波紋 〜3







 マンションのチャイムを押して姿を現した仙道の第一声は「どうした?」だった。
 流川が押しかけると、いつも見せる「来てくれたんだ」ではなく、 思いつめたような流川の顔を見て彼自信になにかあったのかと、その短い言葉は語っていた。それは目に見えない 幕を仙道との間に横たわらせている。ただ、「どうした」の一言は、伸ばそうした流川の腕を下げさせるだけの威力を 持っていた。
「玄関先で立ち話もなんだから入れば」
 と、仙道はまるで流川の方が相談事を持ちかけに来たようなふんわりとした笑みを送ってきた。出会い頭の一撃に負けて 、どうしたって勢いに任せた言葉が出てこない。ここに足を運んだ事実は明白なのに、拒否の色の強い紗がかかり 、出会えば必ず踏み込もうと触れてくる仙道がいない。
 こんな仙道は知らない。
 ただ流川がその場に留まれたのは、この変わり身のわけを暴いてやりたいという意地のようなものだった。
 ふと裸足の仙道の足元に視線が動き、サポーターで保護された足首を少し重そう庇って彼は流川をリビングに促した。 それを知ってとてつもなく安心する。
 目にした象ある事実にホッと息を継げた。そうだったんだと、肩から力が抜けてゆくのが分かった。
 ローソファに足を投げ出すのが億劫なのか、仙道はカウンターキッチンの高いスツールに腰掛けて流川の言葉を待った。
 仙道は辛抱強くいつまでも待つ。上手く言葉を紡げない流川から言葉を引き出すという行為は気持すら誘導させると 思っているのか、続きは問わなかった。なにかの意思でつき動かされての行動ならそれをはっきり口にしろと、その沈黙 は語っていた。
 それをひとつひとつ埋めて、溜め込んでいたひとことに近づこうとし、まず目についた象から口に上らせた。
「怪我したのか」
「ああ、軽い捻挫。全治五日ってとこ」
「いつ?」
「海南との試合中。そんときは気づかなかったけど」
「じゃあ、もう治ってんじゃねーか。ウチの主将なんかその日のうちに試合に出てた」
「あの頑丈な赤木さんと一緒にするなよ。けど、まぁ、意識の違いつうか休み癖がついちゃったって言うか。よく分から んけど」
「それからずっと部活休んでんのか」
「ん、まぁ」
 やたらと歯切れが悪いのは人を食った神奈川の天才もさすがに良心が咎めるのか、ただ単に流川の一切の言い訳を許さない 真摯な瞳に恐れをなしたのか、煙に巻きたいだけなのか、視線も語尾も曖昧に揺れている。それに対して詮議の手を緩めな いのが流川の流川たる所以だ。
「どーゆーつもりだ」
「どーゆーもこーゆーも、最初の二日はあれこれ世話焼いてくれる心優しきメンバーたちが引きも切らずでさ。 下にも置かない扱いってヤツ? 足を折ったわけでもねーのに掃除から洗濯まで至れり尽せりでつい甘えちゃって。 で、まぁ、悪いから三日目には顔だけでも出そうかと思ったんだけど、今度はじっくり休めばってダチやら女の子やらが 見舞いに来てくれて、久し振りに夜遊びなんかしたりして、羽目を外しちまって。ほら、一応ウインター杯予選まで は大人しくしてたからさ、オレ。ま、楽しくないわけないじゃん。ズルズルと五日目。サボって部活も出ないで 遊び回ってるって部のヤツらに知られちゃって、なに考えてんだとか怒鳴られたのがきのう」
「たりめーだ。てめー主将なんだろうが」
「まぁ二、三日部活休むことなんかザラだったから。ほら。試験休み明けなんか、んとに出たくなくてさ。 オレがいなくてもちゃんと機能してる、はず」
 一体どこの世界に頻繁に部活を休んでその技術を維持出来て、試合になるとキチンと帳尻を合わせて くる選手が存在するのだろうと、 睨みつけてもその具現者はなんの不思議があるんだとばかりに目を瞬いている。ボールを持っていないと中毒を 起こしかねない自分にはさっぱり理解できないが、陵南のメンバーでなく他校生の おまえがという意味合いも汲み取って余計に苛立ちが募った。
「あんた、バスケ部辞めるとかって聞いた」
「ああ。そのことか。もうそろそろ顔出せって言われてるのに渋ってっからな。そんなことまで湘北に伝わってんの?  で、なに? 心配して来てくれたのか? おまえが?」
「心配じゃねー。確かめに来た」
「モノグサ流川くんがわざわざ足を運んでくれただけで十分感動だよ、オレ」
