そのあと間を置かず、隣の執務室の扉向こうで居館を取り仕切る家令の老人が慎ましやかな声をかけてきた。王の従者がサクセンからの
特使の到着を告げてきたのだ。
頃合いを計ったかのようなタイミングとはまさにこのことで、それに素っ気なく応えを返し、情交の痕跡を微塵も感じさせない硬質さをまとった
センドウは隣の執務室に向った。わざとなのか、ベッドの上に腰かけたまま身動きできないルカワには声ひとつない。
それを薄情とか何事だとか思うほど思考が回らなくて、少し開いた扉の隙間から漏れ聞こえる従者の声の上擦りと屋敷を覆う緊迫感に異様さを
感じるものの、言葉は内耳から入っただけで脳には到達
していない。サクセン・ベンウィック連合軍がどうとか。センドウが言っていたアレか。けれどアレは自分の敵ではない。この国と王とセンドウの問題。
ルカワの敵はあくまでもアイルランドだ。そう思って頭を振った。
とたんに激しい頭痛に見舞われた。胃がムカムカする。酷使させられた部位は言うに及ばず、節々まで軋んで躰の中心にまったく力が入らない。
立ち上がれるかどうかも怪しかった。こんなダメージを食らうなんて、予想外もいいところで、いまから自室に篭ってベットで撃沈したって、
またいつもの気まぐれかと王は目こぼししてくれるだろう。けれど、両足に力を入れて一歩踏み出したのはただの意地の成せる技で、それも一体だれに
対しての意地なのか。
気つけとばかり、サイドテーブルの上にあったデカンタからクラレート(薬味入り白ぶどう酒)を直接口に含んでルカワは立ち上がった。呑み慣れない
発酵酒の度数の高さは喉を焼き、空腹と相まって疲弊しきった躰を駆け巡って行った。壁を頼りに隣室に向かえば従者の姿はすでになく、
書類に目を落としていたセンドウの声は、当たり障りなく過ぎてゆく。
「部屋帰って、寝るなよ」
「わぁってる」
「なんにせよ、いろんな事が重なる日だと、後から思い出すんだろうね」
きょうという日は、とセンドウの達観仕切ったつぶやきはだれに聞かせる類のものでもないのだろう。
「じゃ、あとでな」
にっこり笑んだ声を背中で聞いて廊下に出た。一歩踏み出して少し背筋を伸ばし懸命に呻き声を堪え、思う以上の時間をかけて自室にたどり着いたルカワを
出迎えたのは、床を踏みぬく勢いで部屋中を歩き回っていたアヤコの叱責と、ハルコの半泣きの顔だった。
「あんた、いったいどこ行ってたのよ!」
「どこって」
「みんな総出で探し回ってたんだからねっ」
「心配したんですよ」
「まぁ、ちょっと……」
「なにがちょっとよ、エラそうに。時間ないんだからとっと着替えなさい!」
アヤコの声が普段以上に地を這っていた。甲高くないのが救いで、それでも骨身に染みる。ノロノロと上着を脱ごうとしたルカワの手が
ハタと止まった。
「なんに着替えんの?」
「これよ、これ」
当然とばかりにアヤコはベッドの上に掛けてある蘇芳色のドレスを指差した。
「――」
もちろん婚礼のときの衣裳とは別のものだ。それにしても王にとって赤はルカワの色という認識なのか。アレよりはもう少し落ち着いた
色合いとはいえ、目にも鮮やかな正装夜会服だった。袖はぎりぎり最低限のフレンチ、胸元はラインをきれいに見せる
ために大きく開いているし、背中のカットはそれ以上だ。どうやってこんなものを着るんだ。いやそれよりも――と振り返ると、
小刀を目の高さまで上げたアヤコが凄んでいた。
「ア……」
「安心しなさい。喉元はチョーカーで隠すし胸はパットを入れても分からないようにデザインしてあるんだって」
「――いや、そうじゃなくって……」
「さすが我が王。なさることにソツがない。婚礼衣装だって国中の職人かき集めての突貫工事だったのに、いつの間にかもう二着目の夜会服。
