムカツイたんなら、出し惜しみすんなって殴ってやればいいじゃん」
 オレならそーする、と小奇麗な顔を凄ませ常に臨戦態勢発動中とばかりに流川は言い放った。
「ナパームと核弾頭と魚雷とプルトニウムとクラスターの集団みたいな湘北とうちを一緒にするな。殴ってなんか 解決すんのかよ」
「しねーよ。けどすっきりする」
 エラく得意げに顔をあげる湘北のエースには溜息しか出ない。コイツ相手に相談めいた会話を始めた自分を 呪いたい越野だった。けれどひとつのセンテンスだけで会話を成立させているという噂の男は、いつになく饒舌 だ。
「アイツ何様? 辞めてーヤツなんかほっとけよ。他にすることないのか、あんたら。あるだろ」
「オレたちは立ち止まってないぞ!」
「だったらそれを見せつけてやれ。見せつけて見せつけて、アイツを哂ってやれ」
――飽きるほどに見せつけて。
 言い捨てて流川は、ぽんと部屋の合鍵を越野の手に放り投げた。そのままボールの入ったリュックを背に、挨拶 もなおざりに他校のふたりを置き去りにする。ガチャリと扉が閉まり焦げたような沈黙が落ちた。
「福田」
「ん」
 暫くその沈黙を刻んで、自身は扉にもたれたまま、壁を背にした福田とは視線を合わせずに越野が確かめるように 続けた。
「なんつーか、その、あーもう、くそ生意気なガキだぜ。オレたちに説教垂れるたー百年早い」
「面白いヤツだ、アイツ。常にリングと正対してんだな」
「一度も背けたことないなんて、ビックリ人間コンテストもんだぜ」
「ああいう手合いは一緒にいたら引きずられるか反発するかのどちらかだ」
「宮城たちの苦労を思ったら涙なしでは聞けないだろうな。けど、けど。オレたちが仙道を置き去りにしてやることも出来るんだ」
「ああ。想像するだけで愉快だな」
「ふん。どんなツラしてヤツが現われるか見ものだぜ」
 ふと、越野の視線が思い至ったように泳いだ。
「なあ、――」
「なんだ」
「まさかとは思うけど、流川が仙道を心配してきたなんてこと、ないよな」
「そんな親切な流川も知らない」
「だな。そうとなったらこんなとこで仙道のバカを待ってられるか。いまからおまえにディフェンスのなんたるかを教えて やる」
「おまえにオフェンスのイロハもな」
 行こうぜ、と勢いつけてふたりは朝日の中に飛び出した。




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