「そんなことはどーでもいい。辞めるのか」
「さー」
「さーって」
「辞めるかもしんねーし辞めねーかもしんない。けど、それ、おまえに関係あるのか?」
 パチンと冷蔵庫の電源が切り替わるような音がした。
 目の前で見えたスパークした火花が。
 流川には関係あるとははっきり言えない。言えない立場が邪魔をした。関係あるのかと言い切った仙道の言葉の 刃に、抉られた傷口が存在するのか、そしてどんな痛みを覚えているのかも分からない。
 ただ喉の奥で引っかいたような音がした。
 流川が聞かせた一瞬息を呑む音に仙道の方も切っ先を緩めるのかどうか迷っている。そんな弱みを見せ切れない 上辺だけの会話がおまえとの関係じゃないと、確かめ合えたものがあったのに。
 だから。
「オレがバスケ辞めたらおまえ、困るか?」



 流川が呑んだ悲鳴を拾ってしまい、ついまろび出た苦業。そう問いかけ確かめたかったのは自分の方なんじゃ ないかと、幾分柔らかな声音を出して縋るように問う自分の弱さに仙道は舌打をしたい気分だった。
「困んねー」
 そう即断されて喜んでいる自分がいる。聞きたい答えと予想していた答え。予想していた方でよかったと なぜそう感じているのかはこの際見えないフリをするに限る。
「だよな。夏にうちを倒して全国に行った湘北のエースだもんな。山王工業の北沢、強かったろ」
「だから沢北だっつうの」
「沢、北か。覚えづれー。で、全国にはオレより強いやつはゴマンもいるっておまえはもう知ってる。大学リーグなんか すっ飛ばしてもっと上を目指すんだろ。ヤツは半端じゃねー。よかったじゃねーか。その年で本物に出会えて」
 そこでなぜ一線退いたような刹那的な言い回しが出来るのか。高みを目指すその場が他人事なのか。それを語る仙道の 表情が余りにもさばけ過ぎていて、流川は寒気がした。
「あんたは強いヤツに一回負けて、次、勝ちてーって思わないのか」
「沢、北のこと? 牧さんのこと? 思うよ。その一瞬は。けど、離れちまうと忘れんだろ。そいつに勝ちてーって 思うより、勝負に拘るより、流川といちゃいちゃしたり、ダチや女の子たちと遊ぶ方が楽しいって思うオレもいる。 バスケはひとりがしゃかりきになったって勝てやしないし、な」
 天才はシレっと言い切った。
――ひとりがしゃかりきに。
 あるいはその辺りが本音なのか。
 いつてめーがしゃかりきになったんだと、陵南のメンバーがここにいたら襟首掴んで捻りよっただろう。それは 目に見えるパフォーマンスだけを言っているんじゃないと、海南戦を見たときから感じ取っていた。もっと、もっと 精神的なものだ。
 けれど、いま語られた言葉のどこが本音でどこにウソが混じっているのか流川には興味はない。本当に辞めるのか。 もう自分の目の前に立ち塞がるコイツが存在しなくなるのか。論点はその一点に絞られるからだ。理由は自分の知る ところではなかった。
 それでも自分自身の答えが見出せない仙道にとって、いまの流川は目に痛すぎる。同じように、いや、自分以上に プライドの高い男は、何度踏みつけられても敵わなくてもだれに責任を押し付けるでもなく視線を上げ続けている。
 仙道がいま抱えているわだかまりなど死んでも理解出来ないだろう。
 その強さに眩暈を感じ、前だけを見続けられる視線に嫉妬し、引き摺り下ろしたくなる醜いエゴ。
 ひとり。いつまでもひとり、バスケの女神の庇護のもと、ぬくぬくと地を駆け空を舞っていられるはずもない。 おまえもオレと同じものを見ろと、目を背けたくなるような滑稽さだった。
 仙道はスツールから腰を上げ、一歩踏み出し流川を抱きしめる。そしてその冷え切った手のまま耳元で囁いた。
「バスケしねーオレとは付き合う意味がない?」
「ねーよ。あんたからバスケ取ったらただの遊び人じゃねーか」
「けど、よかったからだろ、こないだ。だから、忘れられなくって抱かれに来たんじゃねーの?」
――抱かれに来たんじゃねーの。
 当然くると予想していた衝撃は、思っていた以上の怒りを含んだ強さで拳となり、後ろに投げ飛ばされた。背中から 床に激突して一瞬呼吸を奪われる。殴られたいなんて、信じられないくらいに自虐的。二撃目も甘んじて受けましょうと、 切れた口から溢れる血を拭って顔を上げると、一撃だけで我慢した男が背中を見せ扉を叩きつけているところだった。