これは次もあるわね。あんたのスタイルでどの範囲までなら騙せるか。完全に面白がってらっしゃる。最初で味をしめたもんだから、だんだんと露出が
多くなってくるんじゃない?」
ほんとひとが悪いと、唇を尖らせながら小刀を下げもせずにアヤコが詰め寄ってくるものだから、壁に押し付けられる格好のルカワだ。だが、聞きた
かったのは王妃のクローゼットを彩るドレスの、これからの傾向と制作予定と、王の厚顔さ――いまさらだ――の再認識ではない。
「チガウっ。なんで、んなもん、また着なきゃなんねーんだよっ」
その一言に尽きた。
「だからサクセンからの特使が到着したって、あんたなに聞いてたの」
「それくらい知ってる。特使とコレとどういう関係があるんだって聞いてんだっ」
漢ルカワ。アヤコの凶器をもろともせずに食ってかかった。なにを突きつけられようが、はいそうですかと聞ける問題じゃない。
「アチラの特使はサクセン・サンノウ王の末子サワキタ王子なんだって。だったらこっちもそれ相応のお出迎えが必要になるでしょうが」
「それ相応?」
「王とあんたも正装しなきゃならないってことよ。頭悪いわね」
貧血気味だというのに、さらに血の気が引いた。
頭のいい悪いの問題じゃない。享受できるかどうかの問題なのだ。ましてや出来るわけがない。
いろんなことが重なる日とセンドウは言った。奇しくも、彼とは別な意味で人生で三番目の厄日だったと数えられるだろう。口の中で何度悪態を
ついたところで状況は変わらない。しかもこのひとに口では敵うわけがなく、マキやセンドウなら無理やりのごり押しでなんとか逃れ切れるものを
アヤコでは太刀打ち不可能だ。
だから。
「イヤだっつったらイヤだっ。マキ呼んで来いっ」
「臣下――もとい、王妃の分際で国王陛下を呼びつけるとは何事よ!」
「んなカッコ、一回きりだって言ったじゃねーか」
「愚痴は終わってから王にぶつけなさい。いまは諦めるっ。特使がもうそこまで来てんのよ!」
大暴れしようとしたら躰の奥底に痛みが走り、
「ちくしょう……ア……さん」
「なに?」
「オレ、起きてからなんも食ってない」
泣きごとに切り替えても時間稼ぎの効力すらなく、
「そんなものは後回し。演習終わってからとっとと帰ってこなかったあんたが悪い」
「もう動けねー」
「却下」
「あ、でも、ほんとに長丁場だから。なにかお腹に入れておかないと、ルカワくん倒れちゃうかも」
ハルコの助け舟も効果はなかった。
「甘やかせちゃダメよ、ハルコちゃん。いっつも無駄に飲み食いしてんだから、一食や二食、抜いたって倒れるもんですか。残念ねぇ、ルカワ。
動けなくてもいいのよ。立ってるだけで。それよりさ、これに着替える前にしなきゃならないことがあるんだぁ」
ルカワ最大の泣き所は思ってもみない荒業に出た。
「なに?」
ニヤリと笑われ総毛立つ。手にした小刀の意味も。
「こんなドレスだもん。分かってるでしょ?」
無・駄・毛・の・処・理とセンテンスで区切られ、呆気に取られて躰が傾いだ隙に足払いをかけられ、盛大にすっ転んだ。
「痛ってぇ!」
「特に脇」
「げっ」
返すがえすも不幸だったのは、ほんとうにこれ以上ないというくらいに踏ん張りが利かなくて、波状攻撃の凄まじさにディフェンス一方で、反撃
の糸口すら掴めなかったことだ。でなきゃ、自分よりはるか小柄なアヤコに、馬乗りされた揚句、床の綿織物の上に縫い付けられ、上半身裸に剥かれた
りはしないだろう。
「ハルコちゃん、両腕押さえて!」
「きゃ〜、ごめんなさい、ルカワくんっ」
尻ごみしてるくせにハルコの膂力も結構強い。しかもバイザイまでさせられた。
「ヤメロ! この変態っ」
「煩いルカワっ。死にたくなかったら黙ってなさいっ」
シャキンと小刀の刃が光を弾き、妙齢の女性ふたりがかりの暴挙に、麗しの王妃さまの居室からルカワの絶叫がこだました。
