それはたぶんたったひとつの些細な切欠。
けれど過去の何かが絡み合って、単純なはずの事象が余計に際立って身動き取れない事態に発展する。
どんな言葉も象にならない。自分が同じ立場だったらと思うけれど、ひとの感情はだれにも
推し量ることは出来ないし、煮詰まったものを昇華させることが出来るのも自分だけのだと、流川は知っていた。
ただ。
到底理解出来るものではない、と。
ウインターカップ予選を一週間後に控えた土曜日。夕方には部活は終了し、ひとりで自主練するよりもと、
いつものように陵南エリアにまで足を伸ばし、ストバスコートにヤツの姿がないと舌打しながらマンションに
まで押しかけた。寒いの疲れたのもう日が暮れるだのと
ごねる相手を引きずり出して思い切りコートを駆け、身体の切れもまずまずで勝負も拮抗したから機嫌もよかった。
もうリングが見えねーよと仙道の声。ボールを奪った状態で腕に挟んで敵は当然のように、「今晩なに食いたい?」
と聞いてくる。そうなると自分の中の四大欲――バスケ欲、睡眠欲、
食欲、もうひとつは口にしたくない――のひとつが頭をもたげて盛大にハラの虫を鳴らし自己主張し出した。欲には
逆らわない生き方を貫いてきた十五才。文字通りの餌で釣られた自覚はいつものことだけれど、それには大人しく付き
従うことにしている。
「鍋」
「オッケ。んじゃ、豆乳鍋にしよっかな」
「キムチ鍋」
「だめ」
「なんでだよ。辛いの食いて」
「七味でも一味でもかけりゃいいじゃん。キムチは絶対だめ」
「んじゃ、すき焼き」
「ばか。おまえの胃袋を満足させるような大量の肉、買えねーよ。仕送り前なんだ」
「使えねーヤツ。じゃあ、なに食いたいって聞くな」
「鍋は叶えてやったろ」
「最後まで叶えろ」
「会話も献立も互いの歩み寄りだよ、流川」
「ちっ。オレが肉買ってくる。あんたに世話かけてるからって、小遣い貰ったから」
ベンチに置いてあったリュックを背負って身を翻しかけた流川の後ろ手を仙道が押し止めた。
「年下のおまえに奢ってもらうわけにはいかないな」
「オレじゃねー。親からだ」
「だったら尚更。男の甲斐性が疑われちまう」
「いっつもただメシ食ってるオレの面子はどうなんだよ」
「おまえはいいんだ。慎ましやかに出来る範囲で一緒にメシ食おうぜ。これでも、週末はおまえが来ること頭に入れて
やり繰りしてんだから。それが結構楽しみでさ」
オレっていい奥さんになりそうと高校二年生。自活生活は伊達に長くない。
わけ分かんねーと口を尖らせても、鉄壁のにっこり攻撃は反論を許さない。もの静かな留めだ。仕方なく近くの
スーパーで大量の豆腐ときのこ類と野菜をカートに放り込み、精進料理じゃあるまいし、と言い放った流川の鬱積を
晴らすかのように仙道は、お惣菜売り場の豚の角煮を買ってくれた。
「お母さんには内緒だよ」
「おまえはオレの親父か」
「動物性たんぱく質はこれで我慢な。デザートはなにがいい? スーパーのケーキとかよりパン屋の菓子パンの方が
美味いしな」
「イ○エのクリームパン」
「オッケ。あそこのカスタード絶妙だよな。パイコルネもお付けしましょう。あしたの朝はパンでいいだろ。じゃあ、
あとは牛乳とヨーグルト」
まるで給料日前の新婚さんの買い物風景みたいだと、平気で言い放つ男を見捨てて流川は先に店を出た。
出来る範囲での楽しみ。
仙道が放った言葉の意味をなんとなく理解できたが、到底納得できるシロモノではない。
いい肉、買えたのに。
親元で三食昼寝つきの生活を送っている自分には、あの男の醒めた自立性がときおり遠く感じる。たかだか一食
くらいの出費で恩に着せるつもりはないし、流川の親にしても、酷いときには土日の二日間入り浸っている息子
の行動は諦めて、せめてものお返しくらいの気持だったろう。