 さらに怒りをぶつけるよりも、ただ、もうこの場を立ち去ってしまいたいと背中が語っていた。
――流川。
 他に言いたいことは山ほどあったのに、取り澄ました顔を見て出た言葉があれとは、なんて嘆かわしい。 ひとつひとつ大切に積み重ねてきたくせに、大事なことはなにひとつ告げていないくせに、本気でバスケを辞める気も なかったくせに。
 どうして重ねた積み木を自分から壊す。
 バカじゃねーの。
 でも特別答えが欲しかったわけじゃないんだ。



 それなのに、あんなことがあった翌日の夜、あろうことか幾分顔を強張らせた流川が仙道のマンションに姿を現した。 腫れ上がった頬を晒して目を瞬くだけで絶句したままの家主を追い抜く形で押し入り、ローソファにドカっと腰を降ろして 殊勝にもテーブルの上にホームワークを広げ出す。
「えっと」
 これはなんの意思表示なのか。単なる嫌がらせなのか。もしかして勉強を教えて欲しいとか。あり得ないなと眺めて いると、ほんの十分ほどの格闘でカクリと頭が落ちた。意欲はあるみたいだがバイオリズムの甘い誘いには 勝てないらしく、うっ臥したまま寝息を立てだした相手に、ただ溜息が出た。
 嫌がらせかと言えばそうなのだろう。いまの仙道を流川は許しはしない。停滞も忌避して止まない男は、撤退なんか 断じて認めない。だだをこねての無言の圧力だ。この際の執着は重いと感じるよりもどこかくすぐったい。この期に 及んでまだライバル視してくれるのか。けれど、許さないと睨みつけた思惟の奥に、きのう抉った言葉は含まれているの だろうか。
 あれほど執着した躰を抱きしめただけで触れられず、男の矜持を砕いて斬り捨てた。流川に向けた言葉は右フック一発 であがなえるものではない。流川とのバスケ。流川との擬似恋愛。色あせたのではなく、いまの仙道には余りにも彩度が 強すぎたと言ってもたぶんつうじない。いい訳にもなりゃしない。
 いまの仙道のどの部分に耐えかねて、彼はここにいるのだろう。どの部分を許して背を丸めているのだろう。 どの答えに満足していないのだろう。
 けれど口をついた問いかけは「メシ食ったのか」という凡俗な言葉だけで、爆睡体勢に入った流川からはなにも 返らない。仕方なくその躰に上掛けを被せてそのまま放置することにした。
 翌朝目覚めるとテーブルの際で横になっていた彼の姿は既になく、家主よりも先に登校なさったらしい。ここから湘北に 通うには当然自分の家からよりもはるかに時間がかかり、なによりも睡眠を愛する男には朝の貴重な時間を裂くという 耐え難さじゃないかと想像するが、流川の苦行はその日一日では終わらなかった。
 翌日は部活が終わって一度家に帰って夕飯を食べて来たらしい。出迎えた仙道も恐らく思い切り呆気に取られた顔をした がそんなことはお構いなしだ。いつも以上に感情を削ぎ落とした横顔からはなにひとつ推し量れない。 そしてそのままお泊りして部の朝練に出る。毎日仙道が 起床する前にマンションを出て、夜遅くまたやって来る。家にも帰らないでコンビニで弁当を買ってくる日もあった。
 一切の迷惑はかけない。なにを思ってかそんなスタンスで流川は居座る。
 呆れたのは最初の二日。近頃は扉を開いた先にある仙道の顔が驚いたものから当然というふうに変わってきていた。
 後にも先にも仙道の去就について尋ねたのは最初の一度きり。ただ、押しかけてなんの話をするわけでもなく、 そこに居る。流川にすれば無言の圧力をかけているつもりはなかったが、金曜や土曜の部活が終了したあと、居残り練習 をこなしても、それでも空洞が出来る。以前ならそこにピタリと当てはまった仙道との練習があった。なにものにも 変え難いせめぎ合いが。
 だからその場所を埋めたい行動がどうしてこんな押しかけになるのか説明も出来ないけれど、そんな彼の姿を認めた後 頃合を見計らい避けるように出かけてゆく仙道があった。



 もうすっかり通いなれ、勝手知ったる1DKのマンションにたどり着いた流川が我が物顔でリビングの扉を開けると、 部屋の主は電話中なのか、緊張感のない背中をこちらに向けてローソファに座していた。流川が締めた扉の音に気づき、 首だけひねって視線を巡らせる。
 驚きもしない諦め切った表情。