「なんだ、えらく賑やかだったな」
マキ王がひょっこりと現れたのは阿鼻叫喚の地獄絵図が終わったころで、まだ殺伐とした部屋の雰囲気など気に留めるふうでもない。
さっと見渡すと、放心の体の王妃はスツールに腰掛けた状態で――あろうことか縄で縛りつけられている――
いまにも口からエクトプラズムを放出しそうだし、女官長アヤコは振り乱れたおくれ毛をかきあげた動作のままルカワの姿をチェックしている。
被害の出た家財道具を片付けるのはどうやらハルコの役目のようで、どんな修羅場が展開されたか知れようもの。
ほんのお詫びの印とばかりにマキは、ひっくり返っていた椅子を元に戻してやった。
「なんとか間に合ったか、王妃行方不明と聞いたときは肝が冷えたが」
「わざわざのお出まし、恐悦に存じ上げますが、時間ギリギリの崖っぷちです」
「その短時間でよく得心させてくれた。礼を言う」
「もったいなきお言葉、身に余る光栄でございます、と言いたいところですが、得心しているわけがないじゃないですか。ものには限度というものが
あります」
「おや。アヤコはオレの味方だと思っていたが?」
マキ王は起こした椅子の背に両手をかけ妹姫と正対すると、ニッコリとほほ笑んだ。
「もちろんです、お兄さま。なれどいま少し、この子の気持ちを斟酌してさし上げてもよろしいのではないでしょうか?」
「残念ながらこれはカエデの責務だ」
「お二人の間に交わされた契約をわたくし如きがとやかくは申せませんが、王妃はもう封印なさっても宜しいのでは? 一度も外交の場においでに
ならない王妃がいてもおかしくないでしょう」
「そうだな。だが、婚礼からこうも日が浅くてはな。時期的にまだまずいだろう」
「だったらこれっきりにしてあげてください。約束を違えるなど王の為さりようとは思えません。それにお兄さまったら面白がっておいでなのです。
ルカワが怒るのも無理ないわ」
左右で交わされている会話が耳に入ったのか、ようやくルカワが復活してきた。
「マキ……てめー」
「これはこれは。我がお后さまにはご機嫌麗しゅう。新しいドレスもよく似合っておいでだ」
「……ざけたことばっかぬかしやがって」
「仕立て屋が今度はもう少し若やいだ色にしてはどうかと聞いている。王妃のご意向を酌みたいそうだが、なんと返事する?」
「てめーが選んだんならてめーが女装すればいいだろっ」
復活したはいいが怒る論点がズレている。肩を震わせて笑いをこらえているマキをしり目にアヤコは大型クッションでルカワの後頭部を思い切り
はたいた。
「ルカワは黙ってなさいっ」
「い、ってぇ」
コホンとアヤコは咳ばらいをした。
「はっきり申しあげまして、この縄を解いたらどうなるか、想像は難くありません。そんな暴れ馬みたいな王妃を同伴して特使と会見なんて、
かの国を愚弄なさりたいのか、茶番に仕立て上げるおつもりかの、どちらかですわね。とにかく、今回きりと約束していただけましたら、ルカワも
おとなしく従うのではないかと思うのですが」
これはわが国のためです、とアヤコは口を厳しく引き結んだ。まさかここまで肩入れしてくれるとは思ってもみないルカワだが、確かにこの場は
アヤコに任せた方がいい方向に転ぶかもしれない。
「アヤコの言い分は尤もだが、確約できかねるな。王侯級の客人の到来が引きも切らないほど、多忙になるやもしれん」
「もういっそのこと、儚くなってしまわれたということにすれば宜しいのでは?」
「無理だ。時期を見計らって、またかの国からの縁談が持ち上がる」
「……それは、そう、ですね」
なにから逃れてのカエデ姫だったのかを思い出してアヤコは押し黙った。兄王の拘りと偏屈さも相当なものだが、単なる王侯同士の政略結婚。一度も
