波紋 〜2







 流川や桜木が初めて経験するウインター杯予選。夏の実績からシード権四校の一角に食い込んだ湘北は対戦表の四隅を 獲得し、準決勝まで難なくコマを進めた。
 そこで全国二位の海南大附属と当たり、インハイ予選を彷彿とさせる一進一退の攻防を繰り広げた。湘北は 得意のラン・アンド・ガンで海南を上回る機動力を活かし目にも鮮やかな攻めを見せる。
 宮城のスティールから始まる速攻は、桜木流川の一年生コンビが両サイドからペイントまで一気に攻め上り、 その他を圧するスピードで海南ディフェンスを切り崩していった。
 怪我のリハビリから復帰した桜木に、基礎とカンを取り戻す練習と共に安西が課したのはパス回しだった。 次に動くフォワードの動きを予想するまではいかなくても、速攻のようにディフェンス密度の薄い状態で、 正確に味方にボールを繋げる。強さと速さと正確さと。それがこなせなければ、どんなに戻りが早くてもチャンスをもの には出来ないのだと、体で覚えさせた。
 攻撃の拠点。
 その言葉に桜木が飛びつかないはずがなく、力とスピード任せの疾走の中に敵と味方の位置をうかがえる視野の 広さも見せだした。
「ルカワ! ちんたら走ってんじゃねー!」
「花道! 逆サイ!」
 中盤の宮城から右の桜木へ。そして逆サイドを走る流川の手に一連の動きで速球が渡る。その決め球を流川が 外すはずもなかった。
 しかし、それでも赤木の抜けた穴を埋めるにはここぞというときのキャリア不足が響き、そんな状態のチームにも 情け容赦のない攻めを被せてくるのが海南の強さだ。
 清田のパンチの効いたスピン・ムーブ。キュっと小気味のいい擦過音をたてて桜木を振り切り、小兵ゆえの 小回りのよさでペイントまで切り込む。フェイクを読みせっかくリバウンドを弾いても、いい位置に神の手があった。 すかさず流川が戻る。ブロックに跳んだ手の先を縫うような綺麗なタイミングのスリーポイント。シュッという 最小限の音を立ててそれはリングをくぐった。
 そして牧の周囲を粉砕するペネトレイト。もう夏のようにだれも当たり負けはしない。その雰囲気に呑まれたりは していないのに、冷静さと苛烈さを兼ね備えた元主将はコートを踏み抜く勢いで湘北のフロントラインまで駆け登って くる。
 海南は色々な音を持っていた。冷静さと貪欲さを兼ね備えていた。
 宮城はよく牧を抑えた。流川も清田を振り切った。桜木のリバウンドは最早素人の域を超え出した。三井に至っては 高校最後の試合。目を見張るような綺麗なフォームで、身震いするようなもの静かな音をたて、彼の指を離れたボールは 弧を描く。それでもなにかが足らず、第一クオーターに蓄えた得点差はジリ貧で底をつき、第三クオーターにひっくり 返され最後まで縮まらず、四点差のままブザーの音を聞いた。
 この試合でも二十八得点をはじき出した湘北のエースは、危惧されたスタミナ不足も払拭して一試合フルに走り続け、 牧と清田の執拗なマークを振り切ったと言っていい。どこか危うい印象を未だに残しているものの、全国を唸らせた だけのことはある。しかし華麗なテクニックで観客を黙らせることは出来ても、常勝海南の士気を沈めるまでには 至らなかったのだ。
 タイムアップの音を聞くと疲れは完全に膝にきていた。そこに両手をつきながら、現在の二校の差を示す得点板を 睨みつけたその先に、同じ準決勝で翔陽を破った陵南のメンバーを見つけ出し、流川は思わず背筋を伸ばした。
 階段状の客席で余裕の笑みを張り付かせた相変わらずの仙道。見ていたとも、仇はオレが取ってやるとも判別の つきにくい表情で、それでも労われたかのようで癪に障り、踵を返して流川は他のメンバーたちとベンチに引き上げてゆく。
 やはり冬も海南は強い。
 どこを崩せばいいのか流川には分からなかった。恐らくそれぞれの、ほんの少しの劣り。それが積み重なって四点差が ついている。
「ミッチー。すまねえ。最後だってぇのに」
「てめーのせいじゃねー桜木。だれのせいでもねー」
 男泣きのまま桜木に肩を支えられて退場してゆく三井の背を見送りながら、流川は自分たちの戦場をいま一度振り返った。
 常勝の名はやはり重い。
 一試合をつうじてのペース配分。終了間近にぶっ倒れるような無様な真似や、後半のために体力を温存する方法を 取らなくても勝負を仕掛けられた。桜木のような 常軌を逸した底なしの体力には劣るが、流川にとっての課題はクリアできていたのだ。
 それでも勝てなかった。
 なにが足りない。なにがと試合で負けるたびに自問するが、いつだってそれに明確な答えは返ってこない。試合には 運不運も大きく左右するが、それもはっきりと実力のうちだ。なにを見落としてきたのだろう、夏からこっち。
 おまえたちならどう攻める。
 インハイ予選での陵南の敗戦理由は見つけたのか。そして越えてきたのか。
 おまえならチームをどう引っ張る。
 それだけが気になった。