「いい、楓。今度仙道くんをうちにお呼びしなさい。毎週毎週ご馳走になって、こっちが恥かしいんだからね。
いくらお伺いし易いからって、ひとり暮らしさせると親御さんはなにかと大変なの。あんたに言ったって分からない
でしょうけど。どうせ遠慮なんか知らないあんたのことだから、盛大に飲み食いしてるでしょうし。とにかくこっちが気
を使うの。分かる? 来てもらいなさい。ご馳走つくったげるから」
腰に手を当てて凄んでいるのか、極端に無愛想なひとり息子の数少ない友人へのもてなしを期待しているのかの
母親に向けて、流川はスッと手を差し出した。それも掌を上にしたままで。
「なによ、それ」
「なんか食うから金くれ。だったらいいだろ」
「……あんたって子は」
これを反抗期と呼んでしまっては、微妙な年頃の子供を持つ世間一般の親が血相を変えて憤るに決まっている。
無愛想といってもこの年頃の男の子はこんなものだろうし、万年低空飛行の成績も親の呼び出しはあっても補習と
追試でどうにか切り抜けている様子。
バスケットボールを手にしてしまえば視野狭窄ぎみの息子の対人関係はお粗末でも、世間さまにご迷惑をかけて
いないだろと思う。
けれど友人を家に招いて二階が抜けるくらいに大騒ぎしたり賑やかな食事を共にする稚さは、本気で幼稚園児のころ
から失せていた息子だったから、なにかと忙しい兼業主婦だって、ない時間を割いて息子の誕生日パーティーくらい
開きたかったのだ。
「仙道くんにお袋の味、ご馳走して上げたかったのに」
「ひとり暮らしだからって、和食に飢えてるとは限んねーだろ。チープな発想」
「仙道くん愛想よしさんだから、きっと楽しい夕食になると思うのよね」
「オレのいないときにすれば」
「そんなの意味ないでしょ!」
「めんどくせー」
親の気遣いも仙道の心構えも。
ちょっとした大金をせしめたのに、その使い道に困った流川は、スーパーの前の信号の流れをぼーっと見つめながら
仙道が出てくるのを待っていた。
仲良く豚の角煮を分け合い、フルフル震える豆腐をハラに収め、散々食い散らかして流川の欲のひとつが満たされたあと、
敵は彼の中の三大欲、性欲、享楽欲、征服欲、の総てを手に入れるために当然のように体を進めてきた。
どんな因果か過去の業なのか、早朝練習に向うために家から一歩踏み出すことに勇気が必要となった秋の日に、初めて
肌を合わせたときの失態――流川にとっては痛かっただけ――を忘れられないのか仙道はいつも殊更慎重に
指を繰ってくる。ビビるくらいならしなきゃいいのに、とそれが返って思い出させる結果となることをこの男は
知らない。
「あんたはいつ安請け合いする」
「なにを?」
「次はぜってーダイジョウブだって」
「うん」
「次も痛かったらぶっ殺すってオレは言った」
「うん。聞いた」
「ヨカったことなんか一回もねー」
仙道はがっくりと流川の体の上に脱力した。内容的にはもの凄く色っぽいはずなのに、コイツにかかると喧嘩腰だ。
っていうか面と向って詰られても困るし、突き詰めたところでどうなる問題でもない。と、思う。
こんなのは我侭をとおり越して強欲だ。
流川にしてみれば躰を繋げたあとのダメージの有無から詰られずにはいられないだろうし、損益の
分岐点をきっちりと線引きするヤツだから、痛手の受けっぱなしは我慢ならないといったところ。仙道はそれを
逆手に取ってみた。
「そう思うならちっとは協力しろよ。マグロ状態で邪魔くさがりのモノグサが、自分から動きもしねーでヨクなりて
ーなんてどこまで欲の皮が突っ張ってんだ」
「協力ってなんだ?」
「だからガチガチに力入れてないで縋りついてくるとか、声出してみるとか、自分から腰を動かすとか」
「動かしたらヨクなんのか?」
「可能性はあるかな」
「痛くねーんだろうな。絶対だな」
「……忘れてください」