枕を共にしたことのないご夫妻など珍しくはない。たまたまアヤコは良人となったひとと仲睦まじく過ごせたが、実際輿入れの際に、王のお渡りの
ない可能性を女官長からとくとくと言い聞かされたものだ。そこに至る経緯をロマンティストと表現したセンドウの言葉を知らないアヤコだったが、
兄王の胸の内を、婚約者候補筆頭だったタカサゴ王のいち姫さまを忌避する理由を、ストレートに模索してしまう。
「考慮はしておこう。オレだってこんな戯言がいつまでも続けられると思っていない」
ポトリと胸に落ちた昏い澱はマキの声音によってより広がっていった。
「カエデの身長がこれ以上伸びてしまうと、格好がつかなくなるからな」
ただ、面白がっているのではない、とマキはルカワの前に立った。躰を屈めて背もたれに両手をつき、近づきそばめられた瞳の奥に吸い寄せられそう
になる。マキの深淵に触れてルカワの背に緊張が走った。
「まぁ、なんだかんだ言っても、オレがただおまえのその姿を見たいからだという意見もある」
マキは縄を解くとルカワの手を取って立たせた。拘束するものがなくなって反撃に出るならいまなのに、じっと見つめられその瞳を外すことすら
出来なくて、さらに増した威圧感がルカワを動けなくさせた。カッと体温が上昇する。さらに目を細めルカワの身に立ち昇った硬質の艶をさらうように、
マキ王は彼の前髪に指を絡ませてきた。
「……」
「この姿の、カエデ姫はオレだけのものだからな」
ついと顎を持ち上げ親指のハラでマキはルカワの唇を撫でた。せっかく塗った紅が取れ、そう思っている間に口づけが降りて来た。舌先が唇をこじ
開け、容赦なく口腔内を蹂躙してゆく。ゆっくりと情感を高めるセンドウとは違い、王は最初から征服者だった。有無を言わさない力技で相手を
圧しひれ伏せる。脅える間もなく底にうずくまった情欲を叩き起こそうとするのだ。
ひと目もはばからず、のたうつ舌はルカワの中でいっぱいになった。ツンと鼻腔から突き抜ける痛み。痛みは痺れに変わり、別のなにかに変化して
ゆく。婚礼のとき以上に深く執拗なそれに呼気が掻き乱される。膝が崩れる。自分自身を取り戻そうと手を突っぱねる前に、唐突にマキは放れて
行った。
そして背後で固まってしまっている妹姫を振り返った。
「アヤコ」
「は、はい」
「口紅の色はもっと赤くてもいい。その方がいっそ映えるだろう」
早く支度をしろと言い残し、マキは出て行った。シンと水を打ったように静まり返った王妃の私室。寒いわけでもないだろうに自らの腕を抱く
ルカワが起こした衣ずれ。ハルコが重い嘆息を吐いて肩の力を抜き、釣られてアヤコがかぶりを振り化粧箱に手を伸ばした。
「なんて言ったらいいのかしら、お兄さまったら」
そして呆然と立ち尽くした状態のルカワに座るように命じた。
「あんた、ちょっとヤバイかもよ」
大広間にマキ王の出座を告げる国務大臣コグレ卿の声が響いた。右手に騎士長センドウ、左手に軍事顧問フジマ他のデミーティア騎士が立ち並ぶ中、
壇上に王と王妃が姿を見せる。しわぶきひとつない静寂を破るのは王の立てる靴音だけだ。背後の明り取り窓から陽の光が指す中、マキは殊更顎を上げ、
片足だけ段を一段降りる格好でサクセンからの特使と対峙した。
「よくぞ参られた。サワキタ王子」
マキの朗々とした声に反して堂内は剣呑な雰囲気がさらにザワリと騒ぐ。階位的儀礼から言えば一国の領袖であるマキ王に対し、あくまでも
サンノウ王の代理にしか過ぎないサワキタ王子は、膝を折らなければならない。なのに立礼のままの略礼に変えてきたのだ。
まさに四面楚歌のこの状況で、情報が確かならば十六、七にしか過ぎない少年の豪胆さと不遜さにマキは口の端を上げた。
「デミーティア国マキ王におかれましては、ご健勝のご様子。まことに喜ばしい限りでございます。ペンドラゴンと称された名君のご尊顔を拝し、
