「カエデ……姫」
これは――この騎士の身なりをした、どこをどう見ても逆さに振っても少年にしか見えない少女は、本当に自分が思い
慕ったあの可憐なカエデ姫なのか。それともまったくの別人なのか。
突きつけられた現実に、呆然とセンドウは呟く。まさかと、どーなってんの、の葛藤がグルグルと脳内を駆け巡り、
ここが怒号と剣戟と血臭に塗れた戦場であることを忘れそうになった。もしそうなら、早く馬を降りて愛しの君に
駆け寄って、なによりもその安全を最優先させなければならない。
なのになのに、この堂に入った立ち居振る舞いと、他を圧するほどの迫力と、凄まじい剣気はいったいなんだ。
別人なのか、どうなんだ。一刻も早く撤退しなければならないのに、なにに気をとられている。
とても正気の沙汰じゃないけど、気になるんだから仕方ない。騎士は心に決めた愛する
もののために、自らの危険を省みず剣を振るうのだから。
覚束ない上体は愛馬のバランスにも影響する。目の焦点も合っているとは思えない。けれど、傍から見れば自失し、
剣も盾も落っことしそうに見えても、防御も攻撃も手綱さばきもキチンとこなしているのだからこの男、まったく侮れない
し、我欲には忠実に出来ていた。
敵の槍を弾きながらセンドウは叫んだ。
「カエデ? ほんとにカエデなんだよね?」
「あんだよっ。てめーはっ。気安くひとの名を呼ぶなっ」
「てめー、とかって。なんつー口のきき方をするんだ、この子は――」
「このバカセンドウっ。なに、余裕ぶっこいて、くっ喋ってるんだ!」
「マジメにやれっ。マジメに!」
「分かってるよっ」
ミヤギ、サクラギの双方から叱られて、ヤケくそ気味に剣を振り回したセンドウは、それでもコホンとひとつ咳払いをした。
「ひとつひとつ確かめてゆきたいんだけど、まさか、君と同じ名前の妹とかいない?」
「……兄妹で同じ名前つけるオヤなんて、いるのかよ?」
「だよね。いるわけない。それに、夢にまで恋い慕った君を見間違うはずがないんだ。オレ、センドウ。忘れち
ゃった?」
「センドウ?」
「四年前くらいになるかな。このお城にひと月ほどご厄介になってたんだ。もっと小さいときにも、二、三度お会いしてる。
ほんとに覚えてないのか?」
「おまえっ。いい加減にしろっ」
ミヤギの尤もな叫びは届いていたけど却下した。ちゃんと応戦しているし、味方兵全体の動きにも目を配っている。
一度に同時に幾つモノことを、器用もののセンドウにとってはなにほどのことでもない。それでも心は明後日の方向で、
真横に並んだ愛しの君をチラ見し続けていた。
センドウの愛しの君、カエデにとって、なんだ、このわけ分かんないニヤケ野郎は、というのが第一印象。体格も堂々としている。
背筋もいいし無駄のない動きは味方にしていて頼もしい。劣勢だった戦況が、この男たちの援護で持ち直しつつあったのだ
。
けれど、それ以上に妙な居心地の悪さを感じさせる男だ。安心感というよりさざ波立つものにイラつかされる。束の間、
これってなんだろうと思い、すぐさま手放すことにした。
決定。
考えてもムダ。わけ分かんないものは無視するに限る。
双方にとって幸いなことに、先ほどの恋い慕ったの戯言は、カエデの左耳から入って脳に達する前に右の耳に抜けて
いった。残ったのは、忘れた、の部分だけで、
それにしても四年前なんて、自分は物心ついていたんだっけ、てなもんである。自慢じゃないが、一昨日といわず昨日の
夕餉すら思い出せないほどのお粗末な記憶力の持ち主だ。嬉しいことも瞬く間。厭な想いだってひと寝入りすれば、
快適な目覚めで朝餉が旨い。要するに日常的な物事を記憶巣に留めておく習慣がないのだ。会った程度で覚えているはずがない。
剣技の腕を印象づけたか、逆によほどキテレツな行動を残したか。もしくは怪我でもさせられたか。それくらいで
なければ、ひと月ご厄介だなんて、そんな男たちは数知れなかった。
来客は引きもきらず、ルカワ城に定住していた騎士や食客たちも入れ替わりも激しい。恐らく
ルカワ家当主ですら把握出来なかったのではないだろうか。それほどにひとの集まる城だったのだ。
しかし、問われた内容よりも見えない話よりも、語る口調も乱れずに、剣舞のような動きを見せる男の胆力と技術に
カエデの目は奪われた。美しいだけじゃない。強いだけでもない。圧倒的な力の差が敵兵を怯ませている。ひとに