 仙道は片手を上げて挨拶を送っただけで、また電話相手との会話に戻って行った。
 自分のバッグを部屋の隅に置き、キッチンに取って返した流川は冷蔵庫の中からサプリのペットボトルを 取り出した。そのまま口をつけて飲み干せば、ゴクンと鳴った喉が上下する音と、仙道の渇いた笑い声とがぶつかり 合って十畳ほどのリビングで拮抗する。
 それは互いが立てる自己主張の音だ。
 仙道は彼の存在に一切忖度せず会話を打ち切ろうとはしない。それを分かっていて聞く耳を立てるほど物見高くもなく、 ただ一言「シャワー借りる」と背中に語りかけて流川はバスルームへと向った。
 ユニットバスじゃないからここに決めたと仙道が言うだけあって、少し広めのここのバスルームは、一戸建て生活しか 知らない流川にとっても閉塞感がなくて心地いい。邪魔臭いからタブに湯を張ったところを見たことがないけれど、 結構ゆったりと手足を伸ばせるんじゃないかと思う。異様に縦に長いここの住人にとっても体育座りしなくちゃならないか どうかは重要なポイントだったようだ。
 備え付けの乾燥機から直接バスタオルを引っ張り出し、わしゃわしゃと無造作に髪の毛を乾かしながら室内に 戻ってみても、仙道はまだ電話中だ。男の長電話に眉をひそめ、コンビニの袋から買ってきたばかりの夕食を取り出して 温めた。それをテーブルでなくキッチンカウンターのスツールに腰掛けて、仙道に背を向けたままかきこむのは、 一応ここの主人に対する気遣い。しかし、それでもクスクス忍び笑う仙道の声が耳に入ってきてどうしようもなかった。
「おまえがそんなこと気にしてどーすんだよ。まだ決めてねーし。つうかやる気が出なくてさ」
「そう、それしか楽しみないってのもつまんねーしな。オレ、そんなタイプじゃなかったろ」
「勝手なこと言うな。部活で忙しいときはどっちが大事なのとか、結構しつこかったくせに」
「え、そーなったら? さー、それはないんじゃねーの。推薦貰ったのは確かだけど、オレ、結構席次いいし」
「わーった、わーった。うん。じゃあな」
 子機の通話ボタンを押して、ふうーと仙道は大仰な溜息をつく。ただの会話ひとつにも疲弊し切り、纏った鎧を剥がす ような重さだった。
 仙道は手にしていた子機を充電器に戻すと、片足にサポーターをはめただけで、ペタペタと裸足の音を立てながら 流川の横に腰掛け、夕食のために出していたペットボトルの麦茶に口をつけた。その音を聞きながら流川は 黙々とから揚げ弁当を食む。
「おまえさ、泊まるんはいいけど、ちゃんと家の人に言ってきてあんだろな」
「ん」
 毎回、同じ会話から始まる。そして――
「だったらいいけどよ。あ、オレ、いまから出掛ける。寝るんならソファを使え。おまえいつも床に寝そべってる から、踏みつけそうになんだよ。でかいおまえをお姫さま抱っこして運ぶ根性ねーし。それと、帰るんなら鍵は郵便受け から突っ込んどいてくれ」
「帰ってくるのか」
 それならベッドは開きっぱなしじゃないかと訴えたかった訳ではないが、誤解した仙道は続けた。
「分かんねー。けど、帰ってきたときにベッドで寝こけてたら襲うぞ。襲われたくなかったらソファで寝ろ。床は 止めてくれ。オレんち泊まりに来て風邪引かせたら拙いし、おまえは湘北の大事なエースなんだし」
 と、鉄壁のウソ臭い笑顔をひとつ。
 彼がここにいる事実へのあからさまな拒絶。諦めろとは言わない頑なな背中。冗談でもなんでもなく何度も躰を合わ せながら、気軽に冗談めかした言いように怖気が走った。
 仙道が水を向けない限り会話すら成立しない友人以下の関係。
 話すことはなにもないから。あるいはそれを語る相手として不足だから。
 非の打ち所のない遮断だ。
 行くなと言えば止めることは出来るのだろうか。視線すら交わせない相手にそれを語る勇気があるのだろうか。そして それを口にする権利があるのか。
「じゃあな」
 固まったままの流川を置いてけぼりに、仙道はジャケットを手にするとスッと音を立てて立ち上がった。
 合鍵を流川の手ではなくカウンターの上に置く音。
 続いてリビングの扉が閉まる音。
 そして施錠の音。
 強固な意志を持ったそれらがたてる音。
 シンと沈黙が落ちた他人の部屋で、知らず流川は天井を仰ぎ見ていた。




continue