若輩者のこのサワキタ、歓喜に堪えません。そしてまた、我らを快く城内にお招きくださったご厚情、お礼申し上げます」
口上は型通りでも絵にかいたような慇懃無礼さだ。マキを始め騎士たちの視線をまともに受けて、王子はついと顎を上げる。
白皙にシャープな顔のつくりがかもす酷薄さはサクセン人独特のもの。しかしどこか人懐っこさを感じるのは丸い瞳のせいだろう。少年の域を出ない
ただの怖いもの知らずか、この年で修羅場をくぐってきたか。それにしても、随員をひとり従えた
だけの身の軽さはいったいだれの差し金なのだろう。あまりにも堂の入った落着きぶりに、自ら志願した口かも知れないとマキは思った。
「丁寧なご口上痛み入る。さて、お互い時間も惜しい身。ハラの探り合いは脇に置いて、サクセン・サンノウ王のご意向などをお聞きしよう」
「お噂どおり、せっかちな方でいらっしゃる」
「互いに温める親交など、なかろう」
「それもそうですね。じゃお言葉に甘えて単刀直入に。我が軍の本隊はただいまブリテン島東部のカンタベリー城にあります。当然ご存じですよね?
版図を広げるためにまっすぐ西へ進むとあなたの国、デミーティアの国境キャメロットにたどり着く。キャメロットを落とし、そして
ここソールズベリへ。それが我が王のお考えです。なれど無駄な血は流したくはありません。我が王も慈悲の心をお持ちです。デミーティアがサクセンに
下ると仰るのであれば、マキ王を始め騎士の方々はそれ相応の待遇でお迎えいたしましょう」
如何、とサワキタ王子はヘラリと笑った。
一同が息を呑む。
成り行き任せでこの場に連れてこられたルカワだったが、初めて見るサクセン人の傲岸なもの言いと、堂内に走った殺気混じりの戸惑いを感じ
取り、伏せていた瞳を上げた。たぶん自分と同じ年くらいの少年が敵国の王に対し臆することなく外交の場での駆け引きを見せている。
当然サクセンからの特使は講和の条件を携えて来たのではないと分かっていた。だがこうも大国らしい尊大さを剥き出しに、いまから干戈を交える
国にわざわざ訪いを入れ、属国に下れと言い放つとは。
こんなの首がいくつあっても足りない。
嫌悪感よりも先に驚きの方が勝った。それはこの場に集っただれもの思いだったろう。
視線を感じたのかサワキタ王子がルカワを捉える。王子の目に昇る色の種類を読み違えるルカワはいまの自分の出で立ちを完全に忘れてしまっている。
こいつは一体なんだと。ルカワにとっての異質は興味の対象であり、引いて先をゆく者への憧憬だ。王子は王子で敵国にあって
ひとり違う空気をまとった王妃に目を奪われていた。
「降伏するしないのご決意を、いまこの場でお聞きしようとは思いません。存分に家臣の方々と議論なさってください。また明日にでもお伺い
するとしましょう。それはそうと、大変ぶしつけとは存じますが、麗しのお后さまにご挨拶申し上げてもよろしいでしょうか?」
ガラリと調子を変えて王子は言った。センドウとフジマが王を見返した。当の王は気にするふうでもない。美貌の妃が欲しいと駄々をこねたのは
この瞬間の優越感のためでもある。どこか誇らしげに王は王妃を振り返った。
「と、特使が申されているがどうだ」
「別に」
どーでもいいしと、この素っ気のなさも異常なくらいにハスキーな声も、誰かさんの勘違いと一緒で、敢えて気にしなければ脳内フィルターで
自分に都合よく変換される――らしい。思い込みとは恐ろしいもので、ぎこちない動きも緊張のためと解釈される。ルカワが段を降りると王に対しては
立礼で済ませていた王子が、きょう初めてその高邁な膝を折った。
そして差し出された手のひらに唇を押しあてた。
デミーティア王がブリテン島いちの美貌と称されたカエデ姫を娶った話は、進軍中だったサワキタの元へも早馬が知らせてきた。