気後れを呼び覚ますような技術力なのだ。
なにを思ってなにに落胆してなにに拘っているのか。とても戦える状態とも思えないのにこの男、なぜこんなにも強い。
くどいようだが、いまは敵の包囲網を突っ切って、逃げなければならない非常事態。
なのに、男の軽口はまだ続く。
「ああ。でも想像以上だ。しばらく見ない間にほんとに綺麗になってって言いたいところだけど、なんで君が前線で
戦っているの? こんなにドロだらけ血だらけになって。これじゃあまりに勇まし過ぎる。衛兵はなにをしているんだ。
父王をお守りしなきゃって、その心意気はアッパレだよ。さすがオレのカエデ姫。けど、アレだよね。もっと早く迎えにくれば
よかったんだ。オレがずっとそばにいたら、こんな事態、招かなかったのに。あのとき、婚約だけでも済ませていれば
よかった。君、まだ幼かったから、無理強いをしちゃいけないって思って。オレもまだ未熟ものだったし」
重なる戯言を聞き流して、敵の槍を弾いた。聞くだけで疲れる。無視するつもりだったのに、これにはつい反応して
しまった。
「婚約――って、だれとだれが?」
「君とオレ。そうそう、誓約だけは済ませたからね」
「セーヤク?」
「誓いのキスに決まってんじゃん」
当然のようにサラっとコクられて理解するまでに間があった。
オレのカエデ姫。勇まし過ぎる。婚約。そして誓いの
キスだぁ? 男の口から出た言葉を反芻する前に、先に全身があわ立った。やっと分かった。この会話のチグハグさの
根源が。
理由あって幼いころはよく間違えられた。ムカツクことに何度も何度もだ。まぁそれも無理ないだろう。あの状況では。
けれど、この年になって、まったくもってだれよりも好戦的で粗野で剣呑に育ちきった本人を
目の前にして、まだそんな寝ぼけた妄想にすがるヤツがいるとは思わなかった。それも、この状況で、だ。
怒気が立ち昇り揺らめき、甲冑の隙間からブスブスと燻りだされる。そのさまを感じ取れないなんていまのセンドウ
アキラ。この男の恋は盲目に近い。
さらに重ね、ニヤリと口の端を上げ、
「けど、姫。スタイリッシュだから、甲冑姿がホレボレするほど倒錯的っ」
などと、まだ言うか。
「だれが姫だ、このクサレ○○○やろうっ」
伏字を叫ばれ、器用にも馬上から足蹴にされ、落っことされそうになっても不屈の男は、「○○○なんて、言っちゃだめっ。
そんなにガサツだと、お嫁の貰い手がなくなっちゃうんだからなっ」と、頑なに信じていなかった。
圧倒的多数の敵に囲まれ自身も幾つも刀傷を負った身で、カエデはセンドウをにらみつけた。その身なり?
その言葉つかいと怒り? いや、違う。きっと祖国の危機に、きっと健気に甲冑をまとって父王を守ろうとしているんだ。
これは所謂男勝りってヤツだろう。だれか、そうだと言ってくれっ。
夢にまで見ていた再会とあまりにもかけ離れた状況に身をおかれ、唯一の『貴婦人』の様変わりにセンドウアキラ、
シツコクも現実に立ち戻れないでいる。いや、違う。必死で踏みとどまっているのだ。
敵の圧力が強まった。味方のどこかが崩れ出したのだ。そう、返す返すも、いまはそれどころじゃない。
「まぁ、いいや」
それはコッチの科白だと言ってやりたかった。なにが、まぁいいや、だ。引っかき回すだけ回しやがって。
敵の攻撃を受け止めながら、カーマライド軍はジリっと後退を始めた。ルカワ王をお守りする包囲網の崩壊は
最小限で食い止めなければならない。前列に位置するセンドウたちがそう動いたからだ。
どこかに傷でも負ったのか、ルカワ王の躰は前のめりだった。早く撤退して治療を受けていただくべきだ。
なのにセンドウの想い慕ったカエデとは似ても似つかないカエデは、父王の
状態に気づかないのか、機会があれば前に出ようとする。危険極まりなかった。
そういうセンドウだって、どこまでが返り血でどこからが己の流した血か、もう分からない状態だ。カエデも同様。
戦場には痛みなんか存在しない。それを凌駕して余りある高揚感と、高揚だけに塗れた結果、あとに待っているのは死、
のみだ。
それは一流の騎士ほど陥りやすい。
もう限界だろう。
センドウよりも先にルカワ王が叫んだ。
「カエデ。引きなさい。兵をまとめて撤退するのだ」
「城を捨てろっつうのかっ」
「そうではない。勝機を見極め引き際を知るも将帥たるものの務め。儂とおまえの兵士たちをこれ以上危険な目に