ここでそうだと力説して上手くいかなかったあとが怖い。もう、そのままでいいからと、仙道は睨みつけている
瞳を閉ざすために口付けを落とした。
この状態で逃げる気はさらさらないのに項をしっかりと固定され、空いた手は肩のラインを何度も往復しては頬を捉える。
こじ開けるでもない口付けが浅く済んでいるのはほんの最初の取っ掛かりだけ。強弱をつけるというならこれ以上ない
というタイミングで仙道は流川の呼気を奪い出した。
口付けとは相手の脳内酸素を欠乏させて、意識と理性と分別と知性(?)とを成層圏の彼方へ追いやる行為なんじゃない
かと、近頃そう思う。
応えるというより自意識を手放したくない上での流川の反抗すらも、煽った者の勝ちだ。
なす術なくただ指が肌をすり上がるだけでその先を許容し、色恋沙汰に疎い自分でさえもはっきりとした兆候を
突きつけられるのだから畏れ入る。
一度呼気を解放し、流川の顔じゅうに口付けを落としてゆく仙道の表情からヤツの余裕は奪えない。薄っすらと瞼を
振るわせると押し付けるような唇を受け、顔を背けると晒した頬にむず痒い舌の感触が軌跡として残った。余裕は奪えなくても
流川の呼吸と身動きひとつに過剰反応している仙道がいる。だからなのか、口付けそのものと、このときの仙道の表情に
安堵する自分がいた。
手を伸ばしてさらに強請りたくなるくらいに心地いいのだけど。
けれども息をつく間もなく、一転して攻撃的なカットイン。仙道の動きひとつひとつの速さと強さと執拗さが増して、
抑えようのない感覚が遅い来た。
そこまで進むともう、意思に反した熱が縦横に蠢き出すのが止められなくて、口腔内に侵入し追いかけ
回されていた仙道のうねりに自ら絡めて舌は動き出した。溢れる銀糸に躊躇いも羞恥心もない。与えられたものは
きっちり熨斗をつけて返す。
たぶん、言葉にするとそんな行為だったろう。
「流川」
呼吸の合間を縫って何度もそう呼ばれ、きつく閉じていた瞳を薄っすら開けると仙道の垂れた前髪が額をくすぐった。
それが揺れて鼻先を掠め角度を変えての刺激が堪らなくなり、流川は手を伸ばして仙道の額を顕わにした。
なにが嬉しいのか少し目を細められ、指の動きは止まらないのに、穏やかに観察されている気がして視線を逸らす。
それを仙道は許さなかった。
「前髪降りてたらオレじゃねーみたい?」
「いろんな顔をするから、あんた」
「そうか。じゃ降ろしたときは流川専用な」
言葉の最後は流川の胸に落ちた。執拗な指と舌は何度もその輪郭をなぞって軌跡を残し、核心に触れないもどかしさと、
その刺激が来る予兆に怯えて腰が震えた。尖った舌先。点々と途切れた快楽の波状がひとつの線となって繋がると
甘い吐息がくぐもって身体が硬くなる。それを宥めるように淫らに動く仙道の指先。わき腹からその先、
内腿の筋肉の流れに沿って包み上げ、際どい位置で留まる意地の悪さに流川の吐息は熱くなる一方だった。
焦げる。
仙道の指が絡んで己の熱の在り処をまざまざと見せ付けられる。手の中にすっぽりと、包み込んで撫で上げられ
否応のないうねりが全身を縦断して流川の身体が跳ねた。その熱を逃したいのか呑みこまれたいのか、
縋るものは木綿の触り心地のよいシーツだけで、皺を刻んだ指の強さに仙道は微笑を落とした。
「つかまるんならオレにしろ」
シーツなんか握りこんでんじゃねーよ、と片手で流川の熱をまさぐりながら仙道は投げ出されて力の入った
指を一本一本解していった。緊縛が弾けてその隙間から襲いくる新たな波に喘ぎが抑えられない。
「――冗談……じゃねー」
「喘ぎながら言うなよ。腰にきちまう」
頭を振ると口付けが押さえにかかる。生理的な涙で視線が滲むとそれを唇がすくった。解かれた指は所在なく
辺りを流離ったあと仙道の首筋を探し出し、ようやく落ち着いた。なのに自分から誘っておきながら、仙道の頭はスルリ