「リョータが言うには、あしたは練習休みにして決勝の観戦に当てようってことになったの。あんたはどうする?  桜木花道は殊勝にも練習したいからって、安西先生に体育館の管理をお願いしてあるんだけど」
 重い足取りで意識も朦朧としながら前をゆく湘北ジャージの背中だけを見て歩いていた先、解散場所のターミナル駅の 改札で彩子が唐突に聞いてきた。強制じゃないから好きにしていいわよ、と 重ねたのは流川がそちらを選択するものだと思っていたからだろう。けれど彼は湘北のメンバーのだれが 一緒じゃなくても見に行くつもりだった。
「どこで何時に集合?」
「行くの?」
「悪いすか?」
「ううん。自主練するもんだと思ったから」
「試合見たあとでも練習はできるから」
「それもそうね」
 と彩子は必要事項だけ告げ納得したように立ち去っていったが、翌日集合場所に姿を見せた流川に、他のメンバーは それこそ街中でゴジラを発見したような驚き方をした。大変失礼な反応だ。
「え〜、流川でも他人の試合見るの?」
「あんだよ」
「だって、インハイ予選のときだって、あしたは陵南との試合だってのに、その前の海南戦、途中で帰っちゃったじゃん」
「過去はさっさと斬り捨てて」
「そう。どこが勝とうが関係ないとか」
「来年に向けて切り替えが早そうだし」
「シュート練習してた方がマシ」
「絶対そう。三井先輩たちの追い出し会も顔出さないんじゃないかって」
 賭けてたんだよね〜、と一年生軍団はかしましい。雀ヤロウがうるせーと斬り捨てて、先に来ていた三井と二年生 軍団に挨拶だけはした。流川の参加を彩子から聞いていた彼らも、なにか自分を納得させるように口を開く。
「最初はよ、桜木と一緒に練習するのがヤなだけだと思ってたけど」
「ま、陵南と海南だけは別ってことすね。コイツにとっても」
「どーしても勝てねーって再認識させられたし」
「こんなツラしててもひとの挙動が気になるんだってなら、結構可愛いとこあるじゃん」
 流川にとってはほんとうに、どいつもこいつもよく喋るだ。他校の観戦に来ただけで山が動いたようなこの騒ぎは いったいなんだ。多少は雑多な感情に揺り動かされて、らしくないのかもという実感はあったものの、神奈川ナンバーワン を決める試合を見に来てなにが悪い。
――それ以上に。
 海南大附属に挑む陵南のお手並みを。
――いや、それ以上に。
 自分の許容を遥かに上回る仙道の本気を知りたくて、けれど、それがなにに端を発しているのか、考えもつかない 流川だった。



 そして本戦出場を賭けてのティップオフ。
 エンジンの掛かりの遅い海南に対して陵南は仙道を拠点とし早い展開で主導権を握った。序盤から陵南は俊足ガード コンビが海南フロントコート陣を掻き乱し、スティールしたボールを福田に集める必勝パターン。これで後半に 走り回れるだけの余力を残しているのかと訝るほどの強さだった。
 福田のシュート力は格段に上がっている。仙道とのコンビも面白いくらいに決まっていた。そのどこか泰全とした 動きに対して、越野と植草のふたりは海南の綻びをつくような細やかな動きを見せる。司令塔が悠々とした試合運びを するものだから、浮き彫りにさせるふたりの切れのよさに翻弄される海南という場面にもお目にかかれた。
 海南も陵南もそれぞれのPGを頂点とした完全なピラミッド型のチーム構造をしている。
 牧が拠点となって陵南のディフェンスを切り崩す。それを仙道が立て直す。牧は身体能力の強さでブロックに飛んだ 手を弾いてシュートを決める。仙道はタイミングを外してあっけなく相手を抜く。牧が仕掛ける。仙道はいなす。 仙道の早いパス回し。それを海南は波状に覆いかぶさる。異なるチームカラーを持つ二高だけに 観客のだれもが固唾を呑む試合展開だった。
 間違いなく海南は牧が中心のチームだ。けれど陵南は仙道のチームだ。
 それは試合が進むにつれて顕著に現れ出した。
 コイツら夏からこっちなんの練習をしてきたんだと流川は観客席の手摺を強く握りこんだ。
 陵南の練習のキツさは折り紙つきだ。 走りっこなら負けてないだろう。速攻の切り返しも逆にかけられたときの戻りも早い。スピードは確かに 増している。けれど、ここぞというときにブレたように視線が集まる先、そこには必ず仙道がいる。
 なぜ、自分たちで決めようとしない。なぜPGのヤツにボールを集めたがる。余裕のあるときはいい。けれど ゲームの中で必ず決めなければいけないその瞬間に総てを委ねて譲るようなまねをする。 おまえたちにはシュートを打つ手がないのか。リングが見えないのか。それほどまでに自信がないのか。 まだ海南が怖いのか。
 違う。
 自信を失くさせているのは仙道自身だ。
 あの飄々とした風貌で総てを受け止める度量をまき散らすものだから。そのスタイルを変えないものだから。 ボールを持って来いと言えるだけのテクニックも持っているから。そしてそれを誇りに生きている男だから。
 仙道のチームになってしまう。
 当然仙道のマークがきつくなる。それでもヤツは決めてくる。しかし単調な攻めで海南に贖えるはずがなく、 仙道が止められたときの落胆ぶりは目に見えるほどだ。
 天才天才と祀り上げられて、周囲もそれを期待して、試合になるときっちり実証してみせて、それでも途切れる 瞬間がある。仙道は極端にミスの少ない選手だ。エースでPG。仙道の動きに他のメンバーが取りこぼされたとき、 陵南の中にはっきりと存在する歪みを見たのは流川だけではないと思う。
 底のない歪みだ。
 そしてその違和感を感じたまま無情なタイムアップのブザーが鳴り響いた。
「陵南は、やっぱ来年のチームすね」
「牧がいる海南には勝てない、か」
 それは湘北も同じだ。牧がいる海南には一度も勝てなかった。だからこそ、あの男だからこそ、流川には考え られないほどの底力を秘めている仙道だからこそ、なんとかすると思っていたのに。
 得点差は湘北と同じ四点。しかし点数以上の広がりを感じたのは彼らだけではなかったろう。試合終了後の 挨拶を済ませた仙道の視線が観客席にいる流川を一度だけ捉えた。全身を濡らすその汗が熱いのか冷たいのか。 冷ややかな眼差しがその答えのような気がする。
 ヤツはいま凍えている。熱気で溢れかえるフロアで。
 きっと。
 流川は負けたとしても、それが喩え引退試合だとしても三井のように泣いたりはしない、泣いたり出来ない 神奈川の天才を思った。



 そして。



「陵南の仙道、バスケ部辞めるんじゃねーかって聞いたんだけど」
 ウインター杯予選が終わり今年のカレンダーも残すところあと一枚となったころ、 部活が始まる前に宮城だったか潮崎だったか二年生のだれかから、話のついでといったふうに語られた言葉を 体育館の一番奥にいながら聞き取った流川がいた。
「辞めるって。アイツ主将じゃなかったっけか?」
「予選惨敗のダメージ?」
「んな殊勝なタマか?」
「アイツ、スポーツ特待生だろ。部活辞めたら学校も退学になるんじゃねーの?」
「さぁ」
「来春から仙道抜きの陵南か。こりゃ、楽勝だな。海南も牧が抜けりゃ大したことないし」
「なんで、怪我?」
「いや、理由までは分かんね」
「信じられねーよな、天才のやることは」
「飽きたとかあり得ね〜?」
「らしい。それ目茶苦茶仙道らしー」
「ま、他所んちのことはどーでもいい。オレらはオレらで突っ走るだけだ」
 と、宮城にそう締めくくられるまでコートの中でぼんやりと突っ立ったままだった。
 そのあとどうやって部活を続けていたのか分からない。耳元で桜木のけしかけるような声が飛び込んできて、 無意識にフェイクを入れシュート態勢を取って、初めてオフェンスについてたんだと認識した。
 ただ、身体が覚えている動きで反応する。手にしたボールを取られるのが厭だからという理由だけで 動いていた。それほど付き合いの長くない桜木にも、そんな心を取り落とした流川の 動きに気づくものがあっただろうけれど、気を抜くなとの厳しい当たりで目が醒めた。
 それが結構、あり難かった。
 ヤツはライバル校のエースだ。
 その噂が本当だとしても、自分にはなんでと問う権利もないし仙道にも答える義務はない。時間が 合えば出向いてコートでボールを奪い合い、ヤツの強引さに押し切られる形で、持て余していた滾る熱を肌を合わせる ことで払い続けてきた関係。同じ体の構造を持つ自分にどうしてそういう行為が可能なのか、未だに理解出来ない とぼんやり考えていると、突然ドクンと馴染みのある疼きが彼を襲った。
 理解出来ないのは慣らされた自分の躰も同じだ。口付けによって吐息が乱れ、素肌を撫で回されるだけで屹立し、 そして他人の手で握りこまれることによって、想像以上の快楽を与えられると覚えた躰は、新たな驚愕を拾って 贖えない陶酔に溺れそうになった。
 実際、溺れたんだと思う。
 バスケにおける倒すべき相手という明確な標準だけでないものを教えてくれた男。
 その男が本当になにも告げずに消えようとしているのだろうか。
 ライバルが目の前から突然いなくなることなんか、彼のバスケ人生の中には何度もあった。一々その理由を問いたいと 思ったこともない。
 厭ならさっさと辞めればいい。
 中学時代にも主将を務めていた手前、部員から退部を仄めかす相談されたことがあったが、その都度吐 き捨てた言葉は決まっていた。
――いいんじゃねーの。
 冷たいと詰られたけれど彼は言葉巧みに部員を牽引してゆくタイプの主将ではないし、よそ見して、ましてや 後ろを向いてしまった部員の醒めた気持をもう一度再燃させるほどの言葉も、そんな丁寧さも持っていなかった。
 それはいまも同じだ。
 バスケを辞めたいと思う気持が何処に巣食うのかすら理解できない。その言葉を聞いた瞬間にその相手は、流川の狭い許容範囲 の中から切り捨てられていた。
 それはだれに対しても同じだった。



 それが。



 あの日を境に。



 部活が早く終了した日はやたらと時間が空く。他にすることもないからリングのある公園を探してレ・マイヨを 駆っているといつその方向へ向いていたのか、何度も仙道にマンツーを挑んだ公園にたどり着いていた。
 もちろん辞めると噂で聞いたあのツンツン頭の姿はそこにはなく、落日の色彩の濃度がやたらと際立って、こんなに広い コートだったのかと改めて知った。頬をなぶる風に暫く晒され、どこかぽっかりと空いた空洞の在り処を 手探りで腕を伸ばす自分がいた。
 流川を魅了したケイジャーは彼ひとりではない。
 出会えて心の底から歓喜が湧きあがる相手は他にもいる。
 負けたくないのも、まだ勝っていないもの、何度でも挑みたいと思うのも彼だけじゃない。
 バスケを捨て去ろうとしているあの男のいったいどこに、至って狭量な自分の空きスペースを占めさせなければならない。
 象にならない。
 ただそこに足を向ける理由付けも意味がないと思う。
 ぼんやりと思う気持がその大部分を占めているのだとしたら、余りにも情けなすぎる。
 それでも流川は通い慣れた道を歩き出した。



 その答えを探すかのように。




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