合わせてはならない。肝心のおまえが指揮を取らずしてどうする。これは王の命令であるっ」
「んな、いっぺん、手放したもんを、取り戻せるはずがねーだろっ」
「カエデっ」
言いざま、グフっと喉に篭る厭な物音がした。王の顔が自らの吐血で真っ赤に染まっていたのだ。尊い躰がそのまま
ズルリと馬から落ちる。
「父上っ」
センドウが馬を捨てた。それよりも早く駆け寄ったカエデが父王の躰を抱き起こしていた。敵兵が王の首級を挙げようと殺到する。
両手を広げセンドウはその前に立ち塞がった。「センドウっ」と叫ぶミヤギの声だけで姿が見えない。真横にいるのはサクラギ
だろうか。
「かかってきやがれっ」
そう思ったら地鳴りのような咆哮。サクラギの叫び声だった。めちゃくちゃな戦法。最後まで膂力だけでいくつもりらしい。カラ元気でも
こんなヤツがそばにいるとチカラになる。けれど、どう足掻いても盾を持つ自分の腕が上がらなかった。
構えが崩れる。荒く吐き出すこの呼気はほんとうに己のものか。剣を持つ肩も焼けつくようだ。斬られたのか、
射られたのか。痛みが戻る。研ぎ澄まされていた感覚が鈍りだしているということだ。
手から剣が零れ落ちる。
それより先に無駄な動きの多かったサクラギが両膝をついてしまった。「立てっ」と叱責して彼を襲う
敵兵に斬りかかる。たぶん、同時に二、三人、屠った。顔を上げたサクラギの、「滑っただけだっ」とは、頼もしい言葉だ。
自分にだってこれ以上は、仲間を守る余力がないのだ。
「くそっ」
さすがのセンドウも、敵兵が繰り出す槍先で極端に視野の狭まった空を仰ぎたくなった。
まずはお守りできなかったルカワ王に。そして、恋焦がれ、見合うだけの男になろうと離れていた四年間。誓約だけで腕に抱く
ことも叶わなかった唯一の『貴婦人』に。そしてなにがあっても御前を離れないと約束した我が君に。総てに代えて
お詫び申し上げる。
そのとき。
自分の名を呼ぶだれかの声がした。急に圧力が弱まり、塞がっていたセンドウの空が還ってくる。剣を振りかぶった
敵兵がそのままの状態で横倒しになった。ひと息つけて、膝だけはつくまいと保っていた躰が崩れそうになる。援軍の到着
かと思ったが気を取り直した。時間的に言ってあり得ない。
左右の敵を牽制してカエデとルカワ王に視線を落とす。ガラ空きのカエデの背中に馬上の敵が槍を振り下ろそうとした。
疲労が極限に達したセンドウの、どこにそんなチカラが残っていたのか。その槍を真っ二つに斬り馬体に体当たりをした。
敵騎士を振り落とし、身をひるがえして止めをさす。
疲れなど感じさせない一連の流れのような動きだった。
「ルカワ王をこの馬にお乗せしろっ」
センドウの動きに目を見張っていたカエデが我に返った。重い甲冑を外そうとすると、父王は荒い息の下、それには
抗った。騎士たるもの、いかなる場合でも戦場でそれを外すことをよしとしない。手を貸すと父王は自分から馬上のひとと
なった。
「センドウっ」
王を逃がす血路を切り開かねばならないと、重すぎる剣を構えたそのときだった。今度は間違えようがない。この声はマキ王のものだ。
すぐ近くまで来ている。あり得ないじゃないか。あの場に留まらなければならない王自ら、この混戦の中に身を投じるとは
なにごとか。先発した三十騎の半分を保って、第二軍の到着を待たなければならなかったのに、フジマがついていながら、
なにをしている。
フジマの名を叫んでセンドウは目を見張った。
地面が割れたかと思うような爆音だった。
ルカワ城を目指してつき進んでいたアイルランド軍の横腹を、デミーティア兵が強襲しているのだ。センドウたちの
目の前にいた敵は背後を失って四散しだした。ひと塊だった軍が分断されてしまうと、命令系統もなにもなくなって壊滅だ。
それは当然の撤退だった。
安堵から血糊で手が滑ってカランと剣が落ちた。センドウは己の握力がほとんど残っていないのに気づいた。喉が焼け
つくように痛くて声にならない。屈むことも出来ない。そんな状態を見越し、さらに下馬して取り落とした愛剣を拾い上
げてくれたのは、彼が唯一傅く王だ。
まさに威風堂々。傷ひとつ乱れひとつない颯爽とした立ち姿は、小憎たらしいほど眩しかった。
「遅くなった」
「我が王よ」
絞るようにセンドウは声を出す。差し出された愛剣に目を細め、その場に膝をついた。
「お待ち申し上げておりました」