王子としてはもっと儚げで可憐で触れれば折れそうな
少女を想像していたのだが、この王妃はデカイ上にどこか丸みがない。だから直接情欲に訴えかけるものはなにもない。なのに手を伸ばしたくなるような
微かな色香はどこからくるのか。このふたりは夫婦になって日が浅いと聞く。だから硬いのか。それはそれで別な意味で征服欲が湧いた。
愉悦をたたえた王子の笑みにルカワは睨みを返した。それすら愉しいとばかり王子は肩を震わせる。
「なにが可笑しいっ」
堪り兼ねたように叫んだのはミツイ卿だ。それをアカギが押しとどめる。我慢ならないのはだれも同じだった。ただ王が堪えてらっしゃる。それを
傍に侍る騎士が台無しにしてどうする。ミツイもそれは分かっている。だがどうしても叫ばずにはいられなかったようだ。
「わたしを斬っておしまいになるか?」
一気に上がった殺気に臆するでもない王子はルカワの手を取ったままの状態で一同に問う。返る言葉は分かり切っていた。
「我が国はそれほど蛮国ではない。残念ながら、な」
「それは重畳」
にっこりほほ笑みながら王子はルカワの指の節の高い第一関節あたりをしきりとなでている。ルカワは嫌悪感丸出しで自分の手を取り戻し、高価なドレスに
なすりつけた。高貴な生まれとも思えない、汚らわしいと言わんばかりの仕草は王子のツボに直球だったようだ。慈愛に満ちた目まで向けられた。
けれど、狭窄気味の視野でもよく観察していて、
「王妃は剣をよくされてか?」
と、問うてきた。あらかじめ、長いセンテンスの言葉を喋るなと言い含められていようがなかろうが、その気がないときのルカワのセリフは常に、
別に、だ。だから王子はマキ王へと視線を上げた。
「美しい手に剣タコがこんなに出来ておいでだ」
「こんな時代、自らの身を守る術は備わっていても不思議ではあるまい」
「マキ王はなにがあっても王妃を守るとは仰らないのか?」
「言わぬはずがない。だがそれは王妃の覚悟の問題であろう」
「頼もしい限りだ。一度お手合せをお願いしてみたくなりました」
「我が后は強いぞ」
「それはそれは。楽しみがふえましたよ」
「王子はいったいなにが目的で参られた」
ここで最初の疑問にいきつくマキ王の手法は相変わらずだが、サワキタ王子の思考も癖がある。美意識の問題です、と返してきた。
「いきなり進軍して合戦ってのも芸がないでしょ。兵力では圧倒的にウチが有利だ。勝利して当たり前。面白味もなにもあったものではない。
それよりもブリテン島にこのひとありと称された王が、我々の進軍を予想してあんな出迎えを見せてくれたんだ。会わないという手はない。
王がどういうお人柄なのか、俄然と興味が湧いてきたという次第です。それに美貌という噂の王妃にも興味があったし」
「王子の目に自分がどう映ろうが、まったく興味がないよ」
「ツレナイな。でもあなたならそう言うだろうと思っていました。じゃオレは、戦いにおいてオレという者をあなた方に刻み込むとしましょうか」
では、また明日と、王子は王妃のドレスの裳裾に口づけを落とし立ち上がり、踵を返して広間を出て行った。
continue
一回一回コメントをはさむのもどうかと思いますが、どうにかアプできました。長く更新していなかったのに、
たくさんの拍手ありがとうございました。ほんとに励みになりました。たぶん次くらいがラストです。
どうせなら最後まで書いてから上げろよと(苦笑) 思い返せば、ショタロリに女装に剃毛プレイと、並べればいつになく色ものなお話に
なっております。(なんか違う?)出てきたはいいけど、サワキタ王子。ウチのサイトではいつもこんなあて馬扱いでほんとごめん(汗)
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