と逃げてそのまま縦方向に流川の身体を下ってゆく。指はそれを追いかけ少し固めの髪に絡むしかなく、仙道が与える
間断のない刺激の強さに爪を立てたくなった。
「……く、ぅ……」
大きく割られた両足の間で直裁な舌の動きが速度を増し、与えられた快楽は止まることはなく、何度も
身体が逃げを打ちズリ上がってはベッドヘッドに阻まれ、自分がいまどんな痴態を晒しているのかも
分からない。解放も止められ息を継ぐことすらままならないで頭を振り続け、やがて来る痛みに備えようとした
警戒も奪われたときにその衝撃はやって来た。
呼吸が止まる。脳裏が弾ける。痛感が一点に集まり、まず吐き気が襲ってきた。呼気が一定しない息苦しさ。
上手く痛みを払えないもどかしさ。それなのにどこか底辺で生まれてきた贖えない快楽の波を見つけて拾って
流川は目を見開く。
悲鳴が喉奥で木霊した。
「流川?」
見つめられて視線が揺れた。強く揺すぶられているからだけではないのは明白で、波紋はその一点を基点として
流川の指先にまで伝播している。息を吐き出してやり過ごす術も知らずに、その間断ない揺れで天地がひっくり
返りそうになる。
止めてくれという懇願は仙道に届くことはなかった。
「そっか」
熱を吐き出して仙道は流川の首筋に顔を埋めた。そしてもう一度「そっか」との言葉が落ちた。他にも
なにか言葉をくぐもらせて呟いているが、それ以降は急に失墜し出した意識の下、ぐらりと頭が力をなくしてもう
聞き取れなかった。
たぶん「よかったね」と。
なにがと問いたい。けどそれ以上に眠かった。
翌朝、仙道のベッドに丸まった状態で流川は目覚めた。瞼をこじ開けるよりも先に腕が伸びて隣にいるはずの存在を
探し出す。だがそこには空っぽの敷布団の感触しかなく、ポンポンと空振りする腕を支えに流川は上体を起こした。
焦点の合わない視線を巡らせると低いテーブルの向こう、壁を背にコーヒーをすすっている仙道がいた。
流川の寝ぼけた仕草が可笑しかったのか、クスクスというよりも一層深まったニヤケ面での目覚めは朝っぱらから
気分が悪い。
「なに? オレを探してたの?」
ガキみてーとマグをテーブルに置いてベッドまで進み屈みこんでくるからハラに一発ブチ込んでやった。飲んだもの
全部もどしちゃうじゃないか、という非難の声を後ろで聞いてアンダー一枚のまま洗面所に逃げ込んだ。
さっと洗面を済ませてリビングに戻り、なにごともなかったように、お気に入りのパン屋のブレッドと
ヨーグルトだけの簡単な朝食を黙々と食んで一日が始まる。朝日にさらけ出された
仙道の表情が心地を悪くし、ニヤケ面も意味のない言葉のやり取りもさらに腰の座りを悪くして無言のまま
流川はご出勤だ。
「予選会場で会おうぜ」
バッグを肩に背負って玄関に出ると、背後からそんな声がかかった。それには片手を上げて返しただけで流川は
目に痛いほどの日差しの中をゆく。一度マンションを出て振り返りたくなる未練がましさを呪い、そのまま愛車を走らせた。
ウインターカップの予選会場で。
終わるまで会わねー。
一応、オレも賭けてるから、今回。
それはもとより。
かけているのは仙道だけじゃない。
けれどもその試合での結果でそんな仙道を見る羽目になるとは思いもよらない流川だった。
continue
下手なりに珍しくしつこいくらいにエロいの書きました。
ほんと、書いちゃ消し、書いちゃ消しで全然進まないのにPCにかじり付いたあたし。 なにがムツカシイって
流れだと思うんです。こういうのって。アプしておきながらも、未だに頭を抱えてます。
ただ仙道を心配する流川ってのが書きたかっただけで、愛しのマイラバー仙道を情けない男にしちゃうお話です。
なんかイジイジした話になりそうで怖い。
|
|