「よく持ちこたえてくれた」
「いえ、お守りすべきルカワ王をあのような状態にしまっては、騎士、失格です」
「そうでもあるまい。鬼神の如く働きであった」
マキ王の労いに深く頭を垂れ、それにしても、とセンドウは周囲を見回した。
デミーティア軍王師合計四軍。首都ソールズベリの警護に二軍残し、
残りの二軍をカーマライドに出撃させる手はずだった。だが、王自ら先陣を切ったことにより、首都に残された軍の
上層部は総数よりも速さを選んだのだろう。うち一軍だけでもと、王を追わせた。マキ王たちの到着より遅れること一刻半
ほど。予定の半数とはいえよくそんな時間で出立できたものだと、禁軍統括責任者、アカギの巨体を見つけて微笑んだ。
吐血したルカワ王は馬上で失神してしまっている。その両端を近衛兵が支えていた。王の臨場に肩で息をしていた
カエデが、兜を外して一歩前に出る。ハラリと現れた、囚人のようにザンバラに切られた短い黒
髪がセンドウを直撃した。腰近くまであった、あの見事な髪を切る意味。
それを認めてもマキの瞳は柔らかく綻ぶ。初めて目にする種類の、ウチから滲み出るものをまるで隠そうともしない、
そしてセンドウとは別次元にいるものの笑みだ。
身の内で警鐘が鳴る。それは頭痛にまで押しあがっていった。
「久しいな、カエデ」
「マキ、王――」
「無事でなによりだ。それよりおまえ、いつ、その髪を切ったんだ?」
「二、三年前? よく覚えてねーけど」
「そうか、それはよかったな。このような状況で言うのもなんだが、だからだな。健やかそうだ」
立礼のままぼそりとカエデがなにかを呟いた。あまりにも小さくてセンドウには聞き取れなかったのに、マキには
それでつうじたようだ。おまえから礼を貰うにはおよばん、と返していることから、感謝の言葉だったのだろう。
ざわりと肌までざわめいた。
悪寒にも似た悪い予感。ほどなく、言い当てるようにときの声が上がった。あれは味方のものじゃない。知らず、
受け取った剣を持つ手に力が戻った。その予感に明確な答えを出したのは、黒衣をひるがえし踵を返したフジマの
背中だ。
「残念ながらアイルランド側にも援軍が到着したようです。アカギどのの兵力を足しても、まだあちら側の数が上回る。
撤退するより手はありません」
「お願いです」
弾かれたようにカエデが顔を上げる。その肩を押し止めようとしたのはマキ王の大きな手だ。
「カエデ――」
「父を安全な場所まで」
「それはもちろんだ」
「それから、オレに一軍を与えてほしい。いまここでカーマライドを取り戻さないと、二度と機会がなくなってしまうっ」
「フジマの報告は耳に入っていなかったのか。到着した王師一軍を合わせても、いまの数では敵に劣るのだ」
「勇猛を持って名高いマキ王の王師なら、それくらいの数の劣りに臆することなんかないだろうっ」
「しばらく会わないうちに、言うようになったものだ。他ならぬカエデの頼みだから、聞いてやらんでもないが、その
前におまえの怪我の具合はどうだ? 駆けられるのか? 剣を持てるのか? 冷静な判断が下せるのか? オレの軍を与える
に相応しいのか? 失血と痛みで顔を真っ青にして、そんな状態の将帥と一緒に部下たちが死線を潜ってくれると
信じているような子どもに、オレの兵を任せるわけにはいかん」
引かないの一点張りだったさすがの頑固ものも、切り捨てられてグウの音も出なかったようだ。けれどこれくらいで引き
下がったのは、ほんとうに怪我が思わしくないのか、それとも『他ならぬ』間柄のマキ王の命令だからなのか。
いまは考えないほうがいいとセンドウは判断した。
精神衛生上、きっと。
「ルカワ王をお守りするが、第一の命である」
「王っ」
「つのる話はあとだ。失礼ながらルカワ王を馬体におくくり申し上げろ」
獅子王の異名を受けたものの一喝だ。だれもの背筋が伸びた。センドウはルカワ王と先頭を。アカギはしんがりを努めろ、とマキは続けた。一度城を振り返り、目線を絞ったカエデ
の躰がふらつく。滑っただけだと、どこかで聞いた科白ごと抱きとめて耳元で聞いたのは、マキではなくセンドウだった。
二度と振り返るまいとかみ締めた唇のはしが切れたのも。
その躰の小さな振るえを知っているのも。
センドウだけだった。